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ノーフォーク公 - Wikipedia

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ノーフォーク公爵
(第3期)
Duke of Norfolk
創設時期1483年6月28日
創設者リチャード3世
貴族イングランド貴族
初代ジョン・ハワード
現所有者エドワード・フィッツアラン=ハワード(18代公)
相続人ヘンリー・フィッツアラン=ハワード英語版(アランデル伯)
相続資格初代公の直系の嫡出の男系男子
付随称号
邸宅アランデル城カールトン・タワーズ英語版
旧邸宅フラムリンガム城英語版バンゲイ城英語版クラン城英語版
モットー高潔さだけは征服されない
(Sola Virtus Invicta)

ノーフォーク公爵英語: Duke of Norfolk)は、イギリス公爵位。イングランド貴族

過去に3回創設されており、現存するノーフォーク公爵位は、1483年ジョン・ハワードリチャード3世に叙されたのに始まり、以降その子孫のハワード家によって世襲されている。エリザベス朝期の当主4代公爵トマス1572年大逆罪で処刑されたことで約1世紀に渡って失われた時期があるが、1660年王政復古の際に4代公爵の玄孫トマスが5代公爵に復権を果たし、以降今日まで連綿として続いている[1]

4代公爵が婚姻でアランデル伯爵フィッツアラン家英語版と結びついた結果、アランデル伯爵位も従属爵位として継承しており、ノーフォーク公爵家の法定推定相続人はこの爵位とサリー伯爵位を儀礼称号として使用する。

14代公爵ヘンリーの代に家名をフィッツアラン=ハワード家に改姓した。2015年現在の当主は18代公爵エドワード・フィッツアラン=ハワードである。

イギリスの全ての臣民公爵位の中でも最古参であり、筆頭公爵の立場にある[2]。また紋章院総裁はノーフォーク公爵家の世襲職である。ノーフォークという爵位名になっているが、ノーフォークにはそれほど土地を持っておらず、居城もウェスト・サセックス州アランデル城である。

ノーフォーク公爵家は歴史的に国教忌避の態度をとったカトリック教徒であるため、宗教的迫害を受けることも多かった。

分流も数多く存在し、現存する爵位持ちの分家にエフィンガム伯爵家サフォーク伯爵家カーライル伯爵家ペンリスのハワード男爵家の4つがある[3]

ノーフォーク公爵の前身の爵位はノーフォーク伯爵である。

ノーフォーク伯爵はノルマン・コンクエストでイングランドに来たノルマン人ロジャー・ビゴッド英語版(生年不詳-1107)を祖とするビゴッド家英語版が代々世襲していたが、1306年に第5代ノーフォーク伯爵ロジャー・ビゴッド(1245頃-1306)が跡継ぎなく死去すると、ノーフォーク伯爵位は王室に返却された[4]

1312年にはエドワード2世(1284-1327)が異母弟トマス・オブ・ブラザートン(1300-1338)をノーフォーク伯爵に叙した。爵位はその後、トマスの娘マーガレット(1320頃-1399)に継承された[5]

第2代ノーフォーク公爵(第1期)ジョン・ド・モウブレーに本を授けるヘンリー5世

1397年にはリチャード2世(1367-1400)により、マーガレットと彼女の女系の孫トマス・モウブレー(1366?-1399?)にノーフォーク公爵位(第1期)が与えられた。これがノーフォーク公爵位の最初の創設だった[5]。この時にトマスは、ビゴッド家に帰属した所領と役職(紋章院総裁(Earl Marshal)を含めて)を授けられた。ただし、トマス本人は1398年にリチャード2世の従弟のヘンリー・ボリングブルック(後のヘンリー4世)と対立したことをリチャード2世に咎められ国外追放となり、不遇のまま1399年に没し、次男ジョン(1392-1432)1425年にノーフォーク公を叙爵されるまで爵位は空位であった[6]

このような躓きはあったものの1397年から1476年の間、モウブレー家がノーフォーク公の称号と所領を所有したが、1476年に4代目の当主ジョン・モウブレー(1444-1476)が男系の子孫を残さないままに、3歳の1人娘アン・ドゥ・モウブレー(1472-1481)を残して他界する。この後、アンはわずか5歳で当時の国王エドワード4世(1442-1483)の4歳になる息子ヨーク公リチャード(1473-1483?)と結婚する事になる。アンは8歳で亡くなるまでリチャードの妻のままだった。

1481年にリチャードはノーフォーク公爵(第2期)に叙された。しかし1483年に父王エドワード4世が崩御した途端に「リチャードと兄王エドワード5世(1470-1483?)の私生児説」が取りざたされ、新国王リチャード3世(1452-1485)によってヨーク公・ノーフォーク公の両方の爵位は剥奪され、ロンドン塔に収監される(以降行方不明。兄エドワード5世もろともロンドン塔で殺害されたといわれる)[7]

初代ノーフォーク公ジョン・ハワード
第4代ノーフォーク公トマス・ハワード

リチャード3世の即位に功があったとして、初代ノーフォーク公(第1期)トマス・モウブレーの孫にあたるジョン・ハワード(1420頃-1485)が1483年に初代ノーフォーク公(第3期)に叙せられた。現在まで続いているノーフォーク公爵家は彼の子孫である[7]

初代公爵ジョンが1485年ボズワースの戦いで敗死した後、その長男トマス(1443-1524)は勝者のヘンリー7世によってノーフォーク公爵位を剥奪されたが、1513年にトマスがスコットランド王ジェームズ4世軍を撃破する戦功をたてたことで、1514年ヘンリー8世によりノーフォーク公爵位の復権が認められた[8]

3代公爵トマス(1473-1554)も当初はヘンリー8世の寵愛を受け、二人の姪をヘンリー8世の王妃に送り込むことに成功したが(アン・ブーリンキャサリン・ハワード)、彼女たちは二人とも姦通により処刑されている。やがて3代公爵自身もヘンリー8世の信頼を失い、1546年にはロンドン塔に投獄された。しかしヘンリー8世の崩御で処刑をまぬがれ、1553年にはメアリー1世の即位に功績があったとされて公爵位への復権が勅許された[9]

4代公爵トマス(1536-1572)は第19代アランデル伯爵ヘンリー・フィッツアランの女子相続人メアリー・フィッツアラン英語版と結婚し、これによりハワード家はアランデル伯爵家の爵位と領地も得ることになる。しかし4代公爵はスコットランド女王メアリーとの婚約騒動で女王エリザベス1世の不信を買い、1572年大逆罪で処刑された。ノーフォーク公爵位は剥奪され、4代公爵の長男フィリップ(1557-1595)は母方の第20代アランデル伯爵位のみ継承した。以降ノーフォーク公爵位は3代88年にもわたって失われた[10]

第20代アランデル伯爵フィリップ国教と敵対する熱心なカトリックであり、そのためにロンドン塔へ幽閉され、また1577年には貴族院の議席を失った。これ以降ノーフォーク公爵(アランデル伯爵)家は代々カトリックの家系となり、貴族院に議席を持てなくなった[11]

1660年王政復古の際、4代公爵の玄孫に当たる第23代アランデル伯爵トマス(1627-1677)が、議会の議決に基づくチャールズ2世の勅許により第5代ノーフォーク公へ復権している。以降ノーフォーク公爵位は今日に至るまで剥奪されることなく続いている[12][13]

1673年には審査法議会で制定され、カトリックは国政から締め出された。紋章院総裁はノーフォーク公爵家世襲職であるが、この職務についても実際にはプロテスタントの分家のサフォーク伯爵家カーライル伯爵家が行うのが一般的になった[14]

8代公爵トマス(1683-1732)ジャコバイトとの関与を疑われ、1722年ハノーヴァー朝への大逆罪でロンドン塔に投獄されている。彼が投獄された最後のノーフォーク公爵家当主である[15]

11代公爵チャールズ(1746-1815)プロテスタントに改宗して議会に議席を持ち、ホイッグ党の政治家として自由主義的政治活動に尽力した[16][17]。また居城であるアランデル城を今日の形へと改築した[18]

12代公爵バーナード(1765-1842)はカトリックだったが、彼の代の1829年にカトリック救済法が制定され、カトリックも議会に議席を持てるようになったため、以降のノーフォーク公爵家当主は自動的に貴族院議員に列するようになった[19]

14代公爵ヘンリー(1815-1860)は、ルーツのひとつであるフィッツアランを姓に加えることにし、1842年ヴィクトリア女王の勅許を得てフィッツアラン=ハワード家と改姓した[20][13]

15代公爵ヘンリー(1847-1917)は敬虔なカトリックであり、ノーリッジ・カシードラル英語版など12もの教会を私費で建設した[21]。また貴族院にも積極的に出席していたので第3次ソールズベリー侯爵内閣で郵政長官英語版も務めている[22][23]

16代公爵ヘンリー(1908-1975)は、アランデル城を独立トラストに帰属させ、一般公開した[24]。また彼の代に財産税・相続税攻勢で家計が苦しくなり、所有地が半減した[25]

16代公爵には男子がなかったため、分家の第4代グロソップのハワード男爵マイルス(1915-2002)が17代公爵を継承した[26]。現在の当主はその長男である18代公爵エドワード(1956-)である。

ノーフォーク公は紋章院の総裁職である軍務伯(Earl Marshal)の地位も世襲している。ここ500年ほどは(私権剥奪状態の一時期を除いて)ノーフォーク公爵位と軍務伯の地位はハワード家に受け継がれてきた。1999年トニー・ブレア政権が制定した貴族院法によって、それまで世襲だった貴族院議員のほとんどが世襲ではなくなったが、軍務伯が世襲だった事から、ノーフォーク公は貴族院議員の世襲が認められている(この時議席の世襲が認められた貴族はノーフォーク公のほかにはチャムリー侯だけである)。紋章院総裁は議会開会の式典において君主の入場の際に先導を務める4人の中の1人である。

現当主である第18代ノーフォーク公爵エドワード・フィッツアラン=ハワードは以下の爵位を保有している[27][28]

ノーフォーク公爵ハワード家の大紋章は大きく5つの要素から成り立っている。「アーム(小紋章)」「クレスト」「サポーター」「モットー」「バトン(紋章院総裁の指揮棒)」である。

ノーフォーク公の紋章
中央の盾の形をした部分である。ノーフォーク家の紋章はクォータリー(Quarterly, 縦横4分割)でその系統を表している。左上の紋章は、赤地に6つの小十字の間に銀の斜め帯が走り、その中に金の二重線で縁取られた盾形の紋章(口から矢を貫かれたライオンの上半身がついている)が入ったデザインになっている。これは2代公爵トマスがスコットランド軍撃退の戦功でヘンリー8世から与えられた紋章である[29]。右上の紋章は、「立ち姿で正面を向いた3頭縦一列の金の獅子」に、長男である事を表す銀のしめ縄を付けたデザインになっている。これはトマス・オブ・ブラザートン以来のハワード家の紋章である[30]。左下の紋章は、金と青のチェックのデザインである。これはルーツのひとつであるサリー伯爵(ワーレン伯爵)ワーレン家の紋章である[30]。右下の紋章は赤地に左後ろ足で片足立ちした金のライオンが描かれたデザインである。これはルーツのひとつであるアランデル伯爵アールビーニー家の紋章である[30]
紋章上部の飾り部分である。ノーフォーク家の紋章では3つのクレストでその血統(家系)を表している。まず中央はトマス・オブ・ブラザートンの家系である事を表し、赤い帽子の上で四本足で立ち止まって正面を向き尾を伸ばした金の獅子と、その首には公爵位を表す王冠が描かれている。次に左のクレストはハワード家を表し、公爵の印である金の王冠と、赤地の2本の羽根にはそれぞれ銀の斜め帯に6つの小十字が描かれている。最後に右側はフィッツアラン家の家系である事を表し、緑の山の上で樫の小枝を咥えた銀色の馬の立ち姿が描かれている。
  • サポーター
紋章の左右で盾を支えるように動物が描かれている。向かって左側に銀の獅子、右側に銀の馬が描かれており、馬は樫の小枝を咥えている。
  • モットー
紋章下部に「高潔さだけは征服されない(Sola Virtus Invicta)」と家訓が書かれている。
  • バトン(紋章院総裁の指揮棒):
盾の後ろ側で交差した2本の指揮棒。本体は金色でその両端は黒皮が巻かれている。この指揮棒はノーフォーク公が世襲の紋章院総裁である事を表している。

また、その時のノーフォーク公がガーター勲章を受章した場合に限っては、紋章の盾の周りをガーターで囲む事がある。但しガーター勲章は世襲ではないので、受章した当人しか紋章に入れる事ができない。例えば、第17代ノーフォーク公マイルス・フィッツアラン=ハワードは1983年4月22日にガーター勲章を受章したので、それまでは紋章にガーターを入れる事はできなかったが受章後は紋章にガーターを入れる事ができる。同様に18代ノーフォーク公エドワード・フィッツアラン=ハワードはまだガーター勲章を受章していないので、今も紋章にガーターを入れる事はできない。つまり紋章のガーターは、必ずしも「ノーフォーク公の紋章の一部」ではない。

ノーフォーク公の住居として知られているのは、フラムリンガム城英語版バンゲイ城英語版カールトン・タワーズ英語版ロンドンノーフォーク・ハウス英語版アランデル城である。

フラムリンガム城は元々ノーフォーク伯爵の所有だったが、1307年にビゴッド家の男系が途絶えると国王の資産に編入された。だがこれは1397年にノーフォーク伯が公爵位に昇格したタイミングで、国王リチャード2世からトマス・モウブレーに下賜されている。この後、モウブレー家が絶えた後にはハワード家の所有物となった。ジョン・ハワードは1485年にこの城の大改修を行っている。この後しばらくはノーフォーク公の城だったが、結局は手放す事になる(例えば1553年には城はエドワード6世の姉メアリー・テューダーの手に渡っている)。

  • フラムリンガム城外壁

    フラムリンガム城外壁

  • 上空からのフラムリンガム城

    上空からのフラムリンガム城

  • フラムリンガム城外壁

    フラムリンガム城外壁

  • フラムリンガム城中庭の住居

    フラムリンガム城中庭の住居

バンゲイ城も元来は同じくノーフォーク伯の資産の一部であった。1483年にハワード家の手に渡ってからは20世紀の終わりまで(短い期間を別として)ノーフォーク公の所有下にあった。しかし城は随分長い間荒れ放題の状態であった。そこで第17代ノーフォーク公マイルス・フィッツアラン=ハワードは城の保存のため、既に自力で修復作業を開始していたバンゲイの町に対して、修復のための寄付金と共に所有権を寄贈した。現在は城の信託基金によって管理されている。

  • 1819年のバンゲイ城を描いた絵

    1819年のバンゲイ城を描いた絵

  • バンゲイ城遺跡

    バンゲイ城遺跡

カールトン・タワーズヨークシャーカールトン英語版にあるエドワード・ウェルビー・プジン英語版設計のヴィクトリア朝ゴシック様式カントリー・ハウス。ヨークシャーにおけるノーフォーク公の住居である。現在もノーフォーク公爵家一族が暮らしている。また結婚披露宴などのイベントに使われている。

  • カールトン・タワーズ。手前の人物は襲爵前の第18代ノーフォーク公エドワード(1981年撮影)

    カールトン・タワーズ。手前の人物は襲爵前の第18代ノーフォーク公エドワード1981年撮影)

  • カールトン・タワーズ邸内の暖炉。右側に座る人物は第17代ノーフォーク公マイルス(1989年撮影)

    カールトン・タワーズ邸内の暖炉。右側に座る人物は第17代ノーフォーク公マイルス1989年撮影)

  • カールトン・タワーズ邸内のステアケース

    カールトン・タワーズ邸内のステアケース

  • カールトンタワーズ邸内

    カールトンタワーズ邸内

  • カールトンタワーズ邸内のパーラー

アランデル城はここ850年ほどの間アランデル伯の本拠地である。11世紀にアランデル伯ロジャー・ドゥ・モンゴメリーによって作られたこの城は1102年に国王によって奪われた。後にヘンリー2世の王位継承権獲得に功があったとして、1155年にウィリアム・ダービニーはアランデル伯に列せられ、この時に城もアランデル伯のものとなった。この後、今日に至るまでアランデル城はノーフォーク公の居城となっている。また、城内に1390年に建てられたフィッツァラン教会堂は、代々のノーフォーク公が埋葬されている。

  • アランデル城外壁

    アランデル城外壁

  • アランデル城の中庭

    アランデル城の中庭

  • 上空からのアランデル城

    上空からのアランデル城

  • アランデル城内ダイニングホール

    アランデル城内ダイニングホール

  • アランデル城内チャペル

  • アランデル城内ライブラリー

    アランデル城内ライブラリー

ノーフォーク公の爵位は3回創設されている。第1期は1397年のマーガレットとその孫トマス・ド・モウブレーの子孫のモウブレー家によって、第2期は1477年のヨーク公リチャードによって、第3期は1483年のハワード家によってである。歴代のノーフォーク公は下記のとおり。

肖像 爵位の代数
名前
(生没年)
受爵期間 続柄 他の保有爵位
ノーフォーク女公爵
マーガレット
(1320頃-1398)
1397年
- 1398年
エドワード1世の孫娘 ノーフォーク女伯爵
肖像 爵位の代数
名前
(生没年)
受爵期間 続柄 他の保有爵位
初代ノーフォーク公爵
トマス・ド・モウブレー
(1365-1399)
1397年
- 1399年
マーガレットの孫 ノーフォーク伯爵
ノッティンガム伯爵
モウブレー男爵
セグレイブ男爵
第2代ノーフォーク公爵
ジョン・ド・モウブレー
(1392-1432)
1425年
- 1432年
先代の子
第3代ノーフォーク公爵
ジョン・ド・モウブレー
(1415-1461)
1432年
- 1461年
先代の子
第4代ノーフォーク公爵
ジョン・ド・モウブレー
(1444-1476)
1461年
- 1476年
先代の子
肖像 爵位の代数
名前
(生没年)
受爵期間 続柄 他の保有爵位
初代ノーフォーク公爵
リチャード
(1473-1483?)
1481年
- 1483年剥奪
エドワード4世の子 ヨーク公爵
ノッティンガム伯爵
肖像 爵位の代数
名前
(生没年)
受爵期間 続柄 他の保有爵位
初代ノーフォーク公爵
ジョン・ハワード
(1420頃-1485)
1483年
- 1485年剥奪
モウブレー男爵
セグレイヴ男爵
ハワード男爵
第2代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
(1443-1524)
1514年復権
- 1524年
先代の子 サリー伯爵
第3代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
(1473-1554)
1524年
- 1547年剥奪
1553年復権
- 1554年
先代の子
第4代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
(1536-1572)
1554年
- 1572年剥奪
先代の孫 サリー伯爵
モウブレー男爵
セグレイヴ男爵
第5代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
(1627-1677)
1660年復権
- 1677年
先代の玄孫 アランデル伯爵
サリー伯爵
ノーフォーク伯爵
モウブレー男爵
セグレイヴ男爵
マルトレイヴァース男爵
フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵
ファーニヴァル男爵英語版
ブラックミアのストレンジ男爵
タルボット男爵英語版
第6代ノーフォーク公爵
ヘンリー・ハワード
(1628-1684)
1677年
- 1684年
先代の弟 アランデル伯爵
サリー伯爵
ノーフォーク伯爵
ノーリッジ伯爵英語版
モウブレー男爵
セグレイヴ男爵
マルトレイヴァース男爵
フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵
ファーニヴァル男爵
ブラックミアのストレンジ男爵
タルボット男爵
ライジング城のハワード男爵英語版
第7代ノーフォーク公爵
ヘンリー・ハワード
(1655-1701)
1684年
- 1701年
先代の子
第8代ノーフォーク公爵
トマス・ハワード
(1683-1732)
1701年
- 1732年
先代の甥
第9代ノーフォーク公爵
エドワード・ハワード
(1685-1777)
1732年
- 1777年
先代の弟
第10代ノーフォーク公爵
チャールズ・ハワード
(1720-1786)
1777年
- 1786年
先代の又従兄弟 アランデル伯爵
サリー伯爵
ノーフォーク伯爵
マルトレイヴァース男爵
フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵
第11代ノーフォーク公爵
チャールズ・ハワード
(1746-1815)
1786年
- 1815年
先代の子
第12代ノーフォーク公爵
バーナード・エドワード・ハワード
(1765-1842)
1815年
- 1842年
先代の三従兄弟 [注釈 1]
第13代ノーフォーク公爵
ヘンリー・チャールズ・ハワード
(1791-1856)
1842年
- 1856年
先代の子
第14代ノーフォーク公爵
ヘンリー・グランヴィル・フィッツアラン=ハワード
(1815-1860)
1856年
- 1860年
先代の子
第15代ノーフォーク公爵
ヘンリー・フィッツアラン=ハワード
(1847-1917)
1860年
- 1917年
先代の子
第16代ノーフォーク公爵
バーナード・マーマデューク・フィッツアラン=ハワード
(1908-1975)
1917年
- 1975年
先代の子 アランデル伯爵
サリー伯爵
ノーフォーク伯爵
マルトレイヴァース男爵
フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵
テレグレスのヘリーズ卿英語版
第17代ノーフォーク公爵
マイルス・フランシス・ステイプルトン・フィッツアラン=ハワード
(1915-2002)
1975年
- 2002年
先代の又従兄弟 アランデル伯爵
サリー伯爵
ノーフォーク伯爵
バーモント男爵英語版
マルトレイヴァース男爵
フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵
グロソップのハワード男爵
第18代ノーフォーク公爵
エドワード・ウィリアム・フィッツアラン=ハワード
(1956-)
2002年
- 受爵中
先代の子
アランデル=サリー伯爵
ヘンリー・マイルス・フィッツアラン=ハワード英語版
(1987-)
法定推定相続人 現当主の子
ガーター騎士団の正装をまとう第12代ノーフォーク公バーナード・ハワードの肖像画(ヘンリー・ウィリアム・ピッカースジル英語版画)

代々のノーフォーク公からは多くのガーター勲章受章者を輩出している。下記の一覧はガーター騎士団に叙せられたノーフォーク公と、その受章年である。

  1. ^ 三従兄弟 (みいとこ) とは、曾祖父の兄弟姉妹の曽孫
  1. ^ 松村赳 & 富田虎男 2000, p. 339.
  2. ^ 森(1987) p.6
  3. ^ 海保(1999) p.165/171
  4. ^ Thompson, Edward Maunde (1886). "Bigod, Roger (1245-1306)" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 5. London: Smith, Elder & Co. pp. 26–27.
  5. ^ a b 森(1987) p.22
  6. ^ 森(1987) p.23-24
  7. ^ a b 森(1987) p.24
  8. ^ 森(1987) p.25-26
  9. ^ 森(1987) p.28-32
  10. ^ 森(1987) p.34-38
  11. ^ 森(1987) p.43-44
  12. ^ 森(1987) p.40-41
  13. ^ a b 海保(1999) p.210
  14. ^ 海保(1999) p.174
  15. ^ 海保(1999) p.212
  16. ^ 森(1987) p.46-47
  17. ^ 海保(1999) p.176
  18. ^ 森(1987) p.47
  19. ^ 森(1987) p.43-44/49
  20. ^ 森(1987) p.49
  21. ^ 森(1987) p.49-50
  22. ^ 森(1987) p.53-54
  23. ^ 海保(1999) p.177
  24. ^ 海保(1999) p.249
  25. ^ 森(1987) p.57-58
  26. ^ 海保(1999) p.248-249
  27. ^ Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月3日閲覧。
  28. ^ Lundy, Darryl. “Edward William Fitzalan-Howard, 18th Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年5月28日閲覧。
  29. ^ 森(1987) p.26-27/35-36
  30. ^ a b c 森(1987) p.35-36