足利尊氏とは (アシカガタカウジとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
- ️Wed Aug 29 2012
足利尊氏とは、鎌倉時代〜室町時代(南北朝時代と重複)の日本の歴史上の人物。室町幕府の創始者で初代征夷大将軍(1338年~1358年)。生没年1305年〜1358年。
※最初の名は尊氏ではなく高氏。この記事では尊氏で統一します。
足利氏
足利氏は源氏の流れを汲む家系で、八幡太郎こと源義家の息子義国が、足利の地に封を得たことに由来する。義国の孫義兼は幕府創建時、頼朝とは北条氏を通した婚姻関係によって協力者となり、他の源氏が頼朝の政策により弱体化されていく中でも勢力を拡大。その後北条氏が幕府で権力を握っていく中でも、北条氏と婚姻を繰り返して幕府内部での地位を維持していき、源氏嫡流としての立場を固めていた。
出自
尊氏はその足利氏当主足利貞氏の次男として、上杉清子を母として生まれた。幼名は又太郎。当初は北条顕時の娘の子で長男高義が家督を継いでいたが早世したため、尊氏が次期当主とされる。本来庶子だったためか、最高位の武家の御曹司という割には少年〜青年時代の主だった記録はなく、歴史上に登場し始めるのは30才手前であり、尊氏の前半生は不詳な点が多い。
幕府打倒
当時の鎌倉幕府は元寇以来、弱体の様相を見せ始めていた。この機に乗じようと後醍醐天皇の朝廷は幕府打倒の陰謀を巡らしている。尊氏も幕府打倒の綸旨を受けて討幕の志を抱き、最初は幕府に味方すると見せかけてから軍勢を反し、幕府の拠点である六波羅探題を攻め落とした。尊氏の妻子は幕府のある鎌倉にあったが事前に脱出しており、さらに幼い息子の義詮にも各地の武士が集って軍勢を為した。時を同じく同族の新田義貞も挙兵しており、義詮の軍と連合して鎌倉を攻め立てる。鎌倉は落ち、当主北条高時は自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。
建武の新政
幕府を倒した後は、朝廷による「建武の新政(中興)」が行われたものの、論功行賞で致命的なミスが発生する。実際に働いた武士が冷遇され、朝廷の縁故のものが厚く遇された。そんな中でも尊氏は功績第一として顕彰されている。この時期に改名し、北条高時の名を偏諱した高氏から、後醍醐天皇の諱である尊治を偏諱され、尊氏としている。新政府に失望した武士達は次第に幕府を懐かしみ、自分達の権益を確保してくれる棟梁を渇望し始めた。筆頭武士たる尊氏の求心力を危険視した朝廷は、尊氏の排除に乗り出し、尊氏のほうでも隔意をいだき始める。
反逆
幕府は滅びたものの北条氏の勢力は残存しており、北条高時の遺児である北条時行は再興の兵を上げ、各地の勢力を糾合して鎌倉を奪還する。これに対し、尊氏は朝廷の命令を無視して自ら兵を率いて北条軍を打ち破り、鎌倉に鎮座する。そこで独断の執務を行い、専横する気配を見せ始める。尊氏を粛清する為に朝廷が用意したのが新田義貞であった。
新田氏は足利氏と祖が同じで源義国から分家した家系である。 義国の次男義康は本家として足利氏を称する。義国の長男の義重は家督を継ぐことが出来ず、新田氏の祖となった。義重の末裔が義貞である。義貞の頃には新田氏は逼塞しており、足利氏の下風に甘んじていた。朝廷としては、源氏(武士)同士の主導権争いをもちこんだわけである。
九州落ち
尊氏的には「新田義貞こそが君側の奸であり、義貞討つべし」と気炎をあげたものの、後醍醐天皇が激怒し、義貞たちに大義名分を与えると尊氏は臆して出家をしようとするまで意気消沈する。それを弟の足利直義が一計を案じ、「出家しても皆殺し」という偽の綸旨を見せると、仕方なく反撃を行い、軍を進め京都へ上洛するが、北から北畠顕家がやってきて、新田義貞と連合した。京都をかけて会戦が行われるも、尊氏は大敗北し九州まで落ちる事となった。
九州での尊氏は苦戦し、切腹も考えたほど追い込まれたものの、なんとか勢力を回復させ、西日本に割拠する。このままでは賊軍扱いとなり、大義名分が欠けている為、ひそかに京都に使者をたてて後醍醐天皇に対する系統の光厳上皇から院宣を受けて晴れて官軍となる。尊氏は西国を足がかりに東に軍を進め、湊川の戦いで新田義貞と楠木正成との連合軍を打ち破り、正成を敗死させる。雄敵の北畠顕家は北方の反乱を鎮める為に不在と、時期を得る事もできた。
南北朝
尊氏は京都に入り光厳上皇の弟君を擁立する。これが光明天皇である。尊氏は帝より征夷大将軍に任ぜられ、京都にて幕府を再興させる。一方、京都を追われた後醍醐天皇は退位せず、吉野に朝廷を遷した。これを南朝とし、光明天皇が北朝として対立し、二朝が天下に存在する事となった。京都を押さた後の戦局は北朝の優位となり、後醍醐天皇は崩御し、北畠顕家、新田義貞といった南朝の主だった領袖も討たれた。情勢は北朝の優位になったものの、反面、次第に内部での権力抗争が顕在化し始める。
観応の擾乱
尊氏は軍事の権を握り、その下には政治の足利直義と、軍事補佐の高師直の二元老が存在した。だが両者が対立することにより「観応の擾乱」と呼ばれる内紛が勃発する。まず直義により師直が粛清され、続いて直義も尊氏により排除される。失脚した義直はすぐ病死したが、尊氏による毒殺説が濃厚である。この時の尊氏の動向は複雑怪奇であり、両者の間で良い顔をしつつ、師直が殺されると直義の「梯子を外して」激怒し、揉めた挙句、直義に対抗すべく一時南朝に降るという事までしてのけている。詳しくは「観応の擾乱」の記事を参照。
さらに庶子の直冬が直義の養子となっていたが為に、直冬から「父の敵」として憎まれる羽目となる。直冬は旧直義派の旗頭となり、南朝に走って尊氏と直接武力を交えるまで険悪となった。 結局、尊氏は直冬との戦闘でうけた矢傷がもとで亡くなる。
評価
足利尊氏は時代によって毀誉褒貶が激しい人物である。天皇と「事を構えた」こともあって戦前は暴落していたが、戦後は反動によって暴騰し、現在は安定。「朝敵」「逆賊」「名将」「家柄と人柄は良いだけの神輿としてはうってつけの人物」「新時代を打ち立てた英雄」など評価の振れ幅は大きい。源頼朝や徳川家康と比べて、一生涯では天下を平定する事ができず、幕府を開いてからも各地のまつろわぬ者達の討伐に明け暮れている。幕府のある京都をたびたび放棄する程の窮地に追い込まれ、最高権力者としては暫定的な位置に止まった。
歴代の征夷大将軍でも尊氏ほど遠征と転戦を繰り返した者は稀有である。優れた武将ではあったが敗北する事も多く、戦争の天才の弟もいなかった。政治の天才の弟ならいたのだが、その直義との兄弟仲は非常に良かったが、貴顕が進み、それぞれが大実力者となると、派閥の争いもからんで険悪なものとなっていく。自身は象徴的な位置にいる事を好み、実際の政務は直義に任せている事が多く、両将軍とも称された。直義死後は息子の義詮に委ねている。
人物
尊氏は鷹揚で気前が良く、恩賞を惜しみなく分け与え、武士たちの信望を結集させる事が出来た。ただしそれが制御できぬ諸侯を多く生み出す事にもなり、後々幕府に祟る事となる。結果として南北朝クオリティともいえる俗物の世ではまれな資質であり、彼をして大将軍たらしめた要素ともなっている。
じつのところ、叛逆したものの後醍醐天皇に対しては忠誠心を抱いていた節があり、少なくとも帝を裏切った事には良心の咎めを覚えていた。追放されていた帝が崩御した時には非常に悲嘆し、仏事を七日七晩行い、天竜寺を建立した(怨霊対策という説もある)。反面、自分が擁立していた北朝の帝にはあまり敬意を抱いていなかったという。直義との争いで南朝に降る時には信用される為に「北朝の帝の処遇はお任せする」という条件を設けている。
逆境にあっては出家や自害をほのめかしたりと、時々心が折れる事があった。九州から再起して上洛を果たした時には、逆境でもないのに遁世を考えていたりと、躁鬱の気質があったという説もある。同時代の人間から見ても一体何を考えているのか分からない不可解な一面があったようだが、尊氏自身常に迷い、苦悩する己を自覚した繊細な人物だったことが彼の有名な和歌からも伺える。
よしあしと 人をばいひて たれもみな わが心をや 知らぬなるらむ
(みんな俺のことを好きに言ってくれるが、俺の気持ちなんて誰も分かっちゃいないんだ)
肖像
尊氏の肖像画は教科書にも載っていた、ざんばら髪で髭面の騎馬武者像が有名であったが、現在では別人という説が有力である。代わって、正装した垂れ目で大きな鼻の人物の肖像画が尊氏のものとされている。吉川英治の『私本太平記』では、
骨太なわりには、痩肉の方である。顎のつよい線や、長すぎるほど長い眉毛だの、大きな鼻が、どこか暢びり間のびしているところなど、これは西の顔でもなし、京顔でもない。坂東者に多い特有な骨柄なのだ。それに、幼いときの疱瘡のあとが、浅黒い地肌に妙な白ッぽさを沈めており、これも女子には好かれそうもない損の一つになっている。 けれど今、従者の一色右馬介にゆり起されて、無言でニッと見せた羞恥み笑いや、大どかな風貌の魅力さといったらない。きっとこの郎党は、この若いあるじのためには、どんな献身も誓っているのではないかと思われる。 とにかく、醜男の方ではあるが由緒ある家の子息ではあろう。
子孫
正室は赤橋登子。赤橋氏は北条宗家に近い家系で、登子の兄、北条(赤橋)守時は鎌倉幕府の最後の執権。嫡子義詮(2代将軍)、基氏(初代鎌倉公方)は登子が生んでいるので、尊氏の子孫は執権北条氏の子孫でもある。庶長子に、竹若丸がいたが幕府反逆時に殺害され、次男には足利直冬がいたが、上述のように叔父の直義の養子となっている。尊氏の母親の実家である上杉氏は、関東管領を世襲する事となり、上杉謙信まで続く事となる。
足利将軍(宗家)
公方(分家)
足利宗家は足利義昭の死亡により断絶しているが分家筋は残っており、有名なものでは喜連川氏が江戸時代では大名となっている。現代では足利姓に復して存続している(途中で何人か養子がはいっているので尊氏直系の子孫ではない)。男系直系としては第14代将軍・足利義栄の弟で平島公方と呼ばれた義助の系統が現代まで続く尊氏の血統を伝えている。「足利」の記事が詳しい。
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足利尊氏
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ななしのよっしん
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極楽の作者がインタビューで「尊氏は幕府とか足利とかどうでもよくて直義の危機を救ってたらなんかそうなってた」って言ってたけど、何かそれが凄いシックリくる
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大望とかそういうのなかったから気前良かったんだろうな
特に考えもなくその場その場で動いてたらなんか滅茶苦茶になってたんだろう - 0 0 234 ななしのよっしん
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無計画って言うと響きが良くないが、「200年以上続く幕府の最初の将軍」ってあとから見た肩書きだしな…
そんな先を見据えて行動するわけないよねぇ - 2 0 235 ななしのよっしん
- 4 0 236 ななしのよっしん
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尊王派の目の敵のされ具合とかある種スターリン主義者にとってのトロツキー見たいな立ち位置になったよなこの人
トロツキーと違って天下とったけれど - 0 0 237 ななしのよっしん
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「そんし」と読んだ人は結構いそう
- 1 3 238 ななしのよっしん
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尊氏の最大の欠点は後醍醐天皇にやたら甘い事と、内政に関してほぼ直義や高師直にぶん投げしてたとこだな。少なくとも後醍醐天皇にもっと徹底的に監視を付けてりゃ南北朝の内乱は泥沼化しなかっただろうに……。
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この人義理の兄だった赤橋守時は助命しようとしたんだっけ?、となると北条憎しというより飽くまで後醍醐帝大好きだったのかな。
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>>238 幕府を鎌倉か京か、どこで作るべきか政務するべきなのか固まってなかったから(京に直義、鎌倉に義詮で自分が上に立つ)って弊害もあったろうし、当時の世代の将軍の認識自体が宮将軍みたいな飾りで、直義や師直が実権の執権枠という前提なとこあったろうからなぁ 二人がいなくてもこなせてしまうのがタチ悪いけど
「天下なんか欲しくなかったのに一族族滅されるか天下を取るかの二択を迫られ続けた人(尊氏)」と全て滅ぼしてでも権力にしがみつこうとした人(後醍醐)」が同時代にいたという奇跡
弟・帝どっち取るかで決められなくて全部投げ出したくなるのもわかるし、二兎を追って一兎も得られなかった。弟も主君も名誉も家臣も平和に過ごしたい気持ちも全部大事だったけど全部取りこぼして残ったのは名誉のみ…
『運命に翻弄された将軍』という学研漫画のタイトル通りの人なんだよなぁ - 0 0
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