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勧修寺晴右 - Wikipedia

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勧修寺 晴右
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永3年(1523年
死没 天正5年1月1日1577年1月19日
改名 晴秀→晴右→松国(道号)
諡号 高寿院(号)
戒名 天勁
官位 正二位権大納言左大臣
主君 後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇
氏族 勧修寺家
父母 父:勧修寺尹豊、母:伊勢貞遠の娘
兄弟 晴秀結城忠正室、畠山家継
正室:粟屋元子粟屋元隆の娘)
晴豊晴子誠仁親王妃)、万里小路充房日袖立本寺住持)、娘(正親町三条公仲室)
特記
事項
後陽成天皇の外祖父
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勧修寺 晴右(かじゅうじ はるみぎ / はれみぎ[1][注釈 1])は、戦国時代から安土桃山時代公卿

内大臣勧修寺尹豊の子。室町幕府の第12代将軍足利義晴から偏諱を賜り、晴秀(はるひで / はれひで)と名乗る。のち、晴右に改名。号は松国。

大永3年(1523年)、勧修寺尹豊の子として誕生[2]

天文19年(1550年)11月26日、参議右大弁となる[2]

天分22年(1553年)2月23日、晴秀は山科言継らとともに東山霊山城に赴き、将軍・足利義輝と面会する[3]

天文24年(1555年)2月16日、権中納言となる[2]

永禄8年(1565年)5月9日、晴秀のもとに三好義継が訪れ、太刀を贈られた[4]

永禄10年(1567年)10月22日、晴秀は足利義栄の配下・畠山維広に樽代を、畠山伊豆守に太刀を贈った[5]。25日、維広が晴秀のもとに礼に訪れた[6]

11月17日、晴秀のもとに伊勢貞助が訪れ、義栄の将軍宣下について話し合われた[7]

12月25日、晴秀は摂津富田に赴き[8]、 26日に義栄と対面し[9]、27日に帰京した[10]

永禄11年(1568年)、名を晴秀から晴右に改名する[2]

2月3日、晴右は畠山維広や水無瀬親氏と義栄の将軍宣下について話し合い[11]、8日に義栄が朝廷から将軍に任じられた[12]

10月、義栄が阿波に退去し、織田信長の支援を受けた足利義昭が新将軍になった。そのため、義栄派の公家は朝廷を追われ、武家伝奏を務めていた晴右は蟄居を命じられた[13]

永禄13年(1570年)3月10日、晴右は山科言継甘露寺経元庭田重通中山孝親日野輝資ら公家・僧侶らともに、信長のもとに礼に訪れた[14]

同月、晴右は関白二条晴良加賀公家領井家荘の領有をめぐって争い、義昭のもとに調停が依頼された[15]。すると、義昭は晴良を越前に亡命していた時より自身に従っていたことを理由に勝訴とした一方で、晴右を義栄に参仕したという理由で敗訴とした[16]。なお、正親町天皇が晴右に荘園を安堵する裁決を下していたにもかかわらず、義昭はその勅命を無視して、晴良に安堵する形をとった(『言継卿記』、『晴右公記』永禄13年3月20日条[17])。

天正元年(1573年)12月25日、権大納言となる[2]

天正2年(1574年)、正二位となる。

天正4年(1576年)5月9日、晴右や甘露寺経元、中山孝親、冷泉為純は、村井貞勝石山本願寺との戦闘について話し合い、貞勝から勅使の派遣を求められ、これに応じた[18]。その後、5月11日に晴右の嫡子・晴豊と甘露寺経元が勅使として、信長のもとに赴いた[19]

6月、南都伝奏を務めた晴右は興福寺別当の人事に介入したことで、信長の怒りを買い、23日には中山孝親、甘露寺経元、庭田重保と共に蟄居を命じられる(天正4年興福寺別当相論)。だが、8月6日に晴右らは赦免された[20]

12月、出家し、松国と号する。

天正5年(1577年)1月1日、晴右は死去した[2][21]。享年55。

天正14年(1586年)12月、内大臣追贈される。

慶長4年(1599年)12月13日、左大臣を追贈される。

晴右は武家伝奏を務め、足利将軍家三好氏織田信長らと交流があった。また、晴右の記した日記は『晴右公記』(晴右記)などと呼ばれ、京都大学が所蔵し、『続史料大成』に収められている。

  1. ^ 晴右の字は、「はるすけ」「はれすけ」とも読む。
  1. ^ 『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫、249 - 253ページ[出典無効]
  2. ^ a b c d e f 『系図纂要』「勧修寺」
  3. ^ 『言継卿記』天分22年2月23日条
  4. ^ 『晴右公記』永禄8年5月9日条
  5. ^ 『晴右公記』永禄10年10月22日条
  6. ^ 『晴右公記』永禄10年10月25日条
  7. ^ 『晴右公記』永禄10年11月17日条
  8. ^ 『晴右公記』永禄10年12月25日条
  9. ^ 『晴右公記』永禄10年12月26日条
  10. ^ 『晴右公記』永禄10年12月27日条
  11. ^ 『晴右公記』永禄11年2月3日条
  12. ^ 『晴右公記』永禄11年2月8日条
  13. ^ 榎原 & 清水 2017, p. 389.
  14. ^ 『晴右公記』永禄13年3月10日条
  15. ^ 山田 2019, p. 258.
  16. ^ 山田 2019, pp. 258–259.
  17. ^ 湯川敏治『戦国期公家社会と荘園経済』続群書類従完成会、2005年、265-266頁。ISBN 978-4-7971-0744-9
  18. ^ 『兼見卿記』天正4年5月9日条
  19. ^ 『兼見卿記』天正4年5月11日条
  20. ^ 『兼見卿記』天正4年8月6日条
  21. ^ 『兼見卿記』天正5年1月1日条
  • 山田康弘『足利義輝・義昭 天下諸侍、御主に候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年12月。 NCID BB29396301
  • 榎原雅治; 清水克行 編『室町幕府将軍列伝』戎光祥出版、2017年。
明正天皇の系譜