eiga.com

スクロール : 作品情報・キャスト・あらすじ・動画 - 映画.com

  • ️Wed Aug 07 2024

スクロール

劇場公開日:2023年2月3日

スクロール

スクロール

解説・あらすじ

北村匠海と中川大志が主演を務め、小説家・橋爪駿輝の同名デビュー作を映画化した青春群像劇。理想と現実のギャップに悩む4人の若者たちが社会や自分自身と必死に向き合う姿をリアルに描く。

学生時代の友人である“僕”とユウスケは、友人・森が自殺したことを知る。就職したものの上司からのパワハラに苦しみ、SNSに思いを吐き出すことでどうにか自分を保っている“僕”と、刹那的に生きてきたユウスケは、森の死をきっかけに“生きること”や“愛すること”を見つめ直すように。そんな彼らに、“僕”の書き込みに共鳴し特別な自分になりたいと願う“私”と、ユウスケとの結婚が空虚な心を満たしてくれると信じる菜穂の時間が交錯していく。

“僕”を北村、ユウスケを中川、菜穂を松岡茉優、“私”を古川琴音が演じる。監督は「CUBE 一度入ったら、最後」「その日、カレーライスができるまで」の清水康彦。

2023年製作/117分/G/日本
配給:ショウゲート
劇場公開日:2023年2月3日

スタッフ・キャスト

全てのスタッフ・キャストを見る

powered by U-NEXT

関連ニュース

関連ニュースをもっと読む

フォトギャラリー

映画レビュー

並び替え

1.0なんの映画だったのか

2024年8月8日

PCから投稿

鑑賞方法:映画館

寝られる

冒頭のシーンは村上春樹的な現実と虚構が混じりあったような世界観を意識して意味深な言葉を並べてはみたけど、別に何がある訳でも起こるわけでもない。メインが4人いたけど、突拍子もないところでクロスしてるわけでもなく。

村上春樹になりたかった中二病の凡人の作品。

肩幅

5.0「気づく」ために

2024年7月14日

PCから投稿

鑑賞方法:VOD

知的

難解な作品
誰しもが自己嫌悪がある。
その過去の自分、その今の自分にネガティブ感を抱いても、「いまは忘れてしまおう」
「記憶というものは、忘れてしまっても、いつか必ず向き合う日が来る。その日が来たら、向き合えばいい」
辛いことがあってどうしようもなくなるときがあって、でもそれを受け止められない自分がいるなら「いまは忘れてしまおう」
思い詰める必要はない。
いつかその日がやってくる。
タイミングは必ず訪れる。
自分にそのタイミングが来た時に、それに向き合えばいいだけ。
「だから今はすべて忘れてしまおう」
この言葉は普遍的だ。
悩める多くの人々に向けられたメッセージ
それで、それだけでいいのだ。
群像
冒頭 チャプター前の映像は「僕」が描いた「絶望のモボ」
拓海君そっくりだが口元に大きなほくろがある。
彼は森と「僕」が融合した人物
抽象的な映像は、「僕」の作品が小説だからだろう。
森の行き詰まった人生を「僕」に置き換え、または融合して表現した作品 森の真実を描くには、ユウスケのような実録ではなく、小説というフィクションの方がわかりやすいのだろう。
向き合えない自分自身に限界がやってくることで起きる「絶望」
その原因の一つが母のプレッシャー
ユウスケは、森の自殺原因を探っていくが、その要因に自分の存在があるのを否定できなくなる。
「僕」の告白 「あの写真」の時の出来事 何もないのに突然謝ってきた森に「嫌いだ」の言葉
それに「笑った」彼
それはおそらく、森にはそんなことが日常だったから、毎回のパターンだったから。
「意味わかんねー」と言ったユウスケだったが、頭の片隅には「みんなそうやって森を追い詰めてきた」事実が浮かんだのだろう。
それは「特定の誰か」ではなく、積み重なっていったこと。そしてそれに必死で向き合いたいと思いながら「自分にプレッシャー」を掛け続けていった森に「限界」が訪れた。
些細な言葉 些細な悪口 すべてのすべてを受取り続け、それを自分の所為にして生き続けた限界。
それに気づいた「僕」
だから何度も登場する「記憶というものは、忘れてしまっても、いつか必ず向き合う日が来る。その日が来たら、向き合えばいい。だから今はすべて忘れてしまおう」という言葉は、「僕」にとってのマントラ。
このマントラを「すべての悩めるものに捧ぐ」のがこの作品
プレッシャー
菜穂は、単純に女の幸せを願っていた。追い求めていた。しかし彼はいつも何かほかのことで頭がいっぱいだった。つい口が滑った婚約という言葉 役所でうわさがまん延し、プレッシャーに押しつぶされる。
「死ぬ」
彼の家に乗り込み、慌てて彼が帰宅。
「オレ無理 結婚とか家とか家族とか いま無理」
二人のその後は描かれていないが、きっと別れたのだろう。
奈緒もまた、自分にプレッシャーをかけ続けていたのだろう。
もみ合った翌朝は自宅で目覚める。
「おはよう」と母に挨拶したのは、吹っ切れたからだろう。
死ぬまで行き詰まっていても、大したことではなかったという事実が描かれている。
あのバーはなぜ閉店したのだろう?
おそらくバーは象徴的存在だ。
客の悩みを増幅させる場所の象徴だったのではないのだろうか?
彼らは皆答えを出せた。
それがあのマントラ。
毎日起きる出来事 受け取れないならすべて忘れること それに向き合わなければならない時が来れば、その時はおそらく自分に準備ができているのだから、向き合えばいい。それだけ。
「僕」は主人公 「私」は何者だろうか? 男女で分けたのだろうか? エンドロールには「私」古川琴音さんは主役として登場していない。ここはわからない。
さて、
この作品は「生きている意味」について問うている。
これを探したくなる時、それはつらい時
そうなってしまっている自分がいるのを知るサイン
私はそう受け取った。だから、それを考えるとき、「すべて忘れてしまおう」
また、
社会という言葉が登場する。すべて社会の所為
「僕」の「社会が何もしてくれなかったのではなく、僕が社会に何もしなかったのだ」というセリフ。
社会とはつながり そのつながりが自分に対する攻撃となり、それをそのまま受け取り、思考で増幅させ自分にプレッシャーを与える。
負の連鎖
しかし、「僕」の些細なSNSのつぶやきが、「私」のイマジネーションを掻き立て、ひとつの大きな作品となった。
これもまた一つの連鎖 誰かの役に立っていた
「火」は、象徴 心の火 心を照らすひとつの明かり 希望の象徴 それを描いた「私」は、火というモチーフを使って「人の心の中に灯る希望」を描いたのだろう。
そしてコダマ
彼を追いかけていた時に見えた「僕」
逃げている「僕」
いつまで経っても逃げていた「僕」
その時が来ても対峙しようとしなかったコダマ そして「森」
「僕」もユウスケからの着信に救われた。
単なる着信に
森の着信を無視したユウスケだったが、おそらくもっと以前から森には誰かから、おそらく母からの「着信」があったはずだ。そこに救いがあったはずだ。
自分に都合のいい「誰か」には、自分が救われるタイミングはないのだろう。
「僕」がそれらに気づいていく物語。
森を知ることで得られた「僕」という人物
この作品を言葉にするのは難しいが、感覚的によくわかる。
素晴らしかった。

R41

つとみ

0.5「社会とは自分自身」だけは刺さった

2024年6月17日

スマートフォンから投稿

鑑賞方法:DVD/BD

原作未読
監督は脚本は『MANRIKI』『その日、カレーライスができるまで』『CUBE 一度入ったら、最後』の清水康彦
脚本は他に『その日、カレーライスができるまで』『サバカン SABAKAN』『映画 からかい上手の高木さん』の金沢知樹
あと舞台俳優の木乃江祐希(フルーツポンチ村上の妻)が脚本家として参加

U-NEXTと配信されていないので地元のツタヤで借りて鑑賞

ダメですね
演出が悪いのか
脚本が悪いのか
原作そのものが悪いのか
企画段階つまりプロデューサーが悪いのか
よくわかないけどダメですね
全然ダメです
わけがわからない
良いところを見つけるのが困難
共感とかそれ以前の問題
本当ならレビューする気にもならない
最悪な作品です
駄作です
ここまで酷い作品は初めてです
マジで死んでほしいとまでは思いませんがこの作品の最高責任者に水平チョップをお見舞いしてボディースラムで叩きつけ時間切れになるまで逆エビ固めしてやりたい気分です
Yahoo!ニュースとかでよく見かける頭が悪いwebライターは映画の出来不出来を全て主演俳優のせいにするから頭に来ますよ
役者さんはなんでこんな映画に出たんですかね
脚本渡された時点で断るべきです

あとこれだけは言いたい
パワハラ上司なんてまずクビになりません!

配役
死にたい会社員の「僕」に北村匠海
「僕」の職場の同僚でイラストレーターの「私」に古川琴音
「僕」の大学時代の友人でテレビ局勤務のユウイチに中川大志
「私」の友人の市役所職員の菜穂に松岡茉優
「僕」とユウイチの大学時代の同級生の森に三河悠冴
森が大好きなアイドルのハルに莉子
森の母の彩子に相田翔子
ユウスケの行きつけのバーのオーナーのモモにMEGUMI
ユウスケが取材する大学教授の生田に金子ノブアキ
ユウスケの上司の加藤に水橋研二
「僕」と「私」のパワハラ上司のコダマに忍成修吾
ユウスケに結婚を迫るカコに國森桜
「私」にイラストを依頼するクライアントに五頭兵夫
菜穂の職場の同僚の才加に円井わん

野川新栄