石田幹之助 - Wikipedia
- ️Mon Dec 28 1891
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人物情報 | |
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生誕 |
1891年12月28日![]() |
死没 | 1974年5月25日(82歳没) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 中国文学 |
研究機関 | 國學院大學、日本大学 |
学位 | 文学博士 |
主な受賞歴 |
紫綬褒章 瑞宝章 |
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石田 幹之助(いしだ みきのすけ、1891年12月28日 - 1974年5月25日)は、日本の歴史学者・東洋学者[1]。國學院大學や大正大学、日本大学などで教授を務めた。芥川龍之介とは、一高同期の友人だった。
- 出生から修学期
1891年、千葉県千葉市で生まれるた。麻布中学校から第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学東洋史学科に進み、1916年(大正5年)に卒業。
- 東洋学研究者として
卒業後は東京大学に残り、史学研究室副手となった。学術調査で当時の中華民国に渡り、モリソン文庫の受託・創設に当たった。後年その後身となった財団法人東洋文庫の発展に尽力した。
財団法人国際文化振興会で日本文化の海外紹介にも力を尽した。1942年(昭和17年)に國學院大學教授となり、1946年(昭和21年)に日本大学教授に転じた。 1950年(昭和25年)には、昭和天皇と香淳皇后に「唐代におけるイラン文化の東進について」と題して進講する機会を得た[2]。1962年に退職して再び國學院大學へ戻って教授となった。1959年(昭和34年)に学位論文『唐代文化に及ぼせるイラン文化の影響に関する二、三の研究』を日本大学に提出して文学博士の学位を取得[3]。1968年(昭和43年)、日本学士院会員に選出された[4]。
1974年(昭和49年)、急性肝炎のため自宅で死去。
専門は東洋史。『長安の春』で知られる。
- 著書
- 『欧米支那学界現況一斑』東亜研究会(東亜研究講座) 1925
- 『西洋人の眼に映じたる日本』(岩波講座 日本歴史) 国史研究会編、岩波書店 1934
- 『支那に於ける耶蘇教』(岩波講座 東洋思潮:東洋思想の諸問題) 岩波書店 1934
- 『支那文化と西方文化のとの交流』(岩波講座 東洋思潮:東洋思想の諸問題) 岩波書店 1935
- 『欧人の支那研究』(現代史学大系 8) 共立社 1932
- 増補版 本図書 1946
- 著作集
- 『石田幹之助著作集』全4巻、六興出版 1985-1986
- 『大川端の思ひ出』
- 『東と西』
- 『東洋学雑鈔』
- 『東洋文庫の生まれるまで』
- 訳書
- 『支那文化論叢』陳衡哲編、監訳、生活社 1942
- 記念論集
- 『東洋史論叢:石田博士頌寿記念』同古稀記念事業会編 1965
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、101頁。
- ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十一』東京書籍、2017年3月30日、107頁。ISBN 978-4-487-74411-4。
- ^ CiNii(学位論文)
- ^ 物故会員(日本学士院)
- ^ 戦後まもなく、粗末な小冊子での抜粋再刊(生活社、創元社)がある。
一般向けに、田中克己との分担共著で『大世界史4 大唐の春』文藝春秋、1967年 がある。 - ^ 初版を文庫化
- ^ 「東洋文庫論叢 54」NCID BN02737213
- ^ 「支那研究」2冊を合本復刻したもの。
- ^ 門下生との座談会での回想。