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台湾における国境の形成

  • ️Tue Jul 03 2001

抄録

 本報告では、清朝から戦前までの中国や戦後の台湾における中華民国、そして日本の作成した地図の分析を通して、台湾における国境の形成過程を明らかにすることを目的とするものである。
 清朝までに作成された中国の地図の外縁部は実線で表現されることはなく、主に山岳や地名の羅列によって区画され、漠然とした広がりをもつ辺境として図示されていた。また、ほぼ同時代に作成された複数の地図を見てみると、琉球や日本、朝鮮などが辺境として描かれる場合もあれば、そうでない場合もあることがわかる。中国の伝統的な地図が明確な国境をもたなかった要因として、次の2点が挙げられる。第一に、近代的な測量技術が定着しなかったこと、第二に、伝統的な華夷思想に基づく中国の「彊域」・「版図」という領域範囲は、「華」による「夷」の教化によってその境界を限りなく膨張させていく文明圏の広がりとしてイメージされたものであることである。
 清朝初期にフランスイエズス会士を中心とする清朝全域の測量が行われ、その成果に基づいて作成された「皇輿全覧図」の類(康煕図)が中国最初の科学的地図と称される。また、ネルチンスク条約に始まる一連の対ロシア条約で、ロシアとの国境線が画定されていた。しかし、後に作成された地図を検討してみると、清朝初期に西洋から伝来した近代測量技術や、ロシアとの条約で学んだ国境概念を清朝は受け入れていなかったことがわかる。それに対して、船越昭生は日本が「皇輿全覧図」の類(康煕図)の写本を受け入れたことに、地図や地理学における従来のような中国を模範とする姿勢から直接西洋に学ぼうとする姿勢への転換を見ている。
 明治維新以降、日本は近代地図の作成や国境の画定、主権の確立に積極的に取り組んでいった。1874年の台湾事件以降、日本による地図によって台湾西部における清朝の国境線が初めて明示された。その一方で、事件後、清朝は台湾全島の正確な輪郭を清朝の地図に描くようになった。しかし、清朝全土の外縁部は未だに実線で囲まれておらず、国境は表示されていない。
 日清戦争の下関条約によって台湾における日本と清朝の国境が画定され、台湾は大日本帝国の国境の中に組み込まれることとなった。そこから台湾全土における台湾総督府による近代国家の中央集権的支配体制が成立された。一方、日清戦争後、清朝は積極的に日本の技術を取り入れ、1905年以後初めて実線で囲まれた清朝全体の国境が地図に明示された。
 1911年中華民国が成立した。しかし当時の中華民国が主張した国境は、東南アジアや中央アジアの国々などをも含み、1905年以後の清朝や戦後国民党が台湾で主張する中華民国の国境よりも広大なものであった。この中華民国の国境には、国恥とされる「失われた疆域」が含まれており、かつての中華思想に基づく孫文の「王道文化論」が投影されている。これに対して、戦前の日本の中国近代史の権威である京都大学教授矢野仁一は「支那無国境論」を主張した。1930年代に日本が刊行した中国の地図の中には、中国全土を分割した権力乱立の状況が表されている。
 第2次世界大戦後、日本は台湾における主権を喪失した。それ以降、国民党政権は日本が残した支配体制を継承し、台湾とその周囲の島々を含む実質な国境を持つようになった一方で、かつての中華思想に基づいた中華民国の国境を主張している。この中華民国の地図は、戦後から60年間にわたって、現在でも台湾で「中国」というアイデンティティを創出することに貢献しているのである。