恭帝 (西魏) - Wikipedia
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恭帝 拓跋廓 | |
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西魏 | |
第3代皇帝 | |
王朝 | 西魏 |
在位期間 | 554年 - 556年 |
姓・諱 | 元廓→拓跋廓 |
諡号 | 恭皇帝 |
生年 | 大統3年(537年) |
没年 | 557年 |
父 | 文帝 |
后妃 | 若干皇后 |
恭帝(きょうてい)は、北朝西魏の第3代(最後)の皇帝。また、拓跋氏最後の皇帝でもある。元の姓諱は元廓(げん かく)、のち拓跋姓に復古して拓跋廓(たくばつ かく)。
文帝の四男として生まれた。大統14年(548年)に斉王に封ぜられた。554年1月に異母兄の元欽が宇文泰によって廃位されると、代わって皇帝に擁立された。
556年1月、周礼にならって六官を建て、宇文泰を太師・大冢宰、李弼を大司徒、趙貴を太保・大宗伯、独孤信を大司馬、于謹を大司寇、侯莫陳崇を大司空にそれぞれ任じた。
556年10月に宇文泰が没すると、12月に宇文護に迫られて、恭帝は周公宇文覚に帝位を禅譲する詔を発した。ここに西魏は滅亡した。拓跋廓は宮中を出て大司馬府に移った。
557年1月、宇文覚が天王(皇帝)の位について北周を建てると、拓跋廓は宋公に封ぜられたが、間もなく殺害された[1]。
恭帝の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では554年・555年・556年を「西魏恭帝元年・2年・3年」と呼んでいる。