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卒業論文-2

第三章  神宮崇敬の普及

第一節  

崇敬普及の外的由縁

 神宮崇敬乃至信仰は国民の間にも古くから見られる処であったが。それが一般的に普及したのは中世、特に中世後期に入ってからである。即ちそれは神宮の衰微に逆行してゐるが、その実状を見るに先立ち、先づその由来する所を一般的事情より考えてみたい。

 第一に思想方面より考察するに、之を神宮観の発達に見る事が出来る。神宮観の混乱は大略前章に述べた通りであるが、神宮観は一面かく混乱されつゝ他面不断の発達を遂げつゝあった。それは先ず天照大神の諸神統一の思想に見ることが出来る。大神を絶対的に崇信し奉り、諸神との比較を許さぬ事は伝統的な信念であるが、同時に諸神を「乃子乃臣」として大神に統一する思想が起こった。之は既に古語拾遺に見られる所であるが、以後伝統的な思想となって中世に益々強調せられた。
 之は長寛勘文・皇字沙汰文を始め伊勢神道系の書は勿論仏徒の書にも屡々見出される所である。而して此の思潮は神仏関係にも及び、所謂神本仏迹思想を導き出した。即ち天照大神を宇宙の実在的統一者と見做して仏菩薩をその下に従属せしめんとするに至ったのである。
 此の諸神を大神に統一する思潮は諸神の神宮化乃至神宮接近を齎らした。長寛勘文中に熊野権現を神宮に習合する事によって権現の権威を顕さんとする考への見られるのはその最も早いものであらう。
 又中世中期に於ては、三輪神道に於て大神神社の神宮化が見られる事既述の通りであり、天台神道に於て日吉神社の天照大神化が見られる

(厳神鈔山王権現鎮座御事)。八幡宮も天照大神との関係に於て認識されてゐる(大神宮参詣記)。戦国時代になると春日の神も神宮に習合して考へられてゐる(後法興院記)。天照大神を中心とする三社託宣の流行したのも、一面かゝる思潮の現れであらう。
 此の様な思潮は神宮を絶対とする信念が脈々と民心に流動しつゝある事の反映でなければならぬ。更に言へば、此の分裂し不安に満ちた時勢に於て、思想の統一信仰の帰一を天照大神に求めんとする深刻な宗教的要求を意味するであらう。而して之が一般的でなく又強いものでなかったにせよ、かゝる思想は逆に国民の神宮信仰を刺激し、軈て此の思想の広まる処、曽ての諸社寺への信仰は次第に神宮信仰へ転換没収される事となるのである。こゝに神宮崇敬の普及する思想的準備は整へられつゝあったと言ふ事が出来よう。

 第二には厳重なる私幣私祷の禁

(皇大神宮儀式帳・延喜式)の空文化した事である。私幣禁断の制は神宮本質上当然の事であった。然るに此の禁断が再三出されねばならなかった如く、神宮に対する私の奉幣特に謀反の為の奉幣は古くより行はれてゐた(大神宮諸雑事記)。然し朝威厳然たる間は決して一般的とはならず、従って神宮は国民的信仰の対象となる事はなかったのである。
 然るに中世に入って朝権衰へるや私幣私祷は公然と行はれる様になり、軈て神宮内部に御師と云ふ専門機関が出来る様になると、厳重な禁制も殆ど顧られなくなり、国民は自然神宮に赴く様になった。今や自由に私の信仰を捧げる事が出来るのである。かくて、神宮は国民信仰の対象となる事が出来たのである。

 第三に考ふべきは時勢である。国家の危機に於て御神威の発現の希祈せられること中世に於て特に著しいものがあった。文永弘安の役に於て、又建武中興に於て、而して此の間に御神威は暗々裡に民心に浸透して行ったのである。されば応仁の大乱更に引続く戦国時代に於て、国家正に破滅せんとする世相に直面した国民が、深く御神威を仰ぎ奉り頼み奉らうとするのは自然の勢であった。それは次の将軍義政の立願によっても窺ひ得られるのである。

(大日本史料文明二年三月九日条)

  立申 皇太神宮所願事

 一、四度官幣不可有懈怠事 
 一、造役夫工米厳密可加下知事
 一、諸別宮造立事連々不可存等閑事
 一、可遂参宮事
 一、毎年不闕以代官参宮事

 右五箇条立願之旨趣者 今年相当三合之歳 加之出現重変之𢘪

(怪) 謹慎尤無雙也 就中兵乱及歴年 靜謐期何日 朝仰天道夕祈聖運 唯願凶賊忽令頓滅華洛速属平安 微臣保息災之運命 全如意之政務愚息消災延命 而相叶聖理之善政 一天安全四海平定 諸国豊饒万民快楽者偏是可在神明冥助 仍啓白如件

 文明二年三月九日    准三后義政

 皇太神宮神主

 神明の冥助に非んば大は国家より小は一身の安きを得る事が出来ないと言ふのは、当時の国民の一般的な考へ方であったと思はれる。かくて世相は国民の神宮信仰心を大いに刺激し、戦国時代に於てこそ却って神宮信仰の深化普及を齎らす事となったのである。既に思想的に神宮信仰普及の機縁は熟して居り、私幣私祷の禁制は空文化してゐる。国民は自ら神宮に集って来る道理である。而して之を触発し助長せしめたものは神宮側の活動であったのである。

第二節  

神宮側の活動

 中世後期に於ける神宮崇敬乃至信仰の一般的風潮に応じ、之を促進し指導して行くものは神宮側であった。即ち之を促進普及し国民的に展開せしめたのは、直接には御師の活動に依る処であり、之を思想的に指導したものは伊勢神道であったのである。
 伊勢の御師が道者との間に師檀関係を確立し

(足代弘訓御師考証)、堂々たる専門機関として広く活動する様になったのは中世後期になってからである。本来公武特定者の御祈師として発生した御師が、祈祷師・宿坊として大いなる発達を遂げるに至ったのは、その活動が個人主義的宗教心の充足を求めんとする神宮信仰の風潮に投じたからであるが、同時に神宮の経済的不如意に由来する神人の困窮を自ら克服せんとの神人自体の積極的活動にも依る。従って神宮経済の困窮した中世後期に於ては専門の師職家のみならず、正員の禰宜等も御師の業を営んで私生活の安定・家格の保持に努めたのである。
 かくて師職家を主体とする御師達は神宮の御神威を背に負ふて日本全国に網の目を張り廻らせた。曽て殆ど全国的に御厨御園が散在して居った事であり。又廿年毎に順次六十余州に亘って役夫工米が課されて居た事であり、此等の神役を通じて御神威は偏に天下万民の利益として直接地方に及んで居たので、御師の活動は決して困難ではなかった。御師は或は地域的に或は氏族的に或は先達単位に師檀関係を確立して行き、斯くして得た檀那道者に対しては毎年手代を派し或は自ら出掛けて行き、御祓大麻を配って御初穂料を収納し、参宮を奨めたのであった
(以上平泉澄著中世に於ける社寺と社会との関係参照)。かくて一般国民の脳裏に力強い神宮信仰を布植しつゝ莫大なる収入を得つゝあった。
 当時神宮は唯一絶対の神として次第に民心に浸透しつゝあったから、両宮の御師等は上下より尊敬され優遇を受け羽振りがよかった。殊に地方武将は御師に深く武運長久の祈りを托する様になり、従って屡々上る願文には莫大な祈祷料を何し、亦は附する事を条件としたのである(
竜大夫古文書・伊勢古文書集)。かゝる事情から、領主の中には自分の御師に対し、領内参宮輩の定宿を保証すると云ふ事もあったのである(佐八文書)。斯の如くして御師の活動は弥々活発となり、文祿三年の師職帳に依れば御師の人数は百四十五人に及び(註御師の住所からみて外宮だけか)その活動の周密となった事は御祓賦帳の緻密な記が之を物語ってゐる。

 かくして御師の活動は一面神宮経済の不如意を救済し、他面神宮信仰を全国に普及せしめたのである。其間私利私欲に目眩して檀那道者の争奪あり、売買あり、或は御神徳を利己に利用して御神意を冒涜し名分を擾るあり、更には金勢に驕って祠官を圧迫するあり、両宮神人の戦乱を展開するありて幾多の弊害も生じたが、国民の内面的欲求に投じて私的信仰心を増長させつゝも、御神徳を説いて御神威を全国的に光被せしめたであらう事は否定し得ない処である。又宇治橋の造替更には殿舎の造替に尽した勧進僧尼の活動も同様な役割を果したであらう。
 偖て御師の活動が神宮信仰普及の推進力となったことは前述の通りであるが、之を指導し純化する力は伊勢神廷に於ける伝統の精神、就中伊勢神道に依って養われた神宮祠官の魂であったらう。蓋し国民の神宮信仰が多分に功利的な要求に発足し、御師の活動亦此の風を助長しつゝある時、一面に於て之を容認しつゝも、更に之を超越して神宮の本質を発現し、国民の信仰を正しい目標に向かって帰一せしめる力は正に此処に求めねばならぬ。
 吉野時代、忠臣度会家行没して後神宮祠官には特別の学者も人物も見出す事が出来なくなったが、応仁文明と云ふ神宮の衰微特に深刻を加えつゝあった時、心膽を碎いて神宮を支へ守護し奉った人に内宮長官荒木田氏経があった。彼は内宮の責任当局者として限りない悲哀を嘗め続けて来たが、外宮焼失と云ふ未曽有の変事に遭ひ、存命口惜しとてその痛ましい一生を終わったのである。此の変事以後神宮は長く困窮の境涯に陥ったのであるが、氏経の志は細々乍ら小数の祠官によって継承せられ、その一人に荒木田守晨を見る事ができる。
 彼は永正記を著した。此著は祠官の心得を説くこと条理を尽して居り、禁忌触穢の規定の記は此類の書で最も整備したものであると云ふ。かゝる時此の著をなした意趣は何であったか。「神道荒廃の家を興し神家衰滅の道を改めんが為、又神明に忠を備へ先祖に孝を致さんが為であり、而して神明快然の祈・天下泰平の政、甚だ忠勤を励まんと欲することを志」としたものであった。斯の如く祠官の本務を自覚し、それに全生命を捧げた人のあった事は、当時に於ては偉大なる光であった。而してこの精神は神宮信仰の普及に於ても直接大きな力を及ぼし、神宮の本質を顕現せしめたであらう。即ち此の精神は解状を通じて公卿より朝廷に及ぶだけでなく、神廷の空気を覚醒せしめて御師参宮者を通して万民に及んだのである。

第三節  

参宮の盛行

 神宮崇敬普及の具体的な姿は、先ず参宮に於いて見られる。蓋し参宮こそ神宮崇敬の最も端的な表れである。参宮は私幣禁断の制とは関係なく国民の崇敬の誠を捧げ奉る所以として、既に上代より見られるのであるが

(大神宮諸雑事記承平四年条長元四年条)、中世になって此の禁制が空文化して神宮が私的信仰の対象となり、御師亦活動を展開するに及んで漸く一般的となり、室町戦国時代に入って相当盛んとなったのである。
 即ち上は公卿の社会より下は庶民に至るまで、北より西より数十人数百人の群集陸続として伊勢に集ってきた。それは戦国乱離、不便困難の著しい時代になって却って盛んとなる傾向を示したのである。

 参宮の実況を見るに先立ち、戦国時代に於ける交通の不便を考へねばならぬ。当時交通上の最大の妨害は、経済的に交通を阻害する関所であった。参宮街路上の関所の驚くべき多数さは既に明かにされてゐるが

(平泉澄中世に於ける社寺と社会との関係)、その為道者の蒙る迷惑は一通りでなかった。而も関所の設置は臨時に随所に行はれた為、「六十余州参宮人悉以消魂失信心」と云ふ程であった。此等の中には神宮側の構へたものもあったが、多くは伊勢国司の設けたものであった(檜垣兵庫家古文書・櫟木文書)。加え(一)国司は自己の上司に対しても参宮を拒否し、(二)或は過書を制限し、(三)将軍の代官に対してさへ過書を認めず課税し、(四)甚だしきは神宮神役に関する交通にも特典を与えぬ事があった。
 かくて神宮は固より天下の迷惑は並々でなかったが、
(五)神宮の抗議も幕府の問責も無効であった。従って甚しい参宮の妨害は戦国時代を通じての事であって、(六)国司が関所を開放したのは遷宮の時と重病に罹って神罰を祈謝した時だけであった。参宮の妨害は伊勢に於けるもののみでなく、(七)興福寺の六万衆や大和の越智氏が国司と争って国境の関を閉じて参宮路を塞いだ事もあり、更に地方より此処に至るまでの交通の不便困難は蓋し想察に余るものであったろう。
 かくて参宮の志あっても仲々伊勢に達するを得ず、伊勢に入っても夥しい関所の為に人々の迷惑は甚だ大きかった。而も参宮は盛んとなった。朝廷に於いては官幣を捧げ給ふ事が出来なかったので、せめて
(八)代参の意味に於て官女を遣して祈らし給ふ事は屡々に亘った。又将軍の参宮は前例のない事であるが、(九)明徳四年の義満参宮を始例として応仁までに六回を算し、大乱後は不可能となったがその代り将軍の室・側室の参宮が現れた。(十)義政夫人日野氏は文明年間三回に亘って参宮を遂げその行装は贅美を尽くした。
 公家武家に於て斯の如し。近侍の公卿武士の参宮は夥しいものがあって、それは風をなして京都附近よりの参宮を盛化し、中央の風潮更に地方に波及し、更に地方武将の参宮も漸く見られる事となった。
(一)(二)(三)大乗院寺社雑事記・実隆公記
(四)永祿記
(五)請符集・大乗院寺社雑事記
(六)永祿記
(七)外宮引付・大乗院寺社雑事記
(八)御湯殿上日記
(九)神宮典略将軍家参宮
(十)実隆公記

 伊勢国司や近国の武将は当然としても、当時遠国よりする参宮は大変な事であったと思はれる。

(一)文明十三年大内政弘の宰陶弘護・同十五年伊達成宗・永正九年土岐頼秀・同十二年大内義興はその一例である。而してその従者儀容は堂々たるものであって、義興は事前に参宮従者行列の例規を伊勢貞陸に問うてゐるのである。
 古くより見られる僧侶の参宮も戦国時代に入って盛んとなった。当時神宮では表面仏教を忌み、為に僧尼は特定の僧尼拝所より内に入る事を許されなかったにも拘わらず、近畿の僧侶は争って参宮を遂げ、彼等の中には早くも
(二)伊勢講を組織した者があった。庶民に於ては古くより最も盛んであったが、当時弥々盛んとなった。(三)室町時代の参宮記によると参宮者の極めて多かった状態が描かれてゐるが、その大部分は庶民であったと思はれる。大内家の壁書によると文明年間、長防方面より多数の参宮者のあった事明らかであり、又永正六年は奥州白川に於て庶民の大参宮団が組織されてゐる。かくてその範囲は大体全国的であったと思はれる。
 爰に於て著しい交通の妨害を冒してその志を遂げんとする彼等の至情が見られるのであるが、当時貴人の参宮が盛んであったから、彼等は多くその驥尾に附して目的を遂げる事が出来た。否地方庶人に限らず、交通障害を知悉する参宮街路近傍の者は、貴人の参宮を待ち構へる状態であった。
(一)陶弘護肖像贄・伊達家文書・碩田叢史・伊勢貞親以来伝書・其他
(二)三宝院文書外多数
(三)耕雲紀行・室町殿伊勢参宮記
(四)八槻文書
(五)師象記

 以上の如き参宮の盛行は神宮に対する挙世熱烈なる信仰を意味するものであるが、それは参宮の態度に於ても窺はれる。当時参宮に当って、精進潔斎を行ふこと極めて厳重であった。貴人は普通精進屋に入って二日の精進をなし、出発の朝は精進風呂に浴し、然る後に京都を発つのであった

(後法成寺尚通公記)。軈て伊勢に入り宮川に着くと此処で行水を行って心身を清めた(耕雲紀行・室町殿伊勢参宮記)。それは身分年齢を問はず、僧形であると老体であるを分たなかった。
 神事に清浄を第一とするは常識であり、人々は何れの社寺に於ても之を心掛けたが、神宮に於て特に厳重であると云ふ事は神宮に対し奉る気持ちの反映である。「此河にてこりかくと申事は、さしも本説もなきよしを、社家のともがら申侍るよしうけたまはりぬれとも、なを塵労をすゝぎ、心神をきよめんためにてぞと覚侍れば、・・・河水を汲て身を清む。」
 然らばかゝる態度を以てする参宮は何を目的としたか。そこには現当二世に於ける色々な祈願が見出される。
たのむそよ内外の宮のゆふたすき かけてをめくめ 此世後の世(堯孝)

 しかし之が全部ではなかった。国体の自覚に立った祈りは見られぬけれども、公武の人々は天下国家の靜謐を祈願したのである

(さののわたり・亜穂記・応仁後期)。又坂土佛と同様な心境を以て何ら祈り願ふ所なく、広大無遍の御光の下に法悦に浸り、純なる涙を流す人も少なくはなかったのである。なにをかは わがねきごとゝ思ふべき たゝ神かきにむかふばかりぞ(室町殿伊勢参宮記)天てらすひかりは よもをもらさねば 今日わかるとも 神は思はし(耕雲紀行)

 而して私の祈りを捧げる人々にあっても、その心底には此の様な素直な日本人本然の気持が流れてゐた。否俗的な信仰の中には赤子の父母に対するが如く、大神の御光に甘へる気持が見られるのである。而も神廷の風物「かけまくもかしこき神境」

(耕雲紀行)はもろもろの迷蒙を自然に純化し、大神の御神徳は彼等の心底を照徹し給ふたのである。
 かくて参宮は戦国時代に於ける日本人の内面的宗教的な欲求を満足せしめ、御神徳を深く人心に浸み込ませる事となった。而して参宮の普及する所御神威は次第に光被される事となったのである。従って伊勢は神国であり、神宮は国民信仰の帰一する所となり、衰微の極にあった神宮は爰に、民心の中にその権威を取り戻したのである。天文十八年伊勢に漂着した明人の参宮した事
(松木氏年代記)、永祿十二年織田信長が伊勢に侵入した時、国司方は神軍故必ず勝つとされたこと(細川両家記)は御神威に対する民心の自覚を示すものであらう。

第四節  

神明社の創建

 神明社は古くは御厨御園ら神領の地に祀られたのであるが、中世後期になると神領地とは無関係に新に私に創建される事となった。古来神宮では原則として、個人による自由な神宮勧請を神意に背くものとして堅く禁断する掟であった

(大神宮諸雑事記・諸国神明勧請停止例・諸国神明禁止例文外多数)。然るに大神の霊威に対する信仰の高まった中世後期には私に大神の御分霊を勧請し奉らんとする考えが起ってきた。
 既に当時は大神の自由意志としての飛神明の思想が流行してゐる。内宮の火災に当って天照大神の丹後飛行説があり
(大乗院寺社雑事記)、又吉田兼倶の密奏事件に於いては大神宮が吉田社に移り給ふたと本当に信じた人があった様であり(翰林胡盧集)、又備後国の今伊勢神明社が焼けた時、御神躰が「遠飛而自避災火矣」(今伊勢宮神社文書集)と云ふ事の如きは飛神明思想の一つの現れであらう。
 享徳二年二月の皇大神宮神主解状に依れば、此の様な思想を背景として「或号御託宣或称飛而御坐恣奉造立正殿形」ことが各地で行はれた。之に対し神宮祠官等は「是全非敬神只示厳重之由 兼諸人参詣之幣物存私依怙計也 神慮難測以凡慮奉犯 神慮之段併神敵輩也」と云ひ更に「如此背法所行偏神道之廃非本朝衰微之基乎 為神為君不忠不信也」と慨歎し、之を停止し破却せんことを請うてゐるのである。しかし乍ら此等の解状は何等の力を持つ事も出来ず、中世後期更には近世に亘る神明社の自由創建は可成り多く行はれたのである。

 一例を広島県沼隈郡神村鏡山鎮座今伊勢宮に執ろう。縁起によれば当社は元泉州堺に祀られたのであるが、その由来は次の通りである。応永三十三年堺庄主荒木田大夫平朝臣末次が参宮し、誠心精一神徳を祈り奉ること七日七夜、その満曉に至って夢告あり。其の神告は「汝曽信我深矣巧矣由是今我子汝 汝尋私於華表左右有一青石即是我也 汝懐之而帰本庄立祠祀之 必得福焉」と云ふのであった。果して左

石止上に一青石の五寸計りにして光輝あるを得、頓首百拝乃ち供奉して帰って祀ったのが当社の起りであると言ふ。
 即ち当社の建立は荒木田末次の深い神宮信仰に基く個人の自由創立である事を伝へてゐる。軈て当神明社は現在の地に遷座されたが、此処では領主以下地方民の非常なる崇信を受け「爾来日夜千億万人遠近無隔曰詣祈福無不験矣」と云ふ状態を呈したと云ふ。而して此の神明社信仰は「祈福」の為であって、大神の御託宣に「必得福焉」とあったのと照応して、当社は地方私的信仰の対象であった事を物語っている。
 次に所謂勧請になるものを周防山口の高嶺神明宮に就て考へよう(
高嶺両大神宮後鎮座御伝記による)。当社は大内義興の創建にかゝる。先づ永正十五年十月義興の下知によって現在地に社殿建立が始められ、所謂外宮は永正十六年十一月三日に落成を見、内宮は同十七年四月八日に竣工した。軈て同年六月十二日義興の御師である山田の高向二頭大夫光定が山口に下着し、同廿九日神明勧請遷宮の儀が盛大に執り行はれたのである。此の神明勧請は国家安全・武運長久を願ふ彼義興の宿願であった。彼は先に永正十三年参宮を遂げてゐるのであるが、斯の如き神宮崇敬が結実して高嶺神明宮の創建となったものであらう。
 社伝に依れば此の勧請は勅許を得たものであり、現存の「高嶺神明宮」なる額は勅願であると云ふ。今之を徴証することは出来ないが、当時の義興の力を以てすれば、或はあり得た事であらう。兎も角此の挙は義興の深い神宮崇敬の念に出たものであって、大内氏に忠勤の事績のあった事と一脈通ずるものであらう。而して茲に注目すべきは勧請遷宮の儀が御師高向二頭大夫の手によって執行されてゐる事である。彼は山口に下着してより神主として一切の神事を滞りなくすませ、御馬料二万疋其他の進献を得て翌潤六月二日山口を発足してゐる。
 彼が御分霊を奉じて下向したか否か明記がないが、勧請が正員の神宮祠官に依ってでない事はどう解釈すべきであらうか。高向は単なる御師でなく同時に祠官でもあったのであらうか。それとも神宮における正規の手続儀式の記録を欠いてゐるだけであらうか。高嶺神明社はこれより大内氏の力によって経営され、大内氏の力の及ぶ所防長二州は固より北九州各地からも盛んに参拝寄進が行はれる事となり、その状態は毛利氏の時代になっても同様であった。

 之を要するに神明社建立の動機には或は経済的利慾に重きを置くもの、自家の発展繁栄を図るもの等私的なものが多かったと思はれるが、当時における神宮信仰の風潮を背景としたものであり、而して神明社の建立が可成り多かった事は神宮信仰普及の証拠に外ならぬ。固より此等は純正なる神宮崇敬を意味するものではない。けれども御神威が漸く国民に復活しつゝあった事を物語り、神明社崇敬を通じて更に新しく御神徳を地方民に光被せしめる事となったのである。

第五節  

神領寄進

 室町戦国時代に入って神領の激減した事は既に明かにした通りであるが、軈て戦国時代末期になると逆に神領寄進の事実が見られる様になった。而してその早いものは応仁の乱後に之を見ることが出来る。戦国時代に入って最初の神領寄進は、応仁二年幕府が伊勢高畠の地を大神宮に寄附した事に見られるが、それは天下靜謐の祈りの為であった

(勢州記録)
 此事は文明二年の義政の皇太神宮への立願とその精神を一にするものであらう。次で
(一)文明四年永源庵慶了、渡部四郎五郎両名が内宮一神主殿御祓供米且者御供料として一反半を皇太神宮へ寄進して居る。此等は従前の御厨御園と性質を同じうするものであると考へられるが、その名を用ひてゐぬ事は注目に価する。此後暫くの間は殆ど神領寄進の記録が見られぬ様であるが、軈て戦国時代も終りに近ずき新たに天下統一の気運が見えてくると、地方武将のうちだんだん神領を寄進する者が出て来た。而してその大部分は御師を通じての寄進であって、従前の口入の神主を通じての御厨御園の制とはその形式を異にするものである。
 その早いものは、
(二)明応七年上杉房能の越後での田地五反寄進に見られる。この寄進状では宛名が明記されてゐぬが蔵田文書中にあるから恐らく御師蔵田氏を通してのものであらう。次にこれらの主要なものを列挙しよう(三)天文四年宇都宮の藤原忠綱氏家郡栗嶋郷寄進、(四)天文廿年には徳雪斎周長石高三貫の地を、(五)永祿五年には下野小山秀綱千疋の所を寄進、(六)同十三年には南部新右衛門尉秀就江州で壱段を、(七)元亀元年には朝倉景遐が一町四反の地を、(八)同年上杉謙信の将河田長親越中で数ヶ所を、(九)元亀二年今井艸慶十郎江州で一段を、(十)天正三年瓜生宮内助御供田百俵の処を、(十一)同六年今村与次郎長治田地壱段の地を、(十二)天正十年信濃の青柳籟長は田地弐拾貫文の所を同十一年には同人更に四拾貫文の処を寄進してゐる。(一)内宮神官所持古文書
(二)伊勢古文書集
(三)内宮神官所持古文書
(四)(五)佐八文書
(六)(七)(八)(九)(十)(十一)(十二)以上伊勢古文書集(一)天正十一年稲葉一鉄は五千疋の地を、(二)同十二年信濃松本の小笠原貞慶は百貫文の地を、(三)天正十八年福嶋正則は尾州で百石を、彼は文祿四年更に百参拾石を、(四)天正十九年羽柴三左衛門照隆は参州で二百石を、(五)慶長六年池田照政は赤穂郡で四百石を、(六)同九年山内土佐守一豊は百石を、(七)同十年松岡市右衛門定正は地行の佰分一を永代寄進する事とし、(八)同十二年池田次兵衛長幸が百石を、(九)同十五年池田輝政更に淡路国に於て百石を寄進、(十)同十八年池田忠継播磨国で弐百石と百石を、(十一)同年池田玄隆餝東郡内で三百石を、(十二)元和四年因州大守池田幸隆伯耆国で百石を寄進してゐる。
 以上は偶目するものの大略に過ぎぬが、毛利・島津氏等更に多くの武将大名が相当多額のものを奉って居り、此等の惣高は御巫直清氏に依れば六千余石はあらうとされて居る。
(一)稲葉家諩
(二)
御師榎倉文書
(三)(四)(五)(六)(七)(八)(九)(十)(十一)(十二)以上伊勢古文書集

 然らば此等神領寄進の目的は何であったか。多少の例外が考へられるが、概して云へば武将としての現世利益の祈願の為であった。その著しいものは次の寄進状である

(大日本史料天正拾年十二月条)

伊勢大神宮於□田地掘金与三郎兵衛介拾貫文 本町之彦六分拾貫文合而弐十貫文永代之所也 右意趣者 武運長久 息災延命 子孫繁栄 軍陣勝利 怨敵退散 知行重々 家風豊饒 心中所求 如意満足之御祈念 奉憑外無也 仍精誠之旨如件

天正拾年

壬午 極月吉日        青柳伊勢守 藤原 頼長(花押)

宇治七郎右衛門尉殿

 此等は斯の如く名目は大神宮への寄進であったが、その支配は宛名の御師の手にあった。固より例外はあったが、大部分は年々の祈祷料亦特殊祈願の礼物として自己の御師に寄せられたものであって、断じて神領の名に価するものではなかった。晩年の秀吉は此の点を明瞭に区別し、御師上部大夫に与えた千四百五十石以上の所領は神領としてではなく、御師に対する扶助料の名目を執ってゐる。近世諸大名の所謂神領等は殆ど此の意味のものであらう

(伊勢古文書集)
 以上新たなる神領寄進は、主として戦国末期より近世初頭にかけての著しい現象であった。此事は此の時期に於て武将の間に、御神威が最も高く仰がれた事を意味するものであらう。固より私的信仰の表れに外ならないが、天下統一の時期に於て天照大神がかくも信仰の中心となり給ふた事は注目すべき所であらう。かゝる武将達の態度は信長等に依る残存の神領保護ともなって現れ
(伊勢古文書集)、全く隔世の感を深くさせるのであるが、此の様な実力者の深厚なる神宮崇敬乃至信仰は、不純ながらも此の時期に於ける神宮復興の力となり得るものであったのである。