1274年 - Wikipedia
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千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 12世紀 - 13世紀 - 14世紀 |
十年紀: | 1250年代 1260年代 1270年代 1280年代 1290年代 |
年: | 1271年 1272年 1273年 1274年 1275年 1276年 1277年 |
1274年(1274 ねん)は、西暦(ユリウス暦)による、平年。
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
- 文永の役
- 第2リヨン公会議
- 日蓮が幕府に赦免され、佐渡国から鎌倉へ帰る。
- ラッバーン・バール・サウマがクビライの許可を受け、エルサレム巡礼へ出発する。
- 7月11日 - ロバート1世[1]、スコットランド王(+ 1329年)
- 10月4日 - ルドルフ1世、上バイエルン公、ライン宮中伯(+ 1319年)
- ヴィオランテ・ディ・モンフェラート、東ローマ帝国皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの2度目の皇后(+ 1317年)
- 西園寺公顕、鎌倉時代の公卿、歌人(* 1321年)
- 慈雲妙意、鎌倉時代、南北朝時代の臨済宗の僧(+ 1345年)
- 新田朝氏、鎌倉時代の御家人、新田氏本宗家の第7代当主(+ 1318年)
- 吉田定房、鎌倉時代の公卿(+ 1338年)
- 3月7日 - トマス・アクィナス、イタリアの哲学者、神学者(* 1225年?)
- 6月26日 - ナスィールッディーン・トゥースィー、シーア派の神学者、哲学者、数学者、天文学者(* 1201年)
- 7月15日 - ボナヴェントゥラ、イタリアの神学者、枢機卿、フランシスコ会総長(* 1221年?)
- 7月22日 - エンリケ1世、ナバラ王、シャンパーニュ伯(* 1244年?)
- 8月12日(咸淳10年7月9日) - 度宗、南宋の第6代皇帝(* 1240年)
- 9月2日(文永11年8月1日) - 宗尊親王[2]、鎌倉幕府6代将軍、歌人(* 1242年)
- 10月19日(文永11年9月18日) - 西八条禅尼、源実朝の正室(* 1193年)
- 11月4日(文永11年10月5日) - 宗助国、鎌倉時代の武将(* 1207年?)
- 11月14日(文永11年10月15日) - 平景隆、鎌倉時代の武将、壱岐国の守護代(* 生年未詳)
- ケーセギ・ヘンリク、ハンガリー王国の大貴族(* 生年未詳)
- 元宗、第24代高麗王(* 1221年)
注釈
出典
- ^ Robert the Bruce king of Scotland Encyclopædia Britannica
- ^ 安田 1990, p. 608, 田村憲美「宗尊親王」
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