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ラモン・ディアス - Wikipedia

  • ️Sat Aug 29 1959

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ラモン・ディアス

2016年

名前
本名 ラモン・アンヘル・ディアス
Ramón Ángel Díaz
愛称 エル・ペラード(ハゲ)
ラテン文字 Ramón Díaz
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 1959年8月29日(65歳)
出身地 ラ・リオハ州ラ・リオハ
身長 172cm
体重 68kg
選手情報
ポジション FW
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1978-1982 アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート 123 (57)
1982-1983 イタリアの旗 SSCナポリ 25 (3)
1983-1986 イタリアの旗 USアヴェッリーノ 78 (22)
1986-1988 イタリアの旗 ACFフィオレンティーナ 53 (17)
1988-1989 イタリアの旗 インテルナツィオナーレ・ミラノ 33 (12)
1989-1991 モナコの旗 ASモナコ 60 (24)
1991-1993 アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート 52 (27)
1993-1995 日本の旗 横浜マリノス 75 (52)
通算 499 (214)
代表歴
1978-1979  アルゼンチン U-20 6 (8)
1979-1982 アルゼンチンの旗 アルゼンチン 22 (10)
監督歴
1995-1999 アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
2001-2002 アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
2004-2005 イングランドの旗 オックスフォード・ユナイテッドFC
2007-2008 アルゼンチンの旗 CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ
2008-2009 メキシコの旗 クルブ・アメリカ
2010-2011 アルゼンチンの旗 CAサン・ロレンソ・デ・アルマグロ
2011-2012 アルゼンチンの旗 CAインデペンディエンテ
2012-2014 アルゼンチンの旗 CAリーベル・プレート
2014-2016 パラグアイの旗 パラグアイ
2016-2018 サウジアラビアの旗 アル・ヒラル
2018 サウジアラビアの旗 アル・イテハド
2019 エジプトの旗 ピラミッドFC
2020 パラグアイの旗 クルブ・リベルタ
2020 ブラジルの旗 ボタフォゴFR
2021-2022 アラブ首長国連邦の旗 アル・ナスルSC
2022-2023 サウジアラビアの旗 アル・ヒラル
2023-2024 ブラジルの旗 CRヴァスコ・ダ・ガマ
2024- ブラジルの旗 SCコリンチャンス・パウリスタ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ラモン・アンヘル・ディアス(Ramón Ángel Díaz, スペイン語発音: [raˈmon ˈaŋxel ˈdi.as]1959年8月29日 - )は、アルゼンチンラ・リオハ州ラ・リオハ出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。元アルゼンチン代表。現在はSCコリンチャンス・パウリスタの監督を務める。

父親はCAリーベル・プレートのファンで、リーベルのストライカーアンヘル・ラブルナにちなんで、アンヘルと名付けられた[1]。リーベルのユースを経て、1978年にトップに昇格、8月13日のCAコロン戦でデビュー[1]。1週間後のキルメスAC戦で初ゴールを挙げた[1]。1979年に初めてリーグ優勝を経験した[1]。リーベルでの4年間で、202試合で61得点を挙げた[1]

1979年、U-20アルゼンチン代表の一員として出場したワールドユース選手権では、アルジェリア戦でハットトリック、準決勝のウルグアイ戦で1ゴール、決勝でも1ゴールを挙げ、大会得点王に輝いた[1]。最優秀選手に選ばれたディエゴ・マラドーナと共にチームを優勝に導く立役者となる。この活躍が認められ、翌1979年9月12日の西ドイツ戦でフル代表デビューを果たし、1980年12月16日スイス戦でフル代表初ゴールを決めた[2]

1982年にはスペインで行われたワールドカップにも出場、ブラジル戦ではゴールを記録[1]。しかし、マラドーナの退場などによりこの試合に敗れ、チームは2次リーグで姿を消すこととなった。その後も、ヨーロッパの舞台で高いレベルのプレーを続けていたが、これがディアスの最後の代表戦となった[1]。代表の決定力不足が指摘され、ディアスの復帰要望が国民から出たこともあったが、結局復帰することはなかった。当時のアルゼンチン代表は、マラドーナを中心としたチームづくりを行っていたため、確執のあったディアスが外されたという説も根強いが、マラドーナは著書でそのことを否定、逆に1986年大会、1990年大会のメンバーに呼ぶべきだと代表監督に主張したとしている[3][4]。1990年のワールドカップメンバーに入れるか、カルロス・ビラルド監督が真剣に検討していたともされる[1]

1982年、オマール・シボリSSCナポリの会長に獲得を勧めとこともあり、ナポリへ移籍した[1]。1982年9月26日USカタンザーロ戦でセリエA初ゴールを決めた[1]。イタリアでの初めてのシーズン年間38試合で8ゴールに終わるなど、いい結果を残せず、1983-84シーズンはUSアヴェッリーノに貸し出され[1]、マラドーナと入れ替わる様にナポリを離れた。アヴェッリーノでは、1985-86シーズンにリーグ戦のみで10ゴールを挙げたが[1]、チームの経済状態の悪さから、1986年、ACFフィオレンティーナに移籍することとなった[1]。そのシーズン、再びリーグ戦で二桁ゴールを挙げた[1]

1988-89シーズン、インテルナツィオナーレ・ミラノに移籍、ローター・マテウスアンドレアス・ブレーメらとともにプレー、特にアルド・セレーナと優れた関係性のツートップを形成した[1]。セレーナは得点王を、ディアス自身は12得点を決め[5] 、チーム8年ぶりのスクデット獲得に貢献[3]。しかし、十分活躍しながらも、翌シーズンからユルゲン・クリンスマンが加入することになると、チームから放出された[1]

1989-90シーズン、フィオレンティーナが複帰へ向けて動いていたが、アーセン・ベンゲル率いるASモナコに移籍した[1]。9月22日のFCジロンダン・ボルドー戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールを決めるなど[6]、15ゴールを決め、得点ランキング5位となった。1990-91シーズンのクープ・ドゥ・フランス決勝、オリンピック・マルセイユ戦では途中出場からジェラール・パシのゴールをアシスト[6] 、1-0と破り優勝に貢献した[3]

1991年からはアルゼンチンの古巣CAリーベル・プレートに復帰、20ゴールを決め、リーグ得点王を獲得し、リーグ優勝に貢献した。

1993年にJリーグ横浜マリノスに加入。Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦で決勝ゴールを決めた[7]。6月26日のジェフユナイテッド市原戦、6月30日の浦和レッドダイヤモンズ戦と、Jリーグで初めて2試合連続ハットトリックを決め、12月8日の横浜フリューゲルス戦でもハットトリックを決めるなど[8]、1シーズン目は特に木村和司との良い連携でゴールを量産[9]、32試合で28ゴールを挙げ、Jリーグ初代得点王、Jリーグベストイレブンに輝いた。2年目の1994年も主力として4月13日名古屋グランパスエイト戦でハットトリックを決めるなど、年間23ゴールを決める活躍をした。

1995年、ホルヘ・ソラーリ新監督と対立し、6試合に出場したのみでチームを退団、そのまま現役を引退することとなった[10]。4月12日の浦和レッドダイヤモンズ戦で決めたゴールは[11]、現役最後のゴールとなった。Jリーグでは在籍中、通算4回のハットトリックを達成した[8]

2019年、横浜F・マリノスが約15年振りにJ1優勝を果たすと、自身のSNS上で古巣を祝福した[12]

引退後にはCAリーベル・プレートの監督に就任、エンソ・フランチェスコリアリエル・オルテガらと共にリーグ優勝だけでなく、1996年にリーベルに10年ぶりとなるコパ・リベルタドーレス優勝、1997年にはスーペルコパ・スダメリカーナ優勝をもたらした[3]。ホルヘ・ソラーリとはウマが合わなかったディアスだが、ホルヘの甥であるサンティアゴ・ソラーリをデビューさせた。

2014年12月4日、パラグアイ代表の監督に就任した[13]。2016年に就任したアル・ヒラルでは、国内リーグと国王杯で優勝、2017年のAFCチャンピオンズリーグではチームを決勝に導いたが決勝で浦和レッドダイヤモンズに敗れた。

2020年11月6日、ボタフォゴFRの監督に就任。だが健康上の問題により、1試合も指揮を執ることなく11月27日に退任した[14]

2021年、アル・ヒラルの監督に復帰。AFCチャンピオンズリーグ2022では決勝に進出するも、またも浦和に敗れ準優勝となり、直後に監督を解任された[15]

2023年7月、ブラジルのCRヴァスコ・ダ・ガマの監督に就任した[16]。2024年4月に解任された。

2024年6月からはSCコリンチャンス・パウリスタの監督に就任した。

利き足の左足でのシュートを得意とし、ほとんどのゴールを左足で決めた[17]

ディエゴ・マラドーナとの仲について、1993年のインタビューでは、「犬猿の仲と言われるが、あながち間違いではない、ただ、変に対抗意識を持っているのはマラドーナの方で、出来るだけ自分に会わないようにしていて、同じイタリアでプレーしていた時も挨拶すら交わしたことはなかった。自分はマラドーナに対して特に悪い感情を持っている訳ではない、自分とは比べられない程のスターであるのだから自分に対して対抗意識を持つ必要はないのだが。」と語っていた[18]

アルゼンチンの大統領であったカルロス・メネムとは出身地が同じで親友であった[18]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
アルゼンチン リーグ戦 リーグ杯アルヘンティーナ杯 期間通算
1978-79 リーベル・プレート プリメーラ 20 8
1979-80 43 23
1980-81 43 22
1981-82 17 4
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
1982-83 ナポリ セリエA 25 3
1983-84 アヴェッリーノ 24 7
1984-85 27 5
1985-86 27 10
1986-87 フィオレンティーナ 29 10
1987-88 24 7
1988-89 インテル・ミラノ 33 12
フランス リーグ戦 F・リーグ杯フランス杯 期間通算
1989-90 モナコ ディヴィジョン・アン 28 15
1990-91 32 9
アルゼンチン リーグ戦 リーグ杯アルヘンティーナ杯 期間通算
1991-92 リーベル・プレート プリメーラ 31 20
1992-93 21 7
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1993 横浜M - J 32 28 5 3 3 0 40 31
1994 37 23 3 1 4 3 44 27
1995 6 1 - - 6 1
通算 アルゼンチン プリメーラ 175 84
イタリア セリエA 189 54
フランス ディヴィジョン・アン 60 34
日本 J 75 52 8 4 7 3 90 59
総通算 499 224
  • 国際Aマッチ 22試合 10得点(1979年-1982年)[19]
アルゼンチン代表国際Aマッチ
出場得点
1979 1 1
1980 9 4
1981 4 1
1982 8 4
通算 22 10
リーベル・プレート
インテル・ミラノ
モナコ
U-20アルゼンチン代表
リーベル・プレート
サン・ロレンソ
  • プリメーラ・ディビシオン : 2006-07C
アル・ヒラル
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Ramón Angel Díaz, 'El puntero triste': bomber implacabile e allenatore di successo”. GOAL (2022年3月25日). 2023年7月29日閲覧。
  2. ^ Ramon Diaz player profile-transfermarkt
  3. ^ a b c d Ramon Diaz: Globe-trotting thoroughbred commits to Oxford cause”. Independent.co.uk. 2018年3月3日閲覧。
  4. ^ Ramon Angel Diaz”. Ramon Diaz.com. 2018年3月3日閲覧。
  5. ^ Gianni Mura (30 maggio 1989). “7,5 a Berti (escluso il look)”. la Repubblica 30 ottobre 2016閲覧。
  6. ^ a b “Ramon Diaz AS Monaco”. www.transfermarkt.com 2020年8月20日閲覧。
  7. ^ Jリーグ開幕から25年…記念すべき第1節を写真と動画で振り返る-サッカーキング編集部 2017.5.15
  8. ^ a b ハットトリック一覧-Jleague Data site 2018年2月10日
  9. ^ Jサッカーグランプリ Jリーグイヤーブック1993 62ページ、104ページ
  10. ^ ラモン・ディアスのシュートが、 わかっていても止められなかった理由-Sportiva
  11. ^ “’95Jリーグサントリーシリーズ 第8節第1日”. j-league 2020年4月17日閲覧。
  12. ^ “「日本人はインテリジェント」J初代得点王が語った日本サッカーの未来――あの助っ人たちの“いま”【ラモン・ディアス】”. j-league 2020年11月3日閲覧。
  13. ^ サッカーキング (2014年12月5日). “Jリーグ初代得点王のラモン・ディアス氏、パラグアイ代表監督就任”. 2014年12月5日閲覧。
  14. ^ フットボールチャンネル (2020年11月28日). “本田圭佑所属ボタフォゴ、Jリーグ初代得点王の監督が一度も指揮を執らず退任”. 2020年11月28日閲覧。
  15. ^ アル・ヒラルの前監督ラモン・ディアス氏、ブラジル2部で指揮へ…契約前から練習に参加? - 超WORLDサッカー!・2023年7月15日
  16. ^ J初代得点王のラモン・ディアスがブラジルの名門率いて手腕を発揮! ヴァスコ・ダ・ガマが降格圏から急浮上 - SOCCER KING・2023年9月27日
  17. ^ “ラモン・ディアスのシュートが、わかっていても止められなかった理由”. web Sportiva. (2020年3月27日) 2024年4月14日閲覧。
  18. ^ a b サッカーダイジェスト 1993年5月1日 P.36-37
  19. ^ ラモン・ディアス - National-Football-Teams.com
タイトル・受賞歴

南米年間ベストイレブン 1991

1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
Jリーグアウォーズ(最優秀選手賞 - JB11 - 得点王 - JBYP賞 - JFP個人賞 - J2MEP - 功労選手賞 - 最優秀監督賞 - 最優秀主審賞 - 最優秀副審賞 - JBP賞)
得点王(J1 - J2 - J3) - 記念ゴール(J1 - J2 - J3)
J1
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
J2
2020年代
J3
2020年代
ベストイレブン(GK - DF - MF - FW) - JCB
アルゼンチン代表 - 出場大会
監督歴