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来振寺(きぶりじ)‐古寺散策

来振寺(きぶりじ)

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山号を宝雲山と言い創建は715法相宗の新福寺と言い行基に拠るものと伝えられる。 

725年聖武天皇から勅願寺を拝命し寺名を来振寺との勅旨を受け937年新義真言宗に改宗した。
閑静な農村に来振寺はあるが名古屋・岐阜方面から車で向かえば西国三十三所の最終札所の華厳寺や横蔵寺へ行く途中にあり不便は感じない。
来振寺には多くの仏像が有るが比較的新しく古い仏像は災害等で消滅し絵画が中心であるが傑出した寺宝に五大尊像があり2004年国宝の指定を受けた、五大尊像(五大明王)の国宝は教王護国寺・醍醐寺に存在し彫刻の指定作品は
教王護国寺 醍醐寺 大覚寺 瑞巌寺など七寺存在し絵画で教王護国寺・醍醐寺も所持されるが、何れも空海の影響を受けた真言宗系の作品で五大明王の1尊は金剛夜叉明王であるが、来振寺の五大明王は比叡山の密教化に努めた園城寺の智証大師・円珍から影響を受けたもので鳥枢沙摩明王が描かれており貴重である。
また如何なる理由で真言宗の寺に天台系の五大尊像があるのか、円珍の開いた園城寺が平家に襲われ山門派にも焼き討ちに遭うこと七度、秀吉から寺領を没収される等の災難にあう、来振寺は寺宝を疎開させるに格好な地理条件がある、また寺伝と時代が異なるが湖北の天台の牙城とも言える諸寺が信長の比叡山攻撃の余波を警戒して真言宗に改宗した寺々との同一行動かも知れない、仮説推理を試みるのも面白いのではないだろうか。
当寺は修験道が盛んな処であったらしく「白山権現菊理媛(くくりひめの)(かみ)」伝承などがある、毎年2月第1日曜日には屋外に於いて修せられる「柴燈(さいとう)護摩」即ち「節分星まつり」があり弓矢や斧を駆使する勇壮な結界作法が行われる、修験者や厄年の人による火渡火の上を素足で歩行するが行われる、また11月には国宝・五幅の精緻な複製が開帳される。 


 真言宗智山派     所在地 岐阜県揖斐郡大野町     (1)     (2)      (3)     (4)  
    

  (1) 国宝 軍荼利明王         (2) 国宝 大威徳明王      (3) 毎年二月の第一日曜日・「節分星まつり」、火生三昧耶法(かしょうざんまいやほう)(3)火渡り祭式と(4)法久(ほうきゆう)の儀


*不動明王鳥枢沙摩明王の絵画は各編の後半に、降三世明王の絵画は明王の後半にあります。

代表的な五大明王・五大尊像  

五大明王 

不動明王 

降三世明王

軍荼利明王 

大威徳明王 

金剛夜叉明王

常福寺 

 172,7㎝ 

 178,8㎝ 

 172,7㎝ 

 150,6㎝ 

 177,7㎝ 

平安時代木造彩色 

瑞巌寺 

  64,1㎝ 

  92,1㎝ 

  89,7㎝ 

  67,7㎝ 

  91,1㎝ 

 同上 

醍醐寺 

  86,3㎝ 

 122,3㎝ 

 125,8㎝ 

 80,3㎝ 

 116,7㎝ 

 同上 

教王護国寺 

 173,3㎝ 

 173,6㎝ 

 201,5㎝ 

 100,9㎝ 

 171,8㎝ 

 同上 明円作 

大覚寺 

  50,9㎝ 

  67,5㎝ 

  69,3㎝ 

  58,1㎝ 

  69,6㎝ 

 同上 

不退寺 

  85,7㎝ 

 154,7㎝ 

 157,0㎝ 

  99,0㎝ 

 150,5㎝ 

 同上 

●宝山寺 奈良 

  17,1㎝ 

  18,7㎝ 

  17,5㎝  

  11,5㎝ 

 18,1㎝  

江戸時代 厨子入 

五大尊像 

                              常福寺は寺院公式サイトです 

○来振寺   

絹本著色 掛幅装  不動明王 降三世明王 軍荼利明王 大威徳明王 鳥枢沙摩明王 五幅 140,0㎝×88,0㎝   各 140,0cm88,0cm  奈良国立博物館寄託 

 平安時代 

教王護国寺 

絹本著色  掛幅装 153,0cm×128,8cm  不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 

 平安時代 

醍醐寺 

 絹本著色  掛幅装 193,9cm×126,2cm  不動 降三世 軍荼利 大威徳 金剛夜叉 

 鎌倉時代 

印国宝  印重要文化財


1覚鑁 (かくばん) (10951143年)  

真言宗中興の祖であり新義真言宗の開祖で佐賀県の出身。正覚坊覚鑁と言い諡号は興教大師と言う、13歳のころ上洛して仁和寺の成就院寛助に師事する、真言宗各派や興福寺・東大寺にも勉学したと言はれる。 浄土教の台頭に対してこれに対抗する為の再構築が必要とされ覚鑁が浄土教を取り込む教義をもって鳥羽上皇の信頼を受け後ろ盾もあり活躍する、天台宗などに比べて教義研究の遅れを指摘し、覚鑁は真言教学の再興を目指して全密教法流の統一を目指す事により、真言宗は勢いを盛り返すが改革が急進過ぎた事と、真言僧として傍流の出身であることが守旧派(東寺金剛峯寺の既得権者)からの反発に遭い根来寺に移る。  

1114年高野山に於いて往生院青蓮や最禅院明寂に学び1121年に寛助僧正より伝法灌頂を受ける。  

公家貴族等と広く交流し伝法会の再興に尽力する、1132年鳥羽上皇の御幸を受けて高野山に院御願寺大伝法院を完成し、同院と金剛峯寺の座主に就任するが、守旧派の抵抗から大伝法院と密厳院を根来に移し移住する、1143年大円明寺を完成後に没する。新義真言宗が成立する事により従来の系統を古義真言宗と呼ばれる。
新義真言宗の総本山に一乗山大伝法院根来寺があり、独立した宗派の系列に・豊山派(長谷寺)・室生寺派(室生寺)・智山派(智積院)がある。
著書に密厳諸秘釈・五輪九字明秘密釈がある。
覚鑁の弟子で真義真言宗再興の祖に妙音院専誉と智積院玄宥(げんゆう・15291605)が居り玄宥は徳川幕府に新義真言宗再建を願い出て、豊国神社の一部と寺領200石を受け現在地に智積院を建立した。
 
注2、行基(ぎょうき) 668749
奈良時代の法相僧で 唯識論の権威、父の高志氏は百済系渡来人。長安に於いて玄奘三蔵に学んだ飛鳥寺の道昭に師事する。(異説もある、新羅僧慧基に学ぶ等)
法興寺・薬師寺を経て山岳修行を行い、聖武天皇から菩薩号を授けられたと言う伝承が有る、彼の元に私度僧が多く集まり民間佛教の伝道と社会事業に尽力する、特に土木技術に精通し私度僧群と共に技術者集団を率いていたと考えられる。また行基により創建されたと言う寺は多くあり、彼の指導による仏像・橋梁・堤防・港など多く作られたと言いその名声から多くの伝承を残した。745年 大僧正 また歌の名手で有ったらしく行基の詠んだとされる歌が残っている。    玉葉集  「山どりのほろほろと鳴く声きけば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」 
行基が創建したと伝えられる寺院は多く存在するが、奈良県・霊山寺 長弓寺  京都府・宝積寺  大阪府・金剛寺  孝恩寺  家原寺 喜光寺 獅子窟寺    滋賀県・金剛輪寺 など多くの伝承が伝えられる。3、五大明王(五大尊)に金剛夜叉明王ではなく鳥枢沙摩明王を加えるのは852年円珍が入唐求法の折り、青竜寺の法全(はつせん)達から学んだ様式である、円珍の東密に対する意識が垣間見える。 4、その他来振寺には・如意輪観音像 絹本著色 鎌倉時代  ・弘法大師像 絹本著色 室町時代  ・興教大師像  絹本著色 江戸時代    ・閻魔天曼荼羅図 絹本著色 室町時代  ・薬師十二神将像 絹本著色 室町時代などがある。

2005

1010日 2013年11月18日写真他加筆 

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