慈訓 - Wikipedia
慈訓(じくん / じきん、持統天皇5年(691年)- 宝亀8年(777年))は、奈良時代の奈良興福寺の僧。俗姓は船氏。河内国出身。
人物・生涯
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興福寺の玄昉、元興寺の良敏に法相唯識を学び、審祥から華厳を学んだ。740年(天平12年)審祥による華厳経の法会では副講師をつとめ、742年(天平14年)には講師となった。755年(天平勝宝7歳)には宮中講師となる。翌756年(天平勝宝8歳)聖武天皇が病気となった際、良弁・安寛とともに看病禅師・華厳講師をつとめ、その功により少僧都に任じられた。藤原仲麻呂政権下では仏教政策の中心者として活躍し、759年(天平宝字3年)には、文室智努とともに意見封事を淳仁天皇に行い、採用されている[1]。760年(天平宝字4年)には良弁らとともに僧位制度の改正を奏上している。その後道鏡が現れると、「政を行うに理に乖き、僧綱たるに堪えず」という理由で763年(天平宝字7年)僧綱を解任され、かわって道鏡が少僧都に就任したが[2]、道鏡が失脚した770年(神護景雲4年)8月には少僧都に復帰している[3]。
脚注
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参考文献
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