金剛力士‐古寺散策
金剛力士 (仁王)
仏像案内 寺院案内Vajrapāṇiāṇi(ヴァジュラパーニ・金剛杵(こんごうしょ)を持つ)、通常は仁王・仁王尊・密迹(みつしゃく)金剛 ・独尊の場合は執金剛神(しゅこんごうしん)と呼ばれているが、インドに於ける語源は岩をも粉砕する最強の武器である金剛杵を持つ執金剛神が正規の様である、仁王より二王との記述が正規な様で山門に位置したり須弥壇の左右に安置される、二十八部衆の一尊の場合と呼称を区分する場合があるが厳密な規定はない、因みに蓮華王院の二十八部衆に於いては下述で重複するが那羅延堅固(ならえんけんご)王、蜜迹(みつしゃく)金剛(こんごう)力士(りきし)と呼称されている、最強の武器である金剛杵(Vajra)で仏敵を撃退するとされる、一説には阿形像を金剛像、吽形像を力士像とする記述も観られる、閑話休題、ヒンズー教に於いては独尊の執金剛神を金剛力士(阿形と吽形)と呼び二尊配置した嚆矢は中国の石窟寺院と言われている。
金剛力士は仏教の護法善神(ごほうぜんじん)である、寺院を参詣して山門などで最初に対面するのが「仁王さん」即ち金剛力士像である、境内への入り口である山門に金剛力士を置く理由の一つに、恵果or空海とも言われるが定かでない、密教の要義約百条を解説した「秘蔵記」に依れば金剛すなわち煩悩を破棄すつ智慧は覚りに入る最初門と言う様な意味合いの記述がある、因みにインドに於いては著しく古い時代から門の両脇に夜叉像(薬又(やくしゃ))を置く習慣があったと言う説も言われている。
東大寺南大門や法華堂には両尊(国宝)とも安置されており金剛力士と執金剛神は別流とする人もある、また仁王とは漢訳者の名前であり本来は金剛杵を所持し、常時釈迦如来の脇に侍す警護者で薬又(夜叉)のことを言い独尊で安置される場合は執金剛神と呼ばれる。
竜門石窟等に於いて鎧を装着た武将姿の像で表されており、日本に於いては東大寺三月堂の乾漆造仁王像や法隆寺蔵橘夫人厨子扉絵、東大寺三月堂の執金剛神像等はこれらの流れの中にある、古くは法隆寺・玉虫厨子の扉に描かれている。
典拠となる経典は「法句(ほうく)譬喩(ひゆ)経」「大宝積(だいほうしゃく)経、第九密迹金剛力士会」「増一阿含経」などであり、執金剛(しゅこんごう)神は武将姿で仏法の敵を最強の武器である金剛杵を持って撃滅する、第九密迹金剛力士会に依れば転輪聖王に千人の太子と、法意と法念と言う二人の王子があり、法意が金剛力士に成ると記述されている、因みに太子は賢劫の千仏と成る。由来が二人の王子の為かこれが中国に伝わると二尊に分離して金剛力士とか仁王になり門を守護するようになる、しかしインド、パールハットに於いてBC数世紀の二尊像や、金剛杵を持ち釈尊の両脇に従う像が存在する様で中国起源説は定かではない、一説にはギリシャ神話に出てくる半神半人のヘラクルスを起源としていると言うが定かではない。
経典には釈迦の活動・佛敵に対して防御の役目とされていたが後に寺域及び伽藍の護衛役となる、蜜迹金剛は元来一尊であったのが中国に渡ると石窟や寺門の護衛役を務める関係上二尊に分割されたと言われる、わが国においては長谷寺の国宝・銅板法華説法図が最古とされるが欠落して木製補修を受けている。
姿形としては不空訳「摂無礙経(しょうむげきょう)」に記述があり、身相赤肉色・憤怒降魔相・髪髻焰鬘冠(ほっけいえんまんかん)・右手金剛杵などが記述され、上半身筋骨隆々とした裸形で憤怒を誇張して外敵を威嚇しているが日本に伝わって当初の像は甲冑を纏い手には最強の武器である金剛杵を持つ像がある(橘夫人厨子の扉絵など),因みに摂無礙経とは印の解説及び祈願法(息災、増益、降伏、敬愛、鉤召(こうしょう))等が記述されている。
定かな決まりはないが通常左尊は阿形(密迹力士)と言い口を大きく開き大声で一喝・右尊は吽形(金剛力士)に於いては怒気を表わし口は固く結ばれている,ただし金剛杵を持つ武装尊は奈良時代を境にあまり造像されなくなる,閑話休題、阿形、吽形の呼称に阿形=力士像、吽形=金剛像、重複するが蓮華王院等々の場合、阿形=那羅延堅固(ならえんけんご)、吽形=密迹(みつしゃく)金剛の記述を観る(聞書 頼宝、蔵勘抄 仏像の教科 枻出版社)。
金剛力士の左右配置であるが、東大寺南大門や三月堂(法華堂)、明治時代であるが高村光雲達の手になる信州の善光寺に於ける定額山の扁額が架かる仁王門、東大寺を模倣した越前大仏(清大寺)、興福寺国宝館の金剛力士の場合は右に阿形尊が置かれ左は吽形尊とされ通常と逆の配置である、閑話休題、東大寺関連で重源や快慶の関与が観られる浄土寺に於ける阿弥陀三尊の観音と勢至菩薩像は逆配置である、因みに口を開いた阿形像を金剛力士、閉じた吽形像を密迹金剛と呼ばれることもある。
摂無礙経の正式名称は「摂無礙大悲(しょうむげだいひ)心陀羅尼経(しんだらにきょう)計一法(けいいっぽう)中出無量義(ちゅうしゅつむりょうぎ)南方満願補陀落(なんぽうまんがんふだらく)海会五部(かいえごぶ)諸尊等弘誓(しょそんとうぐせい)力方位及(りきほうい)威儀形色執持(いぎぎょうしきしつじ)三摩耶標幟(さまやひょうしき)曼荼羅儀軌(まんだらぎき)」と大変長い。
巷間に於いて「阿吽(あうん)の呼吸」と言われる阿形、吽形であるが阿形は大日経の種字すなわち存在の根幹を示し、吽形は金剛頂経の種字すなわち帰結の智慧を著すとの説がある、即ち悉曇(しったん)文字(梵語文字)の配列(アルファベット 文字一覧)で阿は最初の字音(A)であり吽は最後の字音(ⅿ)に相当する、また仏教用語で真言の一つであり宇宙の始まりから終わりまでを意味する様だ。東大寺法華堂などに執金剛神といわれる像や三十三間堂等の二十八部衆の内,那羅延堅固(ならえんけんご)王・密迹(みつしゃく)金剛力士は金剛力士と同尊とされる。
特に東大寺の執金剛神は二尊分割以前のヘレニズムの感化を受けギリシャ神話の英雄ヘラクルスから変化したとされる説がありバーミヤン石仏群の流れを受けていると言う。
国宝・重文指定(1997年)の像は執金剛神と二十八部衆を除いて25組存在し鎌倉時代の作品が65%を占める、県別に見ると京都府8組・奈良県4組・滋賀・岐阜各2組となる。
異色の金剛力士像が兵庫県の三田に存在する、曹洞宗を大躍進させた通(つう)幻(げん)寂(じゃく)霊(れい)が興した名刹で、総本山に次ぐ寺格を持つ永澤寺の山門には四尊の金剛力士が安置されている、即ち門外を見つめる憤怒相の二尊(阿形・那羅延金剛、吽形・密迹金剛、各2.8m)と背中あわせに境内を見つめる優しい慈悲相の二尊(各1.6m)がある、憤怒相の二尊は従来の仏法守護の表情であり、境内を見つめる二尊は金剛力士が持つ心すなわち真実な心の内面に秘める慈愛を見る事が出来る、この金剛力士像は21世紀に於ける気鋭の大仏師で勢山社の渡邊勢山氏の手になる秀像である。
文化財指定は無いが善光寺の東門、すなわち定額山の扁額が架かる仁王門の金剛力士像は、皇居前広場の楠正成像や上野恩賜公園の西郷隆盛像を製作した高村光雲(1852年~ 1934年)とその弟子の作品である。
注1、
金剛とは梵語の vajra(バジュラ)でヴエーダ聖典では雷を意味する、またインドラ神の最強の武器であり煩悩打破に用いられる金剛杵を言い金属の堅固・剛毅・強いと解釈されている、大漢和字典には「五行の金の気、剛毅から剛」とあり仏教に取り入れられて帝釈天となる。
ヴェーダ聖典ではインドラ(帝釈天 śakra‐Devānāṃ Indra)が金剛杵で魔神を退治したと言い金剛杵は雷を起す武器である、種類は多様で刃先が一本~五本あり独鈷杵・三鈷杵・五鈷杵とあり武器で無い宝珠鈷杵・塔鈷杵等を合わせて五種杵と言う。
また東大寺に存在する著名な執金剛神の執金剛とは金剛杵を持つ者を意味する。
因みにインドラ(Indra)とはバラモン教の神々の帝王の名である、正式名は梵語(saṃskṛta)śakro devānām indra ḥ パーリ語(pāḷi) Sakko devānaṃ indo、と言いう。
主な金剛力士像 表内は国宝
寺 名 |
仕 様 |
時 代 |
東大寺(法華堂) |
脱乾漆彩色 阿形326,3 吽形306,0cm |
天平時代 |
同上 |
執金剛神 塑像繧戚彩色 173,9cm 厨子入り 12月16日開帳 |
天平時代 |
東大寺(南大門) |
木造彩色 阿形836,3吽形842,3cm 運慶・快慶 |
鎌倉時代 |
木造彩色玉眼 阿形154,0吽形153,7cm 定慶 |
鎌倉時代 |
|
那羅延堅固王 木造彩色 切金文様 167,9cm 二八部衆の内 |
鎌倉時代 |
|
密迹金剛力士 木造彩色 切金文様 163,0cm 二八部衆の内 |
鎌倉時代 |
●法隆寺(中門) 塑像(吽形一部木造)阿形378,0cm 吽形375,0cm 天平時代(但し頭部)
●醍醐寺(西大門) 木造 阿形359,0cm 吽形363,5cm 藤原時代
●宝積寺(京都府) 木造彩色 阿形284,2cm 吽形277,5cm 鎌倉時代
●善水寺(滋賀県) 木造彩色 阿形280,5cm 吽形284,5cm
藤原時代
●円鏡寺(岐阜県)
木造彩色 玉眼 阿形230,3cm 吽形230,3cm 鎌倉時代 (岐阜県本巣郡北方町大字大門1345)
●横蔵寺(岐阜県) 木造 彩色 玉眼 阿形278,5cm 吽形279,0cm 鎌倉時代 肥後法眼・定慶
●摠見寺(そうけんじ)(滋賀県) 木造彩色 玉眼 阿形212,8cm 吽形211,5cm 室町時代
●石龕寺(せきがんじ)(兵庫県) 木造彩色 玉眼 阿形370,0cm 吽形370,0cm 鎌倉時代 肥後別当定慶
●金剛院(舞鶴市鹿浜595) 木造彩色 玉眼 立像 87.0cm 執金剛神 鎌倉時代 快慶作 他に深沙大将等作等
●禅師峰寺(ぜんじぶじ) 木造古式 玉眼 阿形142.5㎝ 吽形145.0㎝ 鎌倉時代 (南国市十市3064)
●神角寺(じんかくじ) 木造彩色 阿形約249.0cm 吽形約249.0cm 鎌倉時代 (大分県豊後大野市朝地町鳥田1354)
●万満寺 木造 彩色 玉眼 阿形257.0cm 吽形244.8cm 鎌倉時代 (千葉県松戸市馬橋2547)
その他の重文指定、金剛力士
京都府●峰定寺 木造彩色 阿形272,3cm 吽形275,2cm 藤原時代
●万寿寺 木造 玉眼 阿形203,0cm 吽形207,3cm 鎌倉時代
●勝持寺 300,0cm
●金剛院 木造彩色 阿形176,3cm 吽形177,3cm 鎌倉時代 (舞鶴市鹿浜595)
●多称寺 木造 阿形355,5cm 吽形358,0cm 鎌倉時代
福島県●法用寺 木造 阿形22,7cm 吽形217,5cm 鎌倉時代
愛知県●財賀寺 木造 阿形360,5cm 吽形376,5cm 藤原時代
山梨県●放光寺
福井県●中山寺 木造 阿形267,2cm 吽形282,0cm 鎌倉時代
千葉県●万満寺 木造彩色 玉眼 阿形257,0cmcm 吽244,8cm 鎌倉時代
山口県●阿弥陀寺 木造彩色 玉眼 270,0cm 275,1cm 鎌倉時代
高知県●禅師峰寺 木造彩色 玉眼 142,5cm 145,0cm 鎌倉時代 明作
三重県●府南寺 木造彩色 玉眼 阿形203,9cm 吽形206,0cm 南北朝時代
金剛峯寺の所蔵する執金剛神と深沙大将が予てから快慶作っと言われていたが 2011年の調査で修理中に執金剛神(149.0cm寄木造)が梵字などから快慶の作品と判明した、深沙大将(142.0cm)も同様である。
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最終加筆日2004年11月30日 2008年4月19日 2010年6月23日阿吽 2017年8月30日 9月30日 2018年4月21日 6月18日 7月15日 2020年3月20日 5月4日 2021年6月30日 7月14日 2024年3月16日
加筆