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メイクアガール : 作品情報・声優・キャスト・あらすじ - 映画.com

  • ️Fri Feb 21 2025

びっくりするくらい、
感情移入のしにくいアニメだったなあ(笑)。

そろそろ上映が終わりそうなので、レイトショーで鑑賞。
(客は5人でした)
この手のポンコツ(非人間&人型)美少女は、それこそ『電影少女』のあいや『東鳩』のマルチのころから大好物だった人間なので、とても素直に期待しながら観に行ったのだが、『アイの歌声を聴かせて』のようなタイプの映画かと思い込んでいたら、ふと気づくと『School Days』みたいなことになってるわ、挙句にラストは『ゲゲゲの謎』か楳図かずおの『洗礼』みたいなことになってるわ(笑)、なかなかえらいものを観てしまった。

最初にいっておくと、この手の「個人で頑張ってつくってきた」出自のクリエイターのことは、新海誠から堀貴秀にいたるまで、僕は誰でも心から尊敬するし、心から応援する。
なので、基本的にはこういう映画には頑張ってほしいし、なんとしても成功してほしい。

ただ、率直な感想としていろいろ文句をいいたくもなったので、観て面白かった人は不快な気分がするかもしれません。読まずにスキップしていただけると幸いです。

なんにせよ脚本には、明らかに難がある。
端的にいうと、ナラティヴの技術が拙い。
用意されているパーツの大きさや形がちぐはぐなうえに、出して並べていく順序がへたくそ過ぎて、話に入り込めないといった感じか。

そもそも、人造人間がヒロインの場合、通常「まわりはふつう」で「ヒロインはポンコツ」という「対比」と「ツッコミ」を通じて観客を慣らしてから、徐々に物語に引き込んでいくものだと思うのだが、この話の場合、つくった天才少年のほうがよほど異常でバランスが悪いので、なかなかお話の「足元」が固まらない。

人造人間を作ろうとするきっかけが、最近研究に行き詰まって悩んでいたのだが、友人に恋人が出来て「パワーアップした」ときいたので、仕事効率を高めるために制作することにしました、で、やってみたらさくっと出来ました、というのも、さすがに事の軽重のバランスが悪すぎる。
あるいは、シリアスそうな内容のわりに、設定がばかばかしすぎる。
だいたい、家事ロボットの制御に四苦八苦している研究者が、生体人造人間をいきなり組成するとか、ありえないほどの快挙なのに、完全にスルーされたうえにしれっと学校に連れてきている始末。たしかにそれはある種のテンプレなのかもしれないが、『Dr.スランプ』のようなギャグ漫画や、『ちょびっツ』のような「最初からアンドロイドが存在する世界観」だからこそ許されているのであって、本作においては、この大発明が「彼に出来た」理由も「それが世間に流される」理由も、まるでピンとこない。
てゆーか、生体人造人間をつくったおかげで、家事ロボットの制御ができるようになりましたとか、不死のクラゲが作れましたとか、それこそ本末転倒もいいところだし、これだけ頭の良い少年が、「カノジョを作っただけで研究が進むようになる」と思い込む幼稚さも、「研究が進まないなら捨てる」選択をとる恥知らずな非人間性も、通常の観客からはとても共感を得られるとは思えない。

主人公の属性をドアスペに設定すること自体は、別に構わないのだ。
(僕に言わせれば『Z』のカミーユも、『劣等生』のお兄様もバリバリのアスペである。)
だが、それをどれくらい主人公が認識しているかとか、彼の行動を見守っている人たちがどれだけ客体化してそれを作中で表現するかとか、主人公の心のない行動がどれだけ回りとの軋轢を生むかとか、そういった「キャラクターづけ」の作業をこまやかな手つきでやっていくからこそ、「おかしな主人公」を客に「納得させることが出来る」わけだ(同じ声優のやっている『僕の心のヤバイやつ』とかは、まさにその好例だろう)。
だが、このお話ではそういった「キャラづけ」の作業がまったく行われないまま、天才少年に感情移入させようとしている気配があって、そういう作り手の「感覚の鈍さ」によって、見ている観客の「ヘイト」はむしろどんどんたまっていく。
いやもしかすると、『School Days』の伊藤誠のように、「ラブコメ主人公かと思って観ていたらどんどん異常性を増していって、やがて天罰が下ってざまあみろ」的な展開で客の溜飲を下げさせる目論見だったのかもしれないが……あれは、作り手が「敢えてそうしようと仕掛けている」のがちゃんと伝わったから傑作になったのであって、『メイクアガール』の場合はそういった「客との駆け引き」が出来ていないぶん、単純に観ていて不快である(笑)。

ツンデレ世話焼き二番手ヒロインが、なんでこんな得体の知れない天才少年に惹かれているのかも皆目わからないし、もう一人の男友達との関係性も含めて、学校内での立ち位置がイマイチ理解できない。町じゅうで使用されてるロボット&システムの構築者みたいなすごいVIPが、ひとりでぶらぶら巨大ラボとアパートと学校を行き来して生活してるのも解せない。どなたかが「主人公の訓練用に設定されたバーチャル空間のNPCかと思った」とおっしゃってて、まさに的を射た意見かと。
要するに、それなりにシリアスな設定のわりに、安易に「グーパン幼馴染」とか「屋上とバイト先でだけ会う男友達」とか「めちゃくちゃやってもハブられない学校」みたいな、ゆるい系ラノベのお約束をそのままつぎはぎするから、違和感ばかりが募る前半戦になってしまうのだ。

前半でさんざん「こりゃダメだ」と思わされたのち、まず主人公がバグって、それから信頼していた某人物がバグって、そのあとヒロインがバグる。
共感を集めきれていないキャラクターに壊れられても、観客としては途方にくれるばかりだ。
特に、主人公の頭がおかしいうえに価値判断のバランスが致命的にくるっているのはよくわかったけど、普通のドラマだと少なくとも「捨てられた側のヒロインの懊悩」くらいはきちんと描かれるものだと思うし、そこから段階を追って「執着」の度合いを深めていき、「ロボットが創造主によるコントロール(三原則)から外れることの意義」を強調していかないと、ヒロインのあの選択はとても腑に落ちるものではない。
それなのに本作では、0号ちゃんは追い出されてからほとんど出てこなくなるし、彼女との再会後にああいう展開になったら、今度は誘拐犯の気配が消えてしまう。
結局、やりたいシーンをつなぎ合わせているうちに、キャラが「あぶれちゃうから」しれっと退場させているようにしか思えない。
例の誘拐犯にしても、あれだけ最初から食い込んでるんだから、もっとやりようはいくらでもあるだろう。余裕で連れ出せる関係性をわざわざ築いているのに、なんで強襲かけて誘拐なんかしなきゃならんのだ?(笑)

終盤でヒロインの0号ちゃんが取る選択にも納得がいかない。なぜかというと、自分の気持ちが本物だと相手に証明することがいかに大事だったとしても、通常の思考回路でいえば「自分が好きな人を傷つけるのはイヤ」なことに変わりはないはずで、「愛を証明するために傷つける」ということを肯定した時点で、本当にただのストーカーやDV女と変わらない狂人に成り下がってしまっているからだ。
「好きな人にイヤな想いはさせたくない」
「好きな人が痛い目にあうのなんかイヤだ」
この当たり前の大前提を完全に無視して、相手に自分の愛情をわからせるといいながら、実質は「自らのアイデンティティの確立」のためだけに動く0号と、それをなんとなく肯定する主人公および作り手の感性は、やはり一般とはかなりズレているとしかいいようがない。
まあ、ありていにいうと、作り手自身もまたかなり強烈なASD傾向の持ち主であって、自分の行動によって相手に生じる感情の機微に対して、きわめて鈍感なタイプなのではないかと感じざるを得ないわけだ。

ラストの母親の大ボス感も、一般の人は猛烈にイヤ~な気分にしかならないんじゃないかなあ。
結局は、人造人間も十分にポンコツで暴力的だったけど、よほど、それをつくったフランケンシュタイン少年のほうが本気で頭がおかしくて、さらにそれをつくったお母ちゃんのほうが最高級にぶっ飛んでて、くるっているという構図で、ラブコメをやるふりをして呼びつけた観客に、後半は延々とマザコン話を観させて悦に入るという、何だかおそろしいことになっている。

作り手のなかでは、上記の「観客にとってはストレスにしか感じられない展開」について、意外と辻褄が合っているように認識している可能性もあると思う。
たとえば、主人公の天才少年の思考回路が素でおかしいのは、彼が●●●●だからだし(終盤の夢のシーンとラスト近くの目の描写でほぼ間違いない)、周りがやたら生ぬるい目で彼を見ているのも「実はみんなそのことを知っている」からかもしれない(そう考えると友人の妙に達観した姿勢も理解できるし、ラストでケガをした主人公がどう処置されたかについても悩まないでよくなる)。
彼の発明に妙な凸凹があるのも、母親がそうなるように「すべて最初から仕組んでいた」からかもしれないし、0号ちゃんが暴走するところまですべてアプリオリに予定通りだったのかもしれない。

だから、作り手やシンパは「最後までちゃんと観れば、わかる人にはわかります」と思っているかもしれない。でも僕は結局のところ、この話は「結論を最初から知っていて、どういう話かわかりすぎている人が、前から後ろに話をうまく通せなかった」典型例だと思う。
本格ミステリでよくあるんだよね。最後のトリックと犯人がわかってから読み直したら、何をやりたかったかよくわかるんだけど、初読の際にやたらと読みにくい小説って。今回のもまさにそういうケースではないか。

ここで思い出すのは、やはりずっとひとりでアニメを作ってきた塚原重義の初の商業作品『クラユカバ』の出来の悪さと、同時上映された『クラメルカガリ』の完成度の高さのことだ。前者は塚原自身の脚本。後者の脚本も塚原だが、「原案」でラノベ作家の成田良悟が参加している。
やっぱりね、「餅は餅屋」ってのはホントなんですよ。
必ずしも優れたアニメーターだからといって、優れた脚本が描けるとは限らない。
とくにスクリプトチェックは、第三者の「それが得意な人」の手を借りないと、どうしようもないような気がする。

パンフを読んでみると、本作の監督、安田現象氏は脚本の完成稿までになんと31稿も重ねられたとのこと。すごい努力だとは思うけれど、プロデューサーは一切お話の内容には関わらせてもらえなかったらしい(「安田監督からは最初に、初作品だけは脚本に一切口を出さないでほしいという割と無茶な要望があり…(中略)…ストーリーは全て任せることにしました」)。
一方で、安田氏は3Dアニメ制作と並行してラノベ作家も目指していたという話だが、「ライトノベルの新人賞は最終選考一歩手前まで残って、あと少し頑張れば受賞できるぞというところまで進んでいました」とおっしゃっている。
失礼を承知でいえば、「受賞する域にまでは達しなかった」作家さんともいえるわけだ。
僕は、たとえ専門の脚本家もしくは作家さんが絡んでも、監督の想いが伝わらないということはないと思う。むしろ、映画は総合娯楽芸術であるわけで、脚本家が我を張って作品を台無しにするようなことは(少なくともアニメでは)あまりないのではないか。
やはり、次回作ではプロのライター(たとえば大河内一楼みたいな人)を入れたほうが、格段にいい映画になると思うんですが、どうでしょうかね。

最後に、3Dに関して。
「顔」は思っていたより2Dに寄せていて、とても見やすく撮れていたと思う。3Dが苦手すぎて『バンドリ』や『シャニマス』すら中途脱落してしまった僕から見ても、顔回りの表現は悪くなかった。
ただ、歩き方や走り方は、かなりおかしかった気がするなあ。
挙動全般もやはり「3Dくさい」としかいいようのない部分が多く、このへんはどうしてもリミテッド感がぬぐえなかったかも。
でも、この90分のアニメが、6人くらいで作られていると考えると、やはり凄いことだとは思う。