秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく、関白を選んだか
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秀吉はなぜ征夷大将軍ではなく、関白を選んだか
「歴史的大出世」を遂げた天下人のブランド戦略に迫る
- By 殿村 美樹
- 2017.1.14
nikkei BPnetの人気コラム「京都『人生がラク』になるイイ話」は2017年1月から改題し、日経ビジネスオンラインで掲載します。これからもよろしくお願いします。
過去の記事はこちらからご覧ください。
京都御所(写真:殿村美樹、以下同)
出世を諦めないために
2017年がスタートして2週間。心新たに「今年こそ出世するぞ」と誓ったものの次第に現実に引き戻されて「やっぱり無理かも」と諦めかけている人は多いかもしれません。
そこで今回は、歴史的な大出世を遂げた豊臣秀吉が、「本能寺の変」から天下統一までの8年間、京都で行ったブランド戦略に独自の視点で迫ってみたいと思います。
というのは、一般的に秀吉は「本能寺の変」のあと、中国大返しでいち早く明智光秀を倒し、信長の仇討ちを果たしたことで天下人になったという印象がありますが、実際には本能寺の変から天下統一に至るまで8年の歳月が費やされており、その間に織田家家臣たちとの勢力争いや、自分を天下人と認めさせるための「ブランド戦略」が緻密に行われているのです。
特に、秀吉が武士なのに「関白」になった点が重要なポイントです。歴史上、武士で関白になったのは秀吉と、その後を継ぐはずだった豊臣秀次だけなのです。古くは源頼朝から江戸時代の徳川幕府の将軍たちに至るまで、政権を預かる武士は朝廷から「征夷大将軍」に任じられるのが常でした。それなのになぜ秀吉は史上初の武士の「関白」になったのでしょうか。
聚楽第址の石碑
さらに、「関白」就任とともに秀吉が建てた幻の城「聚楽第」にも緻密な戦略が秘められています。天下人ブランドを世に定着させるためにつくられた舞台といっても過言ではないでしょう。しかし、秀吉は跡継ぎの秀頼が誕生すると、秀次に切腹を命じるとともに聚楽第を基礎に至るまで徹底的に取り壊しているのです。なぜ、それほどまでに聚楽第は壊されなければならなかったのでしょうか。
さっそく独自の視点で“天下人のブランド戦略”をひも解きたいと思います。
秀吉があえて「関白」になった理由
まずは、「関白」になって聚楽第を完成するまでの経緯を年表で確認してみましょう。
1582年(天正10年)6月 2日 「本能寺の変」明智光秀が織田信長を討つ
6月13日 「山崎の合戦」秀吉が明智光秀を討つ
6月27日 「清州会議」織田家の重臣による織田家継承会議
1583年(天正11年)4月 「賤ケ岳の戦い」秀吉が柴田勝家を討つ。秀吉「大坂城」築城
1584年(天正12年)3~11月 「小牧・長久手の戦い」秀吉が家康と講和
1585年(天正13年)7月 秀吉「関白」になる
1586年(天正14年)2月 「聚楽第」着工
1587年(天正15年)7月 「聚楽第」完成
1588年(天正16年)5月 後陽成天皇「聚楽第」行幸
1590年(天正17年) 関東・奥羽を平定し、天下統一
この年表から、秀吉は「関白」に任じられたことを機に、京都御所の近くに「聚楽第」を建て、天皇をお迎えするなど天下統一の地固めを行ったことがわかります。
そもそも「関白」とはどんな官位なのか、調べてみました。
するとなんと、公家の最高位というではありませんか! 地位としては、征夷大将軍より上で(江戸時代になると力関係が逆転)、「関白」という名称も、天皇の御言葉に対し「間(あずかり)白(もうす)」という意味があるのだそうです。
しかも初任者は、平安時代に清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり摂政(幼い天皇に変わって政治を行うこと)で朝廷の実権を握った藤原元経。それ以降も「延喜の治」と呼ばれる政治改革を行った藤原忠平や、一条天皇の摂政を行った藤原兼家などが就任しています。少なくとも武士が任じられる官位ではなかったようです。
ただ、鎌倉時代から室町時代にかけて、政権が武士に移ったことから「関白」の影響力は低下し、戦国時代には朝廷儀式に関白が出ることすらなくなったと伝えられています。
そんな中で秀吉は「関白」に任じられたのです。どんな裏事情があったのでしょうか。
京都御所の風景
「右大臣」を断った秀吉
ことの発端は、1579年(天正7年)、織田信長がそれまで就任していた右大臣兼右近衛大将の官職を辞任したことに始まります。このことは朝廷を困惑させました。天下統一を間近に控えた信長に官位を与えないということは、朝廷の権威を損なうことになり兼ねないからです。
そこで1582年(天正10年)5月、朝廷は信長に「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のうち、いずれか好きな官職を与えるとメッセージを発します。ところがその翌月、信長は「本能寺の変」で亡くなってしまいます。このことは「三職推任問題」といわれ、信長が朝廷の申し出をどう受けるつもりだったのか、未だ謎とされています。
この状況でいきなり次の天下人に名乗りを上げたのが秀吉でした。秀吉は一気に従三位から内大臣まで上り詰めます。同時に大坂城を築城し、家康とも和解した秀吉は現実的に天下人になっていきました。
そんな秀吉に朝廷は、内大臣では不足と考え、信長と同じ「右大臣」の職に就くことを打診します。
しかし秀吉は、「信長は右大臣を辞したまま光秀に討たれたので縁起が悪い。できたら左大臣に任じてもらえないか」と朝廷に申し出たというのです。
ここで朝廷内に混乱が生じました。秀吉を左大臣に任じれば、今、左大臣の職にある近衛信輔を辞任させなければならないからです。それを聞いた秀吉は、朝廷が信長に「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」のうち、好きな職に就かせると打診した「三職推進」を根拠に、「征夷大将軍」を除いた「関白」と「太政大臣」になると伝えたのだそうです(秀吉の官位名は「関白太政大臣」です)。
このとき、「征夷大将軍」を除外したことについて「関白」の方が、位が上だからとも言われていますが、征夷大将軍になるためには相応な家柄が条件になることから、「百姓出身の秀吉は『征夷大将軍』にはなることができなかった」という説も囁かれています。そうだとすれば、同じ百姓の出である豊臣秀次が関白に任じられたことも腑に落ちます。
また秀吉は、自分や秀次が「征夷大将軍」になれない身分であることをなんとか乗り越えたいと強く思ったことでしょう。そんな気持ちの象徴が幻の城「聚楽第」だったのではないでしょうか。
「聚楽第」は天下人ブランディングの舞台
聚楽第は金箔の瓦で覆われた豪華絢爛な城だったと伝えられています。
また京都御所との距離がものすごく近いのです。実際に歩いてみましたが「聚楽第址」の石碑と京都御所の玄関口との距離は、女性の足でも徒歩15分程度でした。これほどの近距離に金箔に覆われた絢爛豪華な城ができれば、人は皆、秀吉の権力を認めざるを得ないでしょう。秀吉は最もわかりやすい「ビジュアル戦略」に打って出たことになります。大坂城だけではアピール力が足りなかったのでしょう。聚楽第を拠点に「応仁の乱」で荒れた京都のまちを整備したのも、聚楽亭の周囲に大名屋敷町をつくったのも、朝廷や首都の人たちに権力を誇示するためだったと考えられます。
聚楽第址からまっすぐ歩くと京都御苑入口に至る
さらに聚楽第完成の翌年にあたる1588年(天正16年)5月、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招いて饗宴を開き、天皇の前で徳川家康をはじめとする有力大名に忠誠を誓わせています。天下統一を果たしたのは、その2年後のことです。
ちなみに、後陽成天皇を聚楽第に招いたとき、秀吉はさらなる権力の誇示をしたというエピソードがあります。
天皇の行列の後に、秀吉はそれに匹敵する大人数の行列を率いて、自邸である聚楽第へ帰るという前例のないことを行っているのです。そのため、本来なら出迎えるべきところ、聚楽第で天皇と公家達を待たせています。
これは天皇の行列を秀吉の行列の前駆扱いにし、聚楽第で待たせることで天皇より秀吉の方が上だと知らしめることと考えられます。「ここまでやるか」と思うほど、秀吉は権力を誇示していたのです。
聚楽第址の周囲には大名屋敷跡の石碑も
その裏に、百姓出身の身分コンプレックスがあったと考えて間違いないでしょう。淀殿が秀頼を生んだ途端、関白の座を譲っていた豊臣秀次を切腹に追い込み、権力の象徴である聚楽第を徹底的に取り壊した理由もわかります。淀殿は織田信長の妹・お市の娘で秀頼には織田家の血が流れているからです。立派な武家の血を継ぐ後継者を得た以上、百姓の身分を思い出させるものは、すべて消し去りたいと思ったのかもしれません。
このことは「聚楽」という名が秀吉の造語であり、「悦楽と歓喜の集合」という意味(ルイス・フロイス「日本史」より)であることからも連想できます。秀吉にとって聚楽第は身分を越えて歓喜する場だったのです。そしてそれは、天下人となって立派な武家の血を引く跡継ぎができた時点で“過去を思い出す忌まわしい存在”になったのでしょう。
諦めずに出世する方法
この秀吉のエピソードは、「自分には出世なんてムリ」と諦めているビジネスパーソンに出世のヒントを教えてくれます。
そう。王道の出世街道を狙うのではなく、秀吉のようにまったく違うところから“さらに上に立つ方法”を見いだせばいいのです。
まず、「関白」のように、以前は花形だったけれど現在は忘れられている仕事がないか探ってみましょう。
たとえば「清書」の仕事はどうでしょう。ワープロやパソコンが導入されたことで、見向きもされなくなった仕事です。以前は女子社員が行っていたかもしれませんが、現代はそんな縛りはありません。なぜならパソコンの活字に飽きて「自筆の方が惹かれるなぁ」といった気運が出てきているからです。最近、テレビや雑誌で「美文字の書き方」が特集されているのが何よりの証拠です。
この傾向を活用して、さっそく美文字を練習しましょう。同時に「秘書検定」にも挑戦しておくといいでしょう。そして会社には「秘書課」への異動希望を出し、上司やクライアントに美文字の手紙を送り続けるのです。書類に添える一筆箋でも効果的です。そのうち、「こんな美しい文字が書ける人なら信頼できる」と思ってもらえるでしょう。そのとき、すかさず秘書検定の資格をアピールするのです。
余力があれば、華道や茶道の免状をとっておくのもお勧めです。グローバルビジネスが必須の今、日本文化に長けた秘書は一目おかれるからです。秀吉がブランド戦略の舞台に絢爛豪華な聚楽第をつくったように、美文字や日本文化を“ビジュアルアピールできるブランディングツール”にすればいいのです。
こうして秘書への道が開かれたら、信長の草履を温めた秀吉のように甲斐甲斐しく働いてトップに気に入ってもらいましょう。そのうちさらなる出世の道が開かれるでしょう。
試してみてください。
◆参考資料
「聚楽第跡の調査」(公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター 岩松保氏)資料
「聚美」vol.11 特集 豊臣の風景と洛中洛外図(聚美社)
京都市観光資料「聚楽亭址」など
※当コラムは信頼できる史料に基づいて、著者独自の視点で、現代人にマッチする表現で書いております。表現が足りない部分についてはご容赦ください
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