園城寺・三井寺-古寺散策
園城寺‐三井寺
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正式名称を長等山(ちょうとうざん)園城寺(おんじょうじ)と言い通名を三井寺と呼ばれ寧ろ園城寺よりが親しまれている、寺伝では666年天武天皇の勅願で創建されたとあるが白鳳以降の創建説が有力視されている。
三井寺とされる所以は当寺が天智・天武・持統の三天皇が産湯を使ったとされる閼伽井屋(あかいや)(注5)の泉が境内に在る事から御(三)井寺と呼ぶ伝承と、円珍が重要な修法である三部潅頂の場所とした事によるともされている、因みに閼伽井屋の正面に彫られる龍の彫刻は左甚五郎の作とされる。
智証大師・円珍との関りは延暦寺・第五代座主に就任した折に、伝法灌頂の道場を開設した事と唐より持ち込んだ経典を当寺に収蔵した事に始まり866年には円珍を別当に迎えて延暦寺の別院となるが、円珍没後に山門派(延暦寺)と袂を分かち寺門派となる。
天台宗は曹洞宗と共に分裂・分派現象は少ないが、特に義真入寂後の天台座主を目指す抗争は熾烈を極めた様で円澄の入寂から円仁が座主に就任するまで17年の歳月を要した。
慈覚大師円仁・円珍同士は互いに尊敬し合っていた様であるが百年後弟子達の間で座主や戒壇の独立問題など主導権争い等抗争が激化し円珍派の僧坊が襲われ園城寺に避難した事から山門派(円仁派)と寺門派(円珍派)とに分裂しその後も長期間に亘り抗争を繰り返し和解が成立したのは1990年円珍の大遠忌が行われた時とも言われる。
世界の長い宗教間抗争を歴史から俯瞰すれば延暦寺の視点から見て「異端の罪は異教よりも重い」のかも知れない。
その後も山門派に焼き討ちに遭うこと七度また平家にも源氏との結びつきから襲われた、しかし園城寺は琵琶湖から揚がる豊かな財力と、後白河帝を始め皇室、摂関家(注3)、頼朝以来源氏との深い関係から鎌倉幕府などの信仰は厚く復興も出来て寺領も増え栄えた、また源氏の守護神である八幡神(応神天皇のモデル説が強い)や新羅明神信仰から室町幕府の信仰を得ていた。
秀吉の時代に峻烈を極めた弾圧に遭い寺領を全て没収されるが、秀吉没後北の政所等の尽力で返却され徳川幕府の援助もあり復興する、因みに秀吉の弾圧は峻烈であり主要堂宇を比叡山に移された、一例を挙げれば金堂(弥勒堂)など解体され比叡山西塔の総本堂(転法輪堂)に転用された、一説には甥の秀次と園城寺が親密であった事から起ったとも言われる。
当時の寺域は中院・北院・南院、九谷を持つが主な堂宇は金堂をメインに中院に集中している、本尊に秘仏の如意輪観音を祀る観音堂は西国三十三箇所・14番札所であり参拝者は多い、また梵鐘は近江八景(注4)にも数えられる三井の晩鐘として著名で音色の三井寺、銘文の神護寺 、姿形の平等院が日本三名鐘の一鐘に数えられている。
「七景は霧にかくれて三井の鐘」と詠まれているが、近江八景(注4)の内で七景は景観を誇示した設定であるが、三井の晩鐘は霧に包まれた中に響き聴覚に訴えて設定されている。 「三井寺の門たたかはやけふの月」 芭蕉
全盛期には皇室からの出家者も多く門跡寺院も聖護院・円満院・実相院などがある。
安楽庵策伝の再来とも思へる瀬戸内聴寂尼は「聴寂古寺巡礼」に於いて「境内を歩いていると、幻の大津宮はもしかしたら此処ではなかったのかという思いに捕はれてくる」と書かれている、根拠となる資料は無いが、七世紀後半の物と思える瓦も出土しており、過日数回当寺を訪れた印象と、消去法及び外国からの侵攻を考慮し、比叡山と琵琶湖を背にした防御を装置とした仮都としての立地条件の適合性からも腑に落ちる仮説と思はれる、余談であるが牧野久実著「イスラエル考古学の魅力」に依れば、イエスが付近を歩いたとされるガリラヤ湖、即ちキネレト湖のキネレトはヘブル語で琵琶を意味すると言う、またこの地方を近江と呼称するが淡海と記述された事もあるようだ。 ティベリアス湖(Tiberias)
園城寺は多くの文化財を所持しており、国宝指定の・建造物4棟 ・絵画2点 ・彫刻3点 ・書籍1点を持ち、これを含めて42件(720点)の国指定の重要文化財を持つ、中でも空海様と別系統の曼荼羅収録に心血を注いだ円珍が長安に於いて図録した曼荼羅がある、国宝の「五部心観 」(注6)は著名で金剛界曼荼羅の範疇にはいる、これはインド僧で大日経の翻訳者である善無畏の「初会金剛頂経」系列に入り、円珍が在唐中に青竜寺の僧で阿闍梨恵果の孫弟子にあたる法全(はつせん)師から授けられ、長安、天台山に於いて求得した経典・梵夾・法具などと共に請来したものである、空海が先に請来した曼荼羅との相違を誇示したものであり金剛頂経に最も忠実とされる、園城寺の所有は国宝に高野山西南院の所有は重文指定を受けている、空海の九会金剛界と異なり六会(大会・三昧耶会・法会・羯磨会・四印会・一印会)からなり仏部(ぶつぶ)・金剛部・宝部(ほうぶ)・蓮華部・羯磨部(かつまぶ)の五諸尊を配置している。(上段ー尊像、中段ー上部尊像の梵字(眞言)、下段ー三昧耶形、契印、尊名の梵字)
また円珍自筆の伝承をもつ黄不動画像(国宝)は日本最古の不動尊画像で平安時代に於ける仏画の最高傑作と言われている、この画像は寺内でも伝法灌頂の受領者しか拝謁出来ないとされる、その他堂宇に於いても金堂を初め4棟の国宝指定があるが、観学院客殿が桃山書院建築の傑作であり障壁画には狩野光信の「四季花木図」(重文)が偉彩を放ている。園城寺境内にある塔頭・法明院にはアーネスト・フランシスコ・フェノロサ(1853~1908年)の墓がある、フェノロサは 米国の東洋美術研究家で1878年東京帝国大学に於いて政治・哲学などを講義する傍ら日本美術を研究、明治時代に於ける日本の文化財保護行政に貢献する、ロンドンに於いて死亡する。
境内にある水観寺は西国薬師霊場の48 番札所となっている。
天台寺門宗 総本山 所在地 大津市園城寺番外地 TEL 077-522-2238
注1、安楽庵策伝 (1554年~1642年)飛騨高山城主・金森長近の弟、浄土宗西山深草派・総本山・誓願寺(新京極)55世法主、 茶道・安楽庵流の祖、 説法話材集「醒睡笑(せいすいしょう)」八巻「百(ひゃく)椿(ちん)集」等の著作があり、日本古来から存在した話職、すなわち語部(かたりべ)、お伽衆の話に落ちを付けた策伝の説法、著作から古典落語が生まれたと言う。 (関山和夫佛教大学名誉教授の問答、世界大百科事典より)
注2 湖国十一面観音霊場 滋賀県に於いては十一面観音の故郷とも言える程多くの寺院が有り、湖南東方面・大津・守山市を中心に11寺で構成されている。
1、 園城寺 2、 盛安寺 3、 聖衆来迎寺 4、 福林寺 5、 東門院 6、 正福寺 7、 伊勢廻寺 8、 櫟野寺 9、 石馬寺 10、百済寺 11、金剛輪寺
その他湖北地方には向源寺・石道寺・鶏足寺・医王寺・充満寺・知善院(長浜市)・善隆寺(西浅井)等に優れた十一面観音が安置されている。
注3 , 藤原摂関家 鎌足を祖とし不比等に引き継がれ長く朝廷を支配した一族で歴代天皇の外戚を続け日本史の中でも藤原時代の名称まで残し天皇家に次ぐ名門。
注7、
不比等の子供達の系列から凄惨な確執を繰り返した後10世紀(藤原時代)には藤原武智麻呂(むちまろ)の南家に対して藤原房前(ふささき)の北家が覇権を持つ、鎌倉時代に五摂家に別れ近衛・九条・鷹司・二条・一条を名乗り摂政関白を独占する。(藤原不比等―鎌足を父に宮廷歌人額田王と同一人とも言われる鏡王を母に持ち大宝律令・貨幣経済・成文法等を導入して藤原一門の千三百年にわたる栄華の礎を築く)
また藤原姓は橿原市高殿町付近の地名からともされる。
傍系に久我・醍醐・今出川・姉小路・山科・花山院・広幡・三条・西園寺・徳大寺・難波・飛鳥井・冷泉・坊城・日野・烏丸・大炊御門・中炊御門・観修寺等があり本来は全て藤原姓である。
五摂家による禁裏支配制度は後醍醐天皇の御世を除き明治維新まで継続した、1884年に華族令により廃止になり五摂家は華族筆頭として公爵位を授けられた。注4 、近江八景とは北から 比良の暮雪(ぼせつ) 堅田(かたた)の落雁(らくがん) 唐崎の夜雨(やう) 三井の晩鐘(ばんしょう) 粟津の晴嵐(せいらん) 瀬田の有照(せきしょう) 石山の秋月(しゅうげつ) 矢橋(やばせ)の帰帆(きはん) を言う。注5、閼伽井屋 閼伽(あか)とは佛を供養する水を言う、梵語arghya(アルガ)、ラテン語でaqua(アクア)の音訳で閼伽井屋を意訳すれば聖水の在る所となる、水は色、声、香、味、触の五塵を五智の徳で清める、また閼伽は遏伽とも記述し仏が口を漱ぎ足を洗う等の為に供養する聖水を言い、原語は「価値あるもの」を意味する。 注6、正式には哩多僧蘗囉(りたそうぎゃら)五部心観と言い、五部心観の概略 初会金剛頂経の内容が二列三段六種で構成された曼荼羅で、上段に円形の中に金剛界の大日如来を初めとする諸尊を置き、中段には真言文、下段には印相すなわち三昧耶印、羯磨印などが配置されている。
園城寺の文化財 表内は国宝 ●印重要文化財
名 称 |
適 用 |
時 代 |
金 堂 |
桁行7間 梁間7間 入母屋造 桧皮葺 |
室町時代 |
観学院客殿 |
桁行5間 梁間5間 入母屋造 柿葺 |
室町時代 |
光浄院客殿 |
桁行7間 梁間6間 入母屋造 柿葺 |
室町時代 |
新羅善神堂 |
桁行3間 梁間3間 流造向拝1間 桧皮葺 |
南北朝時代 |
不動明王像 |
絹本著色 掛輻装 178,2×72,1cm 黄不動 |
平安時代 |
新羅明神坐像 |
木造彩色 78,1cm |
藤原時代 |
智証大師坐像 |
木造彩色 85,1cm (後廟大師) 10月29日開扉 |
藤原時代 |
智証大師坐像 |
木造彩色 78,1cm (御骨大師) 秘仏 |
平安時代 |
五部心観 |
紙本墨画 1巻 30,0×1796,7cm 円珍自筆・長安での図録の白描仏画 |
平安時代 |
清龍寺求法目録 |
1巻 25,5:242,0cm 長安清龍寺から受伝した法具目録 |
平安時代 |
円珍台州公験請案 |
円珍帰国の際に当局に提出した帰国願い。 自筆 |
平安時代 |
●三重塔 桁行3間 梁間3間 本瓦葺 室町時代
●仁王門 3間1戸 楼門 桧皮葺室町時代
●釈迦堂 桁行7間 梁間4間 入母屋造 江戸時代、清涼殿を移築
●一切経蔵 桁行梁間3間 桧皮葺 江戸時代
●灌頂堂 桁行5間 梁間5間 入母屋造 桧皮葺 室町時代
●唐院唐門 1間1戸 桧皮葺 江戸時代
●唐院大師堂 桁行3間 梁間2間 宝形造 桧皮葺 桃山時代
●毘沙門堂 桁行1間 梁間2間 宝形造 桧皮葺 江戸時代
●閼伽井屋 桁行3間 梁間2間 向唐破風 桧皮葺
●観学院客殿襖絵 松に山鳥図襖・桧および花卉(き)図襖・桜および花卉図襖・滝図床間壁貼り付け 以上狩野光信の作
●不動明王立像(黄不動)木造彩色 玉眼 162,4cm 鎌倉時代
●千手観音立像(飜波式、ほんぱしき)木造(栂・つが)180,3cm 藤原時代 奈良国立博物館寄託
●護法善神立像 木造 159,1cm 鎌倉時代 (秘仏・子供の日・5月16日―18日開扉)
●吉祥天立像 木造彩色 玉眼 67,6cm 鎌倉時代 琵琶湖文化館寄託
●訶梨帝母倚像 木造彩色 43,9cm 鎌倉時代 ( 8月納涼祭・第2土日開扉)
●愛染明王坐像 木造彩色 92,1cm 藤原時代 毎月17,18日開示
●不動明王立像 木造彩色 39,1cm 鎌倉時代 奈良国立博物館寄託
●智証大師坐像 木造彩色 39,4cm 鎌倉時代
●如意輪観音坐像 木造漆箔 91,5cm 藤原時代 観音堂本尊 (秘仏33年毎・次回2011年開帳)
●十一面観音立像(飜波式・檀像様)木造 81,8cm 藤原時代
●閻魔天曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 120,6×71,8cm 鎌倉時代
●黄金(きこん)童子像 絹本著色 掛幅装 130,3×73,9cm 鎌倉時代
●釈迦十六善神像 絹本著色 掛幅装 128,8×54,8cm 鎌倉時代
●天台大師像 絹本著色 掛幅装 91,8×58,5cm 鎌倉時代
●天台大師像 絹本著色 掛幅装 93,0×59,1cm 鎌倉時代
●毘沙門天像 絹本著色 掛幅装 105,6×48,2cm 鎌倉時代
●佛涅槃図 絹本著色 掛幅装 113,3×114,5cm 室町時代
●不動明王像 絹本著色 掛幅装 99,4×37,3cm 鎌倉時代
●不動明王二童子像 絹本著色 掛幅装 126,5×75,5cm 鎌倉時代
●水天像 絹本著色 掛幅装 86,1×37,9cm 鎌倉時代
●尊勝曼荼羅図 絹本著色 掛幅装 80,3×42,4cm 鎌倉時代
●尊星(そんじょう)王像 絹本著色 掛幅装 69,4×42,4cm 鎌倉時代
●新羅明神像 絹本著色 掛幅装 86,7×39,4cm 鎌倉時代 文殊菩薩の垂迹画
●両界曼荼羅図 二幅 絹本著色 掛幅装 各147,9×125,8cm 南北朝時代
●観学院客殿障壁画(十五面の内) 紙本金地著色 室町時代 狩野光信の花木図など
●観学院客殿障壁画(24面の内) 紙本著色 桃山時代
●光浄院客殿障壁画(25面の内) 桃山時代 他
寺院案内 仏像案内 最澄
2004年12月24日 2008年1月10日注5他 7月13日 2017年1月30日 2018年1月7日加筆