園祥子 - Wikipedia
- ️Mon Dec 23 1867
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園 祥子 | |
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![]() 小菊典侍・園祥子 | |
出生 |
1867年12月23日![]() |
死去 |
1947年7月7日(79歳没)![]() |
埋葬 | 西光庵(東京都新宿区新宿) |
配偶者 | 明治天皇 |
子女 | 8人(系図参照) |
父親 | 伯爵 園基祥 |
役職 | 権典侍 → 典侍 |
宗教 | 神道、法華宗[1] |
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園祥子(その さちこ、1867年12月23日(慶応3年11月28日) - 1947年(昭和22年)7月7日)は、明治天皇の側室。園基祥伯爵令嬢。宮中では小菊典侍(こぎくのてんじ)、夕顔局(ゆうがおのつぼね)と呼ばれた。
父の園基祥(1833 - 1905)は、雅楽や神楽を家職とした公卿・園家の出で、万延元年(1860年)より睦仁親王(後の明治天皇)の家司を務めていた[2]。実兄に細川利永の養嫡子となった細川利文がいる。
また祖母である松浦季子の妹・中山愛子は明治天皇の外祖母である。
明治天皇の後宮において、典侍の柳原愛子と並び寵愛あつい女官のひとりであった[1]。女官一の頓才(気が利く)でありながら気が軽く、それが森厳で荘重な明治天皇の気質と調和したとされる[1]。
明治天皇間に久宮静子内親王(夭折)・昭宮猷仁親王(夭折)・常宮昌子内親王(竹田宮恒久王妃)・周宮房子内親王(北白川宮成久王妃)・富美宮允子内親王(朝香宮鳩彦王妃)・満宮輝仁親王(夭折)・泰宮聡子内親王(東久邇宮稔彦王妃)・貞宮多喜子内親王(夭折)の2男6女を儲けた(うち成人したのは皇女4人のみ)。
30年以上にわたり高崎正風男爵の指導を受けて、毎日明治天皇から下される歌題を詠んでいるため[3]、祥子は歌道に秀でており、1912年(明治45年)の歌会始では「松上鶴」の勅題に対しての詠進が、選歌に入った[4]。
「 | あさひさす こまつがはらに あしたづの ちよのこゑこそ しげくきこゆれ | 」 |
—園祥子(明治45年歌会始「松上鶴」[4] より) |
明治天皇の崩御後は貞明皇后の女官長となり、若君(後の三笠宮崇仁親王)の出産に立ち会った。従二位勲二等宝冠章を受ける。
1947年(昭和22年)に79歳で逝去。墓所は東京都新宿区新宿の西光庵。
- 夕顔局
- 当時、明治天皇のプライベートな居室には電灯、ガス灯、ランプは一切なかった[5]。代わって、季節に応じた照明(提灯、灯篭)を用いた[6]。秋に用いる夕顔灯籠は女官の手作りである[6]が、ある時、明治天皇が灯篭に近づいてみると、人の目・鼻の穴が開けてある滑稽な灯篭で、謹厳な天皇が思わず声を上げて笑った[7]。この夕顔灯篭の作り手が、祥子であり、以来、夕顔局と称されるようになった[7]。
昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914) | |||||||||
子女無し | |||||||||
葉室光子 (1853-1873) | |||||||||
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 ) | |||||||||
橋本夏子 (1856-1873) | |||||||||
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 ) | |||||||||
明治天皇(第122代天皇) | |||||||||
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 ) | |||||||||
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 ) | |||||||||
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇) | |||||||||
柳原愛子 (1855-1943) | |||||||||
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 ) | |||||||||
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 ) | |||||||||
千種任子 (1856-1944) | |||||||||
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 ) | |||||||||
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 ) | |||||||||
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子) | |||||||||
竹田宮恒久王 | |||||||||
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子) | |||||||||
北白川宮成久王 | |||||||||
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子) | |||||||||
朝香宮鳩彦王 | |||||||||
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 ) | |||||||||
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子) | |||||||||
東久邇宮稔彦王 | |||||||||
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折) | |||||||||
園祥子 (1867-1947) | |||||||||
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- 位階
- 園祥子「火を淸めて神を祭らせ給ふ」『明治大帝』、大日本雄弁会講談社、1927年、265-270頁、全国書誌番号:47022214。(NDLJP:1178628/146)※祥子の肩書は「元典侍」となっている
- ^ a b c 斎藤渓舟 1912, p. 101(NDLJP:946223/58)
- ^ 園基祥 その-もとさちコトバンク
- ^ 斎藤渓舟 1912, p. 61(NDLJP:946223/60)
- ^ a b 斎藤渓舟 1912, p. 105(NDLJP:946223/60)
- ^ 斎藤渓舟 1912, p. 102(NDLJP:946223/59)
- ^ a b 斎藤渓舟 1912, p. 103(NDLJP:946223/59)
- ^ a b 斎藤渓舟 1912, p. 104(NDLJP:946223/60)
- ^ 『官報』第1568号「敍任及辭令」、明治21年9月18日(NDLJP:2944806)