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伏見宮博明王 - Wikipedia

  • ️Tue Jan 26 1932

伏見宮博明王

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伏見 博明
(伏見宮 博明王)
伏見宮

1930年代撮影。

続柄

身位 臣籍降下
敬称 殿下 → 臣籍降下
出生 1932年1月26日(93歳)
日本の旗 日本東京府東京市麹町区紀尾井町、伏見宮邸
配偶者 和子(吉川武3女)
子女 朗子
宣子
雅子
父親 博義王
母親 博義王妃朝子
役職 日本文化振興会総裁
新日本美術院総裁
国際学士院総裁
モービル石油PMインターナショナル顧問
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伏見宮 博明王(ふしみのみや ひろあきおう、1932年昭和7年〉1月26日 - )は、日本旧皇族伏見若宮博義王[注釈 1]第1王子。伏見宮第26代当主[注釈 2]1947年(昭和22年)の皇籍離脱後の氏名は伏見 博明(ふしみ ひろあき)。日本文化振興会総裁。新日本美術院総裁。国際学士院総裁。モービル石油(現在のENEOS)及びPMインターナショナル顧問上皇明仁の三従兄であり、今上天皇(徳仁)の三従伯父にあたる。

1932年(昭和7年)1月26日午後2時27分、伏見宮邸において博義王博義王妃朝子の第1王子として誕生[2]。御七夜の2月1日に「博明」と命名された[3]1938年(昭和13年)10月19日に、父宮の博義王が薨去。さらに第二次世界大戦後間もない1946年(昭和21年)8月16日に、祖父・伏見宮博恭王が薨去したことに伴い、14歳で伏見宮を継承する。

連合国軍占領下において、1947年(昭和22年)10月14日に他の皇族と共に臣籍降下(皇籍離脱)した[4]。皇籍離脱直前の時点では、皇位継承順位三笠宮家寬仁親王に次いで第7位であり、伏見宮系皇族としては筆頭であった。幼少からの親友李玖[注釈 3]とともに、やがてアメリカ合衆国への留学を熱望するようになった[5]1950年(昭和25年)8月に渡米[6]。同国マサチューセッツ工科大学留学し、帰国後はモービル石油(現:ENEOS)に入社。現在は同社の顧問を務める。2001年平成13年)に、日本文化振興会の第5代総裁に就任。皇籍離脱後は一般人の博明だが、授賞式では、かつて皇族だったことを踏まえて敬意を示され「殿下」と呼ばれた。それ以降、周りの者からは殿下付けされている。2022年令和4年)、自身が顧問を務めているPM-Japan社がマルチ商法を展開し、これによって薬機法違反疑惑を掛けられていることが報道されたが、本人の回答は「そんなのわかんねえよ」というものだった[7]

博明王 父:
博義王
祖父:
博恭王伏見宮
曾祖父:
貞愛親王伏見宮
曾祖母:
河野千代子
祖母:
経子
曾祖父:
徳川慶喜
曾祖母:
新村信
母:
朝子
祖父:
一条実輝
曾祖父:
四条隆謌
曾祖母:
四条春子[注釈 4]
祖母:
一条悦子
曾祖父:
細川護久
曾祖母:
宏姫[注釈 5]
  1. ^ 父宮の博義王は、伏見宮の嗣子(若宮)であったが同宮家宮号を継承する前に薨去している。
  2. ^ なお、伏見自身は「一般的には僕が二四代ということになりますが、個人的にはおやじが二四代で僕が二五代だと思っています[1]」と述べている。
  3. ^ 王公族李垠妃方子女王梨本宮守正王第一女子)の次男で、李王家の嗣子。戦後は身分を喪失。
  4. ^ 中井好馬の長女で、土方久元の養女。
  5. ^ 鍋島直正の五女。
  1. ^ 古川江里子小宮京 編『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて:伏見博明オーラルヒストリー』(中央公論新社、2022年)46頁。
  2. ^ 昭和7年宮内省告示第2号(『官報』第1520号、昭和7年1月27日)(NDLJP:2957989
  3. ^ 昭和7年宮内省告示第3号(『官報』第1525号、昭和7年2月2日)(NDLJP:2957995/2
  4. ^ 昭和22年宮内府告示第15号(『官報』第6226号、昭和22年10月14日)(NDLJP:2962747
  5. ^ 1950年5月24日 読売新聞「元プリンス渡米 仲よしの伏見、李両君が留学」
  6. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十一』東京書籍、2017年3月30日、119頁。ISBN 978-4-487-74411-4
  7. ^ “旧皇族筆頭「伏見宮家」当主が「薬機法違反疑惑」ビジネスの広告塔に”. 週刊新潮. (2022年6月1日) 2022年10月15日閲覧。
  8. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。