水野忠光 - Wikipedia
水野忠光
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この項目では、唐津藩主について記述しています。戦国武将の同名の人物については「水野忠光 (戦国武将)」をご覧ください。 |
水野忠光 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 明和8年8月20日(1771年9月28日) |
死没 | 文化11年4月4日(1814年5月23日) |
改名 | 織之助(幼名)、忠光 |
戒名 | 珍諦院殿寛豊是道大居士 |
墓所 |
茨城県結城市の万松寺 佐賀県唐津市和多田雄岳山 |
官位 | 従五位下・式部少輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 肥前唐津藩主 |
氏族 | 水野氏(忠元流) |
父母 | 父:水野忠鼎、母:水野忠任の養女(水野忠辰の娘) |
兄弟 | 忠光、内藤正国、忠方、忠寛、米倉昌俊、内藤政環、石川総師正室、水野貞利正室、大岡忠正正室、水野忠純室ら |
妻 |
正室:浅野重晟の娘・勝子 側室:恂 |
子 | 芳丸、忠邦、内藤正縄、堀直哉、跡部良弼、駒木根政任、水野忠勧、長谷川正道、釧、連、朔、幸子ら |
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水野 忠光(みずの ただあきら/ただあき)は、肥前国唐津藩の第3代藩主。忠元系水野家10代。水野忠之の玄孫で水野忠邦の実父である。
明和8年(1771年)8月20日、第2代藩主水野忠鼎の長男として生まれる。天明5年(1785年)に従五位下、式部少輔に叙任される(のち転任)。文化2年(1805年)9月5日の父の隠居により家督を継いだ。藩政においては父が用いた家老の二本松義廉を罷免して、親政を行なって改革を進めたが効果はなく、文化9年(1812年)に次男の忠邦に家督を譲って隠居した。文化11年(1814年)4月4日に江戸で死去した。享年44。
父母
正室
- 勝子 ー 浅野重晟の娘
側室
- 恂 ー 中川氏
子女