軍荼利明王‐古寺散策
軍荼利(ぐんだり)明王
梵語名 クンダリー(Kuṇḍali)の音訳とされている、七世紀中頃には「陀羅尼集(だらにじつ)経(きょう)」(注1)に記述があり不動明王に次いで古い明王である、軍荼利夜叉明王とも言われる、胎蔵界曼荼羅では軍荼利明王として、金剛界曼荼羅では甘露(かんろ)軍荼利菩薩・金剛軍荼利菩薩・蓮華軍荼利菩薩として描かれている、但し梵語の Kuṇḍali も漢訳の軍荼利も語意はあまり解らない様だ、因みにクンダには水瓶を意味し、クンダラは蛇を意味する様でもある、因みに水瓶は甘露すなわち不死の霊水を収めるとされている。
不動明王や孔雀明王等と同様ヒンズー教の諸尊を打倒する尊格を有しているが、両尊の様に単独での造像は現存しない、軍荼利明王は中期密教では重要な仏格で五大明王の一尊であり宝生如来の教令輪身(きょうりょうりんしん)として南方から外敵の守護をする、Kuṇḍali とは「とぐろを巻く者」と「甘露を入れる壷、(Kuṇḍa とは壺、li は収納を意味し、瓶は不老不死の霊薬即ち甘露を入れる容器で甘露軍荼利とも呼ばれる)」を意味する、別の資料に依ればグンダとは甘露な不老不死の霊薬を入れる水瓶を言い、リーは止める、甘露入りの水瓶を所持する者即ち甘露軍荼利とも訳される事もある、しかし姿形から髑髏を巻く者をも意味し冠に髑髏を付ける像もある、因みに生命の活力と言える蛇を巻いているのは執念深さ、煩悩を制圧する意思を持つと言う、但し尊挌の起源は定かではない、一説にはクンダリニーの語源は、kundalin(くんだりぬ)で螺旋を有するものを意味する女性尊格であると言う、軍荼利はインドに於いてはアウトカーストのアチュート(不可触民)を起源とする女神で後に密教に取り入れられた、即ち本来は女尊であったが中国で男尊になり日本に渡来した説がある、出自に関してはヒンズー教の土俗神と言われるガネーシャ(gaṇeśa)との説がある。
軍荼利明王の依経には「陀羅尼集経」「甘露軍荼利菩薩供養念誦成就儀軌(かんろぐんだりぼさつくようねんじゅぎき)」の他に民間信仰の医療と結びついた「金剛阿蜜哩多軍荼利菩薩自在神力呪印品」、最澄が請来した「軍荼利菩薩法」「軍荼利別法」がある。
外敵から煩悩や障害を除くとされ歓喜天(聖天)を調伏した支配者でもある、因みに歓喜天は大聖歓喜大自在天・大聖歓喜天・大聖歓喜双身天王など多くの呼称がある。
姿形は一面三目八臂が多く制作され真手は腕を胸前で交差(降三世との相違は指を伸ばす)する軍荼利特有の大瞋印(だいしんいん・羯磨印)を結び、右手は・三鈷杵(五鈷杵)・拳印・施無畏印を左手には輪宝・金剛杵・戟・金剛鉤を持つ、腕釧(わんせん)、臂釧(ひせん)、足釧(そくせん)に条帛(じょうはく)に虎の皮を模した虎皮裙(こひくん)等で装飾している、最大の特徴は体全体に蛇を巻きつかせている事にあり、「陀羅尼集経」等に記述がある、但し金胎房覚禅(かくぜん)(1143~?)が描いた覚禅抄と言う図像には四面四臂像と一面八臂像が描かれている、他に経典には四面四臂に記述もある、足元は台座の代用か蓮の花弁に乗せている。
軍荼利明王が現れるのは明王では早く7世紀中盤には陀羅尼集経(阿地瞿多(あじくた)訳)に現れている、独尊で信仰される場合は少ないが10~11世紀頃にこん跡は残る(埼玉・常楽院ー滋賀・金勝寺)、因みに常楽院の軍荼利明王は一面八臂で像高228.8cm、通称を「高山不動」と呼ばれるが、軍荼利明王である、栗東市の金勝寺の像の像高360.5cmで両尊共重要文化財指定を受けている。
その他軍荼利明王に関連する経典は「摂無礙経(しょうむげきょう)」「甘楽軍荼利菩薩供養念誦成就儀(かんろぐんだりぼさつくようねんじゅぎき )軌」「軍荼利菩薩法」に加え最澄将来の「軍荼利別法」がある。
軍荼利明王は三輪身の内、経令輪身の化身を務める、三輪身とは自性輪身(如来) 正法輪身(菩薩) 教令輪身(明王)を言い、五智の内で平等智に於いて宝生如来-自性輪身 ・金剛宝菩薩ー正法輪身 ・軍荼利明王ー教令輪身の姿で表現される、軍荼利明王の尊格は道教にも存在し少年神・少年神「哪吒(なた)」の弟・金吒は軍荼利明王である。
三輪身は日本密教特有の分別方法で摂無礙経を典拠としている、摂無礙経は空海没後百年以上後、すなわち平安時代に於ける東大寺の僧奝然(938年~1016年)が請来した経典で、三輪身と言うタームを空海は使用していない。
八大明王の一尊として軍荼利明王は大笑明王とか大咲明王とも呼ばれ虚空蔵菩薩の化身を務める明王である。
軍荼利明王を本尊として祀る寺がある、通称を高山不動と言うが本尊は軍荼利明王である、埼玉県飯能市高山346の高貴山常楽院(真言宗智山派)には藤原時代の豪快な尊像があり重要文化財指定を受けている。
真言 オン アリミチイ ウンハッタ
五大明王 明王の中で著名な五大明王信仰は唐の玄宗皇帝から信任された不空による「仁王護国般若波羅密多経陀羅念誦儀軌」に密教化された護国思想や五大明王の教義が説かれ空海と円珍により請来されたが尊名や図像に相違がある、因みにインドには五大明王の信仰は見られず軍荼利明王、金剛夜叉明王、鳥枢沙摩明王の尊挌は見つかっていない。
真言系では「仁王経五方諸尊図」を典拠としており上記の不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五尊を言い水牛に乗る大威徳明王以外は立像である、空海が大極殿に真言院を創設して五大明王の檀を築き後七日御修法の施行に成功し、天皇及び御衣に聖水を注ぐ最大級の修法にした事により平安時代以後には多大な信仰を集めた、後七日御修法は明治維新まで宮中で行われ、現在に於いても東寺で行われている事もあり平安時代以後には多大な信仰を集めた、また天台系では円珍が招来した「五菩薩五憤怒像」が使われ金剛夜叉明王に代わり鳥枢渋摩明王があてられ坐像である、五大明王全尊揃っているには東寺 ・大覚寺 ・醍醐寺 ・不退寺 ・宝山寺(奈良) ・定福寺(三重) ・瑞巌寺(宮城県松島)の七寺である 。
国宝の絵画に於いては東寺・醍醐寺 ・高野山(有志八幡講十八箇院) ・水無瀬神社(大阪)に存在し、重要文化財も数点存在する、また軍荼利明王は真言系では右手に金剛鈎を持ち天台系は羂索を持つ、また大威徳明王に於いては画かれる位置が真言系は画面側から右上、天台系は左下に画かれている、中でも1127年の教王護国寺の五大明王像が最も著名である。
新しく絵画で岐阜県大野町の来振寺(きぶりじ)で(絹本著色 不動 降三世 軍荼利 大威徳 鳥枢沙摩 五幅各140×88cm 平安時代)が2004年6月に国宝指定を受けた、真言宗の古刹に天台系の鳥枢沙摩明王の作品が存在する事は興味をそそる。
円珍様の五大明王で日光・輪王寺の場合は不動明王を欠いている、また造像時に京都・法性寺にあり現在、東福寺、塔頭、同聚院所蔵の場合は不動明王だけが残っている。
注1、陀羅尼集経とは十二巻または十三巻。 唐の阿地瞿(あじく)多(た)訳。 諸仏菩薩に於ける陀羅尼の功徳を説いた経典。
寺 名 |
備 考 |
|||||
● 常福寺 |
172,7cm |
178,8cm |
172,7cm |
150,6cm |
177,7cm |
木造彩色 平安時代 |
● 瑞巌寺 |
64,1cm |
92,1cm |
89,7cm |
67,7cm |
91,1cm |
同上 |
● 醍醐寺 |
86,3cm |
122,3cm |
125,8cm |
80,3cm |
116,7cm |
同上 |
○ 教王護国寺 |
173,3cm |
173,6cm |
201,5cm |
100,9cm |
171,8cm |
同上 明円作 |
● 大覚寺 |
50,9cm |
67,5cm |
69,3cm |
58,1cm |
69,6cm |
同上 |
● 不退寺 |
85,7cm |
154,7cm |
157,0cm |
99,0cm |
150,5cm |
同上 |
● 宝山寺(奈良) |
17、1cm |
18,7cm |
17,5cm |
11,5cm |
18,1cm |
江戸時代 厨子入 |
常福寺は寺院に拠るサイトです。
●常楽院 木造彩色 228.8cm 藤原時代 高山不動 (埼玉県飯能市大字高山 346 )
●金勝寺 木造 360.5cm 平安時代 (滋賀県栗東市荒張1394 )
●延暦寺無動寺明王堂(滋賀県)木造 彩色 玉眼 82.4cm 鎌倉時代 制吒迦童子36.7cm 矜羯羅童子 39.7cm 降三世明王 80.9cm 軍荼利明王 82.4cm 大威徳明王47.0cm 金剛夜叉明王 86.4cm絵画(五大尊像)
○来振寺 |
絹本著色 掛幅装 五幅 各140、0cm×88、0cm 不動 降三世 軍荼利 大威徳 鳥枢沙摩 |
平安時代 岐阜県大野町 |
絹本著色 掛幅装 五幅 各153,0cm×128,8cm 不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 |
平安時代 |
|
○醍醐寺 |
絹本著色 掛幅装 五幅 各193,9cm×126,2cm 不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 |
鎌倉時代 |
(五大明王各編で重複させてあります)
寺院案内 仏像案内
最終加筆日2004年7月7日 2005年11月23日三輪身 2007年5月24日印形 2014年6月1日曼荼羅関連 2015年2月10日金剛阿蜜哩多軍荼利菩薩自在神力呪印品 2017年1月12日 2021年3月4日 2022年9月22日加筆