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瀧本誠 - Wikipedia

  • ️Sun Dec 08 1974

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曖昧さ回避 美術評論家の「滝本誠」とは別人です。
瀧本 誠
基本情報
ラテン文字 Makoto Takimoto
原語表記 たきもと まこと
日本の旗 日本
出生地 茨城県の旗茨城県岩井市
(現・坂東市
生年月日 1974年12月8日(50歳)
身長 174cm
体重 81kg
選手情報
階級 男子81kg級
所属 柔道アカデミー
段位 五段
引退 2004年

獲得メダル

日本の旗 日本
柔道
オリンピック
2000 シドニー 81kg級
アジア柔道選手権
1995 ニューデリー 78kg級
2000 東京 81kg級
2013年10月23日現在
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瀧本 誠
基本情報
本名 瀧本 誠
通称 飢狼柔道王
吉田道場の異端児
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1974年12月8日(50歳)
出身地 茨城県岩井市(現・坂東市
所属 吉田道場
身長 174cm
体重 81kg
階級 ミドル級
ウェルター級
バックボーン 柔道
テーマ曲 Hale no sola sita〜LA YELLOW SAMBA〜
PE'Z
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瀧本 誠(たきもと まこと、1974年12月8日 - )は、日本の男性柔道家総合格闘家茨城県岩井市(現・坂東市)出身。柔道五段。2000年シドニーオリンピック柔道男子81kg級金メダリスト。

2000年シドニーオリンピックの際には、当時の柔道家では珍しい茶色に染めた髪、国歌斉唱時に手を胸に置く仕草などユニークなエピソードをマスコミに提供。「柔道界の異端児」とも評された。柔道家時代の得意技は、袖釣り込み腰内股

総合格闘技に転向・引退後、柔道指導者として活動している。

実家は青果店を経営。たまたま客に柔道の先生がいて誘われたのがきっかけで、6歳(小学1年)の時に柔道を始める[1]。中学入学と同時に上京、講道学舎に入門(吉田善行小斎武志大山峻護らが同期)。世田谷区立弦巻中学校世田谷学園高校日本大学を卒業。大学卒業後は日本中央競馬会に所属し、シドニーオリンピック柔道男子81kg級金メダリストとなった。

2002年に日本中央競馬会を退職し、フランスのクラブチーム「USオルレアン」所属となった。

2003年に帰国すると埼玉栄高校職員を務めながら、アテネオリンピック出場を目指すも、2004年4月4日の全日本選抜柔道体重別選手権大会(兼アテネオリンピック代表最終選考会)男子81kg級の決勝で塘内将彦に袖釣り込み腰で一本負けし、代表権を逃した。

2004年12月7日、総合格闘家への転向、PRIDE参戦を表明。

2004年12月31日、総合格闘技デビュー戦となったPRIDE 男祭り 2004で相撲界から転向してきた戦闘竜と対戦。判定で勝利し、デビュー戦を勝利で飾る。完勝ではなかったことから、試合後リング上で「今日、試合するまで、総合格闘技をなめてました。どうもすいませんでした。」と涙ぐみながら発言した。

2005年6月26日、PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND田村潔司と対戦し、判定負け。

2005年10月23日、PRIDE.30で同じく柔道出身のユン・ドンシクと対戦し、判定勝ち。瀧本は半袖の柔道着、ユンはスパッツ姿での対戦となった。

2005年12月31日、PRIDE 男祭り 2005菊田早苗と対戦し、判定負け。

2006年6月4日、PRIDE 武士道 -其の十一-で行なわれたウェルター級(-83kg)グランプリ1回戦でゲガール・ムサシと対戦し、ムサシのパンチで右眼窟底骨折し、ドクターストップ負け。

2007年4月8日、PRIDE.34ゼルグ・"弁慶"・ガレシックと対戦。苦しい展開となるも、チキンウィングアームロックで逆転一本勝ち。

2007年12月31日、やれんのか! 大晦日! 2007ムリーロ・ブスタマンチと対戦し、僅差の判定勝ち。

2008年3月5日、戦極旗揚げ戦戦極 〜第一陣〜エヴァンゲリスタ・サイボーグと対戦し、アキレス腱固めで一本負け。

2008年8月24日、戦極 〜第四陣〜フランク・トリッグと対戦し、判定負け。

2009年5月2日、ウェルター級転向初戦となった戦極 〜第八陣〜マイケル・コスタと対戦し、ヒールホールドによる一本勝ち。

2010年3月16日、現役引退を発表[2]

2011年開校の世田谷区スポーツ振興財団世田谷ジュニアアカデミーにて「柔道アカデミー」の総合監修を務める[3]。2013年には早稲田大学スポーツ科学学術院社会人修士課程1年制の第7期生(2012年度卒業生)として修了[4]。柔道指導、柔道に関する講演や雑誌連載(『近代柔道』「誠が翔ける!」)のほか、2014年から駒澤大学で講師を務める[5]。2015年にはバラエティ番組「ぶっこみジャパニーズ」に出演。

私生活では、2005年に結婚し[6]、一男一女の父親[7]

総合格闘技 戦績
11 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
6 0 2 4 0 0 0
5 1 1 3 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
イ・ジェソン 5分3R終了 判定3-0 戦極 〜第十陣〜 2009年9月23日
マイケル・コスタ 1R 3:31 ヒールホールド 戦極 〜第八陣〜 2009年5月2日
× フランク・トリッグ 5分3R終了 判定0-3 戦極 〜第四陣〜 2008年8月24日
× エヴァンゲリスタ・サイボーグ 1R 4:51 アキレス腱固め 戦極 〜第一陣〜 2008年3月5日
ムリーロ・ブスタマンチ 2R(10分/5分)終了 判定2-1 やれんのか! 大晦日! 2007 2007年12月31日
ゼルグ・"弁慶"・ガレシック 1R 5:40 チキンウィングアームロック PRIDE.34 2007年4月8日
× ゲガール・ムサシ 1R 5:36 ドクターストップ(右眼窟底骨折) PRIDE 武士道 -其の十一-
【ウェルター級グランプリ 1回戦】
2006年6月4日
× 菊田早苗 3R(10分/5分/5分)終了 判定0-3 PRIDE 男祭り 2005 頂-ITADAKI- 2005年12月31日
ユン・ドンシク 3R(10分/5分/5分)終了 判定3-0 PRIDE.30 STARTING OVER 2005年10月23日
× 田村潔司 3R(10分/5分/5分)終了 判定0-3 PRIDE GRANDPRIX 2005 2nd ROUND 2005年6月26日
戦闘竜 3R(10分/5分/5分)終了 判定3-0 PRIDE 男祭り 2004 -SADAME- 2004年12月31日
  • 全国中学校大会 中量級 優勝(1989年)
  • インターハイ 中量級 優勝(1992年)
  • アジア選手権 78kg級 優勝(1995年)
  • 全日本学生体重別選手権大会 78kg級 優勝(1996年)
  • ドイツ国際 78kg級 優勝(1997年)
  • 全日本選抜柔道体重別選手権大会 81kg級 優勝(1997年)
  • 講道館杯日本体重別選手権大会 81kg級 優勝(1997年)
  • 講道館杯日本体重別選手権大会 81kg級 優勝(1998年)
  • 全日本選抜柔道体重別選手権大会 81kg級 優勝(1999年)
  • ドイツ国際大会 81kg級 優勝(2000年)
  • 全日本選抜柔道体重別選手権大会 81kg級 優勝(同大会2連覇)(2000年)
  • 2000年シドニーオリンピック 柔道 81kg級 優勝(2000年)
  • 講道館杯日本体重別選手権大会 81kg級 優勝(2001年)
  • 全日本選抜体重別選手権大会 81kg級 準優勝(2004年)

2012年11月、プロ野球球団の北海道日本ハムファイターズがドラフト1位指名した大谷翔平(花巻東高)と入団交渉した際、提示した資料「夢への道しるべ~日本スポーツにおける若年期海外進出の考察~」に、資料作成協力者として、日本ハム球団ホームページ内の資料に名前が記載されている[8]

  1. ^ JSコーポレーション インタビューより抜粋、2008年7月号
  2. ^ “【吉田秀彦引退興行】4・25瀧本誠、出場は見送り。このまま引退へ”. 格闘技ウェブマガジンGBR. (2010年3月16日) 2010年3月16日閲覧。
  3. ^ 2011年度世田谷ジュニアアカデミー開校式世田谷区スポーツ振興財団
  4. ^ 社会人修士課程1年制 <卒業生のプロフィールと研究課題>早稲田大学スポーツ科学学術院平田竹男研究室
  5. ^ 「残っていたのは、ポルシェだけでした」日本人金メダリスト「全員」のその後【後編】'84年ロサンゼルス~'12年ロンドン週刊現代、2016年08月13日
  6. ^ 買い物瀧本誠オフィシャルブログ
  7. ^ 瀧本 誠タレントデータベース
  8. ^ 大谷選手との入団交渉時に提示した球団資料について北海道日本ハムファイターズ