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コムネノス王朝 - Wikipedia

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1170年のコムネノス王朝東ローマ帝国

コムネノス王朝(コムネノスおうちょう、Komnenos, ギリシア語表記:Κομνηνός)は、東ローマ帝国中期の王朝(1081年 - 1185年)。 ユスティニアヌス朝マケドニア朝に続く帝国の三度目にして最後の拡大期にあたる。

アレクシオス1世の即位と東ローマ帝国の中興

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アレクシオス1世コムネノス

1081年、皇帝イサキオス1世コムネノスの甥で、軍事貴族コムネノス家出身の将軍アレクシオス・コムネノスが、時の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテスに対して反乱を起し、ニケフォロス3世を退位させて皇帝に即位した(アレクシオス1世)。アレクシオスの即位は、コンスタンティノープルで高級官僚として、その地位を築いた文官貴族と、地方属州を拠点とする軍事貴族の対立の中で後者の勝利を意味するとされる場合がある。このニ類型論はゲオルク・オストロゴルスキーによって提唱され、東ローマ学会に大きな影響を与えた。しかし、現在ではこの説はほとんど放棄されたと言ってよい[1]。コムネノス朝時代の爵位形態は、コムネノス家と姻戚・血縁関係にある有力貴族のみが爵位を与えられ、地位を得ることのできるシステムであった[2]。つまり、庶民が皇帝まで登りつめる可能性すらあった身分的に流動性のあるそれまでの東ローマ帝国から大きく姿を変えていった時代でもある。

当時の帝国はマケドニア王朝時代の中央集権制度が形骸化し、経済力・軍事力は破綻に瀕し、帝国にとって重要な小アジアの大半をセルジューク朝に占領され、南イタリアマグナ・グラエキア)はノルマン人に奪われ、北からはペチェネグ人の侵攻が続いていた。アレクシオスの娘アンナ・コムネナは「帝国は息を引き取ろうとしていた」と綴っている。

これを受けて、軍事・内政の才能に優れたアレクシオス1世とその子ヨハネス2世の2代の皇帝は果敢に帝国の再建に挑み、周囲の敵をはねのけ、帝国の威光を取り戻し、およそ100年の間帝国の衰退を食い止めることに成功した。

アレクシオスは爵位体系や通貨を改革したほか、軍事奉仕と引き換えに一定の地域の徴税権などを認めるプロノイア制度を導入し、ドゥーカス家や各地の有力軍事貴族たちと姻戚関係を結んで、皇族に相当するコムネノス・ドゥーカス一門を盟主とする軍事貴族の連合政権という形で帝国を再編した。こうして国内を安定させるとヴェネツィア共和国の支援を受けて海軍力を再建し、西欧へ傭兵を要請した。西欧への傭兵派遣依頼は十字軍という想定外の結果を生んで対応に苦慮することになった。その間にセルジューク朝から小アジア西部を奪回し、クマン人の援軍を得てペチェネグ人を打ち破った。

ヨハネス2世コムネノス

「善良なるヨハネス」と呼ばれて国民に尊敬された長男のヨハネス2世も贅沢を慎み、父の政策を継承して各地へ親征して戦いを進めて小アジアの沿岸部をほぼ全て奪回し、アンティオキア公国に宗主権を認めさせるまでに帝国の勢威を回復した。また北方から侵攻してきたペチェネグ族をベロイアの戦いで(Battle of Beroia)壊滅させ、ハンガリー王国の介入を退けた。

こうして初期の皇帝の治世に帝国は東地中海の大国の座を取り戻し、周囲に帝国の威光を示すことに成功した。首都コンスタンティノポリスは国際交易都市として繁栄し、文化も前時代の「マケドニア朝ルネサンス」を引き継いで古典の研究が進み、文学・美術などが栄えた。

マヌエル1世コムネノス

こうした繁栄を受けて3代目の皇帝マヌエル1世コムネノスは、古代ローマ帝国の復興を目指してイタリア遠征キリキアシリア地方への遠征、神聖ローマ帝国との外交戦を繰り広げ、盛んに建築活動を行なった。しかしマヌエル1世の積極的な外交政策や享楽的な生活は財政支出の増大を生んで帝国の財政を悪化させた。また祖父アレクシオス1世の代から特権を得ていたヴェネツィアの増長ぶりを見たマヌエルは、1171年にヴェネツィア人の一斉逮捕を行ったために、関係が悪化し、のちの第4回十字軍を生む結果となる。内政面でもコムネノス・ドゥーカス一門の軍事貴族は代を経るにしたがって人数が増加するとともに、各地に根付いて強大化し、中央政府から一定の独立性を保持して、あたかも封建領主のようにふるまった。このため皇帝も貴族たちを統御しきれず、なかには半独立状態になる者まで現れた。数次にわたる十字軍と首都市民との軋轢も次第に深まり、軍事協力の見返りとしてヴェネツィアやジェノヴァに貿易特権を与えたことで国内の商工業は衰退し、関税収入も失われた。

さらに軍事面でも1176年小アジアのミュリオケファロンの戦いルーム・セルジューク朝に惨敗し、帝国の威信は失墜した。神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世は東ローマ皇帝を「皇帝」として認めず「ギリシャ人の王」と呼ばれる屈辱を味わうことになる。こうして失地回復を果たせないまま、東ローマ帝国の国力を使い尽くした状態でマヌエルは没した。アレクシオス1世とヨハネス2世によって取り戻されたかに見えた帝国の繁栄は再び失われ、衰退への道をたどることになったのである。

マヌエルの死後、マヌエルの未亡人マリアの後見のもと、マヌエルとマリアのあいだに生まれた息子のアレクシオス2世が即位したが、アレクシオス2世はまだ幼く、クーデタで政権を掌握したマヌエルの従兄弟アンドロニコス1世コムネノスに帝位を奪われて、母親ともども殺害されてしまった。

アンドロニコス1世の改革とコムネノス王朝の終焉

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アンドロニコスは強権的な統治で国内を改革し、大土地所有貴族を抑えて帝国の支配を再建しようとしたがうまくいかず、ついには恐怖政治を行って反抗する高官を次々に処刑したために有能な人材が失われた。1185年、西方から侵入したシチリア王国軍が帝国第2の都市テッサロニキを陥落させて首都に迫ると、パニックに陥った首都市民はアレクシオス1世の娘の孫であるイサキオス・アンゲロスを擁して反乱を起こし、アンドロニコス1世は廃位され、街頭で怒り狂った市民たちの手で虐殺された。 コムネノス朝の時代は帝国がその名に相応しい栄華を誇った最後の時代だった。その後の帝国がかつての勢いを取り戻す事はついに叶わず、1453年の滅亡まで緩やかに衰退していく道を辿った。ただし、アンゲロス家はもちろん、その後帝位を世襲したラスカリス家パライオロゴス家はいずれもコムネノス家との姻戚関係を足がかりに帝位を獲得したものである。

なお、アンドロニコスの孫アレクシオスとダヴィドはアンドロニコス1世が殺されたときに母に連れられてコンスタンティノポリスからグルジアのタマルの宮廷へ逃げ、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス陥落の後に、小アジア北東部のトレビゾンド(現在のトルコ・トラブゾン)を都としてトレビゾンド帝国を建国、皇帝を宣言した(アレクシオス1世)。トレビゾンド帝国は1461年オスマン帝国に滅ぼされるまで、東ローマ帝国本体よりも長く存続した。

文献[3][4]をもとに作成。

イサキオス1世ヨハネス
アレクシオス1世エイレーネー・ドゥーカイナ
アンドロニコス・ドゥーカス娘)
アンナ(歴史家)
ニケフォロス・ブリュエンニオス
エイレーネー
ハンガリーラースロー1世娘)
ヨハネス2世イサキオスカタ
(グルジア王女)
テオドラコンスタンティノス・アンゲロス
アレクシオスアンドロニコスイサキオスエイレーネーマヌエル1世マリー・ダンティオケ
アンティオキア女公コンスタンス娘)
フィリッパアンドロニコス1世アンゲロス王朝
ヨハネステオドラ
オーストリアハインリヒ2世
エイレーネーマリア
=ハンガリー王イシュトヴァーン4世
テオドラ
エルサレムボードゥアン3世
エウドキア
=モンペリエ領主ギレム8世
マリア
モンフェッラート侯子ラニエリ
アレクシオス2世アニェス
フランスルイ7世娘)
マリア
1=エルサレム王アモーリー1世
2=バリアン・ディブラン
イサキオスマリア
アラゴンペドロ2世
マヌエルエイレーネー
イサキオス2世アンゲロス
アレクシオス1世
トレビゾンドの皇帝
以後、トレビゾンドの皇帝を世襲

  東ローマ皇帝

  1. ^ 井上浩一「11~12世紀のビザンツ貴族―「文官貴族」「軍事貴族」概念を中心に―」村井康彦編『公家と武家:その比較文明史的考察』(思文閣出版、1995)pp. 307-329
  2. ^ 根津由喜夫『ビザンツ幻影の世界帝国』(講談社、1999)
  3. ^ 下津、p.199
  4. ^ J.L.la Monte, p.392
  • 下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年
  • John L.la Monte, Feudal Monarchy in the Latin Kingdom of Jersalem, 1100 to 1291, Kraus Reprint Co., 1970, p.392
テオドシウス朝
レオ朝
ユスティニアヌス朝
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イサウリア朝
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