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終戦時の内務次官、公職追放に

  • ️Sat Jan 07 2012

灘尾弘吉は内務省出身の秀才エリートで、謹直・無私・重厚な人格により政界で重きをなした。官僚時代は長く福祉・社会保障分野を歩み、政界では文相を6期務めるなど福祉と文教の大御所的存在だった。派閥活動を好まず、政策勉強会「金曜会」を主宰し、自民党内の親台湾派議員の総帥でもあった。晩年は衆議院議長となり、物静かで端正な姿は「群雀中の一鶴」の趣があった。

一高・東大から内務省へ

灘尾弘吉は1899年(明治32年)12月、広島県佐伯郡大柿村(現江田島市)に生まれた。大柿村は海軍士官学校があった江田島と陸続きの広島湾に浮かぶ能美島の東部にある。灘尾少年の生家は島では比較的裕福な家で、父親は村会議員、村長、郵便局長などを務めた村の名士であった。兄と姉2人がいたが、小学校6年生の時、広島の中学校を卒業したばかりの兄が胸を患って死亡した。広島中学に進学するつもりだった灘尾少年は周囲の「中学には行かずに家を継げ」の声もあって高等小学校に1年間通った後、念願の広島中学に入学した。

中学入学当時を「へき地であった島の小学校を離れて初めて都会に出たのだ。制服ができるまでの間、絣の着物にはかまをはき、新しい兵隊靴をはいて通学していた。そのうれしさと誇らしさは忘れることのない思い出として今も私の胸の中にぶら下がっている」と後に記している。初めは叔父が住職をしている広島市内の寺から通学したが、後に学校に近い素人下宿に移った。広島中学時代を振り返って灘尾は「男らしさ、さわやかさだけで、湿っぽい、うじうじした記憶はひとかけらもない」と述べている。

中学5年生の夏、灘尾は龍定一という国語の先生の自宅を友人と訪ねた。龍先生から「君は卒業したらどこへ行くつもりか」と聞かれ、答えに窮した。当時、灘尾は大学へ行くか、専門学校に進もうか迷っていた。親類には「村に帰って親の跡を継げ」という声もあった。そうした事情を話すと龍先生は「迷うことなかれ。君はすべからく第一高等学校へ行け。入学さえすれば、あとは何とかなる」と激励した。父親にそのことを話した。「それで何を勉強するのか」「法科にしようと思う」「その後は」「そうだね。役人になって、知事ぐらいにはなるかな」

1918年(大正7年)3月、灘尾は広島中学を卒業し、京都の親せき宅で受験勉強し、同年秋に一高に入学した。学資は父親が田畑を整理して工面したので、経済的な不安はなかった。体が必ずしも頑強ではなかったので、スポーツなどに打ち込むことはせず、ひょうひょうと勉学に励んだ。一高を優秀な成績で卒業し、東大法学部に進学した。折り紙つきの秀才である灘尾は1924年(大正13年)3月、東大法学部を卒業して内務省に入った。

本来なら高等文官試験に合格して役所の面接試験で採用が決まり、卒業後に入省するのが普通だが、灘尾は高文試験の時に健康を損ね、しかも関東大震災の影響もあって受験できなかった。当時、内務大臣秘書官兼人事課長で広島中学の先輩である佐上信一(後に北海道長官)の計らいで、まず面接試験だけで入省し、入省後に高文試験の行政科に合格した。こうした特例が認められたのは灘尾の大学の成績が抜群だったからである。

福祉・社会保障分野を歩む

内務省では衛生局調査課に配属されて見習いを始めた。調査課長は湯沢三千男(後に内相)で、医務課長は大達茂雄(後に内相、戦後文相)だった。見習いの灘尾は大達から「君は詩人だね」と声をかけられた。「皮肉と受け取りたいこの言葉が、私には親切な暖かい心持ちの反映として、うれしく響いた。以降、すっかり大達ファンになり、戦中戦後を通じて親しく指導を受けた」と述べている。

灘尾は入省した年に帰省し、能美島で結婚式を挙げた。相手は同郷の小学校長の娘で、親同士が決めたいいなずけであった。2年間の見習いの後、灘尾は栃木県庁勤務となった。県知事は大塚惟精(終戦直前の中国地方総監)だった。何かと親切な大塚知事の下で会計課長兼知事官房主事を務めたが、わずか半年で本省に呼び戻され、社会局の保険部企画課の事務官になった。

社会局は原敬内閣時代の大正9年に内務省の内局として設置され、大正11年に外局として規模を拡大した。労働問題、健康保険、福祉・社会事業など広く社会政策全般を担当し、労働、社会、保険の3部があった。局内には「我々は新しい行政のパイオニアなのだ」という気概があふれていた。

保険部企画課事務官としての灘尾の仕事は昭和2年から実施される日本で初めての健康保険制度の円滑な運用だった。制度導入時には多少の混乱があり、各方面から問い合わせが殺到する。湯沢保険部長が陣頭指揮をとり、灘尾らはこうした問い合わせに対応し、各地に出かけて制度の趣旨を説明して歩いた。

保険部企画課に5年勤務した後、社会部保護課事務官に転じた。生活困窮者を助ける目的で制定された救護法が昭和7年から実施されることになり、その円滑な実施が仕事である。保護課長は山崎巌(後に内相、戦後自治相)、同僚の事務官に大橋武夫(戦後労相)がいた。灘尾は制度説明のため各地に講演に出向いた。救護法は戦後の生活保護法の土台となった。

1935年(昭和10年)、灘尾は社会局の社会部福利課長に昇進した。福利課長の時、近衛文麿内閣の安井英二文相から「文部省に来て会計課長をやってもらえないか」と誘われた。安井は内務省の先輩で灘尾も親しくしていたが、一応「上司と相談してお返事します」と答えて、このことを山崎社会部長に報告した。内務次官から「灘尾については考える所があるので、本人から断らせるように」との指示があり、灘尾は「せっかくのお話ですが、ご勘弁願います」と断った。

後に灘尾は「その時文部省に行っていたら、今の灘尾があるかどうかわからない」と述べている。安井はいわゆる革新官僚で、近衛の側近となり、自分の息のかかった内務官僚を集めて文部省を固めようとしたが、文部官僚の抵抗を受けて失敗した。その後、近衛新体制運動の推進者となり、第2次近衛内閣の内相となったが、大政翼賛会に対する旧政党、財界、右翼などの反発が強まって内相辞任に追い込まれ失脚している。

町村金五、古井喜実と内務省「三羽がらす」

1937年(昭和12年)、灘尾は社会局の社会部保護課長になった。日中戦争が始まり、保護課は軍人遺家族の援護も所管していたので業務は多忙を極めた。「最初の3カ月間は毎日ずっと立ったまま仕事をしているような感じだった」。戦局の拡大とともに予算規模も膨らみ、保護課ではやりきれなくなり、新たに臨時軍事援護部が設けられた。昭和13年1月、軍部が推進役となり、厚生省が新設された。軍部の狙いは総力戦体制を築くため、国民の体力向上と、兵隊の銃後の不安を除くための国民福祉の向上であった。

内務省の社会局と衛生局が移管され、厚生省は体力、衛生、予防、社会、労働の5局と臨時軍事援護部、外局の保険院でスタートした。灘尾はそのまま厚生省社会局保護課長となり、民間の社会事業に国が一定の補助をする社会事業法を手掛けた。昭和13年11月、灘尾は内務省に呼び戻され、全く畑違いの土木局道路課長になった。ここから灘尾は猛スピードで出世コースを駆け上った。

その半年後の昭和14年4月には内務省大臣官房会計課長になった。この時の人事課長は同期入省の町村金五(終戦時の警視総監、戦後自治相)である。遅れて文書課長となる一期後輩の古井喜実(終戦直後の内務次官、後に厚相)の3人は俊秀ぞろいの内務省にあって「三羽がらす」と呼ばれ、官界の注目を集めた。

1941年(昭和16年)1月、灘尾は官選の大分県知事になった。41歳である。同年10月、東条英機内閣が発足し、12月8日に日米開戦。昭和17年4月、東条首相が大分県内を視察し、灘尾知事はこれに付き添った。灘尾は大分での知事生活が気に入り、山崎内務次官に「ずっとここに置いて下さい」と頼んだが、知事生活は1年半で終わり、同年6月、厚生省生活局(社会局)長となり、同年10月には衛生局長になった。東条内閣の厚相は軍医出身の小泉親彦だった。小泉は社会政策や予防医学に熱心で、厚生年金保険制度を導入し、国民皆保険を提唱した。終戦直後に自決した小泉について灘尾は「大きな夢を描く偉大さがあった」と評している。

厚労省衛生局長から内務省地方局長に

1944年(昭和19年)4月、灘尾は内務省地方局長となった。地方局長は警保局長と並んで内務大臣・内務次官を支える枢要ポストである。警保局長は古井である。東条内閣が瓦解して小磯国昭内閣となり、内相には入省以来、親しく接してきた大達が就任した。朝鮮総督から首相に転じた小磯は現役の陸軍大将に復帰して軍部を掌握しようとしたが、東条一派の抵抗で果たせなかった。

▼生誕から公職追放までの歩み
1899年(明治32年)12月
広島県能美島(大柿村)に生まれる
1924年(大正13年)
東大法学部卒業、内務省入省
1937年(昭和12年)
社会局社会部保護課長
1938年(昭和13年)1月
厚生省社会局保護課長
1939年(昭和14年)
内務省会計課長
1941年(昭和16年)1月
大分県知事
1942年(昭和17年)
厚生省生活局長、衛生局長
1944年(昭和19年)4月
内務省地方局長
1945年(昭和20年)4月
内務次官
同年8月17日
退官
1947年(昭和22年)11月
公職追放

大達内相は灘尾に「この内閣はできそこのうたよ」と話した。灘尾が「それはご苦労ですな」と慰めると大達は「ご苦労もご苦労だが、仕方がないからやるよ」と漏らした。国務相・情報局総裁には朝日新聞副社長だった緒方竹虎が就任し、緒方は大達内相と協力して大政翼賛会の解散に動いた。翼賛会の地方支部長は県知事が兼務していたので、灘尾地方局長は緒方に積極的に協力した。灘尾が緒方と親しくなったのはこのころからである。

長く朝鮮総督を務めた小磯首相は朝鮮にも国政の選挙権を与える選挙法の改正を内務省に指示した。灘尾も古井も町村長選挙すらしたことがない朝鮮での実施は無理であると進言した。小磯首相の決意は固く、地方局事務官の小林与三次(後に自治次官、読売新聞社長)が中心になって選挙法の改正にこぎ着けたが、戦局の悪化によって実施はされなかった。

1945年(昭和20年)4月、鈴木貫太郎内閣の発足とともに灘尾弘吉は内務次官となった。45歳だった。軍部はかねて本土決戦に備えて「国民義勇隊」の創設を内務省に要求し、その総司令官に大日本政治会(翼賛政治会の後身)総裁の南次郎陸軍大将とするよう求めてきた。灘尾次官はこれを突っぱねて、国民義勇隊は軍事組織ではなく、あくまで未曽有の国難に対処する最後の国民動員組織と位置付けた。これに合わせて地方ブロックごとに「地方総監府」を設置した。

中国地方総監には灘尾が栃木県庁勤務時代の知事だった大塚惟精が任命された。大塚は灘尾次官に「灘尾君、最後のご奉公と思って頑張ってくるよ」と言い残して広島に赴任したが、8月6日に投下された原爆の犠牲になった。15日の玉音放送を聞いて灘尾次官は内務省職員を率いて宮城広場に行き、深々と頭を下げて昭和天皇におわびした。17日、東久邇宮内閣が発足し、灘尾は内務次官の辞表を提出して退官し、浪人の身になった。内閣更迭とともに内務次官、警保局長、警視総監は退任する慣例になっていた。

東久邇宮内閣の内相には山崎、内務次官には古井がなった。10月4日、占領軍は山崎内相と特高警察全員の罷免を指令し、東久邇宮内閣は総辞職した。占領軍は戦前の日本の警察と地方を牛耳っていた内務省を目の敵にした。浪人の身である灘尾に日本赤十字社の副社長の話が持ち上がった。内務省の先輩である中川望副社長が「君は厚生省の衛生局長や社会局長も経験している。私の後釜をやってくれないか」と勧めた。

内務省・厚生省で福祉を担当した経験が生かせる仕事なので灘尾の心も動いた。社長である高松宮からも直々に要請を受け「お引き受けします」と応諾した。しかし、内務省に対する占領軍の風当たりは厳しく「宮様にご迷惑をかけることになっては申し訳ない」と考えて結局は辞退した。1947年(昭和22年)11月、灘尾は公職追放となった。同年末には占領軍の指令により内務省は廃止・解体された。

 主な参考文献
 灘尾弘吉著「私の履歴書」(82年日本経済新聞社)
 高多清在著「灘尾弘吉(広島県名誉県民小伝集)」(91年広島県)
 灘尾弘吉先生追悼集編集委員会編「灘尾弘吉先生追悼集」(96年同編集委員会)

※写真は「灘尾弘吉先生追悼集」より