鄧淵 - Wikipedia
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鄧 淵(とう えん、生年不詳 - 403年)は、北魏の官僚。字は彦海。本貫は安定郡。
鄧翼の子として生まれた。経書を広く読んで、易筮を得意とした。道武帝が後燕を討って、中山を平定すると、鄧淵は抜擢されて著作郎となった。蒲丘県令として出向し、反乱の鎮圧にあたった。入朝して尚書吏部郎となった。鄧淵は制度に明るく、故事を多く知っていたため、尚書の崔玄伯とともに朝儀・律令・音楽の制定にあたり、また軍事や国事の文章記録の作成や詔策の文案は、多くが鄧淵の手によって成った。平陽の平定に従軍して、功績により漢昌子の爵位を受け、下博子に改められ、中塁将軍の号を加えられた。道武帝の命を受けて『国記』の編纂にあたり、鄧淵は十数巻分を作ったが、年月の見出しと君主の起居と出来事のみの記録で、前例のない体裁であった。
従父弟の鄧暉は定陵侯和跋と仲が良く、403年(天興6年)に和跋が処刑されると、和跋の子弟は長安に逃れたが、鄧暉がかれらを送り出そうとしたと告発された。このため鄧淵も道武帝に疑われて、処刑された。