三河物語 - Wikisource
【 NDLJP:6】
緒言
三河物語は、徳川氏の勲旧大久保彦左衛門忠教が、其の晩年、主家並に自家の経歴を叙して、子孫に示せるものなり。忠教は純忠至誠の士、真に三河武士の典型と称せらる。此の書また悉く其の肺肝より出でたるものにして、熱誠紙上に溢る。特に行文朴実、最も当時の情態を想見するに足れり。たゞ書中難字渋句多きが上に、方言俚語交錯して、頗る通じ易からざるものあり。今其の難字の甚しきものに限りてこれを改め、渋句のわきがたきものにのみ漢字を填めて、いさゝか通読に便せり。されども他の当字、借字、仮名遣、語格等は、大方私意を加へずして、原本の体裁を伝ふることに力めたり。
大正元年八月一日
古谷知新識
目次
【 NDLJP:66】
我老人之事なれば、夕(ゆふ)さりを知(し)らず。然解(ときんば)只今之時分者、御主様も御普代之御内之者の筋をも、一円に無御存知、猶又御普代之衆も、御普代久敷筋目もしらず、三河者ならば、皆易(かいえき)に御普代之者と思召ける間、其立訳をも子供がしる間敷事なれば書置成。此書物を公界(くがい)へ出す物ならば、御普代衆忠節(せつ)之筋目、又は走(はし)り旋(めぐ)りの事をも、能穿鑿(せんさく)して可㆑書が、も、能穿鑿して可書が、是者我子供に我筋をしらせんために書置事なれば、他人之事をば書ず。其に寄而門外不出と云なり。各も家家の御忠霞又は走(はし)り旋(めぐ)りの筋目、又は御普代之筋目之事書しるして、子供達得御譲(ゆづり)可㆑被㆑成候。我等も我一類の事を、如此書而子供【 NDLJP:67】に渡す、夢々門外不出可有成。以上。
【 NDLJP:67】
それ迷(まよひ)の前(まへ)の是非(ぜひ)は、是(ぜ)ともに非(ひ)なり。夢之内の有無者、有無共無也。我等身の識(しき)あれば、有かはあだなり。夢の浮世と何を寤(うつゝ)と可㆑定。されば刹那(せつな)の栄華も心をのぶることわりを思へば、無為(むゐ)の快楽(けらく)に同。爰に相国家康之御由来を申立るに、其(それ)日本(じちゐき)安芸津島(あきつしま)は、是国常立の尊(みこと)より起(おこ)り埿瓊沙瓊(ういぢにすいぢに)男神(なんしん)女神(によしん)を初(はじめ)として、伊弉諾伊弉冊の尊、以上天神七代にてわたらせ給ふ。又天照(あまてる)御神より、鵜之羽ふきあはせずのみこと迄、以上地神五代にて、おほくの星霜(せいさう)を送(おく)り給ふ。然るに神武(じんむ)天王と申奉るは、ふきあはせず之第四のみことにて、一天之主百王にも初(はじめ)として天下を排(をさめ)給ひしよう此方、国主をかたぶけ、万民の恐(おそるゝ)斗事、文武之二道にしくはなし。好文(かうぶん)の族(やから)を寵愛しられずとは、誰か万機の政(まつりごと)を扶(たすけ)、又勇敢(ようかん)之輩(ともがら)を寵賞せられずんば、いかでか慈悲(じひ)之乱(みだれ)
(を)鎮めん。故(かるがゆゑに)唐大宗文皇帝(たうだいそうぶんくわうてい)は、疵(きず)を畷(す)い戦士(せんし)を賞じ、漢(かん)之高祖(かうそ)は三尺之剣(けん)をたいし諸侯をせいし給ひき。然間本朝にも中頃寄源平両氏(じ)を定おかれし寄此方、武畧を振舞朝家(てうか)を守護(しゆご)し、互(たがひ)に名将(めいしやう)之名をあらはすによつて、諸国の狼藉をしづめ、既(すで)に四百余廻(くわい)之年月を送り畢(をはん)。是清和の後胤、桓武のるたひなり。しかりとは云共(いへども)、王氏を出而人臣につら【 NDLJP:68】なりて、矢鏃を嚙み、戣先(ほこさき)を著(あらはす)心指取々成。抑(そも〳〵)源氏といつぱ、桓武天皇寄四代之王子、田村之帝(てい)と申きは、文徳天王とも申、王子二人おはします。第一を惟喬(これたか)之親王と申。御門此御子をば、殊に御心指ふかく思召而春宮(とうぐう)にも立て、御位をも譲り奉らばやと思召しける。第二之御子をば惟仁(これひと)之親王と申きは、未いとけなくおはします。御母は染(そめ)殿の関白忠仁公(くう)の御娘(むすめ)成ければ、一門くわうきよ卿相雲客(けいさうゝんかく)ともに寵愛奉り、是も又黙止(もだし)難く思召ける。かれは兄弟相分の器量也(なり)。是は万機無為(ばんきむゐ)之しんさうなり。是をそむきて宝祚を授くる物ならば、w用捨(ようしや)私(わたくし)有而、臣下唇を翻すべし。すべて競馬を乗(のら)せ勝負(かちまけ)によつて、御位(くらゐ)をゆづり奉るべしとて、天安二年三月二日、二人の御子を引供し奉り、右近之馬場へ行幸成。月卿雲客花之袂(たもと)を�(かさね)、玉之裳をつらね、右近之馬場へ供奉(ぐぶ)せらる。此事稀代盛事天下之ふしぎとぞみえし。御子達も春宮(とうぐう)之ふしん是にありとぞ思召れける。さればさま〴〵の御祈(いのり)ども有けり。惟喬(これたか)之親王の御祈(いのり)之師には、柿之本之き僧正真済(しんせい)とて、東寺之行者、弘法大師の御弟子成。惟仁(これひと)之親王の御祈之師には、若(わぐ)山之住侶慧亮和尚(ぢうりよゑりやうをしやう)とて、慈覚大師の御弟子にて、たつとき聖人(しやうにん)にてわたらせ給ひける。西塔(さいたふ)平等房にて大威徳の法(ほふ)をぞおこなひ給ひける。既競馬(すでにけいば)十番をきはに定られしに、惟喬の御方に、つづけて四番勝(ばんかち)給ひけり。惟仁(これひと)之御方へ心を侘(よする)人汗をにぎる。心をくだきて祈念(きねん)せられけり。さるあひだ右近の馬場寄も、天台山平等(とう)房之壇(だん)所へ使(つかひ)之馳沓(はせかさなる)事、但(たゞ)くしを引がごとし。既御味方(すでにみかた)こそ四番つゞけて負(まけ)ぬと申ければ、慧亮心憂(う)くおもはれて、絵像の大威徳を倒に懸け奉り、三尺之土牛(どぎう)を北むきに立て祈(いの)られけるに、土牛(どぎう)躍りて西むきになれば、南に取而おしむけ、東にむけば北に取而押(おし)なをし、肝胆くだきて揉まれしが、猶すゑかねて独鈷をもつて身づからなづきを突き砕き、なふを取而芥子(けし)にまぜ、炉に打くべ烟(けむり)を立、一揉もみ給ひければ、土牛哮(たけ)りてこゑをあぐ。ゑざうの太いとく利劔をささげてふり給ひければ、所願成就(じやうじゆ)してんげりと、御心をのべ給ふ所に、御味方(みかた)こそ六番(ばん)つゞけて勝(かち)給へと、御使趙(つかいはしり)付にける。有難(ありがたき)瑞相(ずゐさう)ども詞に云もおろか成。されば惟仁(これひと)之親王(しんわう)御位(くらゐ)に定(さだまり)春宮(とうぐう)に立給ひけり。是によつて延暦寺(えんりやくじ)之大衆の詮義にも、ゑりやう頂(なづき)をくだきしかば、次帝(じてい)位(くらゐ)に付、そんいけんをふり給へば、くわんせうれいをたれ給ふとぞ申ける。是に仍(よつて)惟高(これたか)之御持僧(ぢそう)しんせい僧正、思ひ死(じに)にぞうせ給ひける、無念成し事ぞかし。御子も都(みやこ)へ御無㆑帰して、比叡の山のふもと小野と云所にとぢこもらせ給ひける。比は神無月之すゑつ方雪げのそらの嵐さゑ、しぐるゝ雲のたゑまなく、行かふ人もまれ成ける。況哉(いはんや)小野の御ぢうりよ、思ひやられて哀(あはれ)成。爰に宰相中将在原之業平、昔(むかし)の契(ちぎ)り不(ざる)㆑被(ら)㆑浅(あさか)人成ければ、ふん〳〵たる雪をふみわけ、歎々(なく〳〵)御跡(あと)を尋(たづね)奉り而見まいらせければ、まふとううつりきたつてかうやう嵐にたへ、とういんけんかきうとうしん〳〵たるおり、人目も草もかれぬれば、山里いとゞさびしきに、皆(みな)白庭(しろには)のをも、跡ふみ付(つく)る人もなし。折節御子は端(はし)ちかく出させ給ひて、南殿の御(み)かうし三間あけさせて、四方(よも)の山を覧めぐらし、げにや春は青く夏はしげり、秋はそめ冬は落(おつる)と云昭明太子の思召つらね、香炉峯(かうろほう)の雪をば簾(すだれ)をかゝげて見(み)なんと、御口ずさみ渡らせ給ひけり。中将此【
NDLJP:69】御有様を見奉るに、只夢の心地ぞせられける。近参而昔今の事供申承るに付而も、御衣の袪(たもと)しぼりもあえさせ給はず、後鳥羽(ごとば)之院(ゐん)之御遊行形(かた)野の雪の御鷹狩(たかゞり)迄(まで)、思召出れて中将かくぞ申されける。
別(わか)れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見んとは
御子も取あへさせ給はで御返歌に、
夢かとも何か思はん世の中をそむかざりけん事のくやしき
かくて貞観四年に御出家渡らせ給ひしかば、小野の宮とも申ける、四品宮内卿供申けり。文徳天王御年三十にして御崩御なりしかば、第二の王子御年九歳にて御ゆづりをうけ給ふ、清和天王と申は此御事成。後には水之尾の帝(てい)とぞ申ける。王子あまたおはします。第一をば陽成院(いん)、第二をば帝(てい)こ親王、第三をば帝慶(けい)親王、第四をば帝(てい)法親王、此王子は御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申ける。心を懸(かけ)らるゝ女は月の光(ひかり)を待兼(かね)、蛍を袪(たもと)につゝむ。此御子の御事成、今之源氏の先祖(せんぞ)是成。第五をば帝平(ていへい)親王、第六をば帝春(ていしゆん)親王と申、六孫(そん)王是成。されば彼親王の御子常元之親王の御嫡子、多田の新発意満伸、其御子摂津守頼光、次男大和守頼親(よりちか)、三男多田之法眼とて、山法師三塔一之悪僧(あくそう)成。四郎河内守頼信、其御子伊予(いよ)之入道頼義(よりよし)、其ちやく子八幡太郎義家、其御子式部(しきぶ)大輔義(よし)国等、新田大炊助義重迄、七代は皆諸国のちくぶに名をかけ、げいを将軍之きうはにほどこし、不㆑被㆑家々々にして四海を守(まもり)、白波(しらなみ)猶(なほ)越(こえ)たり。されば各争をつくすゆへに、互(たがひ)に朝敵(てうてき)と成而、源氏世を乱(みだせ)ば平氏勅宣(ちよくぜん)を以是を制し、御恩(おん)に詫(ほこり)、平氏国を傾くれば、源氏詔命に任せて是を罰して勲功を極む。然るに近代は平氏ながく退散して源氏世に驕る。四海を静(しづめ)しより此方(このかた)緑林えだをふく風音もならさゞりき。されば叡慮に背くせいよふは、色をおふけんの秋之霜にをかされ、てうそをみだすはくはうは、音(おと)を上絃(げん)之月にすます。是ひとへに羽林の威風代に超えたる故(ゆゑ)成。然るにせいしをひそめて都(みやこ)の外の乱(みだれ)を制し、私曲(しきよく)之争を止めて帰伏せざるはなかりけり。げにや八幡太郎義家寄御代々嫡々然共義貞の威勢に仍、それにしたがつて仁田之内徳川之郷中におはしまし給ふ故(ゆゑ)に寄而徳川殿と奉㆑申き。義貞高氏に打敗(まけ)給ふ時、徳川を出させ給ひ而寄、中有(う)の衆生之ごとく何(いづく)と定(さだめ)給ふ処も無く、拾代斗も此方彼方(こゝかしこ)と御るらう被成有かせ給ふ。徳の御代に時宗(じしう)にならせ給ひて、御名を徳阿弥(とくあみ)と奉申。西三河坂井之郷中得立被㆑寄(せ)給ひ而、御あしをやすめさせ給ふ。折節御徒然さのつれ〴〵に、いたらぬ者に御情(なさけ)を懸させ給へば、若君一人出来させ給ふ。然る処に松平之郷中に、太郎左衛門申而、国中一之有徳成人ありけるが、いか成御縁にか有やらん、太郎左衛門独(ひとり)姫(ひめ)之有りけるを、徳阿弥殿を婿(むこ)に取、遺跡に立まゐらする。然る処に坂井之御子、後に御尋をはしまして御対面(たいめん)有時、尤御疑(うたがひ)無㆑更(に)、然りとは云(いへ)ども人の一つせきを嗣ぐ故は、総領とは云がたし。家之子にせんと仰あつて、末(すゑ)の世迄おとなとならせ給ふ由、しかとの事はなけれ共申つたへに有り。偖(さて)又後には太郎左衛門親氏(ちかうぢ)、御法名(ほふみやう)は即(すなはち)徳阿弥(とくあみ)、何(いか)に況哉(いはんや)、弓矢を取而無㆓其計㆒、早(はや)山中拾七名を戮(きり)取せ給ふ。殊更御慈悲(じひ)においては并(ならぶ)無㆑人、民百姓(しやう)乞食非人(ひにん)どもに至迄哀(いたるまであはれ)みをくは【 NDLJP:70】へさせ給ひ而、有時は鎌(かま)、くわ、銲(よき)、鉞(まさかり)などをもたせ給ひ而出させ給ひ、山中之事なれば道細くし石高し。木の枝(えだ)之道ゑさしいで荷物に掛(かゝる)をばきり捨(すて)、木根(ね)之出たるをばほり捨(すて)、せばき道をばひろげ、出たる石をば掘捨(すて)、橋を懸(かけ)道を作り人馬の安穏にと、昼夜御油断無御慈悲をあそばし給ふ。御内之衆に被仰けるは、我が先祖(せんぞ)十時斗先(さき)に、高氏に居所をはらわれて、此方彼方(こゝかしこ)と流浪して遂(つひ)に本望をとぐる無㆑事。我又此国得まよひき而、今又すこし頭をもちあぐる事仏神三宝(ぱう)も御哀(あはれ)みも有か。我一命を跡(あと)拾代にさゝげ、此あたりをすこしづつも戮(きり)取而子供に渡す物被(ら)㆑成(な)ば、代々に戮取(きりとり)々々する物ならば、先(さき)拾代之内にはかならず天下を治め、高氏先祖(せんぞ)を絶やして本望を遂ぐるべきと被仰ければ、御内之衆一同に申上けるは、御先祖(せんぞ)は只今社(こそ)承候へ。其儀は兎(と)も角(かど)も其儀にかまい不申、年月当君之御情(なさけ)雨山忘(わすれ)難(がたく)在候儀を各々寄合中而も、別(べつ)之儀を請不申、扨(さて)も〳〵御慈悲(じひ)と申、又は御情(なさけ)此御恩の何として報じ可㆑上哉、只二つと無命を奉り、妻子けんぞくを𦖁(かへりみ)ず中夜の摝(かせぎ)にて、御恩(おん)をほうぜんと申成、親氏(ちかうぢ)聞(きこし)被㆑召而面(めん)々被申候事憐(はぢ)入而候。我面々に何をもつて慈悲(じひ)供をぼゑず、又何をもつて情(なさけ)供おぼえざる。又何をもつ而面々(めん〳〵)に思ひつかれんともおぼえざるに、面々の左様に申さるゝは、分別に不㆑及ふしんに社(こそ)あれと仰せければ、面々申上候。先(まづ)御慈悲(じひ)と申事は御存知なきや、あれに伺(しかう)候申、五三人之面々は重罪の御咎を申上申者成を、妻子(さいし)ともに火水の責(せめ)に而責戮(ころ)させられではかなはざる者を、妻子(さいし)眷族ゆるしおかるゝのみならず、其身が一命迄御ゆるされ賸(あまつさえ)何ものごとく、御前得召被㆑出召つかわさるゝ御事は、是にすぎたる御慈悲(じひ)何かは御座候はん哉。あの者ども一類女房供の一類の者供迄も、人寄先に一命をすてゝ御奉公申上候はんと存知定申たり。ましてあの者供は妻子(さいし)の一命を被下御恩(おん)者未世(まつせ)、此御恩(おん)ほうじ上申候事此世に而成難(なりがたし)。此御恩(おん)には燃㷄(もゆるひ)之中得も御奉公被㆑成ば飛(とび)入らんと、一心に思ひ定而罷有と申成。それのみならず、面々も心に入而摝(かせぎ)申事、御祝着に思召るゝ凛(さむき)か腆(あつき)か昼夜供に骨折御身にあまり而思召るゝに、近(ちかう)参而膝を直し罷有との御情(なさけ)は、雨山御忝身に余(あま)り存知候と申上候へば、御ことばも不㆑被㆑出御涕(なみだ)をおさへさせ給へば、面々愈(いよ〳〵)涕(なみだ)をながし御前を罷立、申つるごとく雨露雪霜(あめつゆゆきしも)にもいとはず、夜(よる)はかせぎ、かまり、ひるは此方彼方(こゝかしこ)のはたらき昼夜(ちうや)身を拾(すてゝ)而御ほうかう申上申に付而、あたりをきりとらせ給うて、御太郎左衛門尉秦親(やすちか)え御代を御譲り給ふ。
太郎左衛門尉泰親(やすちか)、御法名用金(ほふみやうゆうきん)、是も御父におとらせ給はざりし、弓矢取と申し、御慈悲(じひ)、中々申つくしがたし。然る所に、大臣殿、勅勘をかうむらせ給ひ而、三河之国ゑ流罪ならせ給ふ。然りとは申せども、無㆑程(ほど)御赦免ならせ給ひ而、御帰京とぞ申ける。其時国中におひて、大小人に不㆑寄(より)、名之有侍(さふらひ)に、御供申せと有し時、国中をさがさせ給へども、源氏之ちやく〳〵にてわたらせ給へば、是にましたる、ぞくしやうなし。其儀ならば、泰親(やすちか)御供あれと被仰而、御供を社(こそ)被成けり。其寄して、三河之国ゑの、御綸旨には、徳川泰親(とくかはやすちか)と被下給ふに仍(よつて)、早国中之侍も、民、百姓(ひやくしやう)にいたる迄も、恐れをなさゞる者はなし。然る間、松平之郷中を出させ給ひ而、岩津(つ)に城を取せ給ひ而、御居(い)城として、住【 NDLJP:71】ませ給(たま)ふ。其後岡崎(をかざき)に城を取給ひ而、次男にゆづらせ給ふ。岩津(つ)をば、和泉守信光に御代渡させ給ふ。和泉守信光、御法名月堂(げつだう)、御代々御慈悲(じひ)之儀は申に不㆑及、弓矢を取せ給ふ事并者無(ならぶものなし)。凡(およそ)西三河之内三ヶ一は戮随(きりしたがへ)給ふ。おぎう、ほつきうを責(せめ)被㆑取(せ)給ひ而、岩津(づ)之城をば、御そうりやうしきへ渡させ給ふ成。おぎうの城をば、次男源次郎殿に御譲り有。其後に安祥(あんじやう)之城を思召被㆑懸(かけ)而、伎踊(をどり)をいかにもいかにも、きらびやかにしたてさせ給ひ而、路(ろ)地を通るふりをして、安祥(あんじやう)寄(より)拾四五町程(ほど)へだてゝ西の野ゑ打上而、無㆑何(と)、かね、太鼓(たいこ)、笛(ふゑ)、つゞみにて打はやし、爰(こゝ)をせんどと、をどりければ何かわしらず、西の野にて社(こそ)、をどるをどり社(こそ)、法楽にをどる成、いざや出而見物せんとて城も町も打明而、男女供に、不㆑被㆑残(のこ)、我先にと出ける間、案の内成とて、我も〳〵と乱(みだれ)入、其儘(まゝ)付入にして、城を被㆑取(せ)給而〈[#返り点「レ」は底本では「二」]〉、三男次郎三郎親忠(ちかたゞ)に御ゆづり有。
次郎三郎親忠(ちかたゞ)、後には右京亮(蔵人頭共申)親忠(ちかたゞ)と奉申。御法名(ほふみやう)、清仲(せいちう)、安祥(あんじやう)にうつらせ給ふ。何れも御代々、御慈悲(じひ)と申、御武辺をもつて、次第々々に御代も隆(さかえ)させ給ふ。御内之衆、又は民百姓(ひやくしやう)、こつじき、非人(ひにん)に、いたる迄、御情を御懸(かけ)させられ給ふ事、大小供に涙(なみだ)を流(なが)しかんじ入斗成。然る間、何事もあるときは、百姓供迄、箶鑓(たけやり)をもつて出、一命を捨而(すてゝ)たゝかい、御ほうかうにする成。然間ましてや況(いはん)、普代(ふだい)相伝の衆なれば、妻子(さいし)を顧ず一命を捨而(すてゝ)ふせぎ戦(たゝかう)によつ而、次第々々に御手も広(ひろ)がる成。是と申も、御武辺と御情(なさけ)御慈悲(じひ)と能(よき)御普代(ふだい)をもたせられ候故(ゆゑ)に無㆑恙、取広(とりひろげ)させ給ひ而、安祥を長親(ながちか)ゑゆづり給ふ。
次郎三郎長親、後々は蔵人頭(くらんどのかみ)長親御法名(ほうみやう)道悦(どうえつ)、何れも御代々御慈悲(じひ)御武辺、殊更すぐれさせ給ふ事、何れをわくべきにはあらねども、御命をしらせられざる御事其たぐひなし。爰に伊豆之早雲新九郎たりし時に、駿河之国今河殿へ名代として、駿河、遠江、東三河、三ヶ国之皉を促(もよほ)して、一万余にて、西三河へ出る。新九郎は吉田に着、先手は下地之御位(ごい)小坂井に陣(ぢん)を取、明ければ御油(ごい)、赤坂、長�(ながさは)、山中、藤河を打過而庄田に本陣を取(とれ)ば、先手は大平(ひら)河を前(まへ)にあて、岡(をか)大平(ひら)に陣を取。明けれ者、大平河を打越念(ねん)し原ゑ押上、岡崎(をかざき)之城をば、にれんぎ、𤚩久保(うしくぼ)、伊名(いな)、西之郡衆(こほりしゆ)を、押に置鍪(おきかぶと)山を押而(おして)とをり、伊田之郷を行過而(ゆきすぎて)大樹寺に本陣を取(とれ)ば諸勢は岩津之城へ押寄(おしよせ)、四方(しはう)鉄砲(てつぽう)はなちかけ、天地をひゞかせときのこゑをあげ而、をめきさけぶとは申せども、岩津殿と申は弓矢を取而無㆓其隠(かくれ)㆒御方なれば、少(すこし)も御動転なく譟(さわ)がせ給(たま)はず。其故度々の高名、名をあらはしたる者供をもたせ給ゑば、彼が出而中々敵(てき)をあたりゑ寄付(よせつけん)事思ひ不㆑寄はたらきければ、新九郎を初諸勢(はじめしよせい)供も、もてあつかいたふぜい成、然る処に長親(ながちか)者、侍供を召寄(めしよせ)面(めん)面聞(きく)かとよ。北条新九郎岩津へ押寄(おしよせ)、天地をひゞかせたゝかうと見(みえたり)。其(それ)弓矢を取者の習(ならひ)には、敵不勢(てきはぶぜい)味方(みかた)は多勢(たせい)成供すまじき陣(いくさ)も有。何況哉(いかにいはんや)、敵者多勢(たせい)味方(みかた)は不勢(ぶせい)成供、せでかなはざる陣(いくさ)も有、此度之儀者敵(てき)多勢供成供せずしてかなはざる陣(いくさ)成。我娑婆(しやば)之露命(ろめい)今日が限(かぎり)ぞ面々何と思ふぞ。各々一同(どう)に申上候。如仰何(いか)に敵不勢(ぶせい)成と申とも、すまじき陣(いくさ)を被成んと被仰候はゞ、兎角に面々供が晋(すゝ)み申間敷、何(いかに)敵(てき)多勢(たせい)成と申供、被成候はでかなはざる陣においては兎角(とかく)被成候ゑと可申上。況哉(いはんや)此度之御合戦(ごかつせん)被成【 NDLJP:72】候はで、かなはざる陣成。時刻(じこく)うつさせ給ひては譡(かのう)間敷、日比(ひごろ)之御情(なさけ)殊更御普代(ふだい)之御主(しう)之御一大事と申、是非供に妻子(さいし)を不㆓帰児㆒、御馬(うま)之先に而戮死(きりじに)に仕(つかまつり)て、死出三津之御供社(こそ)弓矢を取而の而目(めんぼく)にて候(さふら)ゑと申上ければ、長親(ながちか)御涙(なみだ)を流(なが)させ給(たま)ひて、我少身なれば普代久敷者(もの)と云(いへ)どもかいがはしきあてがいもゑせざるに、普代(ふだい)之主(しう)之用に立妻子な不㆓帰見㆒、無(なき)㆑恩主(おんしう)に一命をくれんと勇(いさむ)事は有難(ありがた)さよ。一万余有所へ雑兵(ざふひやう)五百之内外にて陣(いくさ)をせん事は、蟷螂が鉞(をの)をにぎるがごとし。更(さら)ば今生之暇乞(いとまごひ)に酒出せと仰有り而、広(ひろき)物に酒を入而出るを、御筩(さかづき)に一つ請させ給ひ、面々に盃(さかづき)を指(さし)度は思ゑども、時刻(じこく)之のぶる間盃(さかづき)と思ゑとて広(ひろ)き物の酒ゑ御盃(さかづき)之酒を入させ給ゑば、思ひ〳〵に是をいたゞき、御前を罷立(まかりたち)𠆻(いそぎ)けり。長親(ながちか)わづか雑兵(ざうひやう)五百余の内外にて、安祥(あんじやう)之城を出させ給ひ、くはご、つゝばり、や羽(は)ぎゑあがり、河崎(かはさき)を押(をし)上而、矢矧河を越(こえ)させ給ふを、北条(ほうでう)之新九郎聞(きゝ)而さらば備を出せ陣(いくさ)をせん。殊更敵(てき)は少勢(せい)成と盺(よろこぶ)。謳(をめき)さけびて段々に出る。東三河衆、牛久保之牧野、にれん木之戸田、西之郡之鵜殿、作手(つくりで)之奥平、段嶺(だみね)之蒯沼(すがぬま)、長(ながし)間之蒯沼(すがぬま)、野田の蒯沼(すがぬま)、設楽(しだら)、す瀬(せ)、西郷(さいがう)、伊名之本田、吉田衆、遠江衆には宇豆(うづ)山、浜名(はまな)、堀江(ほりえ)、伊野谷(いのや)、奥野山(おくのやま)、乾(いぬゐ)、二俣(ふたまた)、浜松(はままつ)、蚖堬(まむしづか)、原河(はらかは)、久野(くの)、懸河、蔵見(くらみ)、西郷(さいがう)、角笹(かくは)、天方(あまがた)、堀越(ほりこし)、見蔵(みくら)、無笠(むさか)、鷺坂(さぎさか)、森(もり)、高天神、蠅原(はいばら)衆、其外小侍供、又は駿河衆、三浦(うら)、朝伊名(あさいな)、瀬名(せな)、岡(をか)部、山田、其外は北条(ほうでう)之新九郎を旗(はた)本として、何れも〳〵我をとらじと、先陣之あらそひ、段々(だん〳〵)にそないを立、とうらうが鉞(をの)とかや、いさみにいさんで事供思はず、長親(ながちか)者何(いか)にも心をしづめさせ給ひて、逸物之犬の虎をねらふがごとくに、大軍(たいぐん)をにらめさせ給ひ而、静(しづ)々と係(かゝら)せ給ふ。味方之兵(つはもの)どもも度々事に相付(つけ)たる者どもなれば、敵(てき)方寄(より)嵩を懸(かけ)て、争(いさむ)供洞天(どうてん)するな。小軍(せうぐん)が大軍(たいぐん)にかさを被㆑懸それに寎而武(おどろきいさめ)ば物前(まへ)に而勢がぬくる者(もの)成。敵は�(いさま)ば諫(いさめ)何(いか)にも心を大事として心(しん)に成、胸(むね)の内には一足(そく)無間(むげん)と念じて、�(いさみ)てついてかゝる事なかれ、位詰めにしてつきくづせ、然る時者(ときんば)敵方(てきかた)寄、小勢(せい)と思ひ下(した)目に懸(かけ)て鑓(やり)を可(べき)㆑入(いれ)、そこにて一足無間(むげん)と心得而、立(たち)処をさらずして、じり〳〵と根(ね)強くつき可(べき)㆑入(いれ)、そこをはつしとこたゑなば、かさを懸(かけ)たる敵(てき)はかならずまはすべし。敵(てき)坎(にぐる)とてもをうべからずして洞天(どうてん)なく、丸く成而二の手を待而二の手もくづれたりとも、旗(はた)本又は後そないのくづれざる内何度敵(てき)くづるるとも乱(みだれ)ずしてかたまれ、小勢(せい)はかたまりて中を戮(きり)通れと云(いひ)而かゝる。案(あん)のごとく敵方寄突いてかゝるを、一二の手迄戮(つき)くづせば、又入替(いれかへ)而かゝるを折しきて待懸(まちかけ)而、引請而突きくづせば、胠(わき)寄又入帰(いれかへ)而かゝるを待請而ついてかゝりてつきくづせば、新九郎旗(はた)本迄迯げかゝる。然る間夜陣(よいくさ)に成敵味方(てきみかた)をみわけずして震動(しんどう)する。其儘押懸(まゝおしかけ)給はゞ新九郎も敗軍(はいぐん)可㆑有けれども、軍兵(ぐんびやう)とも早(はや)せいきがきれて、何(いかに)としてもつかれたる故(ゆゑ)、其(そこ)を引のけ矢萩(やはぎ)川を前にあてゝ御旗(はた)を立給ふ。合戦(かつせん)之場(ば)は河むかい新九郎陣場(ば)之下(した)なれば、夜明而新九郎方寄、今夜之合戦者し場(ば)を取たる間、此方之勝(かち)と云而よばわる。然る処に田原之戸田申けるは、駿河(するが)を頼而者上下(のぼりくだり)も六ヶ数き長親(ながちか)と申合而、駿河と手ぎれをせんと申を、新九郎其(それ)を聞而、我は西之郡之城普請をみて、させて頓(やが)而帰(かへら)んとて、馬まはりの者(もの)計引つれて出けるが、【
NDLJP:73】西之郡(こほり)へは行(ゆか)ずして、すぐに吉田得引入。諸勢者是を聞(きゝ)、跡(あと)寄足(あし)々にして吉田へ引(ひ)く。其寄新九郎西三河ゑ出る事不㆑成、長親(ながちか)は安祥(あんじやう)へ引入給ふ。其後は猶以国中の者ども異儀(いぎ)には不㆑及、扨(さて)又次男内前殿には桜井之城を参(まゐら)せられ、三男新太郎殿には青(あを)野の城を参せられ、松平勘四郎殿には藤井を参せられ給ふ。同右京殿にはふつかまと東ばたを参せられ給ふ。信忠(のぶたゞ)へ安祥(あんじやう)を御譲(ゆづらせ)給ひ而、ほど無御遠行成。次郎三郎信忠、後には左京亮信忠御法名太香(はうみやうたいかう)、此君何れの御代にも相替(あひかは)らせ給ひ而、ほど御慈悲(じひ)之御心も無、まして御情(なさけ)がましき御事も御座(ましまさ)ず。御せへんもぬるくをはしまして、御内之衆にも御詞懸(ことばかけ)も無をわしませば、御内之衆も又は民百姓(たみひやくしやう)にいたる迄も、怕慴(をぢをのゝ)きて思ひ付者も無。然る間早御一門之衆も我々に成而、したがい給ふかたもをわしまさず。ましてや国侍供も、我々に成而したがい申者も無。然る間逍(やう〳〵)わづかの安祥(あんじやう)計をもたせ給ふ。然る間とても此君之御代をつがせられ給ふ事成難(なりがたし)。其儀に而も有ならば、長親(ながちか)之御子は何れも同事成。長親ゑ御ほうかうの筋目は、何れと申も同然にさふらゑば、次男に而をわしませば、内前殿を御代に立申、信忠をば胠(わき)に置(おき)申さんと云人多(おほ)し。此中に信忠を捨難(すてがたく)思ふ衆の申ける者、又各之仰尤成、然とは雖(いへども)長親(ながちか)寄も、内前殿ゑは桜井を被遣人をもわけて被遣給ふ。信忠卿者御総領式にて御座あれば、安祥(あんじやう)を譲(ゆづら)せられ給ふ。其故人をも方(かた)々達を初、度々のはしりめぐりの衆を多(おほく)付させ給ふ事者別(べつ)之儀ならず。君之御不器用ならば各(おの〳〵)守り立申せとの儀成。君之御ぶきやうにて各を初(はじめ)申、我々迄もふの悪き事なれども、長親(ながちか)之御見あてがいのごとくにも被成、此君を御主(しう)と仰ぎ奉り給へと申衆も有。いや〳〵長親之御前をそむく物ならば、御主(しう)之御命を背(そむき)て七逆罪(ぎやくざい)の咎をかうむり、無間(むげん)にも堕つべきが、是は各も御分別(ふんべつ)あれ、此御家と申は、第一御武辺(ぶへん)、第二に御内之衆に御情(なさけ)御詞(ことば)の御念頃(ねんごろ)、第三に御慈悲(じひ)、是三つをもつてつゞきたる御家なれども、三つ之物が一つとして不㆑調。左様にも候(さふらへ)ば、とても御家者立間数、然る時んは長親(ながちか)御跡は、此君之御代につぶれて、他之手に渡申事目之前成。我も人も子をもつ事者、大身少身供に道前成。そうれうが倥侗(うつけ)て跡を嗣(つぐ)間敷と見ては、弟(おとゝ)が利発なれば弟に跡を次(つが)するは習(ならひ)成。長親(ながちか)も左様に思召(めされ)べき。内前殿も次男なれども御子成、其故此御跡御代々之引付、三つの物一つもはづれさせ給はず、長親之御跡者立而ゆく故者、兎角(とかく)内前殿を御代に立まゐらせんと云、尤此君之御代を次(つが)せられ間敷と、各々の仰尤道理成。我我も左様に者存知候。しかしながら、か様に無㆑情(なさけ)も御主(しう)に取あたり申も前々の因果(いんぐわ)成。又我々の親達之長親(ながちか)之様成御主に取あたり申而、御情(なさけ)をかうむられ申も前々(ぜん〴〵)の果報(くわほう)成。然りとは申せども御普代(ふだい)久敷御主(しう)を取替而、藪(やぶ)之側(かたはら)にすませ申を見(みる)事も成間敷ければ、其時御有様をみまいらせて、袖(そで)に而涙(なみだ)を押(おし)拭いて通るならば、その普代(ふだい)之主をそれに取替(かへ)たる者どもよとて、人之観(みる)処は扨(さて)をきぬ、我心に𢦪(はづかしく)も可㆑有、其(それ)を思ゑば是非も無御供中而腹(はら)を戮(きる)迄、各々者互(たがひ)之心々にし給ゑ。各之長親(ながちか)之御跡之、つぶれざる様に内前殿を御代(よ)に立申さんとの給ふも、長親(ながちか)のため成。又我等供が御供申而腹(はら)を戮(きらん)と申も長親之御ため成。我等どもがか様に申をも、信忠者何とも思召者有間敷けれども、普代(ふだい)之御主なれば一【
NDLJP:74】命をまいらする事は、露塵惜(をし)からず。偖(さて)も〳〵御いたわしや、御不器用成故、各か様に思ひたゝれ申と思得ば、一入いたはり入まいらせ候。早御家も二つにわれ申由を信忠も聞召て、其中に頭取(とうどり)之族(やから)を御手討に被成ければ、目出度御事かな御気(き)の付せ給ふと云者も有り。いや〳〵何としても御代(よ)者次(つが)せられ難(がた)きと申者計多(おほ)し。然間信忠(のぶたゞ)之仰には、何としても一門を初(はじめ)又は小侍どもに届(いたる)迄も、我に思ひ付ぬと覩(みえ)たり。其(それ)を何(いかに)と云に一門之者も遠(とほ)立而出仕も無、小侍どもさゑ出仕をせず。賸(あまつさえ)普代(ふだい)の者迄我を嫌うと覩(みえ)ければ、さらば隠居(いんきよ)して次郎三郎に譲(ゆづらん)と仰有而、次男九郎豆(づ)殿に械(ねぶのき)の郷を譲(ゆづら)せ給ふ。三男十郎三郎殿に見次(みつぎ)之郷を譲(ゆづら)せ給ふ。次男三郎清康得御代(よ)を渡させ給ひ而、信忠者大浜(はま)之郷へ御隠居(いんきよ)成。次郎三郎清康(きよやす)御法名(ほふみやう)道法(だうほふ)、十三之御年御世に渡らせ給ひし寄此方、諸国(しよこく)迄人之賸(もちい)申事唯事不㆑被㆑成(な)。去程に此君者御脊矮(せいひき)くして、御眼(まなこ)之内くならてうのごとし。只打をろしのこたか寄も猶も見事にして、御図(かたち)并(ならぶ)人無。殊に弓矢之道に上越(うへこす)人も無、御やさしくして、大小人を隔て給はで、御慈悲(じひ)をあそばし御情(なさけ)を懸(かけ)させられ給ふ。去程(さるほど)に御内之衆も一心に思ひ付、此君には妻子(さいし)を帰り見ず一命を捨(すて)而屍を土上にさらし、山野(や)の獣物(けだもの)に引ちらさるゝとても何かは惜しからんや。此御跡六代の君、何れも御武辺並(ならび)に御慈悲(じひ)同御情(なさけ)をもつて、次第々々につのらせ給ふと云(いへ)ども御六代に勝(すぐれ)させ給得ば、天下を納(をさめ)させ給はん御事目の前成。去程に御膳(ぜん)の上(あがる)時分、各々出仕をする処に、御しるしの御でうぎを打あけさせ給ひ而、指(さし)出させ給ひ、面(めん)々是に而酒を被下よと仰ける。各々頭を地に付而謹ん而伺候申す。何とて被下ぬぞ、とく〳〵との御意なれども、別の御酒盃供思はず御主の御めしのでうぎなれば、誰(たれ)かは可被下哉と思ひ而、猶もひれふすを御覧じて、面々何とて被下ぬぞ、過去(くわこ)之生性能(うまれしやうよけれ)ば主と成、過去(くわこ)之生性悪(うまれしやうあ)しければ内之者と成、侍に上下(あがりさがり)者無物成、謙(ゆるす)に早(はや)く被下よと御意之下(くだる)故、余り御辞退申帰而悪(あし)かりなんと存知、畏つて召出しに罷出る。其時包笑(ほゝゑませ)給ひ而、老若ともに不㆑ら㆑残罷出、三つづつ被下よと御意なれば、余り目出度忝さに、下戸も上戸も押(おし)なべて三ばいづつほして罷立、道にて物語をする様は、只今之御ぢやうぎの御酒盃並に御情(なさけ)之御詞(ことば)を、何程の金銀米銭(べいせん)を知行に相そゑ、宝(たから)物を山程被下たると申すとも、此御情(なさけ)には替難(かへがたし)。只今之御酒盃之御酒者何と思召候哉。御方々又は我等供之頭(くび)の血成。此御情(なさけ)には妻子(さいし)を帰覩(かへりみ)ず、御馬の先(さき)に而討死(じに)をして、御恩(おん)之報(はう)ぜん事今生之面目、冥土の思出可㆑成と申、各一同に尤成と悦(よろこぶ)。又或時御能のありける時、清康者縁(ゑん)之上にて御見物被成候。内前殿を初(はじめ)、各々御一門其外者白洲に畳をしきて見物有。然処に内前殿御座敷(ざしき)に有、御前衆御出無内にをもはずしらずに、畳の端に腰(こし)を懸(かけ)けるを遠(とほく)寄も御覧じて、我座敷(ざしき)に腰(こし)を懸(かけ)る者は、何者ぞおろせと仰けり。御使(つかひ)参り而、内前はをりさせ給へと申。莅(いそぎ)をりさせ給へと申せば、尤内前様之御座(ざ)敷に何とて上(あがり)申さん哉。をもはずしらずに、心不㆑ら㆑成たゝみのへりに腰(こし)之懸(かゝ)り申成。御意無供見懸(かけ)申ばおり可申処に畏(かしこまつて)御座候と申処ゑ、重而御使参而申、早々(はや〳〵)おりさせ給ゑ、おりさせ給はずばおろし申せと申被付たり。急(いそぎ)おりさせ給ゑと申せば、彼人申、迷惑(わく)成重(かさね)て御使(つかひ)をり申間敷と申さば社(こそ)、畏(かしこま)御座候と申上候【
NDLJP:75】処へ、か様之儀迷惑(めいわく)仕候。然共上之御目之御前、又は諸傍輩(はうばい)之所思(おもわく)か様に御使を頻(しきつて)請申、一人罷立も後(うしろ)もさび敷存知候ゑて赤面(せきめん)仕、左様にも御座候はゞ、恐には御座候ゑ共、御結縁思召(げちえんおぼしめされ)而、内前様も御立被成候得、御供申可罷立、たとゑば頭は刎(はね)らるゝとも、我等一人者罷立間敷とときつて、御能の過(すぐる)迄終(ついひに)不㆑立。然る処に御のうの過(すぎ)而、各々罷立処に彼者に御城得罷可㆑上由御使立、諸傍輩(はうばい)も定而御成敗(せいばい)も可㆑有と申、其身者勿論(もちろん)思ひ定而有処へ、御使有ければ如㆓存知㆒なれば、驚(おどろく)に不及、畏(かしこまつて)御使と打つれて御城ゑ参。清康御覧じて汝等(なんぢら)供は久敷普代(ふだい)之者なれば、此先(さき)々の一類も多(おほく)討死をして、信光、親忠(ちかたゞ)、長親寄此方勲功を尽したる者のすゑ〳〵、殊更汝等(なんぢら)も度々の走りめぐり其名をえたりと云ども、我又少身なれば、かいがわしきあてがいもせざれども、普代(ふだい)なれば我ために一命を捨(すて)而、はしりめぐりをする。か様に思ひ入たる普代之者を持(もち)たる故に、日本国がうごきて拾万廿万騎に而倚(よせかくる)供、五百三百に而も戮(きり)而懸(かゝらん)と思ひしは、かれらを持たる故成。普代(ふだい)之者を置(おき)而、当座の侍を二万三万持たればとて、其に而多勢ゑ懸りて利をなさん事思ひも不㆑寄。然間汝等(なんぢら)を初(はじめ)普代(ふだい)之者一人をば、か程少身なれ供神八幡も御照覧あれ、一郡にはかゑ間敷。汝等(なんぢら)どもがごとくの者を持(もち)たる故に、我又年にもたらずして、其故少身にして拾二三に成而天下を心懸一陣(いくさ)せん事、汝(なんぢ)供を頼成しに内前殿父(おや)げ無汝(なんぢ)をふみつぶさんとし給ふ。内前殿儀ならばはしりめぐりの者供には、情(なさけ)をも懸給而、我等が用にも立様にと被成候て給而社(こそ)者本意なれ。却而(かへつて)か様にはしりめぐりの者を無被成れんとの充行(あてがい)は、去とは父(おや)げ無あてがいに社(こそ)あれ。汝(なんぢ)度々のはしりめぐりにはあてがいせざれども、今日座敷を立ならば惜者(をしき)にはあれども、是非(ぜひ)供兄弟一るいを成敗(ばい)せんと思ひ定而、今立か〳〵としり目に懸て覩(みて)あれば、されども能立去(よくたゝざる)、汝(なんぢ)には地かた四貫出しつるが、今日能(よく)立候去(ざる)褒美に五貫かさねて九貫にしてとらするぞとて被下けり。是を聞、国中之大小之侍どもの申は、異国者しらず、本朝には御慈悲(じひ)と云御情(なさけ)と云御武辺と云、清康にましたる御主は難㆑有と云。
然処に岡崎(をかざき)之城をば於平弾(だん)正左衛門督殿持(もた)せられ給ふ。同山中之城をも、弾正左衛門督殿寄持たるを、大久保七郎右衛門てうぎをもつて忍(しの)び取に取せ給ふ。其褒美を�(のぞめ)と御意なれども、上様御少身なれば知行可㆑被㆑下との�(のぞみ)も無御座候。御普代(ふだい)之御主なれば御忠節(ちうせつ)者申成。年者罷寄成、新八郎、甚四郎、弥三郎、兄弟三人之子供者、其身にしたがいて御知行をば被㆓下置㆒成。何の�(のぞみ)無㆓御座㆒と申上げれば、重而何を�申せと御諚(ごぢやう)有りければ、年寄之候何を指(さし)而莅(のぞみ)可申哉。然者御分国之内の市之升(ます)を被下候ゑ、升取を申付而置(おき)申物ならば、我等之すぎあいほどの儀者御座可㆑有、別之莅(のぞみ)も御座無と申上ければ、其儀安(やすき)申分成とて被下けり。扨(さて)其後岡崎を取んと被成ければ、弾正左衛門督殿も、とても成間敷と思召(めさ)れ、其儀ならば清康を婿(むこ)に取而、岡崎を婿(むこ)一せきに渡させ給ひけり。其儀に寄而御家に而三御普(ふだい)代と申儀は、安祥御普代、山中御普代、岡崎御普代と申成。安祥(あんじやう)御普代と申者、信光(のぶみつ)、親忠(ちかたゞ)、信忠(のぶたゞ)、清康(きよやす)、広忠(ひろたゞ)迄、此方召つかはれ申御普代成。山中御普代、岡崎御普代と申す者、清康之御拾四五之時切(きり)取せ給【 NDLJP:76】ひし処の衆成。案祥の儀は不㆑及㆑申(に)、安祥寄山中を先切取せ給故に、山中をも御本領(りやう)とは被㆑仰候成。其後に清康の仰には未(いまだ)出仕をせざる一門、又は国侍ども之方ゑ仰つかはされける者、信忠(のぶたゞ)隠居(いんきよ)有而我に代を譲(ゆづら)せ給ふに付、纔(わづか)五百三百之普代(ふだい)之者計にて、あたりまはりを切(きり)付而、大方一門も出仕をする、其外之者ども出仕をすれども、其方など者一円に構も無、有事者不㆓心得㆒早々出仕をせよ。然ども存分も有而出仕をすまじきにをいては、存分次第此返事に寄而押懸(おしかけ)而存分によつてふみつぶすべしと仰つかわしけれ者、信忠に偭(そむき)奉り其故身を引に、今御出仕遅なはり奉る成。右の御意趣を打被㆑拾御徐(ゆるされ)可被下候ゑ。清康ゑ何と而違背可㆓申上㆒哉。今日罷越出仕可㆑仕と申而、出仕之方も有、又は信忠に偭(そむき)申候条、只今も清康へ出仕之事、思ひも不㆑寄と申処ゑ者、押寄(おしよせ)給ひ而ふみつぶさせ給ひ而、手あらく被㆑成候得者、残所(のこるところ)の衆者手を合降人となれば、御慈悲(じひ)に而寛(ゆるさ)せ給ふ。御拾三にして御代を請取せ給ひし寄、御内之衆に哀(あはれ)見御情(なさけ)申つくしがたし、其に寄而一入怕懼れけり。御武辺武渡(たけくわたら)せ給ふ故、一しほ御慈悲(じひ)を被成、御哀(あはれ)み御情(なさけ)を懸(かけ)させ給ひ而、人一人にもふそくを持(もた)せ給ず、御面目をうしなわせ給ず。況(いはん)や追い払い御成敗と申事も無人を惜(をしま)せ給ひけり。是と申も御代々久敷者なれば、いたづらに人をうしなはん寄、我馬之先に而打死をさせ、御用に立させられんと思召入たり。拾三拾四にして纔(わづか)少之安祥之小城を請取(うけとら)せ給ひ、纔(わづか)五百三百之人数に而御年(とし)にもたらせ給で、早西三河を切取せ給ふ。是と申も第一御武辺武(たけき)故成。第二には君を大切に思ひ奉る、御普代を持(もた)せ給ふ故成。何(いか)に能(よき)御普代を持せ給ふとも君之心二にして、御慈悲(じひ)も無、御情(なさけ)も無、御哀(あはれ)みも無者成難(がたし)。又は君之御心武(たけく)渡せ給ふとも、御普代(ふだい)衆君を一心に御たいせつに思ひ入不㆑申して摝(かせぐ)事鈍く候はゞ、何(いか)に思召とも成難(がたし)。清康と申者御武辺第一、樊噲張良をもあざむき、御慈悲(じひ)、御情(なさけ)、御哀(あはれ)みふかうして、御内(うち)衆も御代々久敷御普代と申、思ひ付申而君には妻子を帰見ず、一命を捨(すて)而㷄(ひ)水の中ゑも飛入、是非ともに御用に立而御馬之先に而打死をすべし。たとゑ拾万廿万有と云とも、五百三百之者ども君を中に取つゝみまん中ゑ戮(きつて)而入、四方八面切而廻らば、何かはためん哉。御年拾九の時尾(を)島之城を取せ給ふ。廿斗之時尾張(をあり)之国へ御手を懸(かけ)させ給ひ而、岩崎しな野と云郷を切取給ひ而、しなのゝ郷をば松平内前殿へつかはさる。其寄うりの熊谷(くまがえ)が城ゑ御働(はたらき)成、早其時者西三河之人数八千(せん)有。拾五六手に作(つくり)段々におさせられ、岡崎を打出させ給ひ而、やわたに御陣を取せ給ひ而、明ければうり寄一二里へだたり而、御陣を取せ給ひ而、明ければ段々におさせられ、熊谷(くまがえ)が城へ押寄給ひ而、放火(はうくわ)して大手ゑ者松平内前殿、同右京殿、其外御一門の衆寄(よせ)させ給ふ。御旗(はた)本はからめ手上のかさゑ押上させ給、天地を響(ひゞ)かせ四方鉄砲(てつぽう)打こみ鬨をあげさせ給ふ。熊谷(くまがえ)も去弓取なれば、事ともせずして大手へ切(きつ)而出る。松平右京殿と申者、御一門之中にも勝(すぐれ)たる弓取、又は他人にも右京殿の上(うへ)こす者は無。然間一足去らず戈(たゝ)かはせ給ふ所に良且戈(やゝしばらくたゝかひ)給ふが、多(おほく)之疵(きず)をかうむり、場(ば)もさらずして主(しう)従十二三人討死をし給ふ。松平右京殿と申者、武辺第一と申一度も逆心(ぎやくしん)之無人なれば、清康も事之外惜(をしま)せ給ひて、御落涙中々申つくしがたし。其時内前殿弐(すけ)させ給【
NDLJP:77】はゞ、右京殿討死は有間敷に、内前殿一円弐(すけ)させ給はず。清康者からめ手の山寄見下させ給ひ、内膳は何と而弐(すけ)ざると而御拳を握らせ給ひ、御眼(まなこ)を見出し御顔をあらめ、�(はがみ)を被成白泡(しらあわ)を䶦(かませ)給ひ而、突立て眦而泚(にらめあせ)を滂(ながさせ)給ふ御有様、瘴(やく)神天満鬼神も面を可㆑合様も無。余りに御勢(せい)にするかねさせ給ひ而、内前殿を召(めさ)れて、只今右京仕合に付、弐(すけ)られずしてかなはざる所を、よそにみ而国にも替(かへ)間敷右京をば討せ給ふ哉、さりとは貴(き)方之弐(すけ)させられでかなはざる処をよそに見て、国にも替間敷右京をば打せ給ふ哉。去とは貴方之弐(すけ)させられではかなはざる処成を、よそに見所にはあらず。明日にも御覧ぜよ。弓矢八幡天道大𦬇も御照覧(せうらん)あれ。我等が手前において、一門の者を打せては見間敷と仰けり。内前殿も異儀(いぎ)に不㆑及赤面してをはします。内前殿は生(いき)ての羞(はぢ)、右京殿者に今初(はじめ)の事なれども死(しに)ての面目名を上給ふ。儅(さて)又各々申ける者、此君者御慈悲(じひ)御情(なさけ)御哀(あはれ)みふかき君なれども日頃の御悲慈(じひ)、御情(なさけ)、御哀(あはれ)みはか様之時打死をさすべき御ために、日頃(ひごろ)御ふびんをくはへさせ給ふ成。只我人命を捨(すて)て摝(かせぎ)給へ。か様にうつくしく俰(やはらか)にあたらせ給ふ君の伯父親(をぢおや)に而まします。内前殿へ被㆑仰にくき事を、儅(さて)も〳〵荒(あら)々と手ぎつく被仰候物かなと、各々舌を捲き興醒めて社(こそ)ゐたり。思ゑば此君者人間に替(かはり)たるとぞ申けり。弓矢の道におそらくは、異(い)国者しらず本朝にはあらじ。扨(さて)又東三河をば牧野伝蔵が持(もつ)、清康東三河へ御働(はたらき)とて段(だん)々にそなへ、岡崎を打出させ給ひ而押(おさせ)られ給ふ。岡崎を立而赤坂(あかさか)に御陣を取せ給へば、先手者御油(ごゆ)かうに陣を取、明ければ赤坂を打立たせ給ひ而、小坂井に御籏(はた)が立。先手は押(おし)おろして、下地の御油(ごい)を放火する。吉田之城寄是をみて、少国を二人して持(もつ)而何かせん、今日実否の合戦して東三河を清康ゑ付物か西三河を我取物か、実否の合戦爰成とて、大舟小舟に而吉田河を打越舟を置(おく)ならば、味方の心も未練出来かせんとて、舟をば突流(つきながし)而懸(かゝる)。清康是を御覧じて、小坂寄御籏(はた)を押(おし)おろさせ給ひ而打向(うちむかはせ)給ふ。伝蔵も下(しも)地へ押上、清康は下地之塘(つゝみ)へ押上(あげ)んとす。両方(はう)塘(つゞみ)之両之腹(はら)に芝付(しばつき)而半日𣂉(ばかり)互(たがひ)之念仏之声(こゑ)斗して、大事に思ひ而、しん〳〵と心をしづめて居(ゐ)たり。伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人一つ処に西之方にぞ居たりけり。清康と内前は両陣に群がつて、東西をかけまはり、敵の中へかけ入〳〵ざいを取給ふ。然る所に御馬まわりの衆はしり寄而、ゆはれざる大将之敵(てき)之中へかけいらせ給ふとて、御馬の水付に取付ければ、あやかりめはなせとて采配を取なほし給ひ而、脥(つら)を打御腰(こし)物に御手を懸させ給ひ、はなさずば成敗せんと仰ける所へ、内前殿かけよせ給ひ而何物ぞあやかり、はなせ放(はな)して打死をさせよ。大将をばかばう処が有物ぞ、大将をかばいても軍(ぐん)兵が負(まくれ)ば、大将ともに打死をするぞ。軍兵が勝(かて)ば大将も生(いき)るぞ、はなして下知をさせて打死をさせよと仰ければ放しけり。去程に内前は敵(てき)味方に見しられんため、鋹(かぶと)をぬいでとつてからりと捨(すて)、清康と内前と敵之中得懸入々々げぢをなし給ゑば、何れも是にいきほひて塘へ懸上(かけあがり)、鑓(やり)を互(たがひ)になげ入る寄其儘(そのまゝ)つきくづして河へ追はめけり。伝蔵兄弟四人是を見(みて)突つ立ければ、何れも負(まけ)じと立而鑓(やり)をなげ入ければ清康方負(かたまけ)にけり。然ども清康之御旗(はた)本が勝(かち)而吉田河へおいはめ候故、清康と内前跡寄懸(かゝ)らせ給へばな【
NDLJP:78】じかはたまるべき哉、伝蔵、伝次、新次、新蔵、兄弟四人を討取る。吉田之城に者女房ども出て見而下(しも)地をふうするに、出而見よとてこんがうをはきて出て、塀寄見越而見る。清康者思之儘に合戦に打勝(かち)而、吉田河之上之瀬へまはりて河を騎(のり)越、吉田之城へ即(すなはち)責(せめ)入給ゑば、女房どもはこんがうをはきて田原へ落行(おちゆく)。清康者吉田に一日之御とうりう被㆑成、明ければ吉田を打出させ給ひ而、段々(だん〳〵)に備を押(おし)田原へ押寄(おしよせ)させ給ひければ、戸田も降参を乞いければ寛(ゆるさせ)給ふ。田原に三日之御陣之取給ひ而、明ければ又吉田へ押もどさせ給ひ而、吉田に十日御とうりう之内に、山家(け)三方、作手(つくで)、長間(ながしの)、段嶺(だみね)、野田、牛(うし)久保、設楽(しだら)、西郷、二れん木、伊名、西之郡、何れも〳〵降参を乞いければ寛(ゆるさせ)給ひ而出仕する。明ければ吉田を御立有りて岡崎(ざき)ゑ着せ給ふ。其寄して案祥(あんぢやう)之三郎殿と申奉り而、諸国に而人之沙汰(さた)するは清康之御事成。然間早(はや)甲斐(かひ)の国の信虎(のぶとら)寄も仰合らるゝと、使者(しゝや)をつかはさるゝ。是をきゝて近国寄使者(ししや)之有りけり。美濃(みの)三人衆者早(はや)御馬を寄られ候ゑ、御手を取り申さんと申せしところに、尾張(をはり)之国森山御手を取申故、美濃(みの)へ御心懸有而、森山之御陣とて一万余に而岡崎を立給ひ、御一門之衆先手として、段々にそなへて押せられ、其日者岩崎(いはざき)に御陣を取、明ければ森山に御着有而、御陣をはらせ給ひけり。其寄して美濃(みの)三人衆ゑも、是迄御出陣之由仰つかはさる。小田之弾正(だんじやう)之忠(ちう)は清須(きよす)に有と云とも此方彼方(こゝかしこ)打ちらして放火せしめ給ふ。美濃(みの)三人衆も悦(よろこび)而頓(やが)而数の俣(また)を打越而打むかひ中、御対面可㆑仕と申越其支度有処に、松平内前殿はうり之熊谷が処ゑ御、働(はたらき)之時、松平右京殿ゑ弐(すけ)させ給はざるとて、荒々としたる御詞(ことば)を意趣(いしゆ)に籠め、其耳弄(のみならず)清康御手をくだき給ひ而、西三河をたいらげさせ給ひ、東三河の牧野伝蔵を打取、一国をかため給ひしかば、小田之弾正(だんじやう)之忠にせりとゞめさせて、岡崎を安(やす)々と取物ならば、三河之国者我等が物と思ひ定而、上(うへ)野の城に居而、虚病(きよびやう)をかまひて今度の御供者無(なし)。上(うへ)野の城に御入有而、其寄信長之御父、小田之弾(だん)正之忠と仰合られて別心(べつしん)と申而、森山ゑつげ来。清康聞召(きこしめされ)て、内膳別心をしてあればとて、何程のかうをなすべきとて、事とも思召(めされ)ず。然る時んば森山者内前殿婿(むこ)なれば、弾(だん)正之忠を引請(うけ)而候はゞ、のきくち如何(いか)が候はんと申ければ、森山が城を出るならば、付入にして城を㸋(やき)はらひ可㆑申。弾(だん)正之忠向うならば、願のことく一合戦してはたすべし。弾正(だんぜう)の忠と合戦(かつせん)のするならば、内前をふみつぶすに不㆑及、独(ひとり)ころびにならん。其故弾正忠も出て我に太刀を合ん事思ひも寄らず。出る事は成間敷、我案祥に有し時、纔(はづか)に五百三百持(もち)たりし時さゑ、一度天下を心懸而有にも、百々度之軍(いくさ)をせずんば天下は治(をさめ)られじ。野に向き山に向き敵(てき)とだにも見(みる)ならば、是非ともに押寄而百万騎有とも百々度之軍(いくさ)をせんと思ひ而有り。何時も軍ならば、はづす間敷に心安あれと仰けり。然者退かせられ給はゞ、大給(おきふ)の源次郎殿者、内前殿婿(むこ)に而有り。いかゞ御座可㆑有哉と申ければ、中々之事を申物かな、弾(だん)正之忠をさへ何供思はぬに、源次郎連(づれ)が何とて出て我を禦(ふせがん)哉。若出るならば頭(くび)に石を付而我と潭(ふち)ゑ飛(とび)入に社(こそ)あれ。其迄も無(なき)池鯉鮒(ちりふ)へ出てすぐに上野ゑ押寄、二三之丸を焼(やき)はらいてのくべしと仰ければ、各々被申けるは、其儀如何(いか)が御座可㆑有哉。小河は内前殿の婿(むこ)なれば、【
NDLJP:79】定而小河寄も加勢(せい)もや可㆑有と申ければ、から〳〵打咍(わらはせ)給ひ而、中々之事面々者何を案ずるぞ。我とをるに小河などが百万之人数を持(もち)たればとて、出て我に太刀を合ん哉。出る成(ならば)満足と仰ける。然る処に阿部(あべ)之大蔵惣領之弥七郎を喚(よび)而申けるは、何とやらん世間(せけん)之騒々敷に付而、我等も別心(べつしん)を䇅様(くはだつる)に沙汰(さた)をすると聞、我君之御恩(ごおん)ふかくかうむり、今人と成し我等ぞかし、此御恩(おん)を何としてかほうぜん哉。然ども此御恩(おん)は今生に而ほうずる事中々成難(なりがたし)と、寐ても寤めても是を社(こそ)思ひ暮(くらし)申せしに、か様に人に沙汰(さた)を致さるゝも、天道之つきはてたる事成、逆心(ぎやくしん)之思ひ寄ず、若(もし)我左様成儀もあらば、君之御ばつと蒙りて人も人とは云ずして、後には乞食をすべし。日本は神国なれば、諸神諸仏もなどか我を安穏に而置(おかせ)られ間敷候べし。何とて此君之御恩(おん)を譞(わすれ)申さん哉。哀纆綱(あはれなはつな)をも懸させられても、水火之責(せめ)に而も御尋(たづね)あらば、申披きても果て度は存ずれども、物をもゆはせ給はで、御成敗(せいばい)も有ならば、よみじのさはりとも可成に、人声(こゑ)高く憂世(うきよ)さうざう敷も有ならば、我等を御せいばい有と心得而、汝等(なんぢら)者何方へも取籠り候へ而、我等が親は逆(ぎやく)心之儀者夢々心に無㆓御座㆒候。此中も憂世に而其沙汰を仕とは、内々承及申つれども、夢々左様成儀ども者不㆑存候と、又は仰出しも無御座候へば、此方寄申上候へば、却而(かへつて)あやまり有に似たりと存知、又は其証跡(ぜうぜき)少成供似(にた)る儀有間敷、仰出しも御座候時可㆓申上㆒と存知候而罷在、御普代(ふだい)久敷召つかはされ申耳成(のみならず)、賸(あまつさへ)君之御蔭をもつて人と罷成、此御恩(おん)を忘(わすれ)て御謀叛(むほん)申ならば、日本に諸(しよ)神もましまさば、天命よかる間敷、此上にても七逆罪(ぎやくざい)をかうむりて、無間(むげん)の棲(すみか)をいたさんに、何とて君に弓を彎(ひき)申、御謀叛(むほん)を申上候はん哉。夢々父子ともに不存候由を申上、其故尋常に腹切(はらきり)申せと申きかせ候ゑば、親の仰をもそむき、御主に敵を申上げ、七逆(ぎやく)五逆(ぎやく)の咎(とが)を請(うけ)申す事、日本一の阿房弥七郎めとは此事成。然間君之御運つきさせ給ふ哉。御馬が逸(はな)れて人声高(こゑたかく)候へば、父之大蔵を御成敗かと心得而、弥七郎せんごの刀(かたな)にて、清康何心も無して御座有処を、ひんぬいて切害(きりころし)申。上村新六郎是を見(みて)、弥七郎を其場にて切伏踏害(ふみころす)。各々是を聞莅(いそぎ)参りて君之御有様を見(みて)、各々落涙する事、釈尊の御入滅もかくやと思ひしられて哀(あはれ)成。各々余りの腹(はら)立に弥七郎が死骸を屎堀(くそぼり)に踏(ふみ)こむ。各各あきれはて、とほうにくれていたる処に、上村新六郎申けるは、御かたきは打申成。此故者思ひ置(おく)事無(なき)、腹(はら)を切(きり)て御供を可申由を申、其時各々被申ける、君を切申たる弥七郎を切申事手(て)がら申に不及比類無、然どもか様に君之不慮之御仕合あらんとも、神ならねばしらずして、陣屋ゑ寛(くつろ)げし故に、居合ずして各々迷惑(めいわく)、流水(りうすゐ)不(ず)㆑帰(かへら)後悔(こうくわい)不(ず)㆓先立(さきだた)㆒、か様の事あらんとしりたらば、誰(たれ)かは陣屋へくつろげん哉。折節(をりふし)御身有合而天道にも叶い候いて、弥七郎を打給ふ事ひるい無云にも不及。然ども有合たる事ならば、誰(たれ)かは御身に�(おと)らん哉。有合ぬ事社(こそ)天道にはなされたり。本(もと)寄もおひ腹(ばら)を切申事、御身にも誰(たれ)か�(おと)らん哉。併(しかしながら)御身者追腹(おひはら)を切給ゑ、我ら供者是に而追腹(おひばら)は切間敷、追腹(おひばら)の切つぼに而可㆑切(きる)、御身もふんべつ有而切給ゑと、各々申されければ、新六郎聞而申、追腹(おひばら)の切処者何くぞや。各々被申ける、追腹(おひばら)の切処と者(いつは)十日と過ごす間敷、小田之弾正(だんじやう)之忠(ちう)、岡崎(をかざき)へ押寄(おしよせ)べし。各々是に而腹を切程ならば、【
NDLJP:80】岡崎に者人も無して若君御一人御(おはしまさ)ば、弾(だん)正之忠押寄(おしよせ)而鵜鷹(うたか)の餌を伐(うつ)様に打(うた)せ申さんは無念に存知可申。然ば若君様之御先に而追腹(おひばら)をば切(きり)可申。追腹(おひばら)之切処是成。御身も同は爰に而之追腹(おひばら)思案あれ。何くに而切も同事なれば停(とゞめ)はせず。新六郎被㆑申ける、げに思ひ縒(あやまつて)候。各々と一身(み)して若君之御前に而切死に死可申と云ければ、各尤成、とても切(きる)追腹(おひばら)ならば、各々と一身して火花をちらして切死にし給へ、御供申而可㆑切とて、森山を落(おち)而帰る。森山も落勢(おちぜい)なれども心も替(かはらず)して手も不㆑付して帰しける。内前殿も只今は何かと申而手出し有(あら)ば、城を持(もち)かためては成間敷とや思召ける哉、玃待(さるまち)の歌のごとくに寝(ね)たるぞ寝(ね)ぬぞにして、宇(そら)だるみして二三ヶ月之間者、兎角之御取合もなくして、万事指(さし)引を御(おはします)。其内に悉(こと〴〵く)引付給ひ而、我者同前にいたされ申す。清康三拾之御年迄も、御命ながらへさせ給ふならば、天下はたやすく治させ給んに、廿五を越せられ給はで、御遠行有社(こそ)無念なれ。三河に而森山崩(くづ)れと申は此事成。
お千(ち)代様拾三にして清康におくれさせ給ゑば、森山くづれて十日も過去(すぎざる)に小田の弾正之忠三河へ打出、大樹寺に旗(はた)を立る。其時森山にて追腹(おひばら)切(きらん)と申衆、我人追腹(おひばら)者爰成、若君様は城に而御腹を被成而、城に火を懸させ給ゑ。然ども聊爾に御腹(はら)を切(きら)せ給ふな。各々打死を仕物ならば、敵方城ゑ押寄(おしよせ)而、二三の丸ゑ責(せめ)入らば、其時御腹(はら)被㆑成候ゑ、其寄内は御腹者切(きらせ)給ふべからず。我等供はとても追腹(おひばら)を切申上は御城を罷出広(ひろき)処ゑ罷出、浮世(うきよ)之思ひ出に、花々と戮(きり)死に可仕、取誉(ほめ)られて此方彼方(こゝかしこ)に而死する物ならば、人も追腹(おひばら)とは申間敷、然ども何(いか)に御普代(ふだい)と申とも御慈悲(じひ)、御情(なさけ)、御哀見(あはれみ)も御(おはしまし)給はずば、其場(ば)其場にて、当座之死者仕候とも、か様に妻子(さいし)眷属を捨(すて)而、打死仕事よもあらじ。君之御代々我等供之代代之御情(なさけ)、御慈悲(じひ)、御哀見(あはれみ)、殊更清康之御慈悲(じひ)、御情(なさけ)、御哀見(あはれみ)を思ひ出し奉れば、妻子けんぞくを敵(てき)に只今打剿(ころされ)申、又は我等共(ども)は打死仕たる斗にては足り不申、御代々又は清康御慈悲(じひ)、御情(なさけ)、御哀見(あはれみ)無者、何(いか)に御普代(ふだい)成とも此時は妻子けんぞくをかこちて、山野に隠忍(かくれしのび)而命をつぐべけれども、清康之御情(なさけ)に者妻子けんぞくも惜(をしから)ず。扨(さて)各々若君を見上而見まいらせ、涙(なみだ)をはら〳〵と泊(ながし)、各々妻子けんぞくともに只今果て申事を、露塵(つゆちり)程もをしからじ。若君に御代を持(もた)せ不申して、御年にもたらせ給はぬに、只今来世之御供を申事之遖(かなし)さよと、申もあゑず一度にはつと嗁(さけぶ)。是や此釈尊の御入滅の時、拾弟御(み)弟子、拾六羅漢、五拾二類にいたる迄、遖嗁(かなしみさけぶ)もかくやらん。儅(さて)又御普(ふだい)代に而無者何物かか様には遖(かなし)まん哉。是を思へば主人之実(たから)には普代(ふだい)の者にしくは無、二つ有事は三つ有とは、能(よく)社(こそ)申つたへたり。清康之御仕合に一度嗁(さけび)、只今若君様に別れ申に、二度之嗁(さけび)打死をとげ申さんとて出るに、妻子けんぞく鎧(よろい)之袖(そで)に取付、かなぐり付而嗁(さけぶ)事三度之歎成。早時刻(はやじこく)うつり候、御暇(いとま)申而さらばとて、御前を立而能出る。神も爰を大事と思召(めす)にや、伊賀の郷之八幡宮之鳥居、伊田之郷の方ゑ一間間(けんま)中(なか)歩(あよ)ぶ。各々岡崎を半道程出而伊田之郷に而、敵を待懸而居(ゐ)たりと云とも、雑(ざう)兵逍(やう〳〵)八百有り。弾(だん)正之忠是見而大樹寺を押出し而、二つに分けてかゝる。伊田之郷と申者、上者野成下者田成、野方へ四千、田方へ四千押寄(よする)。岡崎【 NDLJP:81】寄出る衆も八百を二つにわけて、野方へ四百、田方へ四百に而打むかう。誰見たると云人者なけれ供、申伝へには伊賀之八幡之方寄も、白羽之矢が敵之方へふる雨(あめ)之ごとく、はしりわたりたると云。さも有哉。然る所に八千之者ども一度に鯨声(ときのこゑ)を上(あぐる)。優しくも八百の方寄も鯨声(ときのこゑ)を上(あぐる)。靁(いかづち)渡る春之野に鶯(うぐひす)之古巣を出て初音を出すごとく成。早近寄而南無八幡とてぞむかいける。田の方にて上村新六郎が鑓(やり)を入んと云。磯貝出き助が云、新六郎早きぞはやりて鑓(やり)を入れば、物きはにてせいがぬけて、鑓(やり)が弱き物成、大軍の方寄入させて、待請(うけ)而根(ね)強く請留めて入よと云て、野方を見上て見れば、広(ひろ)き野に而四百之衆は四千之者に取まかれて、追腹(おひばら)切(きらん)と云衆は一人も残(のこら)ず火花をちらして、切死にぞしたりけり。又若党(わかたう)小者中間、ちり〴〵に岡崎(をかざき)を指(さし)而坎(にげ)入を見而、野方者皆(みな)うたれて、弱(よわ)者は岡崎を指(さし)而坎(にげ)入ぞと云処に、敵方も野方が勝(かつ)を見而、我先にと競ひて押懸たり。何方之合戦にも人数多(おほ)しと申とも、先へ出て鑓(やり)を合る者は、五人拾人には過去物なれども、此人々者森山寄此時之事思ひまうけたる事なれば、少も騒(さわぐ)事も無、待請(うけ)而百四五十人一度に錣を傾けて根強くついて係(かゝり)ければ、主々に付而残(のこり)之者ども刀をひん撛(ぬき)〳〵、主々寄先に立たんと進みければ、三のそないを切くづしければ、残(のこる)そないは共にはいぐんすれば、悉(こと〴〵く)切捨にして又かたまりて、野方之敵に傃(むかい)而しづ〳〵と押寄ければ、敵是を見てかなはずとや思ひけん、我先にと大樹寺へ乱(みだれ)入、其寄してのけてくれよと降参を乞う。何方も若き衆は有習(あるならひ)なれば、勝(かつ)に乗(のつ)而迚も遣る間数と高言をする。其中に老武(らうむしや)ども之申けるは、敵かうさんのせばやり給ゑ、敵を打取と云とも田方四千を社(こそ)打取たり。其儀も未残たり。野方四千は恙無(つゝがなし)。味方も田方四百社(こそ)恙(つゝが)なけれ、野方四百は皆(みな)打死をする。敵八千之時者味方八百有。敵打被㆑取て四千になれば、味方も打死をして四百に成。其故田方之者も五百も千も打もらされて可有、左様にあれば未(いまだ)敵者多し。味方者すくなく候ゑば、勝て鋹(かぶと)之緒をしめよと云事有。其故は軍(いくさ)の習(ならひ)者しられず、此上我(わが)味方打負(まけ)たらば城迄とらるべし。我等之命露塵惜(ちりをし)からじ。只今迄は若君之御命もたすかり給ふべしともおぼえざりしに、早御命を扶(たすけ)申事は是程之勝(かち)者何かあらん哉。此上にて軍(いくさ)之習(ならひ)なれば各々打死をして、扶(たすかり)給ふ若君之御命を帰而圇(かへつてむなしく)せばいかゞあらん哉。若き衆之被申候ごとく、八萩河(やはぎかは)を半分越せて切(きつ)て懸(かゝる)物ならば、早おくれを取たる敵なれば、安々と切くづす。敵なれども然ると云に敵も其を心得而降参をば乞ふ成。りやうじに河をば越(こさ)じ。河を越と敵も思ひてそこにて思ひ切、聊爾に河を越而も負(まける)、城をむたい責(ぜめ)にしても負(まける)と思ひ切而、城を責(せめる)物ならば安責落(やすくせめおとす)べし。窮却(きうしてかえつ)而猫(ねこ)をくふと云事之候ゑば寛(ゆるし)而やり給ゑ、此故者爰えへの働(はたらき)者、二度(ふたたび)思ひ懸る事者有じと云ければ、其儀尤とてかれは河を越、味方は岡崎へ合引に引けり。各々若君様を二度(ふたたび)見まいらせて、又うれし涕(なき)にどつと涕(なく)。若君様は各々を御覧じて、扨何れもを見る事之嬉さは、二度(ふたたび)清康之御目に懸思ひ社(こそ)すれ。併朝(しかしながら)一度に来り而、我を見て涙を流(ながし)而、今生の暇乞(いとまごひ)とて出たりし者どもの、多来(おほくきた)らず、扨も〳〵ふびん成次第とて、をきつふしつ御落涙有ければ、御前成人々も鎧(よろひ)之袖(そで)をぬらして御前を立、三河にて伊田合戦と申けるは是成。
【 NDLJP:82】然るに寄千千代様御元服被成。次郎三郎広忠(ひろたゞ)御法名(ほふめい)道幹(だうかん)御代々之御つたはりの御慈悲(じひ)、御情(なさけ)、御哀見(あはれみ)、殊に勝(すぐれ)而御(おはします)。各々悦(よろこぶ)処に、内前殿者眼前(がんぜん)の大伯父なれども、横領(をうりやう)して広忠を立出し給ふ。其時御普代衆も色々心々成。御跡に残て是非に一度者御本意をとげさせ申御代に立申さん、我等ども立退く物ならば、末世(まつせ)岡崎へ入らせられ給ふ事有間敷とて、御跡に思ひとゞまりて、御供せざる人多し。又何心も無而御供せざるも有、又内前殿も長親(ながちか)之御子なれば、何れも御主は一つ成とて、内前殿に思ひ付も有。人者兎もあれ角もあれ、をなじ長親(ながちか)之御子とは申せ供、内前殿者庶子信忠(のぶたゞ)者御惣領、其故信忠(のぶたゞ)、清康(きよやす)、広忠(ひろたゞ)迄三代あをぎ奉しに、長親(ながちか)迄四代御跡へ帰りて、其故そしをおなじ事とは云難(がたし)。広忠の御座御座(ましませ)ば逆(ぎやく)成儀成、某(それがし)供者妻子けんぞくを帰見ず、一命を捨而是非とも一度者広忠を岡崎へ入可㆑奉成。然る所に阿部之大蔵申けるは、忰め社(こそ)気違にて、君をば打奉りて有、我等においては少も御無沙汰に不㆑及、是非供に御供申さんとて、十三にならせ給ふ広忠の御供申て、伊勢之国へ落(おち)行給ふ。其耳(それのみ)非(ならず)、六七人も御供申成。十四迄伊勢に御座被成候成。然る間に関東三河をば早駿河寄取、吉良(きら)殿者小田之弾正之忠と御一身有。然間駿河寄吉良(きら)へ押懸ければ、荒(あら)河殿は屋方(やかた)に別心(べつしん)をして、駿河と一身して荒河を持(もつ)処に、屋方はかけ出させ給ひ、敵に打向はせ給ゑば、屋かたの御馬強き馬に而、敵之中ゑ引入られて、即(すなはち)打死を被成けり。其寄吉良(きら)殿御子達は駿河へ付せ給ふ。さあ有程に大蔵、広忠を駿河へ御供申而、今河殿を頼入申。今河殿御無沙汰有間敷由被㆑仰けり。広忠十五之春駿河ゑ御下給ひ而、其年之秋駿河寄加勢をくはゑて、もろの城ゑうつし申。然る間岡崎に有心を懸申御普代衆折をねらひ申せども、其身之力に不及して、大久保新八郎定而思ひ可㆑立と相待申処に、内前殿も内々左様にも思召(めさ)るゝ哉、次郎三郎殿を岡崎へ入申さん者は別之者ならず、大久保寄外は有間敷、さらば起請を書(かき)候ゑとて、七枚(まい)起請を伊賀の八幡の御前に而、広忠を岡崎へ入申間敷と書(かゝ)せ申。新八郎宿へ帰りて、弟之甚四郎弥三郎二人之兄弟どもを呼(よび)寄、兄弟之者ども聞(きく)かとよ、うつけたる事を云まわる、伊賀之八幡之御前に而広忠を岡崎へ入申間敷と、我に七枚(まい)起請を書(かゝせ)たり。ほれ物にはあらずやとてから〳〵と笑(わらひ)けり。二人之兄弟承而主を本意させ申さんために社(こそ)、御跡には留まりたり。其故起請之御罰とかうむりても地獄(ぢごく)へ落る。是を悲(かな)しみ起請のおもてに負(そむく)問敷とて、主に負(そむけ)ば七逆罪(ぎやくざい)、とても咎(とが)をかうむる間、主を世に立申而思ひ置事無咎(とが)を請(うけ)給ゑ、御身一人之咎(とが)にも有ば社(こそ)、兄弟三人地獄(ぢごく)に落(おつる)迄兎角きしやうは千枚(まい)も書給ゑ、広忠をば一度は岡崎ゑ入可㆑申と申処に、又新八郎にきしやうを書けとて書(かゝ)せければ、八幡(まん)之御前に而、七枚(まい)きしやうを書(かゝ)せけり。何度も書(かき)申さんとて書けり。又四五日有而も、広忠を岡崎へ入奉ん者は、大久保寄外者兎角に有間敷候間、一度二度のきしやう者無㆓心元㆒おぼえ候ゑば、又きしやうを書給ゑとて、三度迄伊賀の八幡之御前に而、七枚きしやうを大久保新八郎に書(かゝ)せける。新八郎宿所に帰而又二人之兄弟供を喚(よび)而申けるは、二人ながら聞け、八幡之御前に、又又きしやうを書(かゝ)せて有。是供には三度迄七枚(まい)きしやうを書(かゝ)せたり。合而二十一枚(まい)のきしやう成。百枚(まい)千枚(まい)も書(かゝ)せよ。書せば書(かく)べし。起請の【
NDLJP:83】御罰とかうむりて、今生にては白癩(びやくらい)、黒癩(こくらい)の病(やまひ)を請(うけ)、来世にては無間(げん)之住(すみ)かともなれ、子供之母を牛(うし)裂にもせばせよ、忰を八つ串にも刺さばさせ、何どきしやうをかゝせ申すとも一度は広忠に御本意をとげさせ申、岡崎ゑ入不㆑申ば置(おき)申間敷候。我等斗をふかく疑ひ申間、久敷延るならば何たる事をか申べし。兎角に𠆻(いそぐ)べしと云而、広忠へ内通を申上たり。然間もろゑ頓て内前殿働を被㆑成ける。其時新八郎も供を申ける。人先に立出而普(ふ)代之主に矢を一つ参らせんと云ければ心得而立出る。新八郎はしり出而雑言を云て射懸(ゐかけ)けるを、其矢を取而広忠之御目に懸申せば御喜(よろこび)成。次の働(はたらき)之時又新八郎はしり出、何ものごとくざふごんの云て罵しりければ、又心得而先度之矢文之御返事を持(もち)而出、新八郎普代之主に彎弓は殊外あがりたり。普代之主之矢を請(うけ)而見よと云ければ、けさんのまくりて尻(しり)を出して待懸る。射(い)たる矢を取而靫(うつぼ)の底に入、又新八郎が一矢参るとて射(ゐ)懸けるを取而広忠ゑまゐらせければ、取上而御覧ずれば、何月之何時分岡崎へ入申さんと云矢文成。悪(あしく)雑言を不申ば、内前殿愈(いよ〳〵)うたがはせ給はんとて、畏(おそれ)おそろしくは思へどもざふごんをば申成。帰りてうつぼの矢を取出して見ければ、岡崎を取而くれんと申事御満足に思召(めされ)ける。早急(はやいそげ)と被㆑仰候御事成。去間新八郎二人之兄弟どもを呼寄(よびよせ)而申けるは、早時分も能に由断有間敷、弥三郎者昼(ひる)語りしことをば、悉(こと〴〵く)残(のこ)さず�(ねごと)に云者なれば其心得可有。女房者男之事悪(あしき)様にはいはざる物なれども�(ねごと)は誰も可笑き物なれば、懸(かゝる)大事とはしらずし而、思はずしらずに人に語物成。左様に有とても、か様之大事をば女房には聞(きか)せぬ物成。女者肝(きも)びけ成物なれば、色を違いて物をくはで、人に不審(ふしん)を立らるゝ物なれば、か様之大事をば聞せぬ物成。此事をしをうすれば、妻子けんぞくも命佑(たす)かる。若しそんずれば妻子けんぞく迄も残ず死(しする)事なれば、一代に一度之大事成心得給へよと云ば、甚四郎が聞而、其方が�(ねごと)我さへをかしきと云而笑(わらひ)ければ、新八郎云、笑(わらひ)事に而無ぞ一大事成と云ながら、兄弟三人して笑(わらひ)ける。弥三郎者上帯を頤寄頂(おとがひかしら)へ県(かけ)からげて臥せば、明ければ腮(あご)がするがると云。扨又何時分にやと申せば、明々後日によからんと云。然間我等別して等閑無衆二三人に聞(きかせ)ずんば、後日に恨(うらむ)べしと云。兄弟之者ども誰にやと聞(きく)。林藤助、成瀬又太、八国(やかう)甚六郎、大原左近右衛門ぞと云。尤是には御聞(きかせ)給ゑと云。さらば藤助呼(よび)に越と被申ければ、甚四郎立而兄に而候人は少御用有、御隙入無者御出あれと申越ければ、若此事を思ひ立たれてもあらんと心得て、急(いそぎ)而使(つかひ)寄先に来り、何事にやと申せば、別之用に非(あらず)能酒を請(うけ)而有、一越召と申事と云ば、早たべ度と心得而急(いそぎ)ければ、つれて立而此事斯と云ければ、藤助手を合涙を滂(ながし)、扨も〳〵目出度事哉、我人御供して出候はで叶は去(ざる)事なれ供、我人御供を申物ならば、二度御本意をとげさせ給ふ事、思ひも寄ず、然時んば御跡に留まり申、是非とも御本意をさせ申さんと、思ひ入而とゞまる成。然ども何供才覚(さいかく)に仕煩(わづ)らいて有御身之思ひ立給ふを待申処に、内前殿もさも思召か、御身に広忠を引立申間敷との七枚(まい)起請を、伊賀之郷の八幡御前にて三度書(かゝせ)たまふを見て、力(ちから)をおとして手をうしないて有。然どもきせうを書給ふとも、兎角(とかく)に思ひ立候はんとはおもひ入て有つるが、然ども三度之七枚(まい)きせうの事なれば、此事【
NDLJP:84】如何(いかゞ)と申事も成(ならず)、御身之貌(かほ)を見上(あげ)見おろしはしたれども、さながら如何(いかゞ)とも云難(がたし)。きせうを書(か)き給ふとも兎角御身は引立給はで、置(おかれ)間敷人と思ひしにたがはず、扨も〳〵能ぞ〳〵思ひ立給ふ物哉、殊更我等にも聞(きかせ)給日し事、海ならば大かい、山ならば須弥山(しゆみせん)寄も高くふかく御恩(おん)に請(うけ)申成。只今迄は一日も早と心懸申事、時之間もわするゝ事無、思ひ入て候へども、一人として成難(がた)ければ、我力(ちから)に不㆑及して打過ぬ。御身さへ思ひ立給はゞ、成もせん物をと思ひて今か〳〵と思ひ、御身の貌をまもり上けれども、七枚(まい)きせうのゆゑなれば、さながら詞(ことば)には不㆑被㆑出、とてもあの人者御本意をとげさせ申さでは置間敷人なれども、度々の七枚(まい)きせうに伀(おそれ)を為(な)し給ふ物か。然ども其儀成供兎角に御手者引れ給はん人成と思ひ入而、遅(おそし)と貌(かほ)を見上見下し申けるに、思ひ申に違はずして思ひ立給ふ事嬉しさよと、遊上(をどりあがり)て�(よろこび)て、ふかく一身申て来世迄之契(ちぎり)を申と云。此藤助と申は御代々つたはりたる侍大将成。正月御酒盃をも御一門寄先に罷出て被下けり。其次に御一門出させ給ふ。御家久敷侍者是にこす人無。藤助申すは、我寄外に誰(たれ)にきかせ給ふ。いや〳〵我兄弟一類(いちるゐ)斗に而も安けれども、御身は御家之子と申、又は某(それがし)に別而貴殿者ちかづきける。此儀を聞(きかせ)不㆑申は、後之恨限(うらみかぎり)有間敷ければ、御身斗に聞(きか)せ申成。貴殿と内談(だん)して一両人に聞(きか)せ申方も候得ども、未聞(きか)せ不申�(いよ〳〵)忝奉存候。然者誰人に而候と申ければ、成瀬又太郎、八国(やかう)甚六郎、大原佐近右衛門などに聞(きかせ)可申哉。尤之儀成、何れも此衆は思ひ入たる事に候へば、引入させ給へと申に付而、又太を囂(よび)に越と申せば、甚四郎方寄兄に而候人は、少御用御座候間、御隙入候はずば少度御出あれ。林藤助殿も是に御入候と申越候へば、若もか様之贔(くはだて)も有やらんと、ふかく無㆓心元㆒存知而、使寄も早来り而、林殿も是に御入候か何之御用ぞ不審(ふしん)成、早承度候と申ければ、何たる御用も無㆑是儀なれども、去(さる)方寄めづらしき酒を請而申に付而、一つ申さんために申入たりと云ければ、頓而さとりて其酒を早く被下度と申時、さらばとてかたはらへつれて、此由角と申せば藤助ごとく手を合而、藤助に少もちがはず喜事無㆑限(かぎり)して、一身申成と云。甚六佐近右衛門両人方へ人を越候へと申せば、甚四郎方寄人をつかひ、兄(あに)に而候人は御隙入候はずば、少用之儀御座候間、少と御出候へと申越候へば、是も頓而さとりて、使寄先に走り来りて何事ぞや、各々寄合而機嫌能(よげ)に物語をし給ふと云。御心易かれ何事も候はず、去(さる)方寄能酒を請(うけ)而候へば、一つ申さんために申入たりと申せば、何れも此事胸(むね)に絶(たえ)ぬ事なれば、新八殿之能酒を早く聞(きゝ)度申候。慹(おそし)と待申候間早被㆑下度と申せば、更(さら)ばとて人をのけて此事角と被㆑申ければ、中々喜事無㆑限(かぎり)して、手を合而藤助又太喜に少もちがはずして、ふかく一身申と云。扨(さて)何時分にやと云。か様之儀は時刻(じこく)うつりあしかり明々後日と定(さだめ)けり。新八郎各々に内談有。然者御本居无(なし)㆑疑(うたがひ)、左様にも荒(あら)ば此儀九郎豆殿を引入申、御門を闢(ひらき)て広(ひろ)々と入奉らんと云。其時藤助を初(はじめ)三人衆兄弟共各々申けるは、只今迄之事残所なけれ共、乍(ながら)㆑去(さり)此事を九郎豆殿へ聞(きかせ)られ給は事如何(いかゞ)し候はん。能々御分別あれ、内膳殿者九郎豆殿御ためには眼前(がんぜん)の伯父(をぢ)にて御(おはします)。如何(いか)に伯父(をぢ)にたいして逆(ぎやく)心者荒(あら)じ。能々御分別あれと云。新八郎重而申、各々の如仰内膳殿者眼前之伯父にて御(おはします)【
NDLJP:85】処眼前(がんぜん)成、然ども庶子成広忠者、九郎豆殿御ためには眼前(がんぜん)の姪(をひ)と申し、しかも御惣領にて御(おはしませ)ばいかでか御一身なからん哉。若少成とも何かと思召たる御気色も荒ば、他言(たごん)してはかなはざる事なれば、以来迄も御本居とげ難(がたし)。然時んばなまじひ成事を仕出しては如何がに候間、ごんびんを聞色を見而喧嘩にもてなして指(さし)ちがへて死べし。然者他言は荒(あら)じ、然時んば我等兄弟一類(るゐ)どもを残置(のこしおく)成。彼等(かれら)と一身して御本居をば、とげさせ給へと云。各々被㆑申けるは、其胸(むね)ならば無㆓是非㆒、御存分次第同はとても御本意を遂げさせ申事は、九郎豆殿に聞(きかせ)申に不㆑相相違有間数、同は御思案あれと云ければ、兎角我に御任せ給へ。我をば死たる者と思召、日頃(ひごろ)九郎豆殿御物語にも聞(きゝ)かどめたる事も有と云ば、其儀ならば何と成とも貴殿次第と被申候に付而、其儀ならば貴殿達と一度に罷出申さん。又太と甚六は是に待給ひ両人には帰りに寄而申さんとて、打つれて出にけり。扨新八郎者九郎豆殿へ参ければ、何もの如く御機嫌能御ざふたん有。然処に人を退けさし寄而此儀角と申ければ、殊外御喜有て我等が是へ入奉らんとは思へども、内前我等にも事の外心を置(おき)而、入番之者油断をせざれば思ひ乍成難(ながらなりがたし)。御身寄外本意をとげさせん人者無と思ひて有処に、八幡之御前に而、七昧(まい)きしようを一度ならず二度ならず三度迄書給へば、御身も何とか荒(あら)んと不審(ふしん)に思ひつれば、不思議(ふしぎ)に思ひ立給ふ事返々も喜敷存知候とて、殊之外の御きげん成。新八聞給へ、是に付而御身と内談有。此度若御身之しそんずる物ならば、重而御本居させ申さん事成難(なりがたし)。然時んば我等寄外は無、然間此度は我等をば重而のためにたばひ給へ。然者我等者有馬(ありま)へ湯治をすべし。其内に是へ入奉れ。然者門之鍵を壺(つぼ)ねにあづけ置べし。大久保新八郎ならば渡せ、別成者に渡すなと申可付、其分心得而、能調議をし給へ。何時分の事にやと仰ければ、明明後日に相定申と申せば、さらば明日内前得人を使(つかひ)、湯次之事を申而、明後日者かならず罷可㆑立と被㆑仰、かたく仰置(おかれ)ければ、新八郎忝と申而罷立ければ、九郎豆殿御座敷を立せ給ひ而、又誰に聞(きかせ)給ふ哉と仰ける。林藤助、成瀬又太郎、八国(やかう)甚六郎、大原左近右衛門にしらせ申と申せば、愈(いよ〳〵)御きげん能而、尤之衆成、御身之聞せ給ふ衆ならば、あだ成衆には有間敷と思ひしに、此衆を引入給はゞ思ひ置事無と仰有(あつ)而、此衆にも心得而仰候得、御身と一身と聞而心安社(こそ)存知候得、申に及去(およばざる)衆に候得ども、�(いよ〳〵)御心得あれと念比(ねんごろ)に御語あれと而入せ給ふ。藤助者新八者果(はて)られ候か、何と有と思ひ而、手に泚(あせ)をにぎり門に立、無㆓心元㆒而立ける所へ、新八心能(よけ)に来り給ふを見(み)而、先(まづ)命之ながらへたるを、夢之心地して趙賓(はしりおかひ)涙ぐみて、やれ新八か如何成御馳走にや、心能(よげ)に見得させ給ふと云而見上ければ、新八も二度逢たる嬉しさに仕合先御心安かれ、殊之外御ちそうに相申、忝奉存申間、其祝ひに明朝御振舞可申候間、佐近右衛門殿御同道有り而、かならず御出あれ。爰に而具に可承候得ども路次之儀に候へば早々承候、万事御心安可有と申捨(すてゝ)ぞ通りける。佐近右衛門も新八者命ながらへて有かと思ひ、大道へ出て聞𦗗(きゝみゝ)を立而、泚(あせ)をにぎりて、をほせなぎをつきてゐたる処得、遠(とほく)寄見懸而はしり寄、扨も帰らせ給ふかと云而涙ぐむ処に、先(まづ)仕合御心安思召せ、事之外御ちそう忝奉㆑存候。是に而御ちそうの儀御物語申度者候得ど【
NDLJP:86】も、路次之儀に候得ば如何に候。今日之御ちそう忝奉存候間、其祝に明朝御出可被成候、御振舞可申候。藤助殿も是迄御寄可有候由仰候。御同道有(あつ)而かならず未明に藤助殿と御同道可有候。待入申其迄も候はず未明に可参候。又太も甚六も待かね可㆑被㆑申候間、御免(ごめん)なれとて通りければ、又太八国(やかう)も二人之兄弟どもと打つれて、半途迄出候得而、新八者果てられけるかとて、互(たがひ)に物もいはずして泚(あせ)をにぎりて待かね而居たる処に、岡崎之方をながめ居たるに、霞(かすみ)之内寄見付而、新八社(こそ)来りたりとて大息をつき、はしりむかひて只今御越かと云(いへ)ば、仕合先(まづ)御心安思召而帰らせ給得とて、喜(よろこび)而供につれて入にけり。又太甚六二人之兄弟どもに、此由具に語ければ不(ず)㆑斜喜(なゝめなら)而、涙を流(ながし)而申けるは、陲(あやうき)今日之御身之命と申ければ、とても普代之主に奉㆑命ば何(いづ)くに而奉も同事成と云。明ければ藤助、甚六、佐近右衛門、又太参而此由具に語。又九郎豆殿右之衆得、御念比(ねんごろ)に被仰し事どもをも具に申渡しければ、愈(いよ〳〵)感涙を滂(ながし)而喜事無㆑限(かぎり)。扨又九郎豆殿御湯治と聞(きく)寄も各々胸落付(むねおちつく)。新八郎は忍(しの)び而広忠得申上けるは、御支度有而御待可被成、明夜是得入可㆑奉、然者明晩御迎(むかひ)に藤助、甚六郎、佐近右衛門、又太郎、甚四郎を進上可申と申越候得ば、広忠之御喜給ふ。明ければ君も御一代之御大事御一代の御喜と思召、今日之日の暮(くれ)申事を、千年をふる思ひに思召暮させ給ふ所に、早入合に成ければ、御迎(むかひ)を待兼させ給ふ処に、藤助、又太郎、佐近右衛門、甚六郎、甚四郎忍而参、早御時分能御座候。御仕度有(ある)而出させ給得と申す。新八郎は兄弟一類(るゐ)引つれて御番(ばん)に上相待奉㆑申と申上けり。新八郎は番之由を申而、兄弟一類(るゐ)引つれて七つ時分寄行、暮(くれ)相に成ければ、御門之かぎを渡させ給得と云。奥(おく)寄も門之かぎと申は何者ぞや。不㆑被㆑苦(くるし)候、大久保新八郎に而御座候と申ければ、局の仰には大久保新八ならばかぎを渡し申せと仰置(おかれ)たり。新八ならば直(ぢき)に渡し申とて御つぼね自身身づから持(もたせ)給ひ而、直に新八かとて渡させ給ふ。かぎは請取申今や慹(おそし)と相待けり。広忠も早打立給ふ而、莅(いそがせ)給ひし処得、城者取申成遅(おそく)御座候。莅(いそがせ)給得とて半途迄申来りければ、御夢之御心地して、御馬を早め給得供、御心には一つ処に而遊(をどる)様にを思召、鳥ならば一飛(とび)にも飛(とんで)も行早(ゆかばや)と思名共、御身は跡に御而(おはしまし)、御心者城得移(うつ)らせ給ふ。然間無㆑程打付(つか)せ給ひければ、新八郎者待請申。大手之門には兄弟一類(るゐ)を置(おき)ければ、錠を取槤斗(くわんのき)に而有事なれば、急(いそぎ)門を闢(ひらき)而奉入ば、新八郎も一類(るゐ)之者を引付而置(おき)、本城之御門の闢(ひらき)、広忠を入奉て大息(いき)ついて、今社(こそ)日比の御本望是成と云。然以此番之族(やから)者此方彼方(こゝかしこ)之城をのり狭間をくゞりて落坎(おちにげ)ぬ。然間城をかためて、広忠を御本居をとげさせ給ひ而、只今城へ移(うつ)らせ給ふ成。二三之丸に有侍広忠得心有者は、二三の丸をかため給ひ而、入番之族(やから)を一人ももらさず打取給得と云而、鯨声(ときのこゑ)を上(あげ)鉄砲(てつぽう)をはなし懸申せば、しるもしらざるも落行(おちゆく)。既(すで)に夜も明ければ、心有御普代(ふだい)衆は、何方から此城を忍(しの)び取らんともおぼえず。誰人ぞ広忠を引入申とおぼえたり。其儀ならば急(いそぎ)可㆑参とて、心有衆は大手へ急(いそぎ)参而、是者誰がし何がしと名のりて馳せ集まる。城寄は喚はる。各々か早く来り給ふ物哉。次郎三郎様社(こそ)今夜暁(あかつき)方に是得御本居をとげさせ給ひ候ぞや。各々御普代の面々(めん〳〵)達は、𠆻(いそぎ)二三の丸得入せ給ひ而、かためさせ給得、定【
NDLJP:87】而上野(うへの)寄内膳殿駈け可㆑被㆑付、御油断有間敷と申ければ、各々我も〳〵と駈(か)け入而、二三之丸をかためけれども、内前殿も寄(よせ)給ず。内前殿仰けるは、広忠を引立申者別之者にはよも荒(あら)じ。大久保にて可㆑有、腹切(はらをきら)すべき者なれども、伊賀之八幡之御前にて七枚(まい)起請を三度書(かゝ)せ申故、ゆだんをして扶置(たすけお)き申事悔敷(くやしく)口惜(くちをしき)無念成。流水跡(りうすゐあと)へ不(ず)㆑帰(かへら)後悔(こうくわい)不(ず)㆓先立(さきだた)㆒、大久保は内前殿に憎まれても苦(く)にもたず、広忠を御本居させ申せば、内前之憎(にくみ)給ふも起請の御罰も不㆑入、只今社(こそ)嬉しきと云。広忠十三の御年清康に御おくれさせ給ひ而、頓面其年眼前(がんぜん)之大祖父(をぢ)内前殿に岡崎を立出されさせ給ひ而、御年十三に而伊勢の国得御浪人被成、御年拾五之春駿河国へ御下被成、今河殿を御頼被成而、其年之秋今河殿寄も加勢をくはへて、三河の国もろの郷にうつらせ給ひ而、御年拾七歳之春、御本居被成岡崎得入せられ給ふ。広忠之御悦(よろこび)を、物に遥々(よく〳〵)譬ふれば、法華経(ほつけきやう)之七之巻(まき)薬王(やくわう)品に云、寒(さむき)者の火を得たるがごとく、倮(はだか)成者の衣を得たるがごとく、商人(あきんど)のぬしを得たるがごとく、子の母を得たるがごとく、渡りに舟を得たるがごとく、病(やまひ)に薬(くす)しを得たるがごとく、貧敷(まどしき)に宝(たから)を得たるがごとく、民之王(わう)を得たるがごとく、こきやくの海(うみ)を得たるがごとく、燐燥(ともしび)の暗(やみ)を除くがごとくと説(とき)給ふ如くに、何(いかに)御心之内の御喜是に劣(おとり)申間敷、扨又御本居をとげさせ申儀、御満足と仰有而、其御忠節(ちうせつ)と被成候而、新八郎、藤助、甚六郎、佐近右衛門、又太郎に地方(かた)拾五貫づつ被下けり。甚四郎弥三郎を初(はじめ)此一類(るゐ)之者どもにも、それ〴〵に被下けり。新八郎にも並に被下る。然ども御知行は其分成、是に余かつて中野郷と申て、くでん百貫之処を代官(だいくわん)を仰被付而、後日には是を知行に被下けり。扨又其後内前殿も御詫(わび)事被成而御出仕被成、御一門悉(こと〴〵く)御本居目出度とて、各々御出仕無㆑滞。広忠御慈悲(じひ)御情(なさけ)御哀見ふかきと申各々喜申処に、御浪人被成人之憂(うき)苦き善悪(よしあしき)を思召しらせ給ひ而、民百姓の歎適(なげきかなしみ)をも能見置(おかせ)給ひ、少身者の鄙の棲(すみかにて)渡世を送(おくる)をも御覧じければ、愈(いよ〳〵)御慈悲(じひ)、御哀(あはれ)見、御情(見)を懸させ給ひし御事、御代々にも殊に勝(すぐれ)たり。然間苅屋の水野下野殿の妹婿(いもとむこ)に被成せ給ひ而、竹千代様と媛(ひめ)君を御儲けさせ給ひ而、扨其後に御前様をばかりやへ送(おくり)まゐらせ給得ば、其後久松佐渡殿へ御越有而、御子多(おほく)もうけさせ給ふ。其後広忠は田原之戸田少弼(せうひつ)殿の婿(むこ)にならせられ給ひ而、御輿が入。然処に本城得御輿を入んと云ければ、本城者竹千代城なれば、新城得入よと仰ければ、久敷つかへて何かと申けれども。かなはずして終(つひ)に者新城得いらせ給ふ成。又或時玆に御鷹(たか)野得出させ給得ば、折節五月之事成に御前成、ずいぶんの人田を植ゑ申とて、我も自身破れ帷子(かたびら)を着たかはしをりにはしをりて、玉襷をあげて、我も早苗(さなへ)を背負ひて目脥(めづら)迄土にして行処得、折節広忠行合させ給ひ而、あれは今藤に而は無かとて、御馬をひかへさせ給ふ。紛去(まぎれざる)事なれば各々傍輩(はうばい)衆も赤面(せきめん)して有処に、見而参と仰ければ、畏(かしこまり)而参而申様、扨貴方之儀者何としたる事ぞ。上に御覧じ付而、今藤か見而参との御使成。扨何と可㆓申上㆒哉と云。何と御返事を可㆓申上㆒、今藤に而御座候と申上給得と云。されば左様にも申被㆑上間敷と申せば、扨貴方いはれ去事を仰候かな。上様の御直(じき)に御覧じて、御馬をひかへさせ給ひ而、御意之処を何とまげられ申さん哉。御身のまげ給はゞ、又【
NDLJP:88】別之人参而、見而有様に申上ば、其時に御身も我等故に御迷惑(めいわく)可㆑有。然時んば我等及に人を損なひ申事も迷惑(めいわく)如何斗可㆑有。其故我等とゞか去(ざる)故をもつて、人迄そこなふといはれん事も迷惑(めいわく)、然者浮世(うきよ)得此沙汰広(ひろ)まるべし。殊に御身之一類(るゐ)に悪(あしく)いはれ憎(にくまれ)申事も、骸(かばね)之上迄も骸之上の恥(はぢ)の恥成。其故上の御直(ぢき)に御覧ぜられて、御馬をひかへさせられての御意なれば、御身の撑(さゝ)へにあらば社(こそ)、御身に恨も有べけれ。玆(こゝ)に而曲る事成間敷に、今藤に而御座候と申上給得と申せば、何供迷惑(めいわく)之御使とて赤面して帰けり。御前得参ければ、今藤かと御意之有(あれ)ば、謹んで有けり。重而御尋有ければ畏(かしこまつて)候と申上げる時、急(いそぎ)つれて参れとの御意なれば、立帰而参れと御意成と申せば、畏(かしこまつた)と申而御前得参、早苗(さなへ)をせおひて、いとゞ泥に成者が、上様を見付申而知れ申間敷と思ひ而、早苗(さなへ)をせおひて畔に躓きたる風情にして、田之中得うつぶしにふしたれば、目も脥(つら)もまつ墨(くろく)に泥に成而御前に畏(かしこまれ)ば、誠に〳〵怪有がる生者に而候。上様は是を御覧じて、御目に御涙を持(もた)せられけり。各々も我人あれ躰の事をばせぬ人一人もなけれども、各々は、ふも能か終(つひ)に御目にあたらず、今日今藤は見被㆑出申事社(こそ)不連なれ。只今是に而御成敗あらん事之不憫さよ。今日者今藤が身の上明日は如何にとしても、か様之事をして妻子を孚(はごぐ)までかなはざる事なれば、明日者我々の身之上とて泚(あせ)をにぎる処に、つく〴〵と御覧じて、良(やゝ)有而今藤か見違へたり。扨も〳〵汝(なんぢ)供左様に荒(あら)れぬ事をして、妻子けんぞくを孚み、事(こと)の有時は一疋に乗(のり)而懸(かけ)出先懸をして一命を捨(すて)而、度々の高名莫大(ばくだい)成。然ども少身なれば身を輙過(たやすくすぐる)あてがひもせずして、左様の事をさせ申、定而汝(なんぢ)一人にも限(かぎる)間敷、面々も嘸有るらん。ふびん成ば我も何たるあてがひもしたくは思得ども、汝(なんぢ)供如(ごとく)㆓存知㆒出し可㆑申地行之なければ、可㆑取とも思はであられぬ成をして、奉公をしてくるゝ事返々も喜(うれし)けれ。是と云も普代久敷者なれば、主を悲(かなしみ)未而左様にはすれ。新参(しんざん)犇(はしり)付之者ならば思ひも不㆑寄、只人間之宝(たから)者普代之者成。かまへて〳〵汝(なんぢ)が恥(はぢ)には非(あらず)我等が恥(はぢ)成に、恥(はぢ)と思はで汝(なんぢ)も面々も左様にして妻子をはごくみ、我に能一命を捨而奉公をしてくれよ。我汝供が摝(かせぎ)をもつて戮(きり)ひらく者ならば、過分のあてがひをもすべし。只今者我も成去(ならざる)間荒去(あらざる)事をもなして、妻子をはごくみて、其故一命を捨而摝(かせぎ)てくれよ。早々帰而田をうゑよと仰ければ、御前成人々又聞懸に涙を滂(ながす)。其身者元寄妻子を帰見ず、一命を奉らんと思ひけるも、御慈悲(じひ)御情(なさけ)之御詞(ことば)一つをもつて、諸(しよ)人涙を滂(ながし)て一入(ひとしほ)君に思ひ付申成。彼者を是に而御成敗も有ならば、諸人恨(うらみ)をなして君に思ひ付一命を捨んと思ふ者は一人も有間敷に、広忠之御慈悲(じひ)御情(なさけ)之御詞(ことば)一つに而是を聞及に、広忠には妻子を帰見ず、一命を奉らんと申者斗成。只人は慈悲(じひ)と情(なさけ)と哀(あはれ)見にこす事無。然処に天野孫七郎を召て仰けるは、広瀬(ひろせ)之作間を切而参れ。切済ましたらば、大浜(はま)之郷に而百貫可㆑出。手を負はせる物ならば、同所に而五十貫可㆑出と仰ければ、作間を切ん事思ひも寄去(ざる)事なれ共、御普代之主の御意負難(そむきがたし)。但(たゞし)御馬之先に而打死も安し、御前へ引出されて、頸を打(うた)れ申事も安し、然ども死る事者同前にはあれども、作間を切ん事心を尽しても成難(なりがたし)。然と申ても普代之主の仰者負(そむか)れず候成。成程者狙ひ候而、成(ならず)は死迄と思ひ定而、御請(うけ)を申罷立、【
NDLJP:89】道々案ずるに別之儀も無。作間を切んに者、先(まづ)作間処へ行而、奉公をして案内を見置(おき)て切んと忠ひ而、其寄して作間方得奉公とて行ければ頓而置(おき)にけり。然程に能奉公をする事独楽をまはすがごとくに使(つかはれ)ければ、大方成(ならず)気に入而後は膝(ひざ)本近使(ちかくつかは)れて寝間のあたりを徘徊する。仕済したりと思ひ而、今は時分も能折と思ひ而、人侒(しづ)まりて寝間に忍(しのび)入而見ければ、作間は前後もしらずして臥したりけり。天野孫七郎立寄而、起きば当るを最後(さいご)に切べしと思ひけれども、能ふしたれば、胴中と心得けるが、いやいや夜(よる)之物多(おほ)く著て、綿が厚ければ身にとはる間数と思ひ而、細頭(くび)を切んと心懸而、夜(よる)之物のはづれを、月あかりに見而、以てひらいて切付ければ、戮(きら)れ而作間少も身を動かさずして居たれば、切戮(きりころし)たりと思ひ而出ければ、早辺寄(あたりより)もなりを立れば、早城之内�(さわぎ)ければ、へいを乗(のり)而北(にぐる)とて、刀を跡得取落せども、取に帰らん事も成(ならず)して捨(すて)而来り而、此由角と広忠得申上ければ、刀(かたな)をおとしたればとて、其程の手柄をする故、取に下而死(しす)る事之あらん哉、少もくるしからず、手がら比類無(ひるゐなし)、約束(やくそく)の如く出すべしと仰ける。去程に作間は起上(おきあが)り而疵をさぐりて見れば、折節(をりふし)枕がはづれてそばに有ければ、枕に切付而齃(はなばしら)を両之𦗗(みゝ)の処迄切付けり。𪱜(おとがひ)下りければ�(おとがひ)を取て押上而、鼻の息を吹きて見而あれば、息詰りければ、又疵を引離して能疵口を合而、息をふきて見ければ、息も相違なければ、帯をもつて頭に搦み付而養生する。作間はから〴〵の命を佑(たす)かる。天野孫七郎には、御約束のごとく大浜(はま)にて五十貫被下けり。手柄をする故に後迄も異(い)名に作間切と申成。然処に内前殿者御兄(あに)甚太郎殿者、御舎弟(しやてい)に而御(おはしまし)けるが、内前殿者清康広忠に逆心(ぎやくしん)を被成けれ共、甚太郎殿者終(つひに)逆心(ぎやくしん)無、広忠を内膳殿の立出させ給ひし時も、甚太郎殿者広忠を引請度と被成候へども、内前殿手ばなし給で、伊勢得送(おく)り給得ば、力(ちから)無して御(おはします)。其寄して者内前殿と甚太郎殿は御中(なか)よからず。広忠御本居有而甚太郎殿は御満足之由被仰而、人先に御出仕有而、一(ひと)入の御取持(もち)給ふ。内前殿も詫(わび)言被成而出させ給得ば、甚太郎殿仰には、内前者兄なれ供、度々の別心なれば帰新参(しんざん)成。我は弟なれども一度も別心をせざれば、上座に可㆑有と仰けり。内前殿は如何に角有ばとて弟(おとゝ)寄下座には有らんやと仰ける間、互(たがひ)の座論(ざろん)に而、御出仕にも日をかへさせ給ふ成。路次(ろじ)をありかせ給ふにも、両方乍抜身(ながらぬきみ)に而互(たがひ)に内衆も反(そり)を直してとほらせ給ふ。若何事も有成(ならば)、甚太郎殿方がつよからん。其を如何にと申に両方得御加担は有間敷とは申せども、内前殿者上様を立出し給ひ而、方々を御浪人させまゐらせられ給得者、御心中に余り御贔屓(ひいき)には有間敷哉、甚太郎殿者終(つひ)に一度も逆心(ぎやくしん)無、上を御たいせつと思召給得ば、御心中には是を悪(あし)かれとはよも思召候はんか。其故御普代衆も悉(こと〴〵く)甚太郎殿得可㆑付、内膳殿へは一人も付人有間敷、然時んば甚太郎殿勝(かたせ)られ給はんか、免若者と有内に両方乍(ながら)跡先に御病死(びやうし)なれば無㆓何事㆒。然処に小田之弾正(だんじやう)之忠出馬有而、案祥(あんじやう)の城を責取(せめとれ)ば、無㆑程佐崎(さざき)の松平三左衛門殿、弾正之忠の手を取而、広忠得逆心(ぎやくしん)をし給ひ而、岡崎に迎(むかひ)而渡理(わたり)�鍼(つゝばり)に取出を取給ふ。然処に坂井左衛門尉は内々を小田之弾正之忠と心を合而、其故にて広忠得難渋(なんじふ)を申懸、折も能ば城をも心懸給ふか、御城得つめ入而、直談(ぢきだん)に社(こそ)申けるは、石川安芸(あき)守と坂【
NDLJP:90】井雅楽助に腹(はら)を御切(きら)せ被成候はずんば、御不足(ふそく)を可㆓申上㆒と被申候得ば、両人之者に何とて腹(はら)を切(きら)せ可㆑申、思ひも不㆑寄と被仰候処に、左衛門尉別心(べつしん)に而御城得つめ給ふと而、各々御城得参ければ、佐衛門尉も引のき給ふ。大原佐近右衛門今藤伝次郎なども一つくみ成。然処に本城之門脇(わき)に而、佐近右衛門が一人突伏せて、佐衛門尉と打連れて、大原佐近右衛門も、今藤伝次郎も、其外五三人引のきて小田弾正(だんじやう)之忠得出る。然処に松平九郎豆殿、舎弟(しやてい)の十郎三郎殿、御死去(しきよ)被成ければ、御跡継(あとつぎ)之御子無と仰有而、其御跡式(あとしき)を押領(あふりやう)し給ふ。然処に岩津(づ)殿御跡式迄、押領(あふりやう)被成ければ、御身に妙(あて)而御知行どもには三人御知行を一つにして押領被成ければ、広忠之御領分(りやうぶん)には莫大(ばくだい)に勝(すぐれ)たり。か様に我儘(まゝ)に押領(あふりやう)被成候はゞ、只今社(こそ)広忠得御無沙汰無とは申せども、此方彼方(こゝかしこ)押領し給得者、早広忠と両天に成給ふ成。然者少之出入も六ヶ敷、其故内膳殿に懲りたる仕合も有、後之わづらひ是成。先車(せんしや)之覆すを見而、後車(こうしや)の誡めをなすと云(いへ)り。各々寄合談合(だんがふ)して広忠得此由申上、九郎豆殿を駿河得今河へ御使(つかひ)につかはされ、其寄岡崎得寄(よせ)入不申、九郎豆殿は犇(おどろか)せ給ひ、こはいかに何事ぞや。我広忠得対して御無沙汰之心毛頭更(さら)に無、如何成儀に而御座候哉。更に我身におぼえ不申と仰せつかはし給得ば、各申上候。如仰只今においては、広忠得御無沙汰之儀夢々毛頭更に無、広忠を御たいせつと思召事大方成(たらず)。只今迄之御取立残(のこる)所も無。然間御別心などと申儀は夢々思ひも寄ず、広忠を大事と思召事大方ならねども、十郎三郎殿御跡を我儘(まゝ)に押領(あふりやう)被成、其耳成(それのみならず)岩津(づ)殿御跡(あと)迄、我儘(まゝ)に押領(あふりやう)被成候得ば、早広忠之御領分には、貴殿様之御領分が莫大(ばくだい)に増してあれば、早南天にならせ給得は、自然(しぜん)少之出入も候得ば其時は六ヶ敷、其故先車の覆へすを見而、後車之誡めをなすと云事有。此前内前殿にこり申故は、何只(いかに)今御無沙汰無と申而も、後日を不存候間、兎角に寄(よせ)申間敷と各々申ければ、色々御詫(わび)事有(あれ)ども、各々用ひず。然者今河殿を頼入而、御詫(わび)事申さんとて、駿河得下而今河殿を頼、御詫(わび)事被申ければ、各々右之しいしゆを申ければ、各々の被申候も以来を兼而被申候得ば、道理之聞えたりとて重而御詫(わび)事無。然間九郎豆殿仰には広忠には恨(うらみ)は荒ねども、家中之恨(うらみ)なれば、さらば小田弾正之忠と一身可有とて、早手出しをし給ひ而、広忠之御領分に火之手を上給ふ。御普代衆をも九郎豆殿に多(おほく)あづけ置(おかせ)給ひし処に、九郎豆殿手を出し給ふに寄而、九郎豆殿に付申処には非(あらず)、如何せんと云処に、大久保甚四郎、同弥三郎申けるは、後日には岡崎得のき度と申たりとも、取鎮め給はゞ成間敷に、取しめざる内に、兎角のき給得とて、各々を唆(そゝの)かし立て、引はづしてのきけり。九郎豆殿も此衆を頼と思召て社(こそ)、手をも出させ給ひしに、大久保が覚悟をもつて各々はのく成。更角に憎(にくき)事かな、何ともして大久保一名之子供成とも描まへて、磔(はりつけ)串指(ざし)にもして無念をはれんと仰けり。然ども其比土呂、鍼崎(はりさき)、野寺、佐崎とて敵味方(てきみかた)不入(ふにふ)之処なれば、鍼崎(はりさき)之勝万寺得妻子けんぞく供(ども)を入ければかなはず。勝万寺殿も大久保衆之子供達一人も出させ給ふなとて、人を付而寺内寄外得出させ給はずして置(おき)給ふ。然者九郎豆殿ふかく憎(にくませ)給ひ而、大久保一名之知行、又は手作迄も根をほり給得ば、取わけ此一名は妻子けんぞくを餓死(がし)に及せ、一衣(え)を【
NDLJP:91】代貸(しろが)し穄(あは)、薭(ひえ)、芋(いも)などは上の食物(じきもつ)也。豆腐の糟てうずのこなどを買(かひ)取而、一両年何と無から〴〵の命(いのち)を存(ながら)へけれども、御普代之御主の御ためと思へば、何れも苦(く)にもたず。然処に小田弾(だん)正之忠出馬有而、上和田に取出を取而、松平三左衛門殿を置給へば、早岡崎は一国一城と成。然処に岡崎寄大原作之右衛門、今藤伝次郎、其外以上に七八人斗、上和田得のきて弾正之忠の前得罷出ければ、弾正之忠立出対面して、各々忠節(ちうせつ)は忝と仰ければ、其時佐近之右衛門伝次郎指出而申、御心安思召候得。岡崎は程(ほど)有間敷鑓(やり)をもふりまはし候程の者どもは、皆(みな)罷のき而座(おはし)候間、頓而取而御目に懸申さんと申ければ、弾正之忠の御返事に、されば満足して有。然ども各々之様に度々之事をして、名の高き人成。岡崎におきても一本鑓(やり)之衆なれども、普代(ふだい)の主の前途を見捨(みすて)妻子を孚み、一命を捨(すてる)処を慟(かなしみ)而つよ見をほんとして懸落(かけおち)し給ふ。一本鑓(やり)立寄も人数(かず)に入去(ざる)とは申ながらも、普代之主のせんどを見つぎ、妻子けんぞくを帰見ずして、一命を主に奉らんと申而、岡崎にいたるあやかり者ども社(こそ)、一本鎚(やり)立寄も千万心憎く存知候と仰ければ、各々赤面して社(こそ)居たりけり。扨又弾正之忠引入(いり)給得ば、広忠之仰出しに筧図書(かけひづしよ)を召而仰けるは、和田之取出得忍入而、三左衛門尉を切て参、切害(きりころす)者ならば、百貫可㆑被㆑下と仰ければ、御請を申罷越、忍入而見而有ば、前後もしらず見得ければ、押付々々四脇指(わきざし)五脇指つきける程に声(こゑ)も不㆑立してはてられ給ふ。豆書(づしよ)も忍入たるに勢息(せいいき)も切けるにや、其(そこ)を出ければ腰(こし)之たゝざれば、弟(おとゝ)之筧(かけひ)助大夫も兄と付而其あり迄行けるが、兄之腰(こし)之立た去(ざる)を見て、おびてのきけるに、助大夫と申は隠無(かくれなき)おぼえの者、筧(かけひ)助大夫とて人之赦置(ゆるしおき)たる者成。兄之豆書(づしよ)にも抜群位(まし)たる者成。助大夫兄を引懸而のくとて云けるは、御身之取給ふ知行之内我等にも少くれ間敷と被㆑申候はゞ、爰に捨(すつる)と云けるを、扨も〳〵助大夫は能ねぎりたりとて笑譝(わらひほめ)に譝(ほめ)にけり。筧豆書(かけひづしよ)には御約束(やくそく)のとほり百貫被下けり。扨又広忠は四方に五つ六つの取出をとられ給ひ而、一国一城にならせ給得ば、今河殿を御頼被成御加勢(かせい)を頼入と、駿河得仰つかはしければ、今河殿御返事に家勢(かせい)の事は安き儀成、但(たゞし)と申に人質を給候得、其故加勢を申さんと仰ければ、更ばと仰有て竹千代様御年六歳の御時、質物として駿河得御下向被成けり。然間西之郡にて御船(ふね)に召れて、田原へあがらせ給ひて、田原より駿河へ御下向可被成との儀成。田原の戸田少弼(ひつ)殿は、広忠の御ためには御婚(しうと)成。竹千代様の御ためには、継祖父(をぢ)成。然供少弼(せうひつ)殿小田原之弾正之忠得永楽銭千貫目に竹千代様を売(うらせ)させられ給ひ而、御舟に召而熱田之宮得あがらせ給ひ、大宮司�(あづかり)
給ひ而明之年迄(まで)御(おはします)。広忠之仰には其方得出したる事ならねば、何と成とも存分次第可有とて、終(つひ)に御用(もちひ)なかりけり。弾正之忠も理非(りひ)も無あたるべきにあらざれば打過(すぎ)ぬ。然間今河殿仰けるは、広忠寄しち物はきたれども、そば寄盗(ぬすみ)取而、敵方得売(うり)申事は無㆓是非㆒、其故も小田と一身無、侍之義理は見得たり。此上は広忠を見継而、加勢(かせい)可有とて、林西寺(りんさいじ)之説斎(せつさい)長老に各々を仰付而、駿河、遠江、東三河、三ヶ国之人数を催(もよほし)而加勢(かせい)有。説斎(せつさい)駿府(すんぷ)を立而藤枝に付(つき)、明ければ藤枝を立出大㳄河(おほゐがは)、さよの山を打越懸河に陣を取。明ければ懸河を打立而、福路居(ふくろゐ)、見付、天龍(りう)河を打越、其日は引間に陣を取。明ければ【
NDLJP:92】引間を立出而、両手にわけて今切と本坂を越而、吉田に陣を取。吉田を立出下地(しもぢ)之御位(ごい)、小坂井御油(ごい)赤坂を打過而、早山中藤河に陣を取けり。岡崎には各々此由聞寄も喜(よろこび)而、いざや駿河衆之出けるか見んとて、弓取三十人斗円入功(ゑんにふぼう)山得あがりてながめける。折節岡の城寄九郎豆殿五百斗にて岡崎得打まはりと有而、まつ黒(くろ)にかたまりて坂を押上させ給ふ。三十人斗之衆是を見而、爰成は九郎豆殿と見得たり。いざや此小堬(こづか)に木の葉を指(さし)其蔭に隠れ居而、近くよらせられ給ふ時、一矢づつ射懸申、其寄坂を下りに�(はしり)降(おり)而、明太寺之町得懸(かけ)入而、其寄すがう河得出べしとて待懸て居たりける処得、近々と寄来(よせきた)らせ給得ば、�(はしり)出而一矢づつ射懸而、坂を下に�(はしり)降(おり)而、明太寺之町得入而、すぐにすがうの河原へ出けり。九郎豆殿は御覧(らん)じて、おつ取〳〵追(おひかけ)而町得追(おひ)入而、町に火を懸させ給ひ而、其きほひに引のけさせ給ば、御手柄と申くるしかる間敷を、御遊の末のかなしさは、町に火を懸させ給はずして、一町斗引のけさせ給ひ而、そなへを立而御(おはします)処得、又三十人斗之者供が立帰而、両(ふたつ)にわけて町の上下寄指取引詰、我も〳〵とそなへゝ射懸ければ、誰(たれ)之矢が中るとも無して、九郎豆殿ひかへさせ給ふ御馬の口取を射害(ころす)。次に来る矢にて九郎豆殿を御馬寄射おとし奉ければ、是を見而犇(はしり)出指取引つめ射懸れば、其儘(そのまゝ)敗軍しければ、九郎豆殿は早打死被㆑成けり。岡崎も其間四五町有事なれば、元寄押出したる衆是を見而、おつ取〳〵追(おひ)付而、皆打取。然間九郎豆殿御しるしを持(もち)而参る。広忠得角と申上ければ、聞召もあへさせ給ずして、御涙(なみだ)を滂(なが)させ給ひ、安如何而か生(いけ)取てもくれざる哉。日比九郎豆殿我等に一つとして負(そむかせ)給ふ事無く、此度敵をなし給ふ事も、違(ちが)ひめ更になければ恨(うらみ)と更に思はず。以来を疑ひて某(それがし)方寄立出しけるを、様々侘(わび)させ給得ども、わ聞ざれば赤面して存知之外に敵にならせ給得ば、我方寄無理に敵とはなす成。内前之敵に成給ふとは、ばつくんちがいたりとて、はら〳〵と御涙を滂(ながし)させ給得ば、各々も御道理とて、鎧(よろひ)の袖(そで)をぬらしけり。然間弾正之忠は駿河衆之出るを聞而、清須(きよす)之城を立而、其日は�(かさ)寺鳴海に陣取給ひ而、明ければ箸寺を打立給ひ而、案祥(あんじやう)に著(つか)せ給ひ而、其寄八萩(やはぎ)河之下の瀬を越而、上和田之取出にうつらせ給ひ而、明ければ馬頭(ばとう)之原得押出し而、合陣の取んとて上和田を未明(みめい)に押出す。駿河衆も上和田之取出への働(はたらき)とて、是も藤河を未明に押出す。藤河と上和田之間一里有。然処に山道の事なれば、互見(たがひにみ)不㆑出(いださ)して押けるが、小豆(あづき)坂へ駿河衆あがりければ、小田之三郎五郎殿は先手に而小豆坂へあがらんとする所に而、鼻(はな)合をして互(たがひ)に洞天(どうてん)しけり。然とは申せども互(たがひ)に旗(はた)を立而即(すなはち)合戦社(こそ)初(はじまり)而、且(しばらく)は戦(たゝかひ)けるが、三郎五郎殿打負(まけ)させ給ひ而、盗人(ぬすびと)来(き)迄打れ給ふ。盗人来には弾(だん)正之忠之旗(はた)の立ければ、其寄も盛り帰して、又小豆(あづき)坂之下迄打、又其寄追(おひ)帰されて打れけり。其時之合戦者対々とは申せども、弾正之忠之方は二度追(おひ)帰され申、人も多(おほく)打れたれば、駿河衆之勝(かち)と云。其寄駿河衆は藤河得引入、弾正之忠者上和田得引而入、其寄案祥得引而、案祥には舎弟之小田之三郎五郎殿を置(おき)給ひ而、弾正之忠者清須(きよす)得引入給べ。三河に而小豆取も申したゑしは此事に而有。広忠は其年二拾三にて御病死被成ければ、岡崎得も駿河寄入番を入而持(もち)けり。扨又本城之御番は誰(たれ)に【
NDLJP:93】而御(おはします)。大久保新八郎と云。扨二の丸之御番は誰人に而御(おはします)やと云。田中彦次郎に而御座候。扨新八殿聞召御代々御忠節(ちうせつ)と申、又はか様に辛労苦労して御奉公申上、君之御手も広(ひろく)成申たらば、御普代之衆は手と手を取合而、飢死(かつゑじに)に候はんにやと云。新八郎申、御心安あれ此君御慈悲(じひ)ふかければ、御手広(ひろく)ならせられても、飢(かつ)ゑ殺(ころ)しは被成間敷、御身之如㆑仰末の御代には必さもあらん。御手も広(ひろく)あらば新参(しんざん)犇(はしり)付之衆多(おほく)来り而、独楽をまはすがごとく御奉公申ならば、其を御身近(ちかく)召つかはるべし。其耳弄(のみならず)別儀別心之末(すゑ)の子孫供が、能御奉公申而、御意に入、御膝(ひざ)本近(ちか)く御来公可㆑申、又信光(のぶみつ)寄此方忠節(ちうせつ)忠功(ちうこう)をなし度々走(はし)りめぐりをして、親(おや)、祖父(おほぢ)、伯父(をぢ)どもを打死させて、御代々御忠節(ちうせつ)申上たる子孫なれども、悪(あしく)召つかはさるゝと申而、御不(ぶ)奉公をかならず可㆓申上㆒、其時普代もいらざるとて、押はらはれ可㆑申。御普代久敷者はちり〴〵に罷成、忠節(ちうせつ)忠高(ちうかう)之筋は一人も無して、普代もいらざるとて、行得も無者を普代と可㆑被㆑仰御代(だい)もかならず可㆑有。然ども其御代(だい)には御普代も入㆑申供又入申御代も可有。其を如何にと申に、此跡之御代にも御手之広(ひろ)がる御代も多(おほ)し。又はらりと崩れて御手狭(せば)む御代も多(おほ)く候つるを各々御存知成。御手之広(ひろ)き御代には御普代は入申間敷けれども、又末(すゑ)之御代に御手せばに成たる御代に前前の御代に御慈悲(じひ)無おいはらはせ給ば、後には御普代之筋をも御存知有間敷、又は普代之衆も御普代之御主を知るまじきければ、御身にあてゝ引立申者有間敷ければ、其御代にあたらせ給ふ御主をいとをしく存知候。只今之御主広忠は、御慈悲のふかく御(おはしませ)ば御心安あれ。此君之御代に飢ゑ殺(ころし)は被成間敷候と云。田中彦次郎申者新八殿尤成。只今之御慈悲(じひ)は申つくしがたし。如仰末(すゑ)之御代に御慈悲無御代も可有候。左様之御代も出来させ給ば、御代々久敷筋は散々(ちり〴〵)に成て、御主も御普代之筋を御存知有間敷は歴然成。又御普代之衆も、御普代之御主を存知申間敷は、是もれきぜん成。然者其御代にて信光寄之此方、御代々之忠節を積み置(おき)而河へ流(なが)す迄。
元和八年〈壬戌〉卯月十一日 〈子供是を譲(ゆづる)門外不出可有成〉 大久保彦左衛門 花押
子供是を能嗜みて、日に一度づつ取出して見而、御主様得御無沙汰無能御奉公申上候得、御普(ふ)代衆は何れも是に劣らず御忠節はしりしめぐり者同前可㆑成。然ども此書物公界(くがい)ゑ出す物ならば、何れも御普代衆之事をも能穿鑿して可㆑書が、此書物はくがいゑ出す事無して、汝(なんぢ)供が宝(たから)物に可㆑有候得ば、各々の事は不㆑書して、我一名之事又は我れ辛労しても見も成(ならず)、子供も有程の御奉公申上而、御取上無とも其に御不足不申上候。何事も先之世の因果と思ひ而、御不足無奉公を申上よ。其に寄何れもの事書不申候。其為此書物門外不出可有者成。以上。
【 NDLJP:94】
小豆坂(あづきざか)之合戦之明の年、今河殿寄、雪(せつ)斎長老を名代として、駿河、遠江、三河、三箇国の人数を促(もほよし)而押而出、西三河之案祥(あんじやう)得即(すなはち)取つめけり。案祥(あんじやう)之城に者、小田之三郎五郎殿うつらせ給ひ而、御(おはします)処に、四方寄、責寄(せめよせ)而、鐘太鼓(かねたいこ)を鳴(なら)し、四方寄、矢鉄砲(てつぽう)をはなし、天地を響(ひゞ)かせ、鯨声(ときのこゑ)を上、もつたて、かひ立、せい楼(ろ)をあげ、矢蔵を上、竹たばを付而、昼夜(ちうや)、時之間もゆだん無、荒手を入替(いれかへ)々々責(せめ)入れば、早二三之丸を責(せめ)取而、本丸斗に成而、噯(あつか)ひを懸而、二の丸得おろして、即(すなはち)、堄(しゝがき)をゆて、押こみて、𥯚(こ)の内之鳥、あじろの内の、ひ魚のごとくにして置、其寄して小田之弾正之忠得、雪(せつ)斎長老寄申しつかはしけるは、三郎五郎殿をば、二の丸得、押おろし、即(すなはち)堄(しゝがき)をゆいて、押入而おく。然とは云ども、松平竹千代殿と、人質替にも被成候はんや。其儀においては尤成。然らずんば、是に而御腹(はら)を切せ申さんと、申つかはしければ、平手と林両人寄返事に、仰被越候儀尤に存知候。さらば取替(かへ)申さんとて、其時相互(あひたがひ)に、替相にならせられ給ひし寄、竹千代様者、駿河之国得御下被成、駿府(すんぷ)之、少将之宮之町に、御年七歳寄、十九之御年迄、御気伻(きづかひ)を被成候御事、云に無㆑斗、あたりにて、䲼(こたか)をつかはせられ給し迄も、御気遣(きづかひ)を被成候。去(さる)程に人者只、情あれ。原見石主水が屋敷得、御鶚(たか)それ而入ける時者、折折うらの林得入せ給ひ而、すゑ上させ給へば、主水申様は、三河の忰に、あきはてたりと、度々申つるを、御無念にも思召けるや、三拾七八年程へて後、遠江之国、高天神之城を、甲斐之国の、勝頼方寄持(もち)けるを、押寄而、堀(ほり)を掘(ほり)、堄(しゝがき)をゆい、塀柵付而烯害(ほしころ)させ給ひし時、原見石主水も、其時城に籠(こもり)ける。早兵粮米も尽きて、切而出けるを、生取(いけどり)而此由を申上ければ、其原見石と申者、我昔(むかし)駿府(すんぷ)につめて有し時に、上原得、鶚(たか)つかいに出るに、原見石が林得、鶚(たか)のそれて入時、すゑ上に入候へば、三河のせがれに、あきはてたると、度々に置(おい)而申つる。我も侤(おほい)たり。原見石も可㆑存。とてもわれにあきたる原見石なれば、とく〳〵腹を戮(きらせ)申との御諚(ぢやう)成。原見石、最後もよかりける。尤其儀成、悔敷(くやしき)事に非(あらず)とて、南得むきて腹を切りけるを、そば寄申けるは、さすがの原見石程の者が、最後をしらずや、西にむきて腹(はら)を切(きれ)と云ければ、原見石が申、汝(なんじ)物をしらずや、仏(ほとけ)者十方(じつぽう)、仏土中(ぶつとちう)、无二亦(むにやく)、無三(むさん)、除仏(ぢよぶつ)、方便説(ほうべんせつ)と、説(とき)給得者、西方にばかり、極楽者有と斗思ふか、荒胸(あらむね)狭や。いづれの極楽を嫌はんやとて、南にむきて腹を切けり。然所に、大河内と申者は、其比再々御前得も参、御用をもたして、御奉公ぶりを、いたしたる者なれば、城寄も何時切而出るとも、汝等(なんじら)は石川伯耆(ほうき)守責(せめ)口之前に、石風呂のありける中得入而居よと仰せければ、御意之ごとく、大河内は、石風呂之中にぞゐたりけるを、命を御扶(たすけ)被成、其耳成(のみならず)、物を被下而、送り而国得御返しあり。能あたり申大河内も、悪(あしく)あたり申。原見石も一つ時、一度に高天神の城に籠りて、城をば一度に出るとは申せども心に哀見(あはれみ)を勿(もち)而、人に能あたりたる者は、天道の御恵に仍、忽(たちまち)に、打死をする所を命を佑(たすか)る。御幼少(えうせう)之御時、能あたり申ならば、此度【 NDLJP:95】の命は、無㆑遖(なん)佑(たすかる)べきを、心に慈悲(じひ)を持去(もたざる)故に仍、討死の場(ば)に而、生(いけ)取れ而、腹を切たる儀は、主之奉公には、同事にはあれ供外(どもよそ)のきけいと申、其身之ためには、迷惑成。是を見(みる)に付而、只人者慈悲(じひ)之心を本として、人を悪(あしく)する事なかれ。去程に御年七歳寄御十九迄、駿河に引被㆑付させ給ひ而、其内者御扶持方斗之あてがいにして、三河之物成とて少もつかはされ候事成(ならず)して、今河殿得不㆑被㆑残押領(あうれう)して、御普代之衆者、拾箇年余、御ふちかたの御あてがひ可被成様もあらざれば、せめて山中弐千石余之所を渡してもくれ去歟(ざるか)、普代之者ともが餓死(がし)に及体(てい)なれば、かれらにせめてふちかたをもくれ度と被㆑仰けれども、山中弐千石さゑ渡し候はねば、何れも御普代衆手作をして、年貢石米をなして百姓同前に鎌(かま)鍬を取、妻子(さいし)をはごくみ、身を扶(たすけ)荒(あら)れぬ形(なり)をして誠(まこと)に駿河衆と云ば気を取拝(はい)つくばひ、折屈而髃(かゞみかたほね)身をすくめて恐(おそれ)をなして歩(あり)く事も、若何(いか)成事をもし出てか、君之御大事にも成もやせんと思ひ而、其耳(のみ)斗に各々御普代衆有にあられぬ気伻(きづかひ)をし趙廻(はしりめぐる)。拾箇年に余年には五度三度づつ駿河寄尾張之国得働(はたらき)に而有、竹千代殿の衆に先懸をせよと申越けれども、竹千代様は御座不㆑被㆑成、誰(たれ)を御主として先懸をせんとは思得ども、然供御主は何くに御座候とも、普代之御主様得の御奉公なれば、各々我々不㆑残罷出て、先懸をして親(おや)を打死させ子を打死させ、伯父(をぢ)姪(めい)従兄弟を打死させ、其身も数多の疵(きず)をかうむり、其間々には尾張寄働(はたらき)ければ出て者禦(ふせぐ)。昼夜心を尽し、身をくだき働(はたらく)とは申せども、未竹千代様之、岡崎得入せ給はぬ事之悲(かな)しさと、各々の身に余りて歎(なげき)けり。今河殿も竹千代殿の普代之者をさゑ害(ころし)あげたらば、竹千代殿を岡崎得入申間敷とや思召哉、此方彼方(こゝかしこ)の先懸をさせ、数多之人を害(ころし)、然処に今河殿寄苅(かり)屋之城を忍び取に取んと、伊賀衆を喚寄(よびよせ)付けり。水野藤九郎殿者恪気の深(ふか)き故に、城之内にかいがは敷人を置給而、年寄たる台所(だいどころ)人之様成者、夫(ぶ)あらしこ、其外年寄、小性の様成役(やく)にも立去(たゝざる)者どもを取集(あつめ)而、四五十人斗居たり。其故熊(くま)村と云郷(がう)に目懸を置給得ば、其後通い給ふとて、浜手の方をば人之行かよいなければ、聞懸而浜之方寄伊賀衆やす〳〵と忍入而、藤九郎殿を打取。其外之者どもを此方彼方(こゝかしこ)得押寄々々皆(みな)打取(とり)而、二の手を待けり。其時岡崎衆を二之手にするならば、無(なく)㆑難(なん)城を取かためべき物を、水野下野殿者竹千代様の御ためには、眼前(がんぜん)の伯父、藤九郎殿者下野殿には御子、竹千代様には御いとこなれば、其に心を置歟(か)、岡崎衆には不㆑付して、二の手を三河之衆に申被付ければ、をくれても有歟(か)、二の手慹(おそ)ければ苅(かり)屋衆之爰(こゝ)はと思ふ衆が、早悉(こと〴〵く)おとなの牛田玄蕃所得懸寄而、此方(このかた)は何とゝ云ければ、玄蕃云、何とゝは酷(あわてたり)とて即(すなはち)倍(よせかくる)程に、其儘(まゝ)城を騎(のり)返而、伊賀衆を八十余打取。然ども藤九郎殿頸をば羽織につみて、床ゑ上而社(こそ)置。駿河衆も城を騎(のり)返され而、手をうしないける処に、早小河寄下野殿懸着給得ば、駿河衆も足々にして引退く。然処に小田之弾正之忠も御遠行有而、信長之御代に成、竹千代様も早御元服被成、義元の元を取せられ給ひ而、次郎三郎元康と申奉る。
永禄(ろく)元年戊午の年、御年十七歳にして、大高の兵粮を請取せられ給ひ而入させ給ふ処に、敵も出て見【 NDLJP:96】得ければ、物見を出させ給ひしに、鳥居四郎左衛門、杉浦藤次郎、内藤甚五左衛門、同四郎左衛門、石川十郎左衛門など見而参、今日之兵らう入者如何御座可有哉。敵陣(てきいくさ)を持(もち)而候と被㆓申上㆒候処得、杉浦八郎五郎参而申上候者、早々御入候ゑと申上ければ、各々被㆑申けるは、八郎五郎は何を申上候哉、敵きをいて陣(いくさ)を持たると云。八郎五郎申、いや〳〵敵(てき)者陣(いくさ)は不(ず)㆑持、御旗(はた)先を見而山成敵方が下得おろさば、陣を持たる敵なれども、御旗(はた)先を見而、下成敵が上得引上申せば、兎角に敵者武者をば持ぬ敵に而御座候間、早々入させ給得と申ければ、八郎五郎が申ごとく成、早々入よと被仰而、押立て入させ給得ば、相違無く入給ひて引のけ給ふ。大高之兵粮入と申而御一大事成。然間信長も清須(す)得引給ふ。次郎三郎様之御おぼゑ初(はじめ)成、其寄岡崎得引入給ひて、寺辺(てらべ)之城ゑ押寄給ひ而、外ぐるはを押敗(やぶり)放火して岡崎得引入らせ給ひ而、次に梅がつぼの城得押こみ給ひければ、城寄出て禦(ふせぎ)�(たゝかふ)と云とも、何かは以堪ゑべき。付入にして外がまゑゝ追(おひ)入、二三之丸迄焼排(やきはらひ)而、数多打取而、其寄岡崎得引せ給ひ而、次に広瀬之城、衣之城得押寄給ひ而、数多(すた)打取かまいを敗(やぶり)、放火して引きのけさせ給ひ、其寄岡崎得引入給ひ而、程無又駿河得返らせ給ふ。御普代衆之喜(よろこび)申事無㆑限(かぎり)。扨も何とか御成長(そだち)給ひ而、弓矢之道も如何御(おはしまさん)と、朝暮(あけくれ)無㆓心元㆒案(あん)じ参(まゐら)せ候得ば、扨も〳〵清康之御勢に能も〳〵たがはせ給去(ざる)事之目出たさと申、各々感涙泊(かんるゐをながし)而喜けり。扨又義元、尾張之国得出馬之時、次郎三郎元康も御供被成而御立有。義元者駿河、遠江、三河、三ヶ国之人数をもよをして、駿府(すんぷ)を打立而、其日藤枝に付。先手之衆は島田、金谷、仁坂、懸河に付、明ければ藤枝を立而懸河に付、先手者原河、袋井(ふくろゐ)、見付、池田に付、明ければ懸河を立而引間に付、諸勢は本坂と今切(ぎれ)ゑ両手にわけて押而出て、御油(ごい)赤坂に而出合けり。義元者引間を立而吉田に付、先手は下(しも)地之御位(ごい)、小坂井、国(かう)、御油(ごい)、赤坂(あかさか)に陣取、吉田を立而岡崎に付。諸勢者屋萩(はぎ)、鵜等(うとう)、今村、牛田、八橋、池鯉鮒に陣之取、明ければ義元池鯉鮒に付給ふ。此以前寄くつ懸、鳴海、大高をば取而持(もち)たれば、くつ懸之城には駿河衆入番有り。鳴海之城をば岡部之五郎兵衛が居たり。大高には鵜殿長勿(もち)番手に居たり。信長寄大高には取出を取而、棒(ぼう)山の取出を佐間大角と申者が勿(もち)而、明ずして居たりしを、永禄(えいろく)三年〈庚申〉五月十九日に、義元は池りう寄段(だん)々に押而大高ゑ行、棒(ぼう)山之取出をつく〴〵と巡見して、諸(しよ)大名を寄而良久敷評定(ひやうぢやう)をして、さらば責取(せめとれ)。其儀ならば元康責給得と有ければ、元寄踸(すゝむ)殿なれば即(すなはち)押寄(おしよせ)而責給ひければ、程無たまらずして佐間は切て出けるが、運(うん)も尽きずや、打もらされて落(おち)而行。家の子郎従(らうどう)どもをば悉(こと〴〵く)打取。其時松平善四郎殿、筧(かけひ)又蔵、其外之衆も打死をしたり。其寄大高之城に兵らう米多籠(おほくこむる)。其上に而又長評定(ながひやうぢやう)の有けり、其内に信長者清須(きよす)寄人数をくり出給ふ。評定(ひやうぢやう)には鵜殿長勿(もち)を早長々の番をさせ而有り。誰を替(かはり)にか置(おか)んとて、誰か是かと云内、良久敷誰とても無。さらば元康を置申せとて、次郎三郎様を置奉り而引のく処に、信長者思ひの儘(まゝ)に懸付給ふ。駿河衆是を見而、石河六左衛門と申者を�(よび)出しける。彼六左衛門と申者は、大剛(がう)の者に而、伊田合戦之時も面(おもて)を十文字(じ)に切はられ、頸を半分切れ、身の内につゞきたる処も【
NDLJP:97】無、疵(きず)を持たる者成を�(よび)而云けるは、此敵は武者を勿(もち)たるか、又もた去(ざる)かと云。各々の仰に不㆑及、あれ程若やぎ而見えたる敵の、武者を勿(もた)ぬ事哉候はん歟(か)。敵は武者を一ばい勿たりと申。然者敵之人数は何程可㆑有ぞ。敵之人数は内ばを取而五千も可㆑有と云。其時各䇻(はからつ)て云、何とて五千者可㆑有ぞと云。其時六左衛門打䇻(はからつ)而云、方々(かた〴〵)達は人数のつもりは無㆓御存知㆒と見えたり。かさに有敵を下寄見上而見(みる)時は、少数をも太勢に見(みる)物成に有。敵をかさ寄見おろして見れば、太勢をも少勢に見(みる)物にて候。方々(かた〴〵)達のつもりには、何として五千寄内と被仰候哉、惣別か様之処の長評定(ひやうぢやう)者、能事は出来せ去(ざる)物にて候。方々(かた〴〵)達山を責(せめん)歟責(せめ)間敷歟(か)との評定(ひやうぢやう)久敷、又城之替番の詮義久敷候間、ふつゝと能事有間敷と申つるにたがはず、是得押寄給ふと其儘(まゝ)、取あゑずに棒(ぼう)山を責(せめ)落させ給ひ而、番手を早く入帰給ひ而、引かせ給はでかなはざる処を、余りにをもくれ而、手ねばく候間、ふつゝと能事有間敷、早々被㆑帰せ給得と、六左衛門申ければ、急(いそぎ)早めて行処に、歩行者は早五人三人づつ山得あがるを見而、我先にと退く。義元は其をばしり給ずして、弁当をつかはせ給ひて、ゆく〳〵として御(おはしまし)給ひし処に、車軸(しやぢく)の雨がふり懸(かゝ)る処に、永禄三年〈庚申〉五月十九日に、信長三千斗に而切而懸らせ給得者、我も〳〵と敗軍(はいぐん)しければ、義元をば毛利新助方が場もさらさせずして打取、松井を初(はじめ)として拾人余、枕を并(ならべ)打死をしけり。其外敗軍(はいぐん)して追(おひ)打に成、其儘押つめ給はゞ駿河迄も取給はんずれども、信長は強みを押させられ給去(ざる)人なれば、其寄清須得引入給ふ。然ると申に、元康の�除(しつはらい)を被成候物ならば、か程の事は有間敷に、大高の城之番手を申被㆑付し事社(こそ)、義元の運命成。岡部(をかべ)之五郎兵衛は、義元打死被成、其故屝(くつ)懸之入番衆も落行供、鳴海之城を持固(もちかため)而、其故信長を引請而、一責々(せめ〳〵)られて其上にて、降参して城を渡し、あまつさえ信長得申義元之しるして申請而、駿河得御供申而下けり。御死骸(しがい)を取置(おき)申而、御しるし斗之御供申而下事、たぐいすく無とも申つくしがたし。此五郎兵衛を昔之事のごとくに作(つくる)ならば、武辺と言侍之義理と云、普代之主の奉公と云、異(い)国はしらず、本朝には有難し。尾張之国寄東において、岡部之五郎兵衛をしらざる者は無。扨又義元は打死を被成候由を承候。其儀に置而は、爰元を早々御引除(はらは)せ給ひ而、御尤之由各々申ければ、元康之仰には、たとへば義元打死有とても、其儀何方寄もしかとしたる事をも申不㆑被㆑来に、城を明退(あけてのき)若又其儀偽にも有ならば、二度義元に面(おもて)をむけられん哉。其故人のささめき䇻(はらひ)くさに成ならば、命ながらゑて詮もなし。然者何方寄もしかとしたる事無内は、菟角にのかせられ間敷と仰除(はらつ)而御座候処得、小河寄、水野四郎左衛門殿方から、浅井六之助を使(つか)ひにこさせられて、其元御油断と見得たり。義元社(こそ)打死なれば、明日は信長其元得押寄可被成、今夜之内に御支度有而、早々引のけさせ給得、然者我等参而、案内者可申由を、申被㆑越候得ば、六之助、主之使(つかひ)に来り而申けるは、我等に御案内者申而、早々御供申せ。信長押寄給はゞ御六ヶ敷候はんと、四郎右衛門申被㆑越候間、我等に三百貫被㆑下給得、御供申さんとて知行をねぎりて御案内者を申けり。水野四郎右衛門殿は腹を立、憎(にくき)やつばらめ、成敗をいたし度と被申候得ども、敵味方の事なればせいばいも弄(ならず)、大高【
NDLJP:98】之城を引のかせられ給ひ而、岡崎には未駿河衆が持而居たれども、早渡してのきたがり申せども、氏真(うぢざね)にしつけのために、御辞退有而請取せられ給はずして、直に大樹寺得御越有而御座候得ば、駿河衆岡崎之城を明而退(のき)ければ、其時捨(すて)城ならば、拾(ひろ)はんと仰有而、城得うつらせ給ふ。其時御普代衆悦(よろこび)而、扨も〳〵も目出度御事哉、十ヶ年に余普代之御主様を遠くに置奉り而、一度岡崎得奉㆑入而、とてものはしりめぐりを御目之前に而申度と願ひ而、余国も無、猪猿(しゝさる)之様成やつばらどもに折れかゞ見、敗(はい)つく敗(はい)かゞみまはる事も、一度は君を是得入申さんため成。御年六歳之御時此城を御出被成、永禄三年
〈庚申〉五月二十三日、生年十九歳之御年、岡崎之御城得入せ給ふ事之目出度さと申而、悦(よろこび)申事無㆑限(かぎり)。然間駿河と御手切(ぎれ)を被成候得て、元康を替させられ而、家族にならせちれ結ぶ。扨又板倉(いたくら)弾(だん)正を中島之郷(がう)に而松平主殿助殿ゑ仰被㆑付、御成敗(せいばい)被成候得と而、仰被㆑付ける処に、打漏し給得ば、岡の城得来り而、岡之城を持(もつ)所に岡崎寄押寄給ひ而、責おとし給得ば、板倉弾正者東三河得行岡崎も方々得御手づかいを被成けり。或(ある)時は広瀬之城得御働(はたらき)被成、押つめ而構(かまい)ぎはにてはげ敷せりあひ有而、追(おひ)こみ而曲輪を破(やぶり)、数多打取而引給ふ。又有時は履(くつ)懸之城得押寄而、町を破(やぶり)放火して引給ふ。又有時は衣之城得押寄、数多打取て引給ふ。有時は梅が壺(つぼ)之城得御働(はたらき)有而、町を破而引給ふ。有時は小河得御働(はたらき)有ければ、小河寄も石が瀬迄出てせり合けり。其時鳥居四郎左衛門、大原佐近右衡門、矢田作十郎、蜂屋半之丞、大久保七郎右衛門、同次右衛門、高来九助、是等が鑓(やり)を合成其寄引のき給ふ。又有時は寺辺之城得御働有而、押懸而城をのり取給ふ。又有時は苅屋得御働(はたらき)有。苅屋寄十八町得出てたゝかいけり。十八町にて大久保五郎右衛門、同七郎右衛門、石河新九郎、杉浦八十郎鑓(やり)が合、但杉浦八十郎は爰に而打死をしたり。其寄互(たがひ)に引のく。又或時は長沢(さは)得御働(はたらき)有而、鳥屋が根(ね)之城得押懸而、荒々とあて給ふ。其時榊原弥平々々兵衛之助を、あれは誰(たれ)ぞ早しと被仰ければ、榊原弥平々々兵衛之助に而御座候と申ければ、早押こみて有り。更(さら)ば早之助と付よと被仰けるに仍、榊原早之助と申成、又有時は西尾之城得御働(はたらき)被成、是に而も鑓(やり)が合、又有時は東条(でう)之城得御働(はたらき)有而、各々鑓が合、又有時は衣之城得押寄給ひて、各々鑓が合、越前之柴田と大久保次右衛門鑓が合、ある時は小河得御働(はたらき)有、小河衆又石(いし)が瀬迄出で各々鑓が合、石川伯耆(はうき)守と高木主水が鑓が合、又有時は梅が壺(つぼ)得御働(はたらき)、是にても各々鑓が合、此城城得度々に置(おき)而、二三ヶ年は御無㆑隙、月の内には五度三度づつ御油断(ゆだん)無御働(はたらき)有。其後信長と御和談(わだん)被成し寄は、此城々得御働(はたらき)は無。但(たゞし)西尾之城と東条(でう)之城は駿河方なれば、節々(せつ〳〵)之御働(はたらき)成。吉良(きら)殿も惣領の義藤(とう)は、清康之御ためには妹婿(いもとむこ)なれば、家康之御ためには大姑婿(おばむこ)成に寄而、駿河得下申而、藪(やぶ)田之村に置奉、舎弟之義諦(よしあきら)を義藤寄西尾の城に置(おき)給ひしを、東祥(じやう)之城得義諦(あきら)をうつし給ひて、西尾の城得は牛久保之、牧野新次郎を留守居に申付而置。然所に松平主殿助殿は中島之城に東条(でう)にむかはせ給ひ而御(おはしまし)而、日々夜々の迫合(せりあ)ゐ摝(かせぎ)かまりに無㆑隙(ひま)して、寸ん之隙を不㆑得。然間東条(でう)寄中島得働(はたらき)けるに、引羽(は)に主殿助殿余り手ぎつく付給得ば、敵方取而返而こんずこまれつしける処に、主殿助殿打死をし給ふ。【
NDLJP:99】其をきをいにして敵は引のく。然者又荒河殿は義諦(よしあきら)得逆心(ぎやくしん)をして、家康之御手を取、坂井雅楽助を荒河得引入而西尾之城と日々夜々にせりあいければ、牧野新次郎もこらゑずして城を渡して、牛久保得行。其寄西尾之城には坂井雅楽助を置給ふ。東条(でう)之城得押寄而取出を取給ひ而、小牧(こまき)之取出をば本多豊後守が持(もつ)。醅塚(かすづか)之取出をば小笠原三九郎が持(もつ)。共(とも)国之取出をば松井左近が持(もつ)。本多豊後守手に而、藤瀿畷(ふぢなみなはて)に而九月十三日にはげ敷せりあゐ有而、義諦(あきら)のおとなの飛長(とびなが)半五郎を打取、味方には大久保太八郎、鳥居半六郎など打死をする。義諦も半五郎を打せ給ひ而寄、弄(ならず)して頓而降参して城を下させ給ひ而、御扶持方に而御(おはします)。半五郎は其年二十五に成けれども、武辺之者なれば敵味方共に申けるは、半五郎打死之上は、落城程有間敷と申せしは、年にもたらずして半五郎者斯被㆑申けるは、手柄成とほめたり。漸(やうやく)したる処に永禄五年〈壬戌〉に野寺之寺内に徒(いたづら)者の有けるを、坂井雅楽助押こみ而けんだんしければ、永禄六年〈癸亥〉正月に、各々門徒(もんと)衆寄合而、土呂(とろ)、鍼崎(はりざき)、野寺(のてら)、佐(さ)崎に取籠り而、一揆(いつき)を迮(おこし)而御敵と成。其時之義諦(あきら)をすゝめて、御主となさんと云ければ、其に乗(のり)而頓而敵、東条(でう)之城得飛上(とびあがり)而手を出させ給ふ。荒河殿も初(はじめ)に御味方被成候時、家康之御妹婿(いもとむこ)に被成申而、此度は逆心(ぎやくしん)之被成義諦(あきら)と一所に成給ふ。其耳成(のみならず)、桜井之松平監物殿も、荒河殿と仰被㆑合而別心を被成けり。上野(うへの)にては坂井将監殿別心成。東三河者長沢(ながさは)、御油(ごい)、赤坂(あかさか)を切而、東は不㆑被㆑残駿河方成。上様之御味方は竹之谷之松平玄蕃殿、形(かた)之原の松平紀伊守殿も御忠節(ちうせつ)成。深溝(ふかうず)之松平主殿助殿是、土呂、鍼崎(はりざき)、東三河衆に両三人ははさまれ給ひ而御忠節有。西尾の城には坂井雅楽助有而、野寺荒河殿と取合而有。本多豊後守は、土井之城に居而、土ろ鍼(はり)崎に向(むかつて)有而之御忠節成。松平勘四郎殿も、松平右京殿も、野寺、桜井に向(むかつ)而御忠節成。右之御一門之衆、同本多豊後守は遂(つひ)に一度も逆心は無、岡崎之南は土(と)ろ鍼崎(はりざき)、其内は一里によはし。西南にあたつて、野寺、佐崎、桜井、其内一里有。北西にあたつて上野(うへの)の城有、其間一里半有。東は長沢(ながさは)寄して不㆑被㆑残駿河御敵成。中にも、土ろ鍼崎(はりざき)者一の御手先なれば、一揆(き)之衆も爰を先途と心得而、鑓をもふりまはす程之衆は、悉(こと〴〵く)我も〳〵と此両所え籠り居たる。野寺寄も一揆は起る事なれども、彼地は岡崎寄は遠(とほく)候ゑば、本人とは申せども、岡崎之間に、佐崎と桜井を隔てゝ有事なれば、是両所を押向はせて、却而野寺は手置(おき)に成。土呂〈[#「土」は底本では「士」]〉、鍼(はり)崎、佐崎、三ヶ寺は知ら去(ざる)事なれども、尤一味の寺なれば同心をしたり。此三ヶ寺は岡崎近(ちか)く候得ば帰(かへつ)而手先と成に仍、爰はと云衆は悉(こと〴〵く)土ろ、鍼崎(はりざき)、佐崎(ざき)、是三ヶ所得楯籠る。然とは云ども野寺得は何事も在(あらば)こもらんと云而、吉良あたりの衆、又は寺内近(ちかき)衆に、大津半右衛門を初(はじめ)獚塚(いぬづか)甚左衛門、獚塚(いぬづか)八兵衛、獚塚又内、獚塚善兵衛、小見三右衛門、中河田左衛門、牧(まき)吉蔵、其外石川党(たう)、賀藤党(たう)、本田党(たう)、手島党(たう)、其外爰は之衆百余も可㆑有。小侍は数をしらずしるすに不及。事之在(あらば)可㆑入とて居たり。佐崎之寺内に楯籠る衆は、倉地平左衛門、小谷甚左衛門、太田弥太夫、安藤金助、山田八蔵、安藤太郎左衛門、太田善太夫、太田彦六郎、安藤次右衛門、鳥居又右衛門、加藤無手之助、矢田作十郎、戸田三郎右衛門、其外是に�(おとらぬ)爰は之衆百騎(ひやくき)余可有。其外小侍【
NDLJP:100】共は際限無。戸田三郎右衛門御前をそむき、御面目たるに寄而、寺内得入たる事なれども、心からの御別心にあらざれば、寺内を可㆑取と調儀をしける処に、顕れければ、外ぐる輪(わ)を燔(やき)而出で、其時御前がすみて罷出。佐崎に松平三蔵殿の城を勿(もち)而居給得ば、御加勢(かせい)をくわゑ給ふ。岡崎得道一里有。其間に�(つゝ)ばりの取出小栗等に持(もたせ)給ふ。是は矢作河之西、やはぎ河之東、六(むつ)栗之郷(がう)中に夏目次郎左衛門屋敷城を持(もち)而、ふかうずの松平主殿助殿と、取合而居たりけるを、主殿之助殿押寄(おしよせ)而構を押やぶり給得ば、夏目次郎左衛門かなはずして、蔵屋得とぢこもり而有処に、松平主殿之助殿得仰つかはされけるは、次郎左衛門構をやぶらせ給ふ事ひるい無、殊更夏目我に敵をなし、弓を彎事憎(にく)き事かぎり無とは存(ぞんず)れ共、左様にとぢこめ、箄(こ)の内の鳥になし給得ば、害(ころし)給ふも同前に候得ば、弐(たすけ)置給得と仰つかはされければ、主殿之助殿大きに腹(はら)を立給ひ而、御敵を申而、錆矢を射懸申たる族(やから)を、何(いか)に御慈悲(じひ)ふかければとて、弐(たすけ)置給得とはさりとは承とゞけざる御事なれども、御意ならば是非に不㆑及、惣別申上申に及去者(ざるもの)をと慷慨(かうがい)被成ける。御免(ゆるし)被成間敷夏目を御寛(ゆるし)けるを、御慈悲(じひ)哉と各々感じ入ける。扨又松平七郎殿は大草の城を持(もち)而、一揆(き)と一味して御敵に成給得ば、是も土呂(とろ)同前に御改易(かいえき)を被成ければ、何くゑ行供無、跡方も無して、七郎殿跡者絶(たえ)たり。扨又土ろに立こもる衆、大橋伝一郎、石河半三郎、佐馳(さばせ)甚兵衛、佐馳甚五郎、大見藤六郎、石河源左衛門、佐馳(さばせ)覧之助、大橋左馬之助、江(え)原孫三郎、本多甚七郎、石河十郎左衛門、石河新九郎、石河新七郎、石河太八郎、石河右衛門八郎、石河又十郎、佐野与八郎、江原又助、内藤弥十郎、山本才蔵、松平半助、尾野新平、村井源四郎、山本小次郎、ぐわつくわい佐五助、黒柳(くろやなぎ)次郎兵衛、成瀬新蔵、岩堀(ほり)忠七郎、本多九三郎、三浦平三郎、山本四平、阿佐見主水、阿佐見金七郎、賀藤小左衛門、平井甚五郎、黒柳喜助、野沢(ざは)四郎次郎、其外是に劣(をとら)ぬ兵(つはもの)ども、七八十騎こもる。其外小侍ども百余可㆑有。坂井将監殿得こもる衆、足(あ)立右馬之助、鳥井四郎左衛門、高来九助、足(あ)立弥一郎、芝山小兵衛、鳥井金五郎、本田弥八郎、榊原七郎右衛門、大原佐近右衛門、今藤伝次郎、坂井作之右衛門、其外是に劣(をとら)ぬ衆数多有。扨又鍼(はり)崎之寺内得立こもる衆、八屋半之丞、筧(かけひ)助大夫、渡辺玄蕃、渡辺八右衛門、渡辺八郎三郎、渡辺八郎五郎、渡辺源蔵、渡辺平六郎、渡辺半蔵、渡辺半十郎、渡辺墨右衛門、久世平四郎、浅(あさ)井善三郎、浅井小吉、浅井五郎作、波切(なみきり)孫七郎、今藤新四郎、黒柳孫左衛門、黒柳金十郎、本田喜蔵、賀藤善蔵、朝岡新十郎、賀藤次郎左衛門、佐野小大夫、賀藤源次郎、朝岡新八郎、獚塚(いぬづか)七蔵、賀藤伝十郎、賀藤源蔵、賀藤一六郎、賀藤又三郎、成瀬新兵衛、坂辺又六郎、坂辺人屋、坂辺勝之助、坂辺桐(きり)之助、坂辺酒之丞、坂辺又蔵、此外是に劣(をとら)ぬ衆七八十騎可㆑有。其外に小侍供数多有、上和田と日々夜々之たゝかい成。
扨又御味方の衆、松平和泉守、大給に有而御味方成。坂井雅楽之助、坂井左衛門丞、石河日向(ひうが)守、石川伯耆(ほうき)守、内藤三左衛門、内藤喜一郎、本田肥後守、本田平八郎、本田豊後守、上村出羽守、上村庄右衛門、上村十内、是は此時打死。鵜殿十郎三郎、是も同時打死。松平弥右衛門殿、松平弥九郎殿、【 NDLJP:101】松平次郎右衛門殿、松平金助殿、是も同時打死。鳥井伊賀守、鳥井又五郎、賀藤ひねの丞、賀藤九郎次郎、賀藤源四郎、米来津藤蔵、同小大夫、小栗太六郎、小栗弥左衛門、上(うへ)野三郎四郎、青長(あをふ)蔵、押かも殿、中根藤蔵、中根権六郎、中根喜蔵、成瀬藤蔵、榊原摂津守、榊原早之助、榊原小兵衛、山田清七郎、山田そぶ右衛門、伊名市左衛門、松井左近、香(かう)村半十郎、中根肥濃(ひの)、中根源次郎、中根甚太郎、中根新左衛門、中根弥太郎、中根喜三郎、天野三郎左衛門、天野三兵衛、天野助兵衛、天野清兵衛、天野伝右衛門、天野又太郎、山田平一郎、芝田七九郎、平岩七之助、賀藤播磨(はりま)、渥海(あつみ)太郎兵衛、青山喜太夫、今村彦兵衛、長見新右衛門、青山牛之大夫、今藤馬之左衛門、青山善四郎、平岩五左衛門、河斎文助、河上十左衛門、久目新四郎、八国(やかう)甚六郎、ほつち藤三郎、坂井下総(しもふさ)、ほそ井喜三郎、大竹源太郎、小栗助兵衛、小栗仁右衛門、案藤九助、池野波之助、池野水之助、吉野助兵衛、遠山平大夫、鳥井鵧(つる)之助、鳥井才一郎、筒井与右衛門、筧豆書(かけひづしよ)、筧牛之助、土屋甚助、打死。筒井内蔵、ふたゑつゝみにて打死する。土屋甚七郎、林藤助、内藤甚五左衛門、内藤四郎左衛門、松山山城、杉浦藤次郎、山田彦八郎、此外岡崎に有衆数多有。御手先得出る衆、上和田には大久保一類(るゐ)有。鍼崎(はりざき)に向(むかう)。大久保五郎〔新八郎〕右衛門、大久保甚四郎、大久保弥三郎、大久保七郎右衛門、大久保次右衛門、大久保八郎右衛門、大久保三助、大久保喜六郎、大久保与一郎、大久保新蔵、大久保与次郎、大久保九八郎、宇津野京三郎、筒(つゝ)井甚六郎、杉浦八郎五郎、杉浦弥七郎、杉浦久蔵、松山久内、松山市内、天野孫七郎、市河半兵衛、田中彦次郎。扨又土井の城には本田豊後守有而御忠節(ちうせつ)申。扨又ふかうずには、松平主殿之助殿、竹之谷には松平源番殿、かたのはらには松平紀伊守殿、是三が所相并御忠節(ちうせつ)有。扨又屋萩(はぎ)河之西には、藤井之松平勘四郎殿、ふつかまの松平右京殿、両所相并而御忠節(せつ)有。扨又佐崎には松平三蔵殿御加勢を申請而御忠節(せつ)有。扨又筒(つゝ)ばりには小栗助兵衛、小栗二右衛門、小栗大六郎、其外小栗等有而御忠節(せつ)有。扨又岡崎寄上和田得は廿丁斗有。土ろ寄も上和田得廿丁計有。扨又鍼(はり)崎寄上和田得は、十二丁計之間に而有処に、大久保一類之者どもが集而(あつまりて)、日夜油断無塞戦而(ふせぎたゝかいて)、終(つひ)に其寄岡崎得敵を上たる事無。鍼崎(はりざき)寄上和田得働(はたらき)ければ、矢蔵に上而竹之筒の蚵(かひ)を吹(ふき)ければ、岡崎には上和田に蚵(かひ)が立と聞と被㆑仰而、番を付而置せられければ、すはや上和田に蚵(かひ)社(こそ)立申せと申上ければ、日比(ひごろ)仰被㆑付候間、早御馬に鞍を置而引立れば、早召而何時も人先に懸付させ給ふを、敵は遠(とほ)見を置而見而者、殿の懸付させ給ふに早のけとて、足々にしてのく。げにと五丁十丁之事なれば、上様を見懸申而は、其儘(まゝ)寺内得引入、又重而之懸合にも何ものごとく貝(かひ)を立ければ、御懸付も何ものごとくに懸付給ふ。其時は御供申而懸付申たる衆には、上村庄右衛門、黒田半平、敵には八屋半之丞と上村庄右衛門が鑓(やり)を合る。渡辺源蔵などが鑓(やり)が合、其時黒田半平を渡辺源蔵がつきたをす。然処に懸付之衆重(かさなり)ければ八屋半之丞も渡辺源蔵も引ぬいて足々にしてのく。八屋半之丞はほそ畷(なはて)而得折而退(のき)ける所得、水野藤十郎殿懸付給ひ而、半之丞が八幡大菩薩(ぼさつ)のけ間煎に、返と仰ければ、八屋立𠌫(どまり)而につこと笑而、藤十郎殿が我等にはとてもなら【
NDLJP:102】せられ間敷と云而、鑓(やり)をまつ直(すぐ)に突立て手につばきを付而手ぐすねを引。藤十郎殿重而仰けるは、とてもやる間敷物をと仰ければ、八屋云、とても我には成間敷に、こたへ給得とて鑓(やり)おつ取而、錣を傾け而懸りければ、藤十郎殿脇(わき)得闢(ひらき)給ふ。半之丞のゝしりて、左程に社(こそ)思ひたれ。我に何がならせ給はんと云而ののしる。半之丞と申は脊(せい)かし高にして力(ちから)の強ければ、白樫(かし)の三間柄(え)を中ぶとによらせ而、長吉之身の四寸斗成をとぎ上にして紙を吹き懸而、颯々ととほるを、えりはめて持。然間長柄之持鑓(もちやり)も少成ども錆のうきたる事は無。去間半之丞が鑓(やり)さきには誰(たれ)かむかはんと、独(ひとり)ごとを云ける者成。然間半之丞は其寄野得上てのく処得、上様懸付させられて、八屋め返と被仰ければ、心得たりと而返而見而あれば、上様に而有ければ、取つ而戻し鑓(やり)をひきずり而頭(かしら)を傾而(かたむけて)、虚空(こくう)三宝(さんぽう)に逃(にげ)行処得、松平金助殿懸付而、八幡半之丞返と仰ければ、取而返而、殿様なれば社(こそ)逃(にげ)たれか、御身達にかとて帰し而、金助殿も八屋も互(たがい)に鑓(やり)を突き合而五度六度合給ふが、力の強き者が樫(かしのき)之三間柄を石突を取而突立(つきたつ)れば、かなはじと思召、鑓を引抜(ぬき)而うしろへしさり給ふ所得、ふみ込み而擲突(なげづき)にしければ、金助殿うしろ寄前ゑ鯨に魚淙(もり)を立たる如くに突き立けり。走り寄而、鑓を引ぬきける処得、又上様懸付させられ給ひ而、八屋めと被㆑仰候を聞而、又鑓を引ずり而跡も見ずしてにげにけり。上様も御帰被成而、八屋めが我にもにげんやつにはあらね共、我を見而にげけると御意被成、御機嫌能。然間上和田寄大久保一類(るゐ)ともが伊内(いない)之都得さがりて、鍼崎(はりざき)之寺内之きはに而きび敷せり合けり。其時大久保七郎右衛門と本田三弥相ためにしたるに、七郎右衛門早くはなし候而、三弥を打たふす。然ども其手に而は死ず。かゝりける所に一揆(き)方之申けるは、爰元をきび敷あひしらひ而、槉(はしら)之郷中をとをり、妙国寺得出て取きる物ならば、上和田得入事成間敷、然時んば賓(むかう)をつよくさせ而、跡寄切而懸ならば、土(ど)井を指(さし)而のくべし。さもあらば土井之間の水田得追入而可㆑打と申を、半之丞者大久保浄玄(じやうげん)婚(むこ)なれば、有は小姑(こじうと)、有は伯父姑(をぢひうと)、従弟姑なれば泚(あせ)を捖(にぎる)。然と云而も各々を打せ而見る所にもあらずと思ひ而、皆(みな)々出て取剿(きらん)と云。槉(はしら)之郷中之原得出て馬を乗(のり)ありきければ、妙国寺前を取剿(きる)と見えたり。半之丞が来り而懸まはる成。急爰を引のけよとてのきければ、案之ごとく敵打除(はらつ)而出けれども跡にて候得ば手をうしなひたるふぜい成。八屋が出て懸まはり而、しらせずば大久保一名は不㆑被㆑残打れ可申間、愈(いよ〳〵)一揆(き)ははゞかり可㆑申けれども是も、上様の御運の強き故成。然ば佐崎之寺内得取出を被㆑成ける所に、水野下野守殿鴈屋(かりや)寄武具に而、佐崎之取出得見舞に御越有。然処に土口ゑ誉(こもり)たる一揆(き)衆、佐崎之取出之後(ご)詰として、作岡(つくりをか)大平(ひら)得働(はたらき)而焼(やき)立る。佐崎に而御覧じて下野殿得被㆑仰けるは、御貴殿は是寄御帰被成候得、我等は上和田を直(すぐ)に取切申而不㆑被㆑残討取可㆑申と被㆑仰ければ、下野殿は只御無用と仰けれども、兎角に御帰り被成候得、我等は急申とて早御馬に召ければ、是を見捨(すて)而何と而返り可㆑申哉、其儀ならば御供申さんとて一度に懸給ふ。上様之御ためには能御仕合成。敵之ためには不運(ふうん)成次第成。渡り河地を越させ給ひ而、大久保一類(るゐ)をは鍼(はり)崎之押(おさへ)にをかせられ給ひ而、大久保弥三郎計御案内者申而、盗(ぬす)人来をすぐに小豆(あづき)坂得あがらせ給ひ而、馬頭(ばとう)之ふみわけ得出【
NDLJP:103】させ給得ば、作(つくり)岡大平(ひら)寄帰るとて、鼻(はな)合をして洞天(どうてん)す。石河新九郎は道(みち)を替而のき而は、たと得ば生(いき)而をもしろからず、又道をかゑ而山之中に而打れたらば、新九郎社(こそ)端(へり)道をして打れたるなどと、人に沙汰せられん事は、骸(かばね)之上之恥辱可㆑成とて、本道を直(すぐ)にのきければ、金之団扇の指物を指(さし)ける間、新九郎と見懸而、我も〳〵と追(おひかけ)たり。水野藤十郎殿懸付而突きおとして打取給ふ。頓而佐馳(さばせ)甚五郎、大見藤六郎、是兄弟も一つ場にて打取、波切孫七郎そこを行過而、大谷(や)坂る上処を上様懸付させられ而、二鑓(やり)迄つかせ給ふに懸のび而馬寄落すして迯(にげ)行。孫七郎を二鑓(やり)つきたるに迯(にげ)而行たると被㆑仰ければ、波切孫七郎と申者、無㆑隠(かくれ)武辺之者又は気(き)ちがい者なれば、此御意を聞而我は上にはつかれず、別之者につかれたると申。上様につかれ申と申ならばをぼえと申、又は其身のためにも能㆑可有に、眼前(がんぜん)に上様につかれ申而、上様にはつかれ申さぬと申たるに仍、御憨(にくみ)被成而、其後終(つひ)に子供之代迄御前へ召不㆑被㆑出。然処に八屋半之丞、大久保次右衛門を�(よび)出し而、御無事可㆑仕由申上候得と申けるに付而、大久保新八郎を同道して、次右衛門と両人御前に参、此由を申上ければ、御喜(よろこび)被成而さらば急(いそげ)との御意なれば、八屋半之丞、石河源左衛門、石河半三郎、本田甚七郎、此外五三人申けるは、何と成とも御存分次第可㆑仕候。然ども何れもちがい申儀御赦免被㆑成可㆑被㆑下由、過分申つくしがたく奉㆑存候。其儀ならばとてもの儀に寺内を前々のごとく立をかせられ而可被下、次には此一揆(き)のくはだての者の命を御捨免(しやめん)被㆑成而被㆑下候はゞ御過分に奉存候。然とは申とも各の存分は不存候へども、まづ申上候各に此事申ならば、定而異儀に及衆もあまたの中なれば不㆑存候。一人成とも何かと申者も候はゞ、又其に付て一味する者も御座候はゞ、此御ぶじ罷成難し。其時は我々供之斯(かく)斗存知候而も及間敷候得ば、御不沙汰は無して、御無沙汰に罷成候べき。其時は却(かへつ)而二罪(ざい)之御咎(とが)人に可㆓思召㆒。然ば此事他言無して、此者供斗に而土(ど)ろ得引入可申間、各々の命右之くは立之者の命、寺内供に前々のごとく、御捨免(しやめん)之儀を申上給得と申に付而申上ければ、尤之儀汝(なんぢ)供申如く面々が命、並に寺内前々のごとく、相違(さうい)有間敷一揆企之者にをいては、兎角御成敗(せいばい)可歳成との御意なれば、右の者供惶(おそれ)ながら又言上申、寺内并に各々が命被下候儀、御過分申つくし難し。同はいたづら者の命をも被下候様にと申而、御ぶじの儀が支(つか)ゑければ、大久保浄玄申上けるは、姪(をひ)小供御手先得罷出申、日夜之戦(たゝかひ)無㆑隙仕、賸(あまつさえ)正月十一日には、土ろ鍼崎(はりざき)、野寺三ヶ所之一揆方一手に罷出、上和田へ働(はたらき)ける処に一類(るゐ)之者供罷出ふせぎ戦(たゝかひ)申に付而、其日せがれ之新八郎は眼(まなこ)を射られ、姪(をひ)の新十郎も眼(まなこ)を射られ、其外之姪(をひ)小供何れも手ををはざる者一人も無して、爰をせんどとしたる処得、上様御自身早く懸付させられ候に付而、敵方御影(かげ)を見付(つけ)申に付而、我先にと迯(にげ)のきけるに仍、一類(るゐ)供も利運仕。其時血池(いけ)を滂(ながし)したるをば、上様御覧じ被成けり。其時之姪(をひ)子之辛労分と思召而、此一揆(き)のくは立(だて)之者の命を被下候得、此一揆をさへ御無事に被成而候はゞ、彼等(ら)を先立給ふならば、上野(うへの)に有坂井将監を頓て�(ふみ)つぶさせられ給ふべき。何況哉(いかにいはんや)吉(き)良殿松平監物殿も荒河殿も其日に押つぶし給ふべき。何か之御無心も打被㆑捨(すて)給ひ而、何と成供面々が望次第に可被成【
NDLJP:104】候得而、先(まづ)御ぶじにさせ給得、御手さへ広(ひろ)くならせられ給はゞ、其時は何と被成候はんも御儘(まゝ)に罷可㆑成物を、只今は何かと被仰処にあらずと申上ければ、さらば浄玄次第に徐置(ゆるしおき)、起請を可㆑書とて、上和田之浄衆院(じやうしゆゐん)得御出被成而、御起請をあそばし而、右之者供に被㆑下ければ、是をいたゞき而、さらばとて石河日向守を土(ど)ろの寺内得、高須之口寄八丁得引入ければ、一揆方之各々傲騒(おどろきさわげ)供、早乱(はやみだれ)入ければ不(ず)㆑叶(かなは)して、我も〳〵と手を合ければ、御寛(ゆるされ)有而方々得御先懸をす。然間松平監物殿も早(はや)かうさんに御寛(ゆるさせ)給得ば、其付而荒河殿もかうさんし給得供、御無(な)㆑徐(ゆるし)ければ上方得浪人被成而、河内之国に而御病死成。坂井将監殿も上野(うへの)を明而駿河得落(おち)行給ふ。一のをと名に而有ければ、上様歟(か)将監殿歟(か)と云程之威勢なれども御主に勝事弄(ならず)して、それ寄将監殿筋は絶(たえ)而跡かたも無。然間義諦(よしあきら)もならせられ給はで、佗(わび)事被成而東祥(じやう)之城を下させ給得ども、御扶持方をも出させ給ねば、御身も弄(ならず)して上方得御浪人被成、浄体(じやうてい)を頼ませ給ひ而御座候つるが、悪(あく)田河に而打死を被成けり。其後土(ど)ろ、鍼(はり)崎、佐崎、野寺之寺内をやぶらせ給ひ而、一向宗(しう)に宗(しう)旨をかゑよと、起請を書せられ給得ば、前々之ごとくに被成而可被下と、御起請之有由を申ければ、前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよと仰有而打敗(やぶり)給得ば、坊主達は此方彼方(こゝかしこ)得迯(にげ)ちりて行、御敵を申上御徐(ゆるし)之衆も有、又鳥井四郎左衛門、渡辺八郎三郎、波切孫七郎、渡辺源蔵、本田佐渡、同三弥、御国にはあらずして、東得行衆も有、西国得行衆も有、北国得行衆も有。大草の松平七郎殿は、何方得行ともしらず、何れも御敵申者供を扶置(たすけおか)せられ候御事、御慈悲(じひ)成儀どもとてかんぜぬ人も無。其寄して東三河得御手を懸させ給ひ而、西之郡城を忍取に取せ給ひ而、鵜殿長勿(もち)を打取、両人之子供を生取給ふ。然間竹千代様をば駿河に置まいらせられ而、御敵にならせ給ひければ、竹千代様を今害死(がいし)奉、後害死(がいし)奉、今日の明日のと罵れども、関口(せきぐち)刑部少輔殿の御孫なれば、さながら害死(がいし)奉る無㆑事(も)。然ば石河伯耆守申けるは、いとけなき若君御一人、御戕界(しやうがい)させ申さば、御供も申者無して、人之見る目にもすご〳〵として御(おはします)べし。然者我等が参而、御最後(さいご)之御供を申さんとて、駿河得下けるを、貴賤上下かんぜぬ者も無。然処に鵜殿長勿(もち)子供に人質がゑにせんと申越ければ、上下万民(ばんみん)喜(よろこび)申事限(かぎり)無して、さらばと云而換(かへ)させ給ふ。其時石河伯耆守御供申而岡崎得入せ給ふ。上下万民つゞい而御迎(むかい)に出けるに、石河伯耆守は大髯噉(ひげくひ)そらして、若君を頸(くび)馬に乗(のせ)奉り而、念し原へ打上而、とをらせ給ふ事之見事さ、何たる物見にも是に過たる事はあらじとて見物す。氏真(うぢざね)は扨も〳〵あほう人哉。抑(そも〳〵)竹千代様を鵜殿に帰(かへ)ると云法やく哉と云たり。其より思召置無㆑事取合給ふ而、牛久保、吉田得御働(はたらき)有而、度々のせり合に各々骨身を砕く成。早長沢(さは)之城をも取而、野田、牛久保にあたり而、一の宮に取出を取給ふ。駿河寄も佐脇(はき)と八幡(やはた)に取出を取而、吉田、牛久保を根城にする。然処に氏真(ざね)は駿河遠江之人数をもよをして、旗本は牛久保に一万斗にて有、一野宮を五千余に而謮(せむる)を三千の内外に而後づめを被成けり。氏真男ならば出て陣(いくさ)をすべしと而、人数三千斗にて、八幡(やはた)と佐脇之間得押出させ給ふ。本野が原得出て氏真の所を押とをし給ひ而、市の宮責(せめ)ける者どもを押除而(おしはらひて)、其夜者取出に【
NDLJP:105】御陣取給ひ、明ければ本之道に出させ給ひ而とをらせ給得ども、氏真出給ふ事弄(ならず)、市の宮の退口と申而、三河にて沙汰するは是成。其後八幡、牛久保、御油(ごい)得働(はたらき)而、御油(ごい)之東之台(だい)に而取合而、打つ打れつ火花をちらし而せり合、既(すでに)御油(ごい)之衆押崩されんとせし所得、岡崎寄上様早く懸付させられ給ふ故、敵を押崩して数多打取、八幡(はた)迄押こみ、放火して引給ふ。上様は敵之出るとは御存知無して、佐脇得之御働(はたらき)とて出させ給得ば能仕合成、八幡得御働(はたらき)被成けるに、二連木、牛久保、佐脇、八幡(やはた)寄かた坂得出て合戦をしたり。頓而切くづされて、板倉弾正と婿(むこ)之板倉主水を打取、扨又八幡(はた)之取出も佐脇之取出も明けり。然間小坂井に吉田、牛久保に向(むかひ)而取出を取給得ば、年久保之牧野新次郎も御手を取。扨又設楽(しだら)は、東三河衆一人も御手を取ざる先に人一番に御忠節を申。然間四方は敵岡崎寄は程遠ければ、居城をさりて妻子を引ぐして、岡崎得詰めて居たり。東三河之国侍には設楽(しだら)は一番、其付而西郷(さいがう)御忠節成。次に野田之蒯沼(すがぬま)新八郎、下祥(げじやう)之白井が御味方を申。然処に二連木之戸田丹波(たんば)守、御内通を申上し寄、人質を盗取んために、二れん木寄吉田得再々(さい〳〵)行而、城代と双六(すぐろく)を打而、気をくつろがせて其後大韓櫃(からうと)とを背負はせ、中得色々の物を入、吉田之門を入而番衆是を御覧ぜよ、御不審(ふしん)成物は候はずとて明而見せければ、いや其迄に及不㆑申と申ければ、然ば又此からうとを帰し可申間、御通し候得而被㆑下候得、しかしながら御不審も候はゞ、某(それがし)が御城に罷在儀に候間仰被㆑越候得、参而改め御目に懸申さんと云得ば、其に及不㆑申相心得申と申せば、此からうとを能見しらせ給得とて、何(いつ)ものごとく、城代と双六(すぐろく)を打而どめいて遊(あそぶ)内に、支度して右之からうとの中得、老母(らうぼ)を入而せをはせ而通れば、何之仔細(しさい)も無、盗(ぬすみ)出て合図して置たれば、小性(こせう)が参而白須(しらす)をねり出れば、頓而心得而双六(すぐろく)を打納(をさめ)て立出る。門を出る寄馬之上に而長刀おつ取而、母を先得おつ立てのく。本寄申置たる事なれば、郎従(らうどう)どもは迎(むかい)に懸迎(みかい)たり。吉田と二れん木之間、相并(ならび)たる所なれば、何之相違も無、手がら成人質の盗様比類無。其故御味方申けるに仍、其時戸田之丹波守に松平を被㆑下而、其寄此方松平丹波守とは申成。扨又吉田得取詰よせて取出を取せ給ひけり。起研寺(きけんじ)之取出には鵜殿八郎三郎、其外の衆、醅壔(かすずか)之取出には小笠原新九郎、二れん木口の取出をば即(すなはち)丹波守が勿(もつ)。下地得御働(はたらき)之時、本田平八郎と牧惣次郎が鑓(やり)を合、其時八屋半之丞少をそく出ければ、半之丞鑓(やり)が初(はじまる)ぞ急(いそげ)と云ければ、八屋聞(きゝ)而人が鑓をしたらば、我は切合迄よ。半之丞が二番鑓をしたるといはれては、嬉敷(しく)も無、鑓は勿(もち)而来るなと云て勿(もた)せず。然処に鑓脇(やりわき)に抜(ぬき)はなし而居たる者を、犇(はしり)入而二人切ふせ而、三人めに河井少徳が鉄砲(てつぽう)を懸而居たるに犇(はしり)入而、京之口を取而切たる所を、正徳も無㆑䛳(かくれ)者の事なれば、身を不㆑引し而放しける程に、八屋半之丞がかうがめえ打込ければ、そこをば引のけ而其手に而死けり。正徳と云名はせはしき所にて、押付而其手負を打取と云ければ、立帰而八幡大井手負(おひ)にてはなし。正徳のちんばぞと云たるに仍、さらば正徳となれとて、氏実之付給ふ。其寄して河井正徳と申成。今之浮世(うきよ)にかたは者をば嫌うと見えけるが、当世のかたは者はしらず。昔はかたは者をきらはざるに仍、正徳が様成者も有つる。然処に半之丞殿社(こそ)打死し給ふ【
NDLJP:106】と、母之方得告げ来(きたり)ければ、急母之立出て何と半之丞が打死と云か。畏(かしこまつて)候と申。扨最後(さいご)は如何が有りつるぞ。ひるい無候。扨は心安物哉。若(もし)半之丞社(こそ)最後悪(あし)きと聞ならば、我も命ながら得而せんも有間敷に最後之能と聞而嬉敷、打死は侍之役(やく)なれば、犇(おどろき)而悔(くや)むに不㆑及と云。女にはまれ成、さすがに半之丞が母成と云。然処に早吉田を渡し而行、長間(ながしの)作(つく)手段嶺(だみね)もかうさんし而出仕をする。扨又甲斐(かひ)の武田(たけだ)之信玄と仰合而、家康は遠江を河切に取給得、我は駿河を取んと仰合而、両国得出給ふ。蒯沼(すがぬま)次郎右衛門、鱸(すゞき)石見、今藤登、是三人して案内者をして、永禄(えいろく)十一年〈壬辰〉十一月日、遠江得出させ給ふ。然間氏真は信玄に駿河を取れ給ひ而、懸河得落来り給ふ。上様は伊野谷得出させ給得ば、二俣(ふたまた)早く御手を取、小笠原新九郎を召(めし)而、其方一類(るゐ)之事なれば、蚖堬(まむしづか)得行而小笠原与人郎を引付給得と御証なれば、畏(かしこまつて)御請を申、其寄蚖壔(まむしづか)得行ける処に、与八郎は人質をつれ而、秋山(あきやま)所得行を道に而逢而、御身は何方寄何くゑ通らせ給ふぞと云ば、新九郎申は、我等は御身之方得心懸而参りたり。御身は大勢引つれ給ひ而、何方得渡らせ給ふぞ。我等は秋山方得出仕いたし而、人じちを渡さんと思ひ而、是迄罷出申成と申せば、其儀ならば先御帰あれ、内談を申さんとて、すなはち押帰して申、当国は家康之御手に入成、御身も秋山方得之出仕はやめられ候得而、早々家康得御出仕あれ、為㆑其に某が参候と申ければ、何と成とも御貴殿之御計らひ悪(あしき)事はあらじとて、秋山方得之出仕を頓而やめて、新九郎をつれ而、家康得出仕有。上様は懸河に当(むかはせ)給ひ而、不入斗(いりやまぜ)に御陣をはらせ給ふ。秋山は信濃(しなの)寄も遠江の国あたご得出て、見付之郷(がう)に陣取而、国侍(さぶらひ)供を引付んとす。然処に家康(やす)寄仰つかはさる。大炊(おほゐ)河を切而、駿河の内をば信玄之領分、大炊(おほゐ)河を切而、遠江之内をば某領分と相定而有処に、秋山被出候事ゆはれ無、早々引帰らせ給得と御使之立ければ畏(かしこまつ)而候と而、山なし得引入すくもだが原得押上而、原河之谷をとをり、倉見西郷(くらみさいがう)をとをり而、さよの山得出て駿河得行、秋山が異儀に及ならば打害(ころし)被㆑成と被仰けれども、秋山異儀に不及して引除(のき)けるは、秋山巧(こう)者と社(こそ)は申しける。然間永禄十一年〈壬辰〉に、氏真は、駿河をば信玄に押しはらはれ給ひ而、懸河得朝稲之備中守処得落来り給ふ。備中(ぼつちう)守が引請而、爰をせんどと摝(かせげ)供成難(がたし)。然処に小原之備後守、日比、小笠原与八郎が奏者之事なれば、与八郎を頼而蚖堬(まむしづか)へ、妻子を引つれ而落行ければ、入も不㆑立して妻子共に悉一人も不(ず)㆑残(のこら)打害(ころす)、扨もむごく哀(あはれ)成次第哉。小笠原が行末(すゑ)いかがあらんと諸人感じける。然処に久野が庶子どもに、久野佐渡、同日向守、同弾正、同淡路(あはぢ)、本間十右衛門申けるは、爰に而人と成処成。いざや家康得敵に成而、懸河と相挿み而、爰をのかせ申間敷、久野が敵をするならば、遠江内之侍達は一騎も不㆑被㆑残して、敵に成而くつ帰すべし。さもあらば国中之一揆供も此方彼方(こゝかしこ)寄起(おこ)るべし。然者家康も深入をし而御(おはしませ)ば、綻(ふくろ)得入たる心成、いざさらば惣領しきにきかせんとて、久野三郎左衛門に申ければ、何れも申処尤にはあれども、然と云に一度氏真得逆(ぎやく)心をし而、家康之御手を取奉而、氏真得弓をひく事をさ得、侍之弓矢義理をちがゑたると思得ば、夜之目も不(ず)㆑被㆑寝して、人の取さた迄も面目無して、赤面するに程も無して、又家康得逆心(ぎやくしん)をする物ならば、二張の弓【
NDLJP:107】成。其故人之取仕(さた)にも内股膏薬とて後指(うしろゆび)を指(さゝ)れば、命ながらへても益も無、一心に家康得思ひ付給得とて承引なければ、各々罷立而申は、惣領に而有者に人と成給得と取立申とも、一円(ゑん)に承引なし。其儀においてはそうりやうには腹(はら)を切せ申而、鹿子の淡路(あはぢ)を取立て、家康を跡先寄も取つゝみ、何方得ものがす間敷と申定ける処に、久野佐渡と本間十右衛門両人内談して申けるは、何況(いかにいはん)哉そうりやうと云又は主なれば、方々もつて何(いか)に知行を取、輙(たやすく)身を過ぐるとても腹をば切せられ間敷とて、両人くみ帰而此由申ければ、三郎右衛門驚(おどろき)而、其儀ならば御家勢を可㆑申とて其由申上ければ、尤と被㆑仰而御家勢を指(さし)つかはされ給得ば、三郎左衛門は二の九得折(をり)而、本城得御家勢之衆をうつせば無㆓何事(も)㆒、然間淡路(あはじ)には腹(はら)を切せ、弾正は三郎左衛門姪(をひ)なれば押除(おしはらひ)ける。其寄懸河得押寄、天主山に御旗(はた)を立させられ給得ば、城寄も爰者の者どもが出て、きび敷せり合有。其比信長に面目うしなひ而浪人して駿河得下、氏真得出御供して今城にこもり居たる衆之内に打死有、伊藤武兵衛をば謀久(むく)原次右衛門が打取、大屋七十郎をば大久保次右衛門が打取、小坂新助をは大手のぬりちが得迄押こみて、ぬりちがゑにて打取而のく。其外高名は数多有。其置謀久(むく)原慇懃(いんげん)に申、今日は組(くみ)打に仕たると中上ければ、大久保次右衛門が申けるは、いや〳〵今日之高名にくみ打は一人も無く、御身之打たるも青皮(せいひ)の具足著而、鉄砲(てつぽう)にあたり死而臥したるを打給ふ成。今日之高名は悉(こと〴〵く)冷頸(くび)成。我等が取たるも鉄砲(てつぽう)にあたり而死たるひゑ頸(くび)に御座候と申処に、内藤四郎左衛門高名をして来りて申は、高名は仕候得ども、今日之高名は某(それがし)を初(はじめ)悉(こと〴〵く)ひゑ頸(くび)に而御座候と申上ければ、内藤四郎左衛門と大久保次右衛門が口は扨も相たり。両人之衆には似相たりと各申ける。扨又天王山に取出を被成而、久野三郎左衛門を置せられ給ふ。西にはかは田村の上に取出を被成、各々番手に持(もつ)。南には曽我(そが)山に取出を被成、小笠原与八郎が持(もつ)。然間永禄十二年〈己巳〉正月二十三日に落城して、氏真は小田原得落行給ふ成。然処に三月日堀河(ほりかは)に一揆(き)の起き申候由告(つげ)来りければ、其儘取あ得させ給はず、懸付給而催(もよほし)もなく偣(よせかくる)程に、頓而へいに付而乗る。然間大久保甚十郎十七歳に而一番に乗りける処を、内寄鉄砲(てつぽう)に而左のべにさきを打れて打死をする。平井甚五郎も打死をする。其外数多(すた)打死有。堀(ほり)河は汐の指たる時は舟に而寄外行べきかたも無。しほひ之時も一方口なれども�無(みちひく)
㆑事璅(つめいる)程に、即(すなはち)男女ともになで切にぞしたりける。右之大久保甚十郎は、右に一揆之起(おこり)申たる折節に通り合ければ、悉歴々の衆立も一同す。駭騒(おどろきさわぐ)衆も有ければ、甚十郎は御膝元(ひざもと)近(ちかく)召つかはれ申、御意の能(よかれ)ば一々に申上げけり。誰々(たれ〳〵)は憔酷(おどろきあわてゝ)、跡先得迯(にげ)ちり山得も迯(にげ)入而御座候。誰々は不(ず)㆑乱(みだれ)して神妙(しんびやう)に御座候つる由を申上ければ、せがれなれども神妙(しんびやう)に能見たと御意被成御感成。然間見付之国(かう)を御住所に被成、城を取、原に各々屋敷取をしてすませ給ひけるが、爰は不㆑可㆑然とと浜松得引かせられ給ひ而、御城を拵へ給ひ御住所を定させ給ふ。
扨又、信長寄仰被越けるは、御加勢(かせい)を被成而給候得、北近江得働(はたらき)を、被成候はんと仰被越候得ば、頓而すけさせ給はんとて、御出馬被成けり。元亀元年〈庚午〉二月日、信長鐘(かね)ヶ崎得働(はた)らかせ給ひけるに、越前衆【 NDLJP:108】つよければ、信長も大事と思召而、家康を跡に捨(すて)置給ひ而、さた無に、宵(よひ)之口に引取せ給ひしを、御存知無くして、夜明而、木下藤吉、御案内者を申て、のかせられ給ふ。鐘(かね)ヶ崎之、のきくちと申而、信長之御ために、大事ののき口成。此時之藤吉は、後之世の太閤成。然者、信長北之郡(こほり)得御働(はたらき)被成候はんと思召処に、越前衆は出、方々に取出を取、都(みやこ)得之行通りを停(と)めんとて、三万余にて出ければ、信長も急(いそぎ)、横(よこ)山迄御出馬有而、家康に早々御加勢(かせい)を被成而被下候得、越前衆罷出申候間、合戦を可被成由仰被越候得ば、相心得申とて其儘(まゝ)御出馬被成けり。信長殊外に悦(よろこば)せ給ひ而早く御出馬有。然者明日之合戦に相定申、一番は柴田、明智、森右近など申付候間、家康は二番合戦を頼入申と云ひて、毛利新助と、両人をもつ而仰被越候得ば、御返事にとても御加勢申故は、何と被仰候とも、是非ともに、一番合戦を仰可㆑被㆑付と仰被越候得ば、信長之御返事に、家康之御存分尤、左様に思召可被成、然ども早備組(そないぐみ)を仕たる事なれば、彼等を一番之やめさする事も、如何に候得ば、同は二番之請取せられ而給候得、其故一番も二番も同意成。二番と云而も時により一番に成事も多(おほ)き物なれば、兎角に二番を頼入申と御返事有ければ、又押帰而被㆑仰けるは、尤そないぐみを御定之所を、一番を二番得と被仰候得を、如何がと思召すところ、尤承とゞけ申たり。一番も二番も同意と仰せられ候儀、是は承とゞけ不申。尤明日之合戦には、二番が一番にも社(こそ)成りもや仕らん。其儀は時之仕あはせ、たとゑば二番が一番になると申しても、後之世までの書物には、一番は一番、二番は二番と書きしるして、末世までも可㆑有候間、兎角一番を申可㆑請。其故某(それがし)が年も寄たる者ならば、三番四番に成りとも被仰候処に可有けれども、三十に足るたらざる者が、家勢に参而、一番を申請兼(かね)而、二番に有と、末世迄申伝へに、罷可㆑成事、迷惑(めいわく)仕候。兎角に一番合戦を、仰被㆑付候得、然らずんば、明日之合戦には罷出間敷候。然者今日引払ひ而罷帰可申と御返事有ければ、信長聞召而、家康之被仰も尤承とゞけたり。左程に思召給はゞ、愈(いよ〳〵)忝存知候。其の儀ならば一番合戦を頼入申と被仰而、明日之御合戦は家康之一番陣(いくさ)成。然処に、各々申上けるは、此以前寄一番陣(いくさ)を仰被㆑付只今家康得、一番陣(いくさ)を被成候得との御諚之処、迷惑(めいわく)仕候と申上ければ、信長御腹を立給ひ、大成御声(こゑ)を被成、推参成忰どもめが、何をしりて云ぞと仰ければ、重而音(ね)を出事ならざれば、家康之一番陣(いくさ)に定ける。家康之仰には、明日廿八日之合戦に、今日廿七日に、是得着而一番陣を請取事、天道のあたへ成と被仰、御喜(よろこび)悦かぎり無。元亀元年〈庚午〉年六月廿八日の曙(あけぼの)に、押出たま得ば、越前衆も、三万余に而押出す。信長之一万余、家康之人数三千余に而互に押出而、北風南風(おつつまくりつ)攻㦴(せめたゝかふ)処に、家康之御手寄、切くづして追討に打取給得ば、信長之御手は、旗(はた)本近く迄切被立、各々爰はの衆が打れけれども、家康之御前が勝而、おくへ切入給得ば、敵も即(すなはち)敗軍(はいぐん)して、不㆑残打取給ひ而、今日之合戦は、家康之御手がら故、天下之誉を取と、信長も御(ぎよ)感成。信長其寄、此方彼方(こゝかしこ)押つめさせたまふならば、近江之儀は申に不㆑及、越前迄も切取せ給はんに、惣別信長は勝(かち)而、鋹(かぶと)之緒をしめよとて、其儘岐阜へ引入給ふ。桶狭間の合戦にも、義元をば打取給ふ故、【
NDLJP:109】其寄無(なく)㆑𠉧(もよをし)璅(つめいる)物ならば、�(すみやか)に三河、遠江、駿河迄納(をさめ)させ給はん。此時もをけばさまより清須得引入給ふ。然ども終(つひ)には近江も、越前も、三河、遠江、駿河も御手には入たれども、勝而鋹(かぶと)の緒(を)をしめよとて、其きをいを以てつよみをば、おさせられたまぬ御方成。然間元亀元年〈庚午〉十二月日、越前衆三万余に而、比叡(ひゑい)に陣取而有。信長は志賀に御陣を取り給ひ而、家康ゑ御加勢之由仰被越ければ、石河日向守を指つかはさる。北国は早雪もつもりたる事なれば、兵粮米も尽き可申。然者敵を干し害(ころす)べしと信長は思召処に、比叡山寄兵粮米をつゞけ申のみならず、賸(あまつさえ)帰り調儀をして信長を打せんとす。山寄申越たるは、越前衆之陣屋得火を懸可㆑申候。然時んば切而懸らせ給へば敗軍(はいぐん)可㆑有。其儀ならば夜中に山得あがらせ給得と申けれども、信長さすが之弓取なれば、聊爾に山得あがらせ給はずして、坂本迄押寄而、火之手があがらば偣(よせかけ)べきとて、ひかゑさせ給ひし処に、案之ごとく帰りてうぎ成。然間越前衆は三万余有、殊更に近江之国は大方越前之領分(りやうぶん)なれば、岐阜への道も塞れば、信長纔(わづか)一万之内なればかなはじとてあつかひをかけさせ給ひ、天下は朝倉殿持(もち)給得、我は二度望(のぞ)み無と起請を書給ひ而、無事を作り而岐阜へ引給ふ。扨又引入給ひ而、をつ付而切而上らせ給ふ処に、又家康寄御加勢を被成けり。其時は松平勘四郎殿に諸家中(しよかちう)寄人を面々に出合而付而立給ふ。然処に信長は見つくり之城を攻(せめ)させ給ふに更(さら)に落(おち)ず。然者此小城にかゝり而、日を尽して詮も無。是は先指置(さしおき)而都(みやこ)得切而のぼらんとて、城をまきほぐして搦手之衆のくを、松平勘四郎殿是を見給ひ而、大手之方寄責(せめ)入給得ば、即(すなはち)からめ手(で)得落行ば城得乱(みだれ)入。松平勘四郎殿手柄覚え云に不及。然間都得入せ給得ば、乱(らん)取に小田之上野守殿の者と、三河之者が出合而、ふるゑぼしを奪合ひ而、上野守殿の者を三河之者がしたゝかに打ければ、それが喧嘩に成而、美濃尾張之衆が一つに成而、松平勘四郎殿得偣(よせかくる)程に、何れも三河衆が無㆓是非㆒とて悉(こと〴〵く)町得出て、弓鉄炮(てつぽう)鑓(やり)をかまゑ而居たる処得、偣(よせかくる)程に引請而打立ければ、中々あたりゑ寄(よせ)付ん事は思ひ寄ずして、信長得比由申ければ、信長聞召言語道断とゞかざる事を申者ども哉、家康寄加勢(かせい)を頼而、其加勢を打害(ころす)法や有物か。れうじをしたるやつばら在(あら)ば、一々に成敗(せいばい)せんと仰ければ、偣(よせかくる)者どもはちり〴〵に成而見得ざりけり。扨又信長勘四郎を召而仰けるは、勘四郎今度みつくりにおい而、手柄ひるゐ無処に、又此度之喧嘩扨々ひるい無。勘四郎は背(せい)はちひさけれ共(ども)、肝(きも)のをうき成者なり、いやいや勘四郎は熨斗(のし)づけをさして有間、此度之陣をばつゞけられべきぞやと仰けり。勘四郎ためには面目成。然処に信長之仰に、天下之公方も朝倉(あさくら)は引請申事もならざるを、某(それがし)が岐阜へ喚(よび)越申而、二度(ふたゝび)天下之公方となし奉り申たる、其情(なさけ)をも忘(わすれ)而賸(あまつさへ)朝倉(あさくら)と一身して、我に敵をなし給ふ事恩(おん)を知給はねば腹(はら)を切せ申度存ずれども、公方にて御(おわし)ませば徐置(ゆるしおき)申と而都を除(はらひ)給ふ。其時に比叡山も長袖(ながそで)の身として帰りちやうぎをして我を打んとしける間、さらば山を立間敷と仰有而、其寄も久敷ゑい山はくづれ而、久敷たゝざるを、又家康之御取立被成而、今者山が立。扨又信長記を見るに偽多し。三ヶ一者有事成、三ヶ一者似たる事も有、三ヶ一は無㆓跡形(あとかたち)㆒事成。信長記作たる者、我々がひいきの者を、我が智恵(ちゑ)【
NDLJP:110】之有儘(まゝ)に能作(よくつくり)たると見得たり。其故は処々に而の勝負(しようぶ)之事を書付けるに、先偽と見得けるは、其比、十、十一、十二三に成、西も東もしらざる者が、成人してはるか後に元服(げんぷく)して男に成而有間、昔物語に聞し者を、そんぢやうそこに而走り廻り、ひる無高名などと書而、偽(いつはり)を作(つくりた)る事も多(おほ)し。長篠などの陣(いくさ)にも、せざる高名を相打にしたると云処も有。武者づかひなども、一代つかひたる事も無人を、武者をつかひたると書而有。此外此場に而の事にも偽多し。度々にをいてひけを取、人に後指(うしろゆび)さゝれたる者を、鬼神(おにかみ)之様に書たるも有。又は度々の高名をして、諸国(しよこく)に而かくれ無覚得之者(おぼえのもの)をかゝざるも有り。ちからの無者を大ちからと書たるが皆(みな)偽り或。大ちからと書たる内に、独力持(ひとりちからもち)たる衆は一人も無。結句力(けつくちから)は無してがいす成衆多きに、色々加様に書申事は、思得ば我が目を被㆑懸たる衆之事を、かたも無事をも作たると見得たり。然時んば書者に智恵(ちゑ)有而無㆓智恵㆒に似。然間信長記には偽多しとさたしたり。家康御代々の事を是にあらまし書しるす成。一つとして偽と云事を、後之世にも当代にも、をそらく申人者有間敷、然ども人に見せ申とて書不㆑置、我等子供に御八代御九代当相国秀忠様、当将軍家光(みつ)様迄御主様成。其御末々迄なん代も能(よく)御奉公申上奉れ、我寄後しらせんため成。門外不出。
元和八年〈壬戌〉卯月十一日 子供に是譲門外不出可有成 大久保彦左衛門花押
此書物に、各々御普代衆之御事あらまし書而、我一類(るゐ)之儀くは敷書申事は別之儀に非(あらず)。姪(をひ)子供又は一類之者ども、御普代久敷御主様之御ゆらいを後には存ず間敷と思ひ而、しらせん為に我遺(ゆゐ)言として書而子供にくれ申事なれば、門外不出と申置故、くがいゑ出す書物にあらざれば、我等一名之事を本に書置事なれば、別之御普代衆之儀は不㆑書。何れも御普代衆御忠節は雨山可有ければ、各々も後子供之御普代御主様之御筋目を忘させ給はぬ様に、家々に而の御普代之御主様之筋目、又は御普代久敷召つかはれ給ふ、筋目並(ならび)に御忠節之筋目を能書給ひ而、子供達へ各々も御譲(ゆづり)給得、我等も如此に候、然ども此書物は門外不出に候間、他人は見申間敷けれども、若百に一つも落ちりて、人之御覧じも在(あらば)、其御心得之為に如此に候。我依怙に我一名一類(るゐ)、又は我身之事を書置たると思召有間敷候。子供得之遺(ゆゐ)言之書物なれば、我一名一類又は身之事を書ざれば、子供の合点がすみ申間敷候間如此に候事以上。
此書物くがひへ出す物ならば、各々御普代衆之御忠節はしりめぐりの儀をも具にせんさくして可㆑書が、是は門外不出としてくがひへ出事なくして、子供にもたせ而後之世に御普代之御主様のしらせん為に書置事なれば、他人之事をかゝず。然時(ときんば)我名又は我身之事をかゝずは、子供の合点もすみ申間敷ければ如㆑此(かくの)に候。門外不出に候へば、誰人も見は申間敷けれ共、若おちちりて人も見申さば、其時之為如此に候。各々御普代衆は家々之忠節はしりめぐりの事を書立而、子達へ御ゆづり可有候。我等如此書候て、子供にゆづり申。門外不出也以上。
【 NDLJP:111】
然る所に元亀(き)三年〈壬申〉之年、信玄寄申被越けるは、天りうの河をきりて切とらせ給へ。河東は某が切取可申と相定申処に、大炊河ぎりと仰候儀は、一円に心得不申。然者手出を可仕とて、申(さる)之年信玄は遠江へ御出馬有而、来原西島に陣取たまへば、浜松寄もかけ出して見付の原へ出て、来原西島を見る所に、敵方是を見ておつ取〳〵のりかけければ、各々申けるは、見付の町に火をかけてのく物ならば、敵方案内をしるべからずとて、火をかけてのきけるに、案之外に案内をよくしりて、上のだいへかけあげ而乗付ける程に、頓而ひとことの坂之おり立にてのり付けるに、梅津はしきりのり付られ而ならざれば、がん石をこそのりおろしける。其時大久保勘七郎は、とつて帰し而てつぽうを打けるに、一二間にて打はづす。其時上様之御諚には、勘七郎は何として打はづして有ぞと被仰ける時、其儀にて御座候ふ。都筑(つゞき)藤一郎が弓をもちて罷有によつて、其をちからと仕候て放し申つる。纔(わづか)一二間ならでは御座有間敷、定而くすりはかゝり可申、兎角と申内に我等が臆病ゆへに、打はづし申たると申上ければ、藤一申は、勘七郎が立とゞまりて打申故に、我等は了簡なくして罷有つると申ければ、兄之大久保次右衛門が申は、藤一左様に御取合は被申そ、御身を力とせずんば、せがれが何とて立とゞまらん哉。方々の故に有つるぞと申せば、御方之弓ゆがけをはづし給ふを見て、我も馬ゆがけをはづしたると申せば、藤一申は次右左様にはなし、坂(さか)のおりくちにて、御身の馬ゆがけをはづし給ふを見て、我等も弓ゆがけをはづしたると申せば、いや〳〵御身の弓ゆがけをはづしたるに心付、我もゆがけをはづしたと申ば、上様は御笑はせ給ひ而、其儀はまづおけ、勘七郎汝があやかりと云にはあらず、見付の台寄おひ立られ而のきたる間、せいきのせきあげたる処に、定而汝はてつぼうを中程に、手をかけて火ざらのしたを取而放したるか、御意のごとく左様に仕申と申上ければ、左様に可有、中程に手をかけて火ざらの下をもちてはなせば、引息にては筒さきがあがり、出る息にてはつゝさきがさがる物成、殊更つねの時とおひ立られし時のいきは、かわる物にて有間、はづれたるも道理成、汝がおくびやうと云処にはあらず、何時も左様成時は諸手(もろて)ながら、引がねの下をもちて打物成、何といきをあらくつきたり共、つゝさきはくるはざる物にて有ぞ、以来は其心もち可有と御意成。然間遠江之小侍共が信玄へのきけるが、此度供して来り而、天方、むかさ、市の宮、かくわのふるかまい、其外のふる城、又は屋敷構を取立てもつ。かくわの構をもちたる小侍共を、久野(くの)と懸河と出合而、せめおとしておゝく討取たれば、其外之所をばのこらずあけたり。天方斗久野(くの)弾(だん)正其外寄合之小侍共がもちけるを、味方が原之合戦之後、天方之城をせめさせ給ひ而、本城斗にして引のかせ給へば、其後明てのく。信玄は見付のだい寄がうだゐ島へ押上而陣取、其寄二俣之城を責ける。城には青木又四郎中根平左衛門その外こもる。信玄はのりおとさんと仰ければ、山県三郎兵衛と馬場美濃守両人かけまわりて見て、いや〳〵此城は【 NDLJP:112】土井たかくして草うらちかし、とてもむり責には成間敷、竹たばをもつてつめよせて、水の手を取給ふ程ならば、頓而落城可有と申ければ、其儀ならば責よとて、日夜ゆだんなくかねたいこをうつて時をあげて責けり。城は西は天りう河東は小河有り。水の手は岩にてきし高き崕づくりにして、車をかけて水をくむ。天りう河のおし付なれば、水もことすさまじきていなるに、大綱をもつていかだをくみて、うへよりながしかけ〳〵、何程共きわもなくかさねて、水の手をとる釣(つるべ)なはを切程に、ならずして城をわたす。然間信玄は城を取而寄、東三河に奥平道文と、すがぬま伊豆守と同新三郎、これ等はながしの、つくで、たみね是等が山が三方をもちたるが、逆心して信玄に付、すがぬま次郎右衛門と同新八郎は御味方を申而、ぎやくしんはなし。然間信玄は上方に御手を取衆之おゝくありければ、三河へ出て、それより東美濃へ出、それよりきつてのぼらんとて、味方が原へ押上て井の谷へ入、長しのへ出んとて、ほうだへ引おろさんとしける処に、元亀(き)三年みづのへさる十二月二十二日、家康浜松寄三里に及而打出させ給ひ而、御合戦を可被成と仰ければ、各々年寄共の申上けるは、今日之御合戦如何に御座可有候哉、敵之人数を見奉るに三万余と見申候。其故信玄は老むしやと申、度々の合戦になれたる人成。御味方はわづか八千の内外御座可有哉と申上ければ、其儀は何共あれ、多勢にて我屋敷之背戸(どと)をふみきりて通らんに、内に有ながら出て尤めざる者哉あらん。負(まく)ればとて出て尤むべし。そのごとく我国をふみきりて通るに、多勢成というてなどか出てとがめざらん哉。兎角合戦をせずしてはおくまじき。陣は多ぜいぶぜいにはよるべからず、天道次第と仰ければ、各々是非に不及とて押寄(おしよせ)けり。敵をほうだへ半分過も引おろさせて、きつてかゝらせ給ふならば、やす〳〵ときり勝たせ給はん物を、はやりすぎてはやくかゝらせ給ひしゆゑに、信玄度々之陣にあひ付給へば、魚鱗(ぎよりん)にそなへを立て引うけさせ給ふ。家康は鶴翼(がくよく)に立させ給へば、少せいという手薄く見えたり。信玄はまづ郷人(がうにん)ばらを出(いだ)させ給ひて、つぶてをうたせ給ふ。然るとは申せ共、家康衆は面もふらず錣をかたぶけてきつてかゝる程に、早(はや)一二之手をきりくづしければ、又入かへてかゝるを、きりくづして、信玄の旗(はた)本迄きり付けるに、信玄之旗(はた)本よりまつくろに時をあげてきつてかゝるほどに、纔(わづか)八千の人数なれば、三万余の大敵に骨身をくだきてせり合たれば、信玄之旗(はた)本にきりかへされてはいぐんをする。家康御動転(どうてん)なく御小姓衆をうたせじと思召而のりまわし給ひて、まん丸に成てのかせ給ふ。馬にて御供申衆は、すがぬま藤蔵、三宅(みやけ)弥次兵衛其外はおり立ければ、馬にはなれてかち立成。中にも大久保新十郎をかなしませられ給ひて、小栗忠蔵に馬を一つとれと仰ければ、相心得申とて頓而取てのりける。忠蔵も手を負ひけるが、其馬を新十郎にかすまじきかと被仰ければ、忠蔵御意寄はやくおうけを申而とんでおり、新十郎をのせて我はもゝを鑓にてつかれけるが、いたまずして御馬に付奉りて御城迄御供を申、上様よりも御さきへにげ入て、上様は御討死を被成たると偽を申処へ、無何事いらせ給へば、彼者共はこゝかしこへ又にげかくれけり。上方らう人に中河土源兄弟はおぼえ之者と申つるが、浜松へは得のかずして【
NDLJP:113】懸河へにげてゆく。水野下野殿は今切れを越てにげ給ふ。山田平一郎は岡崎迄にげ行て、次郎三郎様之御前にて、大殿様は御打死を被成候と申上候処へ、上様は無何事御城へいらせられ被成候。諸大名衆も一人も無何事引のけ申成。但信長よりの御かせい平手と、御手前之衆には青木又四郎殿、中根平左衛門計、物主は討死仕候。其外若き衆家老(からう)共は鳥居四郎左衛門、本田肥後守、加藤ひねの丞、同九郎、ゑのきづ小太夫、大久保新蔵、河井やつと兵へ、杉之原なつと兵へ、榊原摂津守、成瀬藤蔵、石河半三郎、夏目次郎左衛門、河井又五郎、松山久内、加藤源四郎、松平弥右衛門殿、何れも此外に此とほり之衆数多候へ共しるすに不及。然処に信玄はさいがかけにて首共をじつけんして、其儘陣どらせ給ふ所に、大久保七郎右衛門が申上けるは、加様に弱々としては、いよ〳〵敵方きおひ可申、然者諸手のてつぽうを御あつめ被成給へ。我等が召つれて夜討を仕らんと申上ければ、尤と御諚にてしよてをあつめ申共出る者もなし。やう〳〵諸手よりして、てつぽうが二三十挺計出るを、我手まへのてつぼうに相くわへて、百挺計召つれて、さいがかけへゆきて、つるべて敵陣へ打こみければ、信玄是を御らんじて、さても〳〵勝ちても強(こわき)敵にて有り。是程にこゝわと云者共を、数多討とられて、さこそ内も乱(みだれ)て有哉らんと存知つるに、かほどのまけ陣には、か様にはならざる処に、今夜の夜ごみはさても〳〵したり、未よき者共の有と見えたり。兎角にかちてもこわき敵成とて、そこを引のけ給ひて、いの谷へ入而長しのへ出給ふ。其寄おく郡へはたらかんとて出させ給ふ所に、爰に藪の内に小城有ける。何城ぞととわせ給へば、野田之城成と申。信玄は聞(きゝ)及たる野田は是にて有か、その儀ならば通(とを)りがけに踏みちらせと仰あつて押寄給へば、打立てあたりへもよせ不㆑付。さらばとて竹たばを付もつたて、亀の甲にて偣(よせかくる)。昼夜ゆだんなくかねたいこを打て、夜もすがらせめけれ共日数をふる。城には野田のすがぬま新八郎、松平与市殿のかせいにいらせ給へば、ことともせずしておはします。然共日数もつもりければ、二三之丸を責(せめ)とられて本丸へつぼむ。然間あつかいをかけて、二の丸へうつして堄(しゝがき)をゆひておしこみて、其寄して長しのゝ菅沼(すがぬま)伊豆が人質と、つくでの奥(おく)平道文が人じちと、だみねのすがぬま新三郎が人じちに、換へあひにして、松平与市殿もすがぬま新八も引のきけり。信玄は野田之城を責(せめる)内に病つかせ給ひて、野田落城有而後は、きつてのばる事も不成して、本国へ引而入とて御病おもく成而、平井波合にて信玄は御病死被成ける。
然る間元亀(き)四年〈癸酉〉二俣之城にむかつて、取出を御取被成ける。一つ屋城山、一つがう大島、一つ道(だう)々国中のおさいと被成ける。さてまた浜松より岡崎へ御越被成候とて、元亀(き)四年〈癸酉〉長しのゝ城を打まわらせ給はんとて、かけよせさせ給ひて、火矢を射させて御覧じければ、案之外に本城、は城、蔵屋共に一間ものこらず焼きはらひければ、其儘(まゝ)其寄押(おし)寄給ひて、責(せめ)給へば、勝頼は後づめと被成候へて、鳳来寺くろぜまで、武田之典厩(てんきう)をさしつかわせ給ふ。是をも御もちいなくして、せめさせ給へば、城中にもはや、兵糧米も候はねば、はや降参をぞ申ける。しからばたすけおくべきよしおほせ給ひ【 NDLJP:114】て、あつかいて、同年の七月十九日に城をうけとらせ給ひ、御普請を被成、兵糧米多こめおかせられ給ひて、おく平九八郎に城を被下而頓而御馬も入。然ける処に、是も後づめとして、武田之梅雪(ばいせつ)を遠江之国へ出し森に陣之取、こゝかしこをほう火して、苅田をして打ちりて、らん取をする処に、長しのゝ城をせめおとし給ひ而、引いらせ給ふ所に、敵出而、此方彼方(こゝかしこ)うちちりて放火をし、らんぼうらうぜき、かり田をしるときくよりも、我さきにとかけ付而、おひくづしておひ打に打取。然処に榊原小平太同心に、上方らう人有けるが、大久保次右衛門が高名をして、首をひつさげてのく処へ、彼らう人来りて、七八人してうしろよりいだきて、次右衛門が取頭を、ばいてゆく。次右衛門は、汗をにぎつて、腹を立けれ共、かなわずして帰る。其時榊原小平太彼らう人を召つれて、御前へ出けるを、戸田之三郎右衛門是を見て、急(いそぎ)次右衛門に告げられけるは、次右衛門はしらざるか、彼者をこそ只今榊原小平太が、召つれて御前へ出けると被申ければ、次右衛門は、忝よくぞ御きかせ候とゆひすて、彼者之帰らぬさきにと、御前へいそぎける。三郎右も、我も同心してゆくべきとて、二人つれて御前に参、あの人之指(さし)上申すしるしは、各々見被申候。我等が打申候へて、ひつさげてのき申処を、七八人参て、ひきかなぐりて参たり。我等にかぎらず、各々御普代久敷衆には、御あてがひも不被成と申共、御普代御主なれば、我人女子を帰見ず、一命をすてゝかせぎ申とは申せ共、あれてい之者にはくわ分之御知行を被下、人をおゝくもち申候へば、何時もあのごとくに御座候へば、少身成、我等通り成者は、何とかせぎ申ても御ほうかうに罷成がたく奉存知候。其うへ彼等はよければ罷有、あしければ罷あらず、御普代之衆はよくてもあしくても、御家之犬にて罷出ざるに、せざる高名を立させられ候御ことは、一段とめいわく仕候と申上ける処に、榊原小平太申けるは、次右いはれざる儀を仰被上候。我等同心の高名には歴然したるに、きこゑざると被申ければ、次右衛門申は、たれ人のよきあしきも、貴所之何とてしらせ給はん。其あたりへも来(こ)ずして、いらざる事を仰候。見ぬ京物語は、せざるものに候間、いかに同心之腰を引度共、なき事は成間敷と申ければ、其時御諚には、次右衛門いらざる事な申そ、我家にて汝(なんぢ)に武辺に点うつ者は有間敷に、我次第にしておけと、御意のうへ畏つて御前を罷立ければ、くだんの浪(らう)人は、有事ならずして虚空(こくう)にうせぬ。然間、元亀(き)四年〈癸酉〉の暮に、勝頼は遠江へ御出馬有而、久野、懸河へあてゝ、国中へ押出して、ほう火する。其寄天りう河の、上の瀬をのり越而、浜松へはたらき、まごめ之河をへだてゝ、あしがるをして、其寄引取てかんざうの瀬を越、やしろ山を越て、山なしへ出而、すくも田が原に陣を取給ふ。然所に、池田喜平次郎と云者、博奕打のはうびきし成。然共、うき世になきすりきりなれば、ばくちは、やるせもなく打ちたくはあれ共、し合に立るものなければ、取みなしとて、あひてもなければ、やるせもなく打たきまゝに、然者勝頼のすくも田が原に陣取而、御入之由を承候へば、忍び入而馬を盗み取而、ばくちを可打とて、行ける所に、被見付て、四方へおひまはされ、頓而いけどられて、高手小手にいましめられ【
NDLJP:115】て、勝頼之御前へひつすゆる。勝頼は御覧じて、敵のもやうは何と有と被仰けれども、弱みを一つ不申して強み斗を申ければ、引立而行、番をよくしておきてにがすな、頓而御せいばい可有とて、いらせ給へば、いよ〳〵つよくいましめけり。然所に勝頼はすわ之原へ御陣がへを被成而御越有而、縄打を被成而城を取給ふ。然者せな殿、喜平次を御覧じて、あれは、某が古へ存知たるものなり、駿河へほうかうに参し時、某(それがし)目懸申たる者之儀にて御座候間、哀(あはれ)某(それがし)に御あづけ給候へと被申ければ、其儀ならばあづけよとの給候へば、せな殿へわたしける。せな殿仰には、御身は昔寄之知音(ちいん)なればあづかり申成。さて又ちいんと云て、なわをかけておくことは、あづかりたるせんもなし。さらばなわをときて、我等が相伴をして、我等が陣之内をば、らく〳〵とありき給へ。他之陣場へ行給ふな。然者御身に昔目を懸申たる故にあづかりて、らくにおき申成。此故にても国へも行度は行給へ。ちかづき故に我が一命を知行に相そへて、勝頼へ指(さし)上申迄にて候へ。少もくるしからざるに、行度は行給へと仰ければ、喜平次申、せな殿御なさけをわすれ申而おちゆく者ならば、我身のはぢはさておきぬ、国のはぢをかき申間敷と申。心之内には前のごとく、なわをもかゝりて有ならば、何とぞしてなわをも抜きて行べけれ共、せな殿になわをとかれ申候へば、にぐる事はならず、却而せな殿になわのうへになわをかけられたるとこそぞんじ候と、心の内におもひける所へ、やかたよりの御意に候。あづけおくいけ取に、なわをかけ給ひて、渡し給へとて参ければ、喜平次心之内に思ひけるは、さて命ながらへけるぞや。此程はせな殿にからしばりと云物にあひつるが、うれしやと思ひける処に、せな殿仰けるは、此間之内にかけおちもし給はで、又渡し候へと仰被越候へば、めいわくなれ共是非に不及と被仰而渡し給へば、喜平次も其名をゑたるものなれば、おどろくけしきもなく一礼して行ける。なわ取うけ取而、おつ立而行、なわをつよくいましめて置。ねずの番の者六人ゐて、かわりていたりける所に、喜平次申けるは、御身達はあまりこと〴〵敷ふぜいかな。いけどりと云事は、何方にも敵味方之事なれば、互(たがひ)に主之ほうかうなれば、にくきにあらざる事なれども、かほどに高手小手にいましめて其上に塩水をふきて、したへ足之付ざるやうにいましめて、其の故ねずの番をも給ふ。此のうへ我等がにぐる事は此の世にてならざるていに候間、ねむたくはゆく〳〵とね給へといへば、番之者申けるは、げに〳〵それもきこえたり。其上にげてゆかば、おし付打すつべし。さらばねよとて、臥して大いびきかきければ、喜平次はしすましたりと心得而、高手小手のなはをはづして、番之者をあごみ越而、はしり出而あわが岳へとびあがりて、くら見さいがうゑ出而、浜松へ参りければ、手がら成命のたすかりやうかなとぞ、御意被成けり。勝頼はすわの原の城を取給ひて引入給ふ。同東美濃、岩むろの城をば、信長のおばごのもち給ふが、信長の御子、御房様を養子被成けるが、信長へべつしんをして、勝頼と一身して、秋山を引入而、秋山とふうふに被成、御房様を、甲斐国へやり給ふ。其帰りに勝頼は、あすけのくちへ、御はたらき有と申せば、上様はあすけへ御陣立有。然共勝頼は其の【
NDLJP:116】寄引入給ふ。信長は御はら立而、岩むろへ押寄給ひて、城を責おとし給ひ、秋山をばいけ取給ひて、磔にかけ給ふ。軍(ぐん)兵どもをば二之丸へおひ入而、堄(しゝがき)をゆひ、火を付而やきころし給ふ。おばごをば、こまき山にて、御手打に被成けり。さて又天正二年〈甲戌〉四月、いぬいへ、腰兵粮にて、御はたらき有而、ずいうんに、御旗(はた)が立ければ、諸勢は、れうけ、ほりの内、和田之谷に陣取。折ふし大雨ふりて大水出ければ、一両日は何れも兵粮なくして迷惑したり。然共水も程なくひきおちければ、同六日之日御陣も引のけさせ給ふ所に、御旗(はた)本はみくら迄引とらせ給ふ。然る処に天野宮内右衛門けた之郷より出而、あとぜいにしきつてしたい付、たる山の城、かうめうの城より、これ等が先へまはつて、田のおふくぼ村に出、郷(がう)人を相くわへて、此方(こゝ)の嶺谷(みねたに)、彼方(かしこ)のをづる山さき、木かや之中より、しかりげ、さるかわうつぼを付、しゝ矢をはめて、五人十人二十人三十人づつ、中へ出あとへ出先へ出而、おもはぬ外之処にててつぽうをはなし、おごゑをあげけれ共、日のめも見えぬみ山之中なれば、ふせぐ事もならず、殊更上はくもにそびへたる大(み)山、下はがゝとしたるがん石のほそ道なれば、あとよりくづれたるともなく、中よりくづれたる共なくして、田のおふくば村にてかへせば、深(み)山に入て見えず。のけば又出而付。然間、田のおふくぼ村にて、同年の四月六日にはいぐんする。各々打死有り。ほり小太郎、鵜殿藤五郎、大久保勘七郎、おわらの金内、是等がしよ手に打死してより、其ほか数多打死をしたり。御旗(はた)本の心がけたる衆、あとへのこりて打死をしたり。上様は、みくらにて此由聞召、あとにててつぱうのおとが聞こえけるが、いかゞと思召所に、あとぜいがはいぐんと聞召て、おどろかせ給ひて、引帰させ給へば、敵はちり〴〵に、味山へ入而見へざれば、是非に及ばせ給はずして、御馬は天方迄入る。其時大久保七郎右衛門同心の杉浦久蔵、手をおひてゐたるをみて、乗りよせて飛んでおり、久蔵手をおひたるか、是にのれとて引立てければ久蔵がいふ、うつけたる馬之おり処かな、我等とをりの者は、何程打死したるとてもくるしからず。大将をする者が、左様に馬ばなれる物か、八幡大菩薩のる間敷と云へば、しきだいは所によるぞ、早のれと云。久蔵云けるは、我御身をおろして、ころして、我此馬にのりていきても、ゑがとけぬ、とてものる間敷とてのらざれば、ぢこくうつりてあしゝとて、七郎右衛門はのらばのれ、いやならば馬を捨てよとて打すてゝのきければ、小だま甚内が立帰而、七郎右衛門はのきたるなり。はやのれとてとつて引立てのせて、我は又、はしり付申す。然間七郎右衛門には、兵藤弥助、小たま甚内、犬若と云小者と三人付。然る処に、ほそみちのかけのはたをのきける処に、あとよりにぐる者が、さきへとをるとて、七郎右衛門を崖へ突落す。三人の者共が付而飛ける処に、犬若があげはのてふの羽のさし物をもちたるが、すてけるに、敵が是をとるを兵藤弥助が見て、はしりかゝりてかなぐりとる処を、わきなる敵が、弥助をけさがけにきりたふすを、七郎右衛門がとつ而帰して、二人ながらきりふせければ、また犬若がさし物を取而もちてのく。然間奥平道文之ちやく子作州は、勝頼に、べつしんをして、御忠節を申給へば、長しの【
NDLJP:117】の城を出し給ひて、九八郎を頓而むこ殿になされんと仰ければ、信康之被仰様には、存知もよらず、我等が妹(いもと)むこに、何とて九八郎を仕らん哉と、被仰ければ、さすがに、おしてもならせられ給はずして、信長へ被仰ければ、信長より被仰候は、尤信康之仰候儀承とゞけたり。然共忠節人之事、又は大事之さかいめをあづけおき給ふ間、次郎三郎殿不肖を堪忍被成候ひて、家康にまかせられ候て、尤かと存知候と被仰ければ、親達之被仰候間、何と成とも御存分次第と被仰ける間、さてこそ奥(おく)平九八郎方へ御越は入ける。
然処に、天正二年〈甲戌〉勝頼御出馬有而、高天神之城へ押(おし)寄而、責させ給ふ処に、信長後づめと被成而、御出馬有りければ、小笠原与八郎手がわりをして、ゐなりに成ければ、信長手をうしない給ひて、吉田寄引帰らせ給ふ。然処に天正三年〈乙亥〉に、家康御普(ふ)代久敷御中間に、大賀弥四郎と申者に、奥郡(おくごほり)廿余郷之代官を、御させ給ひて、何かに付而ふそく成事なく、富貴にくらすのみならず、あまりの栄華にほこりて、よしなき謀反をたくみて、御普代之御主をうち奉りて、岡崎の城を取て、我が城にせんとくは立けり。然間小谷甚左衛門、倉地平左衛門、山田八蔵を引入而、此事やす〳〵と岡崎を取可申とよく申合而、勝頼へ申入候は、是非共今度御手を取申、岡崎を奉取、家康御親子に御腹をさせ可申事はれきぜん成。其いわれは、何何(いつなん)時も、家康岡崎へいらせられ給ふ時は、我等御馬之御先に参而、上様御座被成候に御門ひらき給へ、大賀弥四郎成と申せば、うたがひもなく、御門をひらき申候間、然者つくでまて御馬を被出給ひて、御先手の衆を二かしらも三かしらも、指(さし)つかはされ候はゞ、其御先に立而岡崎へ御供して、城へやす〳〵と引入れ申者ならば、御城の内にて、次郎三郎信康様をば、打取可奉成。然者こと〴〵く家康へそむいて、勝頼へかうさん申而、御手に可付成。然時んば、家康へ付可奉者共は、何れも少身者にて有者共、二百三百付申而あればとて、功をばなすべからず。其者共も岡崎に女子をおきたれば、こと〴〵くおさへ取物ならば、其内も大方参而かうさんを可申、大久保一るい共が、御敵を不申候筋め之者にて候間、可奉付、然共是も少身者どもなれば、是も功をなす事はあらじ。殊更女子共はやはぎ河を越而、尾張(をはり)を指(さし)而おちゆくべし。然者河之はたに、小谷甚左衛門と山田八蔵が罷有事なれば、一人もとをさずして、めし取申者ならば、是も御手をとる事も候はんか、然共是は不存候へ共、然共家康へ付可奉者は、百騎之内外にて可有候之間、然者浜松をあけて、舟にて伊勢へのかせられ給ふべき、然らずは吉良へうつらせ給ひて、舟にて尾張へ御越被成候はんとて、御とをり可被成、然者押寄而打奉、家康信康御親子様之御しるしを、ねんじ原にかけ可申と、あり〳〵と書付而、大賀弥四郎、倉地平左衛門、山田八蔵、小谷甚左衛門判とかきとゞめ而、勝頼へ上ければ、勝頼悦給ひ而、然者尤此事いそげとて、つく出筋へ、御出馬有りける処に、山田八蔵つく〴〵とあんじて、如此の儀ならば、御主を打奉らん事うたがひなし、然とても打奉る儀も成間敷なれば、兎角に此儀におひて一味は成間敷と思ひて、此儀を申上、若御ふしんに思召候はゞ、我等がちやうだ【 NDLJP:118】いゑ、一両人も御越被成而、御きかせ可被成候。此儀を内談(ないだん)仕而きかせ申さんと申上ければ、尤と被仰而、一両人指(さし)つかわされて、きかせられ給ひしに、れきぜん之儀成。大賀弥四郎は、是をば夢寤(ゆめうつゝ)しらずして、女房にむかひて申けるは、我はむほんのたくみ、御主を打奉らんと申ければ、女房まことにもせずして、ぢやれけうしやにも云ふべき事をこそ云たるもよけれ、さやう成事を、いま〳〵わ敷、きゝ度もなしとてそばむけば、弥四郎重而申けるは、夢々いつはりにあらずと、実(まこと)しがほに申ければ、其時女房おどろきて、げに〳〵左様成くわだてをたくみ給ふか、さても〳〵天道のつきはて給ふ物哉、上様の御かげ雨山かうむりて、何かに付而とぼしき事はなくして、身をすぎ申事をさへ、天道おそろしく候へば、一度は御ばつもあたり可申と思へば、御主様の御事おろかにも思ひ奉らず、其故各々御普代久敷御侍衆達さへ、我等がまねは成給はぬに、況哉(いはんや)御身は御中間之身成を、か様に奥郡廿余郷之代くわんを仰被付候へば、何が御ふそくは有而御むほんをくわ立被申候哉、其儀を思ひとゞまり給へ、然らずんば、我々子共共にさしころして、其故にてむほんをくわ立給へ、かならず御主様之御ばちは、たちまちにかうむりて、御身のはても此世から、かしやくせられて、辛苦をうけてはて給ふべし。わが身なども烙磔付(いりはりつけ)にもあがりて、うき名をながさんも目のまへなれば、只いまさしころし給へと申ければ、其時弥四郎申は、女之身としてしらざる事を申物かな。其方をば此御城へうつして、御台(だい)といわせんと云ければ、女房云は、若も御台(だい)といわれゝば祝言だが、いはれぬ時の不祝言はの、御身きゝ給へ。仏法は実がいればかたぶくと云ふ、人間は実がいれば反(そ)ると云は、御身之事成とて、其後物もいはず。然る間大賀弥四郎をば御城にて召取、倉地平左衛門はさとり申に付、はなち討に成、小谷甚左衛門は、遠江之国こくれうの郷中にて、服部半蔵がいけ取んとしける処に、天りう河へとび入而、およぎて二俣之城へゆき、それ寄かい之国へゆく。弥四郎をば高手小手にいましめ、鋜(ほだし)をはかせて、大久保七郎右衛門に仰被付而、馬之頭のかたへうしろをして、あとのかたへまへをして、頸がねをはめて、あとわにゆい付而、ほだしを両之鞍骨に搦み付て、むほん之時のためにとて、したてたるさし物をさゝせて、がく、かね、ふへ、たいこにて打はやして、浜松へつれてゆく。然る処にねんし原に、女房子共、五人はり付にかけておく処を、弥四郎を引とをして、やりすごして見せければ、殊之外にわるびれて見えけるが、何とか思ひけん、かほを少もちあげて、五人之者を見て、汝(なんぢ)共は先へゆきたるか、目出度事かな、我等も跡寄行べきと申しければ、見物之衆わらひける。然間、道々はやして、人ににくませ、浜松内を引まわして、岡崎へ引帰而牢舎させておく。さて又勝頼は御出馬有けれ共、此事あらはれて、調儀ちがひければ、其寄押出し而、二れんぎへはたらき給ふ。其時信康之御馬は、山中之法蔵寺に立而、御陣之とらせられ給ふ。家康之御旗(はた)は、吉田に立てゝ、はぢかみ原にてはげはげ敷、あしがる有而、勝頼は其寄引入給ひて、ながしのへ偣(よせかくる)。則(すなはち)城を責(せめ)させ給へば、家康、信康、両旗(はた)にて野田へ押寄させ給ふ。然間、大賀弥四郎をば、岡崎之辻にあなをほり、頸板をはめ、十の指【
NDLJP:119】をきり、目のさきにならべ、あしの大すぢをきりて、ほりいけ、竹鋸と、鉄鋸とを、相そへておきければ、とをりゆきの者共が、さても〳〵、御主様の御ばちあたりかな、にくきやつばらめかなとて、のこぎりを取かへ〳〵、ひきけるほどに、一日之内に引ころす。然る所に、信長御出馬有而、先手之衆は、はややわた、市之宮、ほん野が原に陣をとれば、城之介殿は、岡崎へ付かせ給へば、信長は池(ち)鯉鮒へ付せ給ふ。然共、長しのゝ城は、きつくせめられて、はや殊之外つまりければ、忍び而、鳥居強右衛門と申者出して、信長は御出馬か、見て参れとて出す。城寄はやす〳〵と出而、此由を家康へ申上ければ、信長へ指(さし)被越ければ、信長御悦(よろこび)被成而、御出馬之由仰つかはされければ、強右衛門、おうけを申而罷立而、武田之逍遥軒の、責口へゆき、竹たばをかづきて、早かけいらんと見合ける処に、見出されて召とられ、勝頼之御前へ引出す。勝頼は聞召、其儀ならば、汝(なんぢ)が命はたすけ置(おき)、国へ召つれ。過分に地行を可出、然者はり付にかけて城へ見せべき、其時ちかづき共をよび出して、信長は不出候間、城を渡せと申候へ、其時汝をもおろさんと云ければ、強右衛門申は、忝奉存候命さへ御たすけ候はゞ、何たる事を成共可申候に、あまつさへ御地行を可被下と、御意之候へば、目出度事何かあらんや、はや〳〵城ちかくに、はた物にあげさせ給へと申ければ、其ごとく城ちかくに、かけければ、城中之衆出而、聞給へ、鳥居強右衛門こそ、しのびて入とて召とられ、如此に成而候へと申ければ、こと〴〵出而強右衛門かと云。其時、強右衛門申けるは、信長は出させ給はぬと申せ、命を扶(たすけ)其故地行をくれんとは申が、信長は岡崎迄御出馬有ぞ、城之介殿はやわた迄御出馬成。先手は、市之宮本野が原に、まん〳〵と陣取而有。家康信康は野田へうつらせ給ひて有。城けんごにもち給へ。三日之内に御うんをひらかせ給ふべしと、此由を奥平作州と、同九八郎殿と、親子の人へよく申せと云ひければ、却つて敵のつよみを云やつなれば、はやくとゞめをさせとて、とゞめをぞさしける。然処に、坂井左衛門尉、信長之御前に参而申けるは、ながしのゝかさに、鳶が巣と申処之御座候を、はる〴〵と南へまわりて取申物ならば、則(すなはち)城と入合可申。可然と思召候はゞ、三河之国衆を同道申候へ而、某(それがし)参可申と被申ければ、信長悦(よろこび)給ひ、尤の儀成、早々急(いそぎ)給へ。左衛門尉は日比聞及たる者なれば、其ごとく成。目眼(まなこ)が十付而見えけりと被仰ければ、左衛門尉は罷出、家康へ此由申、各々同道してとびがすへまわりて、頓而おひくづす。其時松平紀伊守、同天野西次郎、同戸田之半平、其外之衆おほく鑓(やり)が合。世上にては、戸田之牛平が鑓(やり)之事をさたしたるは、半平はさし物をさしたるゆゑ成。天野西次郎は、半平寄先なれ共、さし物をさゝざる、づつぼう武者なれば、せじやうにては、半平程はさたはなけ共、半平寄西次郎がゝさき成。然間、大正三年〈乙亥〉五月廿一日、信長、城之介殿親子両旗(はた)、家康、信康親子両旗にて、十万余にてあるみ原へ押出し、谷を前にあてゝ、ぢやうぶに柵を付而待ちかけ給ふ所に、勝頼は纔(わづか)二万余にてたき河之一つ橋之絶所(せつしよ)を越、賸(あまつさえ)わづか橋を越てから一騎打の処を、一里半越て押寄(よせ)而之合戦なり。然共十万余之衆は、柵の内を出でずして、あしがる計出し而たゝかひけるに、信【
NDLJP:120】長之手へは作ぎわ迄おい付而、其寄は引而入。家康之手は大久保七郎右衛門同次右衛門此兄弟之者を指(さし)つかわされければ、兄弟之者共は、敵味方之間に乱(みだれ)入而、敵かゝれば引、敵のけばかかり、おゝき人数を二人之ざいに付而、とつてままはしければ、信長是を御覧じて、家康之手まへにて、金の上羽の蝶のはと、あさぎのこくもちのさし物は、敵かと見れば味方、又味方かと見れば敵也。参而敵か味方か見て参れと仰ければ、家康へ参而、此由かくと申ければ、いや〳〵敵にはあらず、我等が普代久敷者、金之あげはのてふのはゝ、大久保七郎右衛門と申而こくもちが兄にて候。あさぎのこくもちは、大久保次右衛門と申而、てふのはが弟にて候と仰ければ、急(いそぎ)立帰此由申ければ、信長聞召而さても家康はよき者をもたれたり。我はかれらほどの者をばもたぬぞ。此者共はよき膏薬にて有り。敵にべつたりと付而、はなれぬと仰けり。然間勝頼も、土屋平八郎、内藤修理、山方三郎兵衛、馬場美濃守、さなだ源太左衛門など云度々の合戦に合付而、其名を得たる衆が、入かへ〳〵おもてもふらず責(せめ)たゝかいて黜(しりぞく)事なき処に、此衆は雨のあしの如く成、てつぽうにあたりて、場もさらず打死をしければ、勝頼も是を御覧じて、是非もなき馬場美濃と、山方三郎兵衛が打死之うへは、合戦は見えたりと思召処に、其外こと〴〵くむねとの兵(つはもの)打死をしたりければ、則(すなはち)乱(みだれ)而はいぐんする。然共勝頼は無何事引のけさせ給ふ。是寄璅(つめいり)給ふならば、かい之国迄おさめさせ給ふべきに、奥平作州同九八郎を召出給ひ而、今度はひるいなき城をもち給ふ事、天下にかくれなき其おぼへ、ばくたい成と御かん其かへもなし。大久保七郎右衛門、同次右衛門兄弟之者共を召出給ひ而、さて〳〵今度之武者づかいひるいなし。汝(なんぢ)共がかけ引ゆへ、陣にかちたり。汝共程成者を我はもたぬと被仰而、殊外御かん成。然間其寄引入給へば、家康も頓而今度之御礼と被成而、あづちへ御参府あり。其時御供之衆はしらずに伺候して有所へ、信長立出させ給ひ而、髯はこぬかと被仰ければ、其時ゑ原孫三郎が罷出ければ、信長之仰に、いや〳〵ながしのにてのひげが事と被仰ければ、七郎右衛門は御供にあらざれば、大久保次右衛門罷出ければ、其時さて汝が事にて有。さて〳〵ながしのにてのはしりまい、手がら云に不及、汝共程の者を我はもたぬ。今度は辛労をしたると被仰而、御ふくを被下ければ、次右衛門は時の面目はどこして罷立、家康其寄御帰被成而、同亥の年二俣(ふたまた)へ押寄(おしよせ)させ給ひて、びしやもんどう、戸ば山、みな原、わたが島に取出を被成給ふ。二俣を大久保七郎右衛門に被下候ゆへ、みな原之取出に有。然処に高明の城へ押寄させ給ふ。大手の二王どうぐちへ、本田平八、榊原小平太、其外押寄けり。御旗(はた)本は横(よこ)河ゑうつらせ給ひて、かがみ山へ押上させ給ひ、其寄城へ璅(つめいる)程に、城にはあさいなの又太郎が有けるが、かうさんをこひければ、命をたすけてやり給ふ。同年二俣も落城成。
然る処に天正四年七月日、いぬゐへ御はたらき有而、たる山の城を責取、其寄かつさかへ押寄せ給へば、しほ坂を持ちて入立ざれば、大久保七郎右衛門に石が嶺(みね)へあがりて、かさ寄も追ひ崩せと御意之候へば、おうけを申而七郎右衛門石きりへうつりければ、天野宮内右衛門かなはじと思ひ而、しほざ【 NDLJP:121】かとかつさかをあけて、しゝがはなへ、うつりて引のきけり。大久保七郎右衛門は、天正三年〈乙亥〉寄同天正九年〈辛巳〉年迄、二俣、高明、入手をもちて、境めに有りて、日夜無隙山野に臥してかせぎけり。さて又、天正五年〈丁丑〉に、すはの原の城を責させ給ひ而、頓而責取給ふ。其寄小山之城を押寄而責させ給ふ処に、勝頼は後(ご)づめと被成而、長しのにて打死の跡嗣(あとつぎ)之、十二三寄うへの者、又はしゆつけおちなどを引つれて、御出馬ありてはやおほ井河を、一そなひ二そなひ越ければ、城をまきほぐして、引のき給ふ時、いらうさき迄は、敵にむかわせ給ひし程は、信康何共不被仰してのかせられ給ふが、いらうさきより敵をあとへなす時は、信康之仰には、是迄は敵にむかひ申なればこそ、御先へは参たり。是寄は敵をあとにして引のき申せば、先上様のかせられ給へ。何方にか親をあとにおき申而、子の身として、先へのく事の御座可有哉と被仰ければ、大殿之御諚には、せがれのゆわれざる事を申者哉。とく〳〵のき候へと、千度百度、押(お)しつおされつ仰られけれども、つひに信康はのかせられ給はねば、大殿之まけさせられて、引のかせ給へば、信康は御あとをしづ〳〵と引のかせられ給へば、勝頼も河をば越給はず、河を越たる者も引とり、上様もすはの原城へいらせ給ひ而、其寄御馬は入。丑(うし)之年信康之御前(ごぜん)様寄、信康をさゝへさせ給ひて、十二ヶ条かき立被成而、坂井左衛門督にもたせたまひて、信長へつかわし給ふ。信長左衛門督を引むけて、まきものをひらき給ひ、一々に是はいかゞと御たづね候へば、左衛門督中々存知申と申ければ、又是はと被仰ければ、其儀も存知申と申ければ、信長十ヶ所ひらき給ひ、一々に御尋ありければ、十ヶ所ながら存知申と申ければ、信長二ヶ所をば、ひらかせ給はで、家之おとながこと〴〵く存知申故はうたがひなし、此分ならばとても物には成間敷候間、腹をきらせ給へと、家康へ可被申と仰ければ、左衛門督此由おうけを申而、罷帰時、岡崎へはよらずして、すぐに浜松へとをりければ、御利根成殿に候へば、頓而御心得被成而、是非に不及と被仰けり。家康へ此由を左衛門督が申上ければ、此由を聞召而、是非に不及次第成、信長に恨(うらみ)はなし、高きもいやしきも子の可愛き事は同前成に、十ヶ所迄ひらき給ひ而、一々尋給ひしに、しらざる由申候はゞ、信長もか様には仰間敷を、一々存知申と申たるによつて、か様に被仰候成。別之子細にあらず、三郎をば左衛門督がさゝゑによつて、腹をきらする迄、我も大敵をかゝゑて、信長をうしろにあてゝ有故は、信長にそむきて成がたければ、是非に不及と被仰ける処に、平岩七之助罷出て申けるは、聊爾に御腹をきらせ御申給ひては、かならず御後悔(こうくわい)可被成。然者某(それがし)を御もりに付奉り候へば、何事をも某之いたづらに被成候へて、某が頸をとらせ給ひて、信長へ急指(いそぎさし)被上給ば、其時誰ぞ御頼被成而、家康も独(ひとり)子にて御座候間、ふびんに可被存と申上候はゞ、其時は信長も、某が頸之参ると聞召給はば、疑団のやはらぐ事も可㆑有に、兎角に某が頸を一時もはやく指つかわされ給へと思ひ入而、重々指つめ〳〵申上ければ、七之助が云処尤成、忝こそ候へ、能つく案じても見よ、我も国にはゞかる程の独(ひとり)子をもちて、殊更我あとをつがせんと思ひて有に、か様に先立申さんこと、日本之はじと云、いか【
NDLJP:122】計めいわくこれにすぎず、然るとは云共勝頼と云大敵をかゝへて有なれば、信長をうしろにあてねばかなはざる事なれば、信長にそむきてはならず、其故汝(なんぢ)をきりて頸(くび)をもたせてやりて、三郎が命さへながらへば、汝が命をもらはんずれ共、左衛門督がさゝへの故は、何としても成間敷に、汝までなくしては上がうへの恥辱成。然者三郎をふびんなれ共、岡崎を出せと仰あつて、岡崎を御出被成而、大浜(はま)へ御越有而、其寄ほりゑの城へ御越被成而、又其寄二俣(また)の城へ御越被成而、天方山城と服部(はつとり)半蔵を仰被付而、天正六年〈戊寅〉御年二十にて十五日に御腹を被成けり。何たる御とがもなけれども、御前様は信長の御娘(むすめ)にておはしまし給ふ。其故早御姫君(ひめぎみ)も、二人出来させ給へ共、御不合にも有つるが、それとても御子も有中と申、御ふうふの御中なれば、御子の御ためと申、人口と申、方々いか様に御さゝへ可有にはあらざる御事なれ共、さりとてはむごき御仕合と、申さぬ人はなかりけり。それのみならず、坂井左衛門督は御家のおとなと申、御普代久敷御主の候事を、御前様に見かへ奉りて、御前と一身して、よくも〳〵くちを指(さし)上而さゝへ奉りたりと、各々上下共に申而にくみけれども、信長へおそれをなして讐はならず、さてもをしき御事かな、これ程の殿は又出がたし。昼夜共に武辺之者を召寄られ給ひ而、武辺の御ぞうたん計成、其外には御馬と御鷹(たか)之御事成。よく〳〵御器用にも御座候へばこそ、御年にもたらせられ給はね共、被仰し御事を後之世迄も、三郎様之如此被仰しとさたをもする、人々もをしき事とさたしたり。家康も御子ながらも、御きやうと申、さすが御親之御身にもたせられ給ふ御武辺をば、のこさず御身にもたせられて出させ給へば、御をしみ数々に思召候へども、其頃信長にしたがはせられで、かなはぬ御事なれば、是非に不及して、御腹を御させ給ふなり。上下万民こゑを引而、かなしまざるはなし。信康之御そく女二人おはしまし給ふ成。然間天正五年〈丁丑〉に勝頼よこすかへ、御はたらき成されける。家康はしば原へ出させ給ひて、御陣之はらせられ給ふ所に、勝頼之はたらき給ふ由を聞召而、よこすかへお旗(はた)をよせさせ給ふ。既(すで)に合戦も有かと見へけれ共、勝頼もかまひもなく引とらせ給へば事出来なし。其寄上様もしば原へ御引被成而、御陣之はらせ給ひて、勝頼はまわりて、懸河之筋へ出るかとて、大久保七郎右衛門と本田豊後守をばくつべへ指越被成而、陣をとらせ給ふ成。然共勝頼は、よこすか寄引入給ふなり。同年に田中へ御はたらき成され而、とうべのしたに御陣之とらせ給ふ。勝頼はきせ河へ出でて、ほうでうの氏政(うぢまさ)と、合陣をとらせ給ひしが、家康のとうべのしたに、御陣を取せ給ふ由を聞召、是は家康をゑつぼへ引入たり。其儀ならば、うつの谷をゆきて、田中之城にうつりて、あとを取きり而、一合戦してはたすべしとて、氏政へつかいを被立、家康山西へはたらき、とうべに陣取而有由承候間、明日は爰元を引はらい候へて、家康へむかひ可申間、御したい被成候はゞ、其御心得有而御付可有。また合戦を被成んと思召たまはゞ、尤之御事可仕と仰被入而、合陣をはらひたまひて、きせ河より藤河へ押寄給へば、藤河が事之外出ければ、こす事もならざる処に、是をば夢にも、家康御存知なき所へ、大久保七郎右衛門内に、島孫左衛門と【
NDLJP:123】申者の甥に越後と申出家、府中寄走(はしり)入而、此由を申上ければ、取あゑず引のき給ふ。石川伯耆にしつばらいを仰被付けり。然処に、もち舟寄出て付ける処を、とつて帰而、山へ追(おひあ)上げてこと〴〵く打取。其時松平石見、酒井備後などをほめたり。其外にもあれ共、まづ彼等が事を云たり。其寄おほい河を引越而、すわの原城へいらせ給へば、勝頼もおつつけて、田中之城へうつらせ給へども、おそきゆゑ、無㆓何事も㆒。其年高天神にむかはせ給ひて、大阪山に取出を被成けり。おがさの取出と二つあれ共、おがさ山は此前取給ふ。然間天正七年〈己卯〉の春、田中へ御はたらき有而、苗を薙ぎて引給ふ。同年高天神の取出、中村に二つ、同しゝがはな、同なふが坂に取出を被成ければ、おがさ、大阪、中村に二つ、しゝがはな、なふが坂以上六つ取出をとらせ給ふ。然間天正八年〈庚辰〉の八月寄高天神へ取寄給ひ而、四方にふかくひろくほりをほらせ、たかどいをつき、たかべいをかけ、土へいには付もがりをゆひ、ほりむかひには、七重八重に大柵を付させ、一間に侍一人づつの御手あてを被成、きつても出ば、其上に人をまし給ふ御手だてを被成ければ、城中寄は鳥もかよはぬ計なり。うしろには後づめのためと被成而、ひろくふかく、大ほりをほらせ給ひ而、城之ごとくに被成けれ共、何としてこもり申候哉。さぎ坂甚大夫と申者が入而、又出たると申たり。然るとは申せ共、林之谷と申は、山高くして可出様もなし、たとへ出たると云とも、行さきは国中其外、おがさ、懸河、すはの原、南は大阪、よこすかには上様之御座候へば、出て行べきかたもなし。然間陣之可取らいもなければ、大久保七郎右衛門うけとりなれ共、はるかにへだたりて、とほくに陣を取、上寄之御諚には、とても林之谷へ出る事はあらじ、然者時の番之者を、六人づつ指置(さしおき)申せと御諚成。然間、天正九年〈辛巳〉三月廿二日之夜之四つ時分に、ふたてにわけてきつて出る。あすけ、取原、石河長門(と)守之くちは、入江の様成ところなれば、城寄是を、よわみと見て、きつて出ければ、間はほりなれば、それへこと〴〵くかけ入ければ、三方より指はさみて打ける間、ほりいつぱい打ころして、夜明けて頸(くび)をば取る。岡辺丹波と、横田甚五郎者、林之谷へ、大久保七郎右衛門手へ出る。番之者六人指越候へとは御意なれ共、七郎右衛門は大久保平助に相そへて、こゝはの者を十九騎指越ける。然間、城の大将にて有ける、岡辺丹波をば、平助が太刀付て、寄子の本田主水にうたせけり。丹波となのりたらば、より子にはうたせまじけれ共、なのらぬうへなり。其場にてこと〴〵く、五三人づつは打けれども、せいきもきれて皆(みな)打とめることはならず。然処に、七郎右衛門所より、はやすけてきりけれ共、はやことおはりぬ。然処に、石河長門守、あすけ、取原の手にて打もらされ共が、又まつくろにきりて、水野日向守手をやぶりけるが、其時は日向守は年若くして、御旗(はた)本につめられて、名代として、水野太郎作と、村越与惣左衛門がいたりしが、出而ふせがす。七郎右衛門とならびなれば、すけ合之者共かけきたれば、ふせぎておふかた討取。さてまた天正十年〈壬午〉之春、木曽勝頼へ手がはりをして、信長を引ければ、信長親子は高遠へ御出馬有りて、高とうの城を責取給ふ。勝頼はすはへ御出馬有けるが、高遠の落城之由を聞召而、すはよりかい【
NDLJP:124】之国へ引入り給へば、はや御普代之衆もこと〴〵く、おちちりてなかりければ、いかゞせんと思召処に、有合衆も御供をせんか、何とせんとてさゝめきけり。小宮山内前はおくにて召つかわれ申せ共、御意にそむきて有ける。小山田将監も内前と両天成が、是はかわらずしゆつとう成けるが、勝頼を見捨て奉りて早落行く。其時小宮山弟に申けるは、我は御勘気をかうむると申共、我先祖御代々へ御無沙汰なき筋め之者なれば、此度御供申而腹をきるべきと申ければ、弟之又七郎も、我も是非共に御供せんと申せば、内前申様は、勝頼之御情忝なくて御供申にあらばこそ、我がせんぞの御忠節、又は御普(ふ)代之筋めなれば、祖父(をうぢ)、親、先祖(ぞ)の名をくたさじとのためにお供を申成。汝(なんぢ)は命ながらへて、親をかこち、又は我等が女子をかこちて、骸(かばね)のうへのはぢをかゝざる様に頼入成とて、親又は女子を弟にあづけおきて、勝頼の御前に参、我は日比御勘気をかうむるとは申せ共、是非共御供可仕、御ゆるされ給へ。然とは申せ共、我等が五しやくにたらざる身をもちかね申たる事之御座候。それをいかにと申に、君之御眼前(がんぜん)をちがへじと仕候へば、我が先祖(せんぞ)の御忠節又は御普代(ふだい)之御内之者之かいもなし。又先祖(せんぞ)の御ちうせつを申立御普代之御主様之御用立御供を申せば、君(きみ)之御眼前(がんぜん)をちがい申、其をいかにと申上候に、おなじごとくに、召つかはされ候処に、某をば御用にも罷立間敷と思召而、御かんをかうむらせ給ふ。小山田将監には御心をおかれず、御用にもたゝんと思召而、御ひざもと近く召つかわされ申将監は、欠落ち仕候処に、又御用にも罷立間敷と思召候内前めが、御最後に罷出、おそれながら御直談に御勘当御赦免之御わび事を申上而、御供仕而腹をきり申候事は、さて日比の御眼(がん)りきはちがい不申哉。然共先祖の御ちうせつを立、御普代之御主様之御さい後の御供こそ、何よりもつて目出度とて御供をこそしたりけり。扨又武田之梅雪(ばいせつ)も勝頼之ためには姉婿(あねむこ)にて有りけるが、府中寄御前(ぜん)をぬすみ出して下山へ引のけ給ひ而、勝頼にぎやくしんをし給へば、いよ〳〵何れも勝頼をすてゝかけおちをしたり。家康は駿河よりもいらせ給へば、田中之城を、依田右衛門督がもつ。まりこの城をやしろ左衛門がもつ。とうべの城をば朝比奈がもつ。久のの城をば寄合にもつ。あな山は御味方に成たるとは申せ共、未ゑじり之城をもちていたる間、此城々をおさめて蒲原にてあな山とたいめん有りて、あな山を押立給ひて市河へ御付有而御陣取せ給へば、信長はすわに御陣之取せ給へば、先手は新府に付。家康は道々之城々に御隙をつくし給ふ。それのみならず道之程も岐阜と浜松をくらぶれば、浜松からは三日ほども遠からんに寄而、すこしおそくいらせ給ふ成。勝頼は早こと〴〵く御内之衆もちり〴〵に、主をすててかけおちをしたりければ、纔(わづか)五十騎三十騎之ていにならせ給ひて、新府(ふ)を天正十年〈壬午〉三月三日に、御前を引つれさせ給ひ而、出させ給ひ、郡内(ぐんない)の小山田方へ御越有らんとて、小山田八左衛門と云者を先様指つかわせ給へば、小山田も心がわりをしてよせ奉らざれば、八左衛門も帰りこず。其寄只今迄御供したる者供も、ちり〴〵に成而、早五騎十騎之体にならせ給ひ而、天目山へ入せ給はんと被成ければ、てんもく山へは御書代久数甘利(あまり)甚五郎と大熊新右衛門が婚舅、先に入而手がわりをして、矢てつ【
NDLJP:125】ぱうを出していかけ打かけければ、かなわせ給はで、御前御曹子ともに河原に敷皮(しきがは)をしかせてやすらわせ給ひける処に、あとより程なく敵がおひかけければ、土屋惣蔵指むかひける所に、跡辺尾張守は爰をはづしておちゆくを、惣蔵是を見て尾張は今にいたつて、何方へおちゆくぞとて、能つ彎いてはなしければ、尾張もうんやつきけん、土屋が矢がはしりわたつて、まつたゞなかをいとおしければ、馬よりしたへおちければ、よせくる者が即(すなはち)頸(くび)を取、とてもの黄泉(よみぢ)ならば花々と勝頼之御供をするならば、土屋同前に其名をあげて、名をかうたいにのこすべきを、おなじよみぢと申ながら、普代之主のせんどをはづして、其場をかけおちして、土屋に射ころされ申事を、にくまぬ者はなし。土屋はそれ寄矢束ねといて押みだし、さし取引つめさん〴〵にいてまわり、おゝくの敵をほろぼしてとつて帰、御前と御そばの女房達に御いとまをまいらせ給ひ而、勝頼と御ざうしの御かいしやく申而、其身も腹十文字にきりて、死出三途の御供申たる土屋惣蔵が有様、上古もいまも有がたしとほめぬ者はなし。其後に勝頼御親子之御しるしを、信長之御目にかけければ、信長御覧じて日本にかくれなき弓取なれ共、運がつきさせ給ひて、かくならせ給ふ物かなと被仰けり。さて信長は国のしおきを被成而、上野をば滝川伊予守に被下、かい之国をば河しり与兵衛に被下、駿河をば家康へつかわされて、富士一見と被仰而、女坂かしわ城をこゑさせ給ひ而、駿河へ御出有而、根方をとおらせ給ひ、遠江三河へ出させられて御帰国成。然間家康も今度之御礼と被成、あづちへ御座被成候。信長は家康と打つれ都(みやこ)ゑのぼらせ給ふ。信長之仰には、家康は堺へ御越有而、さかいをけんぶつ被成候へよと仰けるによつて、さかいへ御越被成ける。然処にあけち日向守は、信長之取立之者にて有けるが、丹波を給はりて有しが、にはかにぎやくしんをくわ立、丹波寄夜づめにして、本能寺へ押寄而、信長に御腹をさせ申。信長も出させ給ひ而、城之介がべつしんかと被仰ければ、森之お覧が申、あけちがべつしんと見へ申と申せば、さてはあけちめが心がわりかと被仰候処を、あけちがらうどうが参りて一鑓つき奉れば、其寄おくへ引入給ふ。お覧は突きて出而、ひるいなくはたらき而打死をして御供を申。早火をかけて信長はやけ死に給ふ。小田之九右衛門ふくずみをはじめとしてかけけるが、かけもあわせずしてかなわざれば、城之介殿へこもる。野村三十郎は、こもる事ならざれば追腹をきる。然処に信長に御腹をさせ申而、又城之介殿へ押寄ける。小田之九右衛門ふくづみをはじめとして、こゝわの者共百余こもりければ、城之介殿にては火花をちらしてたゝかいて、城之介殿をはじめまいらせ而、こと〴〵く打じにをしたり。小田之源五殿と山之内修理は狭(さま)をくぐる、其寄小田之有楽に成。家康は此由をさかいにて聞召ければ、早都へ御越はならせられ給はで、伊賀之国へかゝらせ給ひ而のかせられ給ふ。然処に信長伊賀之国をきりとらせ給ひて、なでぎりにして国々へ落ちちりたる者迄も、引寄々々御せいばいを被成ける時、三河へおち来りて、家康を奉頼たる者を一人も御せいばいなくして、御扶持被成ける間、国に打もらされて有者が忝奉存而、此時御恩をおくり申さではとて、送り奉る成。あな山梅雪は家【
NDLJP:126】康をうたがひ奉りて、御あとにさがりておはしましける間、物取共が打ころす。家康へ付奉りてのき給はゞ、何のさおいも有間敷に、付奉らせ給はざるこそ不運成。伊賀地を出させ給ひて、しろこ寄御舟に召而、大野へあがらせ給ふ由聞きて、各御むかひに参而岡崎へ供申。其より本田百助は河しり与兵衛と知音之事なれば、いそぎ参而其元に一揆もおこる物ならば、御かせい可被成と仰つかわされければ、河しりも忝なきと申せ共、百助は一揆をおこして我等を打可申とて来りたると思ひて、馳走して其後蚊帳をつりてふさせて、河しりは長刀をもつて来りてかや之つりてをきつておとして、其儘つきころしければ一揆共此由聞寄も、四方寄押寄而河しりをも打ころす。然処に大須賀五郎左衛門と、岡部の次郎右衛門、穴山内之者共を指つかわし給へば、あな山衆と岡部次郎右衛門は古府中へ付、大すか五郎左衛門は市河にいたり、然ども爰彼方(かしこ)一揆共にてしづまらざる所へ、大久保七郎右衛門婆(うば)口へ付たる由を、五郎左衛門も聞而、さては七郎右衛門が付たるが、今は心安とて太息(おほいき)をつきける処に、石河長門本田豊後親子も付たると申ければ、大方一揆もしづまりけり。然間、大すか五郎左、大久保七郎右衛門、本田豊後親子、石河長門、岡部次郎右衛門、あな山衆、若見こ迄押出す。然る処に七郎右衛門方迄六河衆、おび、つがね衆かけよりて先懸けをする。然る間御出馬程近(ちか)ければ、此五六手之衆はすわへ押寄ける。大久保七郎右衛門さいかくにて、すわをも引付けり。いなへは大草(くさ)と、ちくを、是も七郎右衛門が御意を得而、本領(りやう)を出し而引付けり。然間下(しも)ぢやうをも、七郎右衛門が引付けり。よだ右衛門は二俣之城を七郎右衛門に渡しける。其由緒(ゆいせう)をもつて、田中之城をも大久保七郎右衛門に渡さんと申而、七郎右衛門に渡して信濃へ行けるが、信濃もみだれて早其儀もならずして、両度之ちなみをもつて、七郎右衛門を頼而二俣へおちかくれ而来るを、七郎右衛門が此由を御意をうけければ、信長へ隠しておくべき由御意に候へば、二俣にかくしおく。七郎右衛門申上けるは、此時御用に罷可立候へば、よだ右衛門に本領(りやう)を被下候へ而、指被越候はゞ普代之者共も不残罷可出候間、是寄も諸手寄も五騎十騎づつ相くわへられ、甲州先鋒を相そへられて、其故しばた七九郎を御勘気をかうむりて罷在儀に御座候へば、此度御赦され被成て、此者共の将(せう)に被成て指被越候はゞ、作之郡は相違なく御手に可入。其故よき小屋をもち申つるが、其小屋に普代の者共罷有由申と申上ければ、尤之儀成其儀ならば七九郎を相そへ、諸手よりも出合而、早々越候へと御意に候へば、若見こ寄指越ければ、即(すなはち)小屋へ入ければ、普代之者は夢之多(こゝ)地して悦(よろこび)て小屋をかたくもつ。然る処に北条の氏直は、かんな河にて滝川伊予守と合戦して打勝而、信濃のうすいとうげを越而、作之郡へ出でければ、頓而真田安房(あは)守も氏直の御手に付く。然間坂井左衛門督は、東三河之国衆を引つれて、三千斗にて伊名郡へ出て、すわへ来り而被申けるは、信濃をば我等に被下候へば、諏訪をも我手つけんと云ければ、其時すは気を違へて、其儀ならば家康へは付申間敷、然ば氏なほへ可付とて、手ぎれをして氏なほへ申つかわしければ、氏直は此由聞召而、蘆田小屋へあてゝ、其寄ゑんのぎやうじやへ出て、かぢが原に陣取。坂井左【
NDLJP:127】衛門督三千斗にて、すわをのきて、おつこつに陣之取。同大須賀五郎左衛門、大久保七郎右衛門、石河長門守、本田豊後親子、岡部次郎右衛門、あな山衆、是もおつこつに陣之取而有けるが、氏なほ道一里の内外に、四万三千にて陣取給ふを、夢にもしらずして有ける処に、七郎右衛門に石上(かみ)菟角と云者、あしたの小屋寄、氏なほのすわへ出馬有けるが、おつこつに陣取衆之儀、心元なきとて八つがたけをしのび而来りて申けるは、氏なほはかぢが原に、四万三千之人数にて陣取而、纔(わづか)是寄一里の内外可有に御存知有而御入候哉と莵角が申ければ、其儀ならばみせに可越とて、其時おつこつの名主太郎左衛門と申者七郎右衛門が陣場に有而、何かの指引を申付而おきたる事なれば、所之者之事なれば、太郎左衛門を申付而見せにつかわしければ、太郎左衛門罷帰而申、むかひの原之しげみ之かげにまんまんと陣取而有。明日は定而是へ押寄(よせ)可申かと申ければ、其儀ならば然(さら)ばのけやと各々被申ける処に、すわにて七郎右衛門が申けるは、すわを引付而御味方申処を、左衛門督殿口さきをもつて、二度敵になしたると申而、左衛門督と七郎右衛門と、口問答をしたりける。故をもつて坂井左衛門督殿は、七郎右まづのき給へ。七郎右之のき給はずば、我はのく間敷と被申候。七郎右は左衛門督のき給へ、左衛門督殿のき給はずば、何と有而ものく間敷と、申はらつていたりけるに、敵はさわを越而我おとらじと、むかひの原へ押上けれ共、此もんどうがはてざれば、さらばとて左衛門督殿のき給ふ。左衛門督殿も此もんどうにはらを立而、四つ之比のき給ひしに、陣場に火をかけ而陣ばらいをし給へば、敵は此由を見るよりも、早めて押出す。左衛門督殿は其寄もあとも見ずしてのきはらい給ふ。然処にはじめ寄一手におしたる事なれば、六手の衆は一度にのく。しつはらいが、岡部次郎右衛門、二の手があな山衆、三が大久保七郎右衛門、四が本田豊後親子、五が石河長門守、六が大すか五郎左衛門、是六手が一所に成て五郎左衛門を先に押立、だん〳〵に押而のきける所に、氏なほは四万三千之人数にて、嵩成道を押而敵を見くだして、先(さき)をもぎらんと踸(すゝむ)。六手之衆は漸々(やう〳〵)取集(あつめ)而雑兵(ざふひやう)三千之内外にて、敵をかさに見上而、無㆓動(どう)転㆒引のけける処に、早頓而先を取きらんとしたりける処に、六手が一度に立とゞまりて、旗(はた)を押立て踸(すゝみ)ければ、敵も帰され而徐呷(やうやくあぐみ)而見へければ、猶侑(すゝみ)而あしがるを出し、てつぱうを打かけて、其競(きほひ)に酷(あはて)ずして禅引(しづかに)のきければ、敵もしらみて見へける間、そこを十町斗引のけて又旗(はた)を立て、敵を相待たるていにいたし候へば、敵も脇(わき)へまわすと見へける処へ、早石河はうき守をはじめとして、其外之衆すけ来りければ、坂井左衛門督も押とゞまる。然間氏なほも其寄若見こへ押而、陣之取給へば、各々は新府へ入而陣之取ければ相陣に成。然間六手之大将衆心おくれ之衆ならば、はいぐんもせでかなわざる事なれ共、各々度々之事に合付たる人々の事成。其故三千之人数が千斗は度々の高名、名をあらはしたるこゝはの者共なれば、十万騎二十万騎にてよせくると云共、一合戦づつ花々とせずしては、六手ながらおくまじきそなひに候へば、四万三千之人数をもつて、纔(わづか)三千之内外之者が、七里之道をつかれて、人を一人打せずして引のく事は、上古も今も有がたし。然る処に家康は古【
NDLJP:128】府中に御座被成候つるが、明之日は早新府中へうつらせ給ひけり。然とは申せ共、家康之うつらせ給へ共、御人数は八千寄外は無之と申せ共、日夜之戦(たゝかひ)にも、四万三千之敵に一度もつらは、出させ給はず。然ば氏直仰けるは、是寄古府中を押而郡内へ入而、引取らんと仰ける由を家康聞召而、其儀ならばむかいの原に取出を取而、氏なほ押而とおらば取出へ人数をうつして、合戦を可被成とて若見こにも、むかいの原新府にもむかい之原に取出を被成けり。其日かきあげ斗成されて、夕さりは松平上野者と、大久保七郎右衛門者を指越而、大事之番にてある間、ゆだん仕なと仰被越ければ、松平上野殿寄は松平孫三郎を指越給ふ。七郎右衛門方よりは、大久保平助を指遣(つかわ)しける。次之日は御普請をも丈夫に被成而、其寄は諸手よりも一日一夜がわりに番をしたり。然間大久保七郎右衛門方より、あした方へ申越而、何とぞ才覚をめぐらして、真田を引付給へと申越候へばあしたがさいかくしたり。然共家康御前之さいかくをよく被成而、さなだ安房守方へ具に被仰越候へと、あした方より申越に付而、御はんぎやうを取、七郎右衛門方よりもくわしき事杉浦久蔵に申きかせて、久蔵をしのび而、遣(つかわ)しければ、安房守は即(すなはち)御手に入ければ、あしたの小屋へもひやうらう米をいれけり。此比は小屋も兵粮(ひやうらう)米につまり而、牛馬を喰い而命をつぎける処に、さなだにつゞけられ而、命ながらへたり。然処にさなだとあしたと一手に成而、うすいを取きらんとしければ、氏直滅亡とや氏まさも思召か、含弟(しやてい)之北条之左衛門助殿を仰被付れて、一万余にてぐんないへ出、見坂を越而東郡(ごほり)へ打出、此方彼方(こゝかしこ)に打ちりて、はう火してらんぼうをして、そなひを乱しける。然所に鳥居彦右衛門と、三宅惣右衛門と、伯父姪(をぢめひ)をば古府中之御留すいに、おかせられ給ひけるが、此由を聞寄急(いそぎ)かけ付ければ、おどろきさわぎける処へ、押寄押寄打ければ、こと〴〵くはいぐんして、見坂を指而にげ行ければ、左衛門之助殿もから〴〵の命たすかり給ひて、見坂を指而おちゆき給ふ。然間、彦右衛門惣右衛門両人之手柄云に不㆑及。さて頸(くび)を雑兵(ざふひやう)五百余新府中へつけて越ければ、物見場にかけさせ給へば、敵方是を見て何事をするやらん。寄合而走廻(はしりまわ)りありくとて見ける処に、頸をかけて立のきければ、敵方いそぎ来りて見て帰り、氏直へ申上けるは、何頸やらんこと〴〵数かけて見へ申と申上ければ、何頸にて有ぞ見て可参由被仰ければ、各々来り而見て、是は我が親、是は我が兄、甥、従弟、是は我が伯父あに弟と申而、興を醒し頸をだきかゝへてなきさけぶ。氏直もいよ〳〵是におどろき給ひ而、其儀ならば無事をつくりて合互(たがひ)に引のけべしとて、ぶぢをぞつくり給ふ。然る間ぐんないと作之郡を渡し可申間、然らばぬまたを此方へ御帰しあつて、御ぶぢに被成候へと仰ければ、其儀においては尤可然と被仰候らいて、頓而御ぶぢに成而、まづぐんないを渡し給ひ而、其故氏直はのべ山にかゝらせ給ひ而、作之郡へ出させ給ひ、うすいが峠を越而上野へ出させ給ひ而引入給ふ。家康もかい之国をおさめさせ給ひ而、其寄大久保七郎右衛門を仰被付而、作之郡へ召つかわされ而、御馬は入。七郎右衛門は御うけ申而、午之九月新府を立而、かぢが原にてすわへ使を立而、すわを引付而、ゑんのぎやうじやへ出て、其寄あしたの小屋へゆきければ、【
NDLJP:129】早野ざはの城を明、前山之城を焼きはらいてのきけるに、其城へうつりて有に、四方に一里二里之内に小城屋敷城共に十二三有。こむろ之城、ねつごや、もぢつきのあなご屋、内山之城、ゆわをの城、みゝ取之城、かしわぎの城、ひらはらの城、田之口之城、ゆわむらだ之城、うみの口、平尾之屋敷城、あらこの屋敷城、此城々の中へわり入而、四方へ取合而其内に此方彼方(こゝかしこ)を引付けり。まづ岩村を引付而寄、午之年之内に大方引付而、未之年よだ右衛門は岩尾之城をのり取んとて、押寄而のり入処に、右衛門はてつぱうにあたり而打死しける。舎弟(しやてい)之源八郎もてつばうにあたり而はてけり。兄弟打死をしたりければ其儘(まゝ)引のく。然共敵にしるしは取られず、又七郎右衛門が未之年こと〴〵く城共を取おさめて、天正十二年〈甲申〉之春、上田之城を七郎右衛門が取而、さなだにわたす。
然る処に、同天正十二年〈甲申〉之年、関白殿、御本上に、腹をきらせ給はんと被成ける間、其時御本上家康を奉頼と、被仰候に付而、尤之儀成。是非共に、みつぎ可申、さてくわんばく殿は、むごき事仰候物かな、柴田が三七殿を引申たれば、しばたと、しづがたけにて、合戦して、しばたをたやして、又三七殿を、沼の内海に、おはします処に、現在の主成を、昔之、長田に、たがわずして、三七殿をぬまのうつみにて打奉り、本上をばくわんばく殿のもりたてんと被申て、又世もしづまるかとおぼへば、本上に腹をきらせ申と手、是非にみつぎ申さんと仰ければ、早くわんばく殿、十万余騎引つれ而、鵜沼を越而、犬山へ押出て、こまき山を、とらんとし給ふ処に、家康はやくかけ付させ給ひ而、こまき山へあがらせ給へば、くわんばくも手をうしなひ給ひて、おぐちがくでんに、諸勢は陣取りて、一丈斗に高土手をつきて、其内に陣取成。こまき山には、柵をさへ付けさせ給はずして、かけはなちに、陣取せ給ふ。土手のきわまで、かけ付〳〵して、十万余之人数に、つらを出させ給はず。然る処に、岡崎へ押寄而、城を取物ならば、こまき山も、たもつ事成間敷とて、三好之孫七郎殿を大将として、池田勝入、森之庄蔵、はせ河藤五郎、堀の久太郎、其外三万余にて、天正十二年〈甲申〉卯月八日に、おぐち、がくでんを立而岩崎へ出て、一時之内に岩崎城を責(せ)めとりて、かち時をつくりて有ける処に、家康は三河へ、敵がまわると聞召而、其儀ならば、人数をつかわさんと被仰而、水野惣兵衛殿、榊原式部大輔、大すか五郎左衛門、本田豊後守親子、其外を指つかわされける処に、程なく三好孫七郎殿に押寄而、合戦をしてきりくづし、岩崎を指(さし)而おひ打に打つ。然処にほりの久太郎、はせ河藤五郎岩崎之城を責取而、きおひていたる処へ、おひかけければ、ちり〴〵に乱(みだれ)而、おひける処を、又其寄おひかへされて、おばた迄うたれける。然る処に、小牧山には、本上と坂井左衛門督、石河はうき守、本多中務、其外之衆を、留すゐに置せられ給ひ而、家康は御旗(はた)本衆、井伊兵部少輔斗、以上雑(ざう)兵三千余にて、跡寄押つめさせ給ふ処に、こと〴〵くおばたを指して、にげ入を御覧じて、押よせさせ給ふ処へ、池田勝入と、森庄蔵と、押立て家康へむかひける処に、押(をし)合而之合戦成。其時に、平松金次郎と、鳥井金次郎と、二人の鑓(やり)が相而、程なくはいぐんして、池田勝入をば長井右近がうち取、森庄蔵は【 NDLJP:130】本田八蔵が、打ちたるとはいへども議定せず。其寄も、三万余之者どもを、きりくづし給ひ而、ことごとくおひ打に打取給ひ、いそぎ人数を引上而、おばたの城へ引きいらせ給ふ処に、くわんばく殿、おぐつちがくでんにて、このよし聞召而、いそぎりうせん寺まで押出し給へども、家康御目の、きかせられたる御武辺第一の名大将なれば、そのむねを思召したる間、きり〳〵と、とりまわして、手ばやくおばたの城へ、引いらせ給へば、くわんばく殿も、手をうしなひ給ふ。然処に、小牧山にあひ残坂井左衛門督申けるは、くわんばく殿押而被出ければ、おばた筋之儀を、心元なく存ずれ。是より二重堀を押やぶり而、こと〴〵く陣屋に火をかけて、やきはらふ物ならば、くわんばく殿も、はいぐん可有と踸(すゝみ)給へ共、其比寄、石川はうき守は、くわんばく殿へ心之ある間、其儀不㆑可㆑然とて、はうき守一ゑんに踸(すゝま)ざれば、左衛門督は、手にあせをにぎつて、白泡を嚙みて、いかれ共、はうき守すゝまざれば、打おきぬ。本田中務も、左衛門督と同意なれば、はうき守すゝまぬと見、さらば我等はおばたゑむかひに参らんとて、五百斗にて、くわんばく殿之備之下を、押してとほり、おばたの城へゆきて、御供を申而、小牧山へ来る。敵味方共に、本田中務をほめたり。然間くわんばく殿も、おぐち、がくくでんへ引入り給ふ。然る処に、おぐち、がくでんを引はらつて、すのまたを越而、いもふへはたらき給ふ。家康は、しげん寺へ押出し給ひ而、其寄きよすへ御馬が入る。くわんばく殿はいもふ之城を水ぜめに、せめさせ給ふ内に、かにゑの城にて、前田与七郎が、べつしんのして、滝川を引入ける処に、家康此由聞召して、ぢこくうつしてかなふ間敷と仰あつて、其儘(まゝ)取あへさせ給はずして、かけ出させ給へば、我おとらじとかけける程に、かにへと申は、しほ之さし引の処なれば、ほそ道一すぢにて、わきへゆくべきやうもなけれ共、家康之御いきおひ、一つをもつて即(すなはち)程なくのり付ける。滝川もかなわじと思ひ而、城之内寄舟にのり而、から〴〵の命、たすかり而、ゑ口を指而にげゆく。前田与七郎も、一こたゑ、こたゑ而見てあれども、つよくせめられ而、かなはじと思ひ、女子を一舟に打のり而、ゑ口を指而にげゆけども、のがすべきやうにあらずして、ゑ口にて女房子共、もろともに、のこらず打ころされて汐にうかび而ぞ有ける。さてまたくわんばく殿は、いもふ之城を水ぜめにして、其寄いせへまわり、桑名の上成山に陣取給ふ所に、家康は清須寄、くわなへうつらせ給ひ而、松が島へ、服部半蔵を指つかわされて、しろこへ出させ給ひ、浜田と四日市場に、城をとらせ給ひ而、引入給ふ。くわんばく殿も、其寄引入給ふ。然間、氏直合陣之時之、御無事のきりくみに、氏なほよりはぐんないと、作之郡、諏訪ぐんを渡し可申とて、是を渡しける。家康寄は、ぬまたを御渡し候へと御諚に付而、氏なほ寄は、御やくそくのとおりに渡り申に付而、然ば、ぬまたを小田原へ、渡し申せと仰被越候時、真田申けるは、沼田之儀は上寄も被下ず、我等手がらをもつて取奉る沼田なり。其故今度御忠節と申に付而、其御約(やく)束被成候、筋めの儀も御座候処に、其儀にさへ御手付も無御座候へば、御恨(うらみ)に奉存候処に、賸(あまつさえ)我等がもちたる、ぬまたを渡せと、仰被越候儀、なか〳〵思ひもよらずとて、【
NDLJP:131】渡し不申。其故御主には仕間敷とて、くわんばく殿へ申依る。然処に天正十三年〈乙酉〉之八月に、真田へ御人数をつかわされける。鳥井彦右衛門、平岩主計、大久保七郎右衛門、すわほうり、しばた七九郎、保科弾正親子、しもぢやう、ちく、遠山、大草、甲州せんぼう之衆、あした、岡部次郎右衛門、さいぐさ平右衛門、屋代越中、是等を指つかわされければ、上田之城へ押寄、二の丸迄乱(みだれ)入ける間、火をかけんとせし処に、しばた七九郎かけよせて、火をかけたらば、入たる者共出る事成がたし。火をかくる事無益とてとめけるは、七九郎若げのいたりか、物に合付ざるゆへか、火をかけずしてかなわざる処之火をやめけり。然間其元を引のけ申す時、案のごとく、火をかけて、やき立る物ならば、出間敷敵なれ共、火をかけざる故に、城寄したいて出る。早しきりに付、各々寄弓てつぱうをあとへさげけるに、大久保七郎右衛門内、本田主水、平岩主計内之尾崎佐門に申けるは、佐門何としたるぞ、其元之様子殊外、そないがもめて見ゆるは、いかゞ成と申時、佐門こたへていわく、主水能く見たり。只今迄は、昔之てつぱう之者共が有つる間、よく心得而、人之云事をもきゝ候へば、下知をもなして、そないもさだまりてもめず。其者共は、朝寄ほねをくだきてかけ引したりければ、只今西東もしらざる物に合付たる事もなき者共を、かわりに越たれば、あわてふためきて、げぢを云にも、耳にも不入して、事おかしくあわてたる事に候へば、げぢにも付不申間、爰元之儀は、其方など見られ候分に候へば、只今にげちり可申間、佐門は是にて打死を可仕候間、若其方之命ながらへ而、引のき給はゞ、佐門が申つる由、主計によくかたりてくれよと、云もはてざるに、はやはいぐんしたりければ、佐門はことばの如く、場をさらずして、打死をしたり。鳥井彦右之者共は、一段高き所を引のきけるに、戸石之城寄出而付、是もきつ〳〵と付ければ、早ならざる間、ご見孫七郎が、人にすぐれてはしり出、鑓をくり出し、ひざぐるまにのせていたる処へ、敵おふぜい押かけければ、つつたちて、おふぜいの者共と、花々とつき合而、場もさらず、うたれければ、其より彦右の衆は、はいぐんしたり。七郎右衛門者は、乙部豆吉、本田主水両人弓、くろやなぎ孫左衛門てつぱうにて、押合而のきける。此外にも十二三人可有けれども、跡には此者共がのきけるに、乙部豆吉が一之矢をはなして、射外(いはづ)し、二の矢をつがはんとしたりける処を、早突きふせて打処を、くろやなぎ孫左衛門が、立はだかりて、てつぱうにて豆吉を、打者をはなしてのきければ、其よりこと〴〵くはいぐんして、諸手之衆が四五町之内にて三百余打れける。大久保七郎右衛門は、賀ゞ河迄引のきけるが、鳥井彦右衛門者共が、くづれて来るを見て、其方へむかひ而、一騎帰しける間、其付而大久保平助馬寄飛んでおりて、やりをひつさげ而帰しける。七郎右衛門は、金のあげ羽之蝶の羽のさし物にて、かけまわりければ、さし物を見て、頓て旗をも押寄ける。にげちる者もかけよせ而、河原にこたへける。平助は銀之あげ羽之蝶の羽之九尺有さし物をさして、むかひける処へ、くろき具足をきて、やりをもちて押込みて来る者を、つきふせ而、頸をばとらずして、よせくる敵をまちかけいたる処へ、さし物を見かけて、松平十郎左衛門来る。【
NDLJP:132】次に足立(あだち)善一郎来る。次に木之下隼人が来る。其寄大田源蔵、松井弥四郎、天野小八郎、戸塚久助、後藤惣平、けた甚六郎、ゑざか茂助、天がた喜三郎、是等が、平助いたる処へ来りたれば、是等を引つれて、上のだいへ押上けるに、敵も防ぎけるが、ことともせずして、押上ける処に、めてはさなだが旗本、弓手と向(むか)ふは五間六間之内に、こと〴〵く敵がひかえていたる処に真田(さなだ)が内之へき五右衛門が弓手之方寄、此者共がならびいたる中を、敵としらで通(とをる)処を、平助が見て、それは三つまきをせざるは敵にて有ぞ、それつきおとせと云ければ、八幡へき五右衛門にて有ぞ。敵にはあらざると申ければ、平助云、へき五右衛門と云に、つきおとせと言時、足立善一郎が、はしりかゝりてつきけるが、鞍の後輪へあたる。五右衛門が共に来る者が、やりを取なほして、善一郎を少つく。然処に大久保平助前へ来るを、胴(どう)中と思ひ而つきければ、五右衛門に付たる者共が、やりを四五本もちけるが、二三本にて平助がやりを、からみてなげければ、なほして、つかんとする間に打とおる。けた甚六郎が前へゆきける時、又平助云、甚六郎それつけといゝければ、はしりかゝりてつきけるが、是も追ひさまなれ共、肘(ひぢ)のはづれ之腰わきにあたらん。然間へき五右衛門が申は、河中島衆之早くすけ来りたりと思ひ、味方と心得て、敵之中をとおりける処に、大久保七郎右衛門弟の平助に、つかれたると云ければ、平助云は、いや〳〵我もつきはついてあれ共、我が突く鑓はまげられ而、五右衛門にあたらず。けた甚六郎とて七郎右衛門者が、やりがあたる成。我にはあらずと云けるが、五右衛門は、平助につかれたるといへば、おぼへと心得而云けれ共、平助はつかぬと云。然間敵之中へ入而味方が帰しくるかと見ける処に、十七八なる童が一人、敵としらずして来りけるを、天野小八郎がつかんとしける処を、平助が見て、せがれにて有ぞ、むごきにゆるせとてゆるさせける。今思ひ合せ候へば、是等ほどよき高名は有間敷物をと、平助も若げのいたりにて打せず。坂井与九郎高名も其の時之高名を、御旗本にてはくづれくちの高名と云て、世にかくれなきやうに申共、一つ時之高名にて候つるが、与九郎高名は七郎右衛門旗之立たる処をしらでかけ入たる者なれば、味方の中にて打たる高名成。小八郎に平助が無用と云たる場は、与九郎高名の場寄一町程敵之中へ行過、敵の中にての事なれば、高名をせでさゑ此者共には、高名したる衆之口は開(あか)ざるに思へば、其時討すべきを然間敵之中にて味方の帰すかと見ける処に、何かはしらず、廿騎斗本道を石橋之方へ帰してくると見て、平助は其寄むかうの敵にむかひ而、帰し来る衆と一手にならんと思ひ而、押こみてゆきける処に、一度に行ける者共は、其時は一人も来る者なき所に、天方喜三郎斗来る。然間帰し来る馬乗を見てあれば、一人も見しりたる人なし。其時喜三郎是寄はゆく間敷ぞ、見しりたる者は一人もなし。只今此者共はくづれべきと申もあへざる処に、我さきにと迯げ行く。もとより敵は五六間之内にひかへたる事なれば、ほどなく乗り付けり。石橋之有ける処にて、天野金太夫と小笠原越中と、なみきり孫惣と、両三人がことばをかわして申は、平助が是をのく程に見捨てまじきとて、平助に詞を孫惣がかけける。見すてまじきと云けれ【
NDLJP:133】ば、三人は馬にのりたり。平助はおり立而、徒歩(かち)なれば、いらざるをかしき事ないひそと云てのく。大久保七郎右衛門は、平岩主計がそなひへのり入而云けるは、貴殿のそなひを河を越而、われ等がそなひのあとへ押付給へ。敵之人数之纒らざる内に、我等がきつてかゝるべし。然時んば一人もやるまじきと申せば、中々主計返事もせず。七郎右衛門重而云けるは、川を越事成間敷と思はれば、せめて河のはた迄そなひおろさせ給へ。我等かゝり可申と申けれ共、其儀もならざれば、七郎右衛門はらをたちて、日比其かくご成人なれば、ちからもなきあさましき事とてのり帰し而、又鳥居彦右衛門そなひへ行而申は、平岩主計方にそなひを河のはた迄おろし給へ。然者敵之人数ちり〴〵成内に、我等がきつてかゝらんと云けれ共、震慄(ふるい)まわりて物をもゆわず。然者彦右のそなひを我等そなひのあとへ押出し給へ。敵之人数ちり〴〵にてまとわぬ内に、我等きつてかゝらんと云けれ共、鳥居彦右もことばをも不出して有ければ、其儀ならば河越事をいやとおもはれば、河のはたまでそなひをおろさせ給へ。我等がきつてかゝるべし。せめてあとをくろめ給へと云けれ共、返事もなければ、何れも下戸に酒をしいたるふぜいなれば、ちからもなし。日比之存分之ごとく成とて立帰り、又ほしなのだん正方のそなへへのり入而、御身のそなへを河のはたへおろし給へ。然者敵のまとまらざる内に、我等がきつてかゝるべしと云ければ、是は猶もふるゑて返事もなければ、あつたら地行かなと云すてゝ帰る処へ、平助が乗り迎ひ而、河むかひの敵が河をこしたらば、此ていにてははいぐん可有と見えたり。てつぱうを河のはたへ出させ給へと申ければ、七郎右衛門物もいはずして手をふりければ、手をふりてはかなふまじきに、はや〳〵てつぽうを出させ給へと申ば、其時七郎右衛門たまくすりがなきぞと言ければ、たまくすりのなきとは何としたる事ぞや、はや〳〵出させ給へと云ければ、其時せがれめが何を云。こと〴〵くこしがぬけはてゝ出んと云者一人もなきぞ、こしがぬけたると云へば、諸人のよわみ成に、たまくすりがなきと、云物なるぞと云ければ、平助も其儀ならばとて、かはらへのり出して帰る。され共敵も河を越さずして引入ければ、相互(たがひ)に引。然間明之日はまりこの城へはたらかんとて、ちぐま河を越而八重原へ押上ける処に、さなだは是を見て、うんのゝ町へ押出して、八重原之下を一騎打に、手しろづかまではたらきければ、大久保七郎右衛門が是を見て、しばた七九郎をつかいにして、鳥居彦右衛門方と、平岩主計方へ申越ば、両人之旗をちぐま河のはたへ押おろさせ給へ。然者岡部次郎右は若く候へば、よた源七郎と、すはと我等がむかつて、中を取きりて、ねつ原へおひ上而、一人ももらさず打取べきと申けれ共、両人之衆一ゑんにすゝみ不申。されば七九郎も手をうしない而立帰り、七郎右衛門に語ければ、如存知左様に可有。然者河のはたへ出させ給ふ事ならずば、此の山さきまで押出してあとをくろめ候へ。兎角に我等がかゝり可申と重而申ければ、両人ながら七九郎にも出合給はず、七九もはらを立而此由七郎右衛門にきかせければ、七郎右衛門はこの内之鳥をにがしたりとて、手をうしないて有けるが、重而又御越候へ而給候へと申け【
NDLJP:134】れば、其時七九郎七郎右衛門にはをかけ而申は、どれ〳〵とてもげこに酒をしいたるごとくに武辺之方をしいればとて、しいたよりもあらざるに、重々千度百度行たればとて、かたが可付か、天日あつきとてかきがみをかぶりて、我等にも不出合して、臥りて有にいらざる事を被申候物かな、あのていに候はゞ、出たり共やくには立まじければ、ほしなだん正親子と右之両人をば有なしにして、其方と我等計成共、出ば出させ給へと被申ければ、源七郎も幼少成、岡部内前もやうしやうなれば、御身と諏訪と我等三人して、進む所にあらざれば、無是非とて打おきぬ。然る所にまりこへはたらきて、八重原に陣取ければ、さなだも押帰して相陣之取ける。然る処に岡部内前之物見番之時、さなだ親子足軽之中へ打まじりて、手ぎつくせり合けるが、岡部内前には、駿河先鋒のこゝわの者共あまたあつまりければ、事共せずしてあひしらいける。其時七郎衛門又もやこりずして、鳥居彦右衛門方と、平岩主計方へ申被越ける。さなだ親子あしがる場へ出而、かけ引をしたると見えたり。ねがうに幸の処へ出たれば、両人の旗を我等が陣場迄出させ給へ。然者内前之手まへは引はなされば成間敷候へば、内前を一番にして、其あとへ我等が押つめて、合戦をするならば、さなだ親子をばとてもあの坂をばあげ間敷、打可取と度々のつかひを立けれ共、中々返事もせざれば、日比の事はしりてあれ共、か程とはしらず、もつけかな〳〵とて打返ぬ。岡部内前斗にても追ひ不被立して、対々にして有つるに、各々出たらば手に物はもたすまじき、千兵はもとめやすし、一将はもとめがたしとは今思ひ合たり。二人之心をもつて勝利をうしなひ給ふ。殊更何れもの手はよき事に会か又あしき事に会か、何様に此度手にあはざる人は一人もなけれ共、ほしなだん正は、よき事にもあしき事にもあわざれば、たぐいなき武者下戸と見へたり。然間此衆ふるひまわりたる故に、いよ〳〵敵もきをもちければ、相陣ののきかね而、重而御かせいを申うけて引のきて、各々ははつまがそりに城を取給ひと、よだの源七郎は天神林に行而、おさいにおりければ、其時も大久保平助にてつぼうを相そへてかせいに越たり。各々ははつまがそり寄引取給へ共、大久保七郎右衛門者こむろの城にとゞまりける処に、天正十三年〈乙酉〉の暮に石河ほうき守逆心をして、女子を引つれて岡崎寄引のけける。上には岡崎へうつらせ給ふ。大久保七郎右衛門にも、さう〳〵罷上候へとこむろへ日々に重々飛脚立けれ共、七郎右衛門いそぎて上ならば、上方は乱(みだれ)而早七郎右衛門も落行と云ならば、爰元も乱而一揆も起き而あらば即さなだも偣(よせかくる)者ならば、相違なくとらるべし。其ゆゑ越後に信玄御子に御せうどう殿と申而、御目の見えざるの御入候ふ。是親子を甲州へ入奉んやうに申而、是を何とかと心がけたると、さたの有様に申候へと、何となく申様に候へば、自然左様之儀も有らば、甲州迄も乱而可有、左様にも有ならばいよ〳〵御負けに可被成候間、爰元を少見合而罷可上と申而有とは申せ共、重々仰被下候へば、其儀ならば誰ぞのこしおきて罷可上と申而、御地行を申上而可出に、誰居よ彼居よと申せ共、御地行ののぞみ処にあらず。石川ほうき守ぎやくしんの故は、親女子のゆくへもしらずして、のこり所にあらずと【
NDLJP:135】各々申はらつていたり。七郎右衛門は其儀ならば是非に不及、各々は帰り給へ、我等が是に可有と云ければ、各々申は、たとへば親女子はつれ申共、我等共斗罷帰る事は中々有間敷、何方へもともかくも御貴殿次第と申。七郎右衛門はたれに申而もがつてんなし、然者平助是に有而くれよかしと被申ければ、我等もいづれも同前に候。ほうき守いられ候う膝の下に、母と女房をおきて、とられたるもしらざるに、御地行を申而、くれんなどといはれ而、跡にとゞまる者哉可有か。其故爰元之様子をも御らんぜ候ごとく、命ながらへて帰り而、御地行申うけ申事かたし。其故ほうき守ぎやくしんの故は、定而おほかたの儀には有間敷ければ、上而も死するとゞまりても死ずる、とてもしする物ならば、御旗先にて討死を可仕候。同命をまいらせながら、爰元にて果て候はゞ、人もしり申間敷候へば、幕の内之討死に候。其故母之儀は、御方にも母、次右衛門、権右衛門にも母にて候へば、我等一人之母にあらず。我等こそあらず共、両三人之御入候へば、思ひおく事はなけれ共、女房之行へもしらずして、其故命不定成処にて御地行ののぞみ処あらず。御地行は閻魔王の御前へさゝげ候はん哉、何と仰候共とゞまり申事は中々思ひよらず、ふつつといやに候。其時七郎右衛門申は、其方が被申候所げに〳〵左様に候。母之儀は子供あまたあればあんずる事なし。女子之儀はほうき守ちかくにおきたるに、何と成たるもしらずして御地行ののぞみ処にあらざると被申候事、其の儀は尤道理きこえ而候。其儀は我等あやまつたり、かんにんせよ。然者何の望もなく、命をすてゝ是に其方とゞまりてくれよかし。其儀にあらざれば、我等のぼり申事ならざる間、偏に頼入と被申ければ、其儀ならば心得申候。地行にたづさわりてならば、中々にかくごに不及候へ共、何かなしに命をすてよと仰候処を、いやとは不被申候間、さう〳〵一時も早くいそがせ給へと、重々の御意に候に、爰元之儀あんじ給ふなと言て、早早と申て暇乞(いとまごひ)してのぼせて、我は酉(とり)之八月より戌(いぬ)之正月迄とゞまりける。然共ほうき守させる手立もせずして引のきける。
然る処に、天正十四年頗之月、尾張内府家康へは御さたもなくして、関白殿へ無事をつくらせ給ふ処に、くわんぱく殿よりして、尾張内府早ぶぢに被成候間、家康も御ぶぢに被成候へと、仰被越ければ尤の儀なり、大ふの頼被申候へばこそ手ぎれは申たれ、大ふさへ一身被申候はゞ、我等においては仔細なしと仰つかはされければ、其儀におひては忝存知候。然者べつして申合可申ためなれば、我等の妹(いもと)を可進とて其御定を被成て頓て御輿を入給ひて、御姉婿(いもとむこ)殿に被成ければ、此故は上洛をせずしてはかなわざる事なれば、然者御上洛可被成と御意の有ける処に、坂井左衛門督被申けるは、御上洛の儀共さりとはゆわれざる思召立にて御座候。菟角に思召とゞまらせ給へ、御手ぎれに罷成候うとても、是非に及ざる儀共なりとしきつて被申上ければ、各々諸大名衆も右衛門督被申上候ごとく、御手ぎれに罷成申とも菟角に御上洛の儀は分別に及不申候。何と御座候へても、今度の御上洛は是非に思召とどまらせられ可被成と、各々もしきつて申上給へば、左衛門督をはじめ各々は何とて左様には申ぞ。我【 NDLJP:136】一人腹を切て万民をたすけべし、我上洛せずんば手ぎれ可有。然共百万騎にて寄くる共、一合戦にて打はたすべけれ共、陣のならいはさもなき者なり。我一人のかくごをもつて民百姓諸侍共を山野にはめてころすならば、其亡霊のおもわくもおそろしき。我一人腹を切ならば諸人の命をたすけおくべし、其方などもかならず何かの儀不申共、わび事をして諸人の命をたすけおけと被仰ければ、左衛門督も左様にも思召に付ては御尤なり、御上洛可被成之由申被上けるを、さすがにおとなの御返事には似相たりと申ける。太閤者御上洛之由を聞召て、其儀ならば忝存知候。左様にも思召ならば、若御用心之儀も思召可有候へば、母にてまします人を岡崎迄質物に可遣と被仰て、御老母之政所を岡崎迄御越被成ければ、其迄に及不申忝と被仰て、井伊兵部少輔と大久保七郎右衛門にあづけおかせられ給へば、人じちの御越有て、諸人も大いきをつきてよろこぶ。御上洛有ける時兵部と七郎右衛門を召て被仰けるは、若我が腹を切ならば政所をがいして腹を切可有者なり。我腹を切たり共、女共をばたすけおきて帰すべし。家康こそ女房をがいして腹を切たると有ならば、異国迄の聞えも不㆑被㆑可㆑然、末世の云つたへにも可成、然時んばまん所をばがいし奉れ。かならず女共に手さし有間敷と仰おかれて、御上洛被成けるに、何事もなく御帰国被成ければ、各々上下共に目出度と申よろこぶ事かぎりなし。然間政所も御よろこび有て御上洛被成けり。然共六ヶ敷や思召けるか、其後に御毒をまいらせんとて御ふるまいの時被遣けるに、大和大納言とならばせ給ひて上座に御座被成候つるに、御運のつよきによつて御膳の出る時御しきだいを被成て、大和大納言殿を上座へ上させ給ひて下座へ居替らせ給ふゆゑに、其御膳が大和大納言殿へ据りて、家康のきこしめされん御毒を大和大納言の参てはてさせ給ふ。さて其後年々御上洛被成けるに相違もなし。
天正十八年〈庚寅〉三月廿八日小田原の御陣立なる。うき島が原へ押出してさうが原に御陣の取せ給ひ、にら山の城へ人数を指越給ひて責させ、其よりはこね山をひらおしにあがりて、山中の城をとをりがけにのりおとして、太閤の御旗(はた)はむじりがとうげに打あがらせ給ひて、石かけ山に御陣のとらせ給ふ。家康はみやぎ野へかゝらせ給ひて、くの原へ出させ給ひ、其よりいまい、いつしき、浜の手をうけとらせ給ふ。思ひ〳〵に山々をのり越て城を取まきけり。関東へは加賀、越前、能登、越中、越後、信濃衆を引つれて、加賀大納言、うへ杉景勝の出給ひて関東の城々をのこらずうけとりて小田原一城になす。然る所に早松田尾張もべつしんのくわ立けり。みな河山城も城よりかけおちをしければ、城中も早成間敷とてぶぢのあつかいにて落城する。其上にて氏政と奥州(あうしう)と兄弟に腹をきらせ申て、氏なおと、安房守と、美濃守と左衛門助をばたすけ給ひて高野山へやり給ふ。さて又家康は国替可被成においては関東にかへ給へ、いやに思召ば御無用なり。何と成共御存分次第と被仰ければ、尤かへ可申と被仰て三河、遠江、駿河、甲州、信濃五ヶ国に、伊豆、相模、武蔵、上野、下総、かづさ六ヶ国にかへさせられて、関東(くわんとう)へ〈庚寅〉の年うつらせ給ふ。其より太閤は御馬が入、天正十九年〈辛卯〉七月日、くわんぱく殿大将【 NDLJP:137】はして奥州(あうしう)陣有りて家康の御旗(はた)は岩手ざわに立。然間奥州もこと〴〵くおさまりて関白殿は板屋越を被成て米沢(よなざは)へ入せ給ふ。家康もよなざわへ御越被成て関白殿と其より御帰国。
然間文禄元年〈壬戌〉に高麗陣とて、太閤の御馬も名護屋に立ける。家康の御馬も名護屋に立ける。諸勢は高麗国へ立けり。辰の年御出馬有て、午の年の八月御帰国なる。然るあひだ其後に関白殿御むほんの由仰被出て聚楽の城を取出、高野山へおくり奉りて御腹を被成けり。其後御手かけの女房衆あまた三条がはらへ引出て、かうべをはねて一つあなに取入て畜生塚と名を付てつきこめ給ふ。然る処に太閤は慶長三年成八月十八日に御年六十三にして朝の露ときへさせ給ふ。然共各々寄合給ひて七歳に成給ふ秀頼を寵愛有ける。中にも内大臣家康を太閤の頼奉らせ給へば、取わけての御てうあひ成ける。然る処に各々諸大名衆寄合て内府の御仕置なれば我々の存分にあらずと思ひて、諸大名一身して家康へ御腹を切せ申さんと申合ける処に、伏見より大阪へ御見舞にうつらせ給ふ時、よき時分と心得たる処に、此由を藤堂佐渡が心得て、今夜は先我等所に御座可有由申上て、我所にて用心きびしくし奉りける処に、伏見にのこる御普代の大名小名夜がけにしてかけ付ければ、早成間敷と思ひて知らず顔していたれば、城へいらせられ給ひて秀頼にたいめん被成て伏見へかへらせ給ふ。然共此儀思ひとゞまらずして、又伏見にて早大方敵味方見へわかつて有様に有りけれ共、取かくる事はならざる所に、大阪より加賀大納言遅し速しと来らせ給ひて、兎角に向島へうつらせ給へと仰ければ、むかひ島へうつらせ給ふ。其よりこと〴〵く気(き)をちがへて我も〳〵と申わけして、後には石田治部少輔一人に掛けて、後には寄合て治部に腹を切せんとする処に、家康御慈悲におはしましければ、各々治部をゆるし給へと被仰けれ共、各々きかざれば、其儀ならば石田は先さお山へ引入て可有由を仰被出けれ共、道へ押かけて腹を切せんと各々申由を聞召て、然者中納言おくれと御意の出ければ、越前中納言様の送らせ給へば、相違なく石田はさお山へ行ていたりけり。然共治部少輔は此御おんをかたじけなきとはおもわずして、心中には謀叛(むほん)のたくむ事計なり。然間会津の景勝(かげかつ)は国へ暇(いとま)申てくだりけるが、其後召共来らず。其儀ならば打取らんとて、家康の向わせられ給へば、北国、中国、四国、九国、五畿(き)内、関東、出羽、奥州迄残所なくあひづ陣へぞ立ける。然間都を立て、先陣はなす野の原へ押出せば、後陣は未尾張、三河、遠江、駿河をおすも有り。古河、くりはし、小山、宇都宮に陣の取、古河には家康の御旗が立、宇都宮には将軍様の御旗(はた)が立。然処に、石田治部少輔謀叛をおこして、安芸の毛利、島津、あんこく寺、小西摂津守 増田右衛門督、長束大蔵、大谷ぎやうぶのせう、にわの五郎左衛門、たち花左近、金吾中納言、ぎふ中納言、うき田中納言、長宗我部(てうすがめ)、小田の常真、其外大名共が跡にて敵になり、伏見の城を責取て松平主殿助、松平五郎左衛門、鳥居彦右衛門、内藤弥次衛を討取、かち時をつくりて大津の城をせめ、あをのが原へおし出す。東にては景勝、佐竹義宣、真田が敵になる。然間あいづの御陣の御やめ被成て、上方へきつてのぼらせられんと被仰ける処に、本田中務、井伊兵部少輔御内談【 NDLJP:138】被申けるは、上方へ上らせ給ふ儀は如何に御座候。先此地を御しづめあつて其故きつてのぼらせられ、御尤かと奉存知候儀は如何御座可有と被申ければ、言語同断なる儀を申者共かな、我せがれより弓靱を付て度々の事に相付て有物を、磯をせゝりていかゞせん。大場へ押出して一合戦してはたすべし。早早汝共は罷上給へと被仰て、御先へこと〴〵く御人数をつかわされければ、先ちまつりにぎふの城を責(せめ)取ける。其手にのらざる衆は合渡(がうど)へ押かけて、がうどの敵をきりくづしておひ打に打て、其よりあをのが原へ押上て陣の取。敵は大がきを根城として、柏原、山中、ばん場、醒井、垂井、あか坂、さを山迄取つゞく。敵は十万余可有か、味方は四五万も可有か。家康御出馬なき内に合戦をいたす物ならば、自然勝事も可有に、せでかなはざる処をのばしける処へ、慶長五年〈庚子〉九月十四日にあをのが原へ押寄させ給ひて、同十五日に合戦を被成て、金吾中納言うらぎりをしてきりくづさせ給ひ、ことごとく大たに刑部少輔をはじめとし、不残追打に打取せ給ふ。さを山の城をのりくづして火をかけて、治部少輔が女子けんぞく一人も不残やきころす。石田治部、あんこく寺、小西摂津守、両三人はいけ取て京、大坂、堺を引渡して、後には三条かわらにてあをやが手に渡りて、かうべをはねられて頭を三条の橋のつめにかけられたり。なつか大蔵をはじめ、其外しよ大名の頭をば百姓共が所々にてきりて来る。うきだの中納言殿をも生取て来りければ、八丈ヶ島へ親子三人ながさせ給ふ。ました右衛門督は命をたすけおかせられ、岩付の城にあづけられて命ながらへたる斗にてあさましくぞくらしける。あきの毛利はおとなにて有る。吉川が宵に御内つうを申上、十五日の日は是もうらぎりの心にてむかへていたるにより、命もたすかり主の国をもあげて、安穏(あんをん)にして御じひふかきによりて、毛利には周防(すはう)と長門両国を被下けり。島津には、薩摩(さつま)日向(ひうが)是両国が本領(りやう)なれば下おかれける。には五郎左衛門は上様への御ぶ沙汰にはあらず、指むかひ申たる加賀の筑前(ちくぜん)に付申事のめいわくさのまゝ、御敵を申めいわく仕たりと申に付て、命を御ゆるされ被成て、其後召出されて少の御地行を被下けり。立花之左近は膳所の城を責て御敵申さる者成を、命を御たすけ被成候儀さへばく大なる御おんに候に、召出されて過分の御地行を被下て、御用に罷可立者と御意之候儀は、平人のふんべつに不及、先(まづ)指あたつて御用にたゝざるは御敵を申たるが一せう、其故御用に罷立間敷と思召ても、今度御敵を申さぬ人は重ても御用に立事は治定なるに、何れも〳〵御用に立たる衆より立花におゝく被下候儀は、御敵を申上たる御褒美か、然る時んば御敵を申せば地行をもとる物か。此度の御取合には池田三左衛門と福島大輔(ふくしまたいふ)と両人が頭をふりたらば、関が原迄出させ給ふ事は成がたけれ共、三左衛門は家康の御ためには婿(むこ)殿にておはしませば、御みかたなくてもかなはざる御事なり。福(ふく)島はさりとは思ひきりて御味方を申。きよすの城をあけて渡し申事はたぐひすくなき御ちうせつなり。然る所に将軍様は宇都宮より御立被成、中道にかゝらせ給ひて押て上らせ給ひける処に、さなだが城へとをりがけに打よせさせ給ひける。将軍様御年二十二の御事なれば、御若く御座被成候につきて、本田佐渡をつけさせたまひて御供させた【
NDLJP:139】まふ。なにかの儀をもおの〳〵にまかせずして、佐渡一人して指引をしたりける。佐渡がさなだにたぶらかされて、我はの顔して五三日日をおくりける。何事も各々は佐渡次第と被申て罷在間、佐渡がはからひも隼(はやぶさ)の指引こそよくも可有、武辺のしたる儀は一代に一度もなければ何かよからんや。然間二三日もおそく付せ給ふ。何時も何事に付ても、其道々にえたる者に指引をばさせてならでは、事のゆくべきにあらず。佐渡が我があしくしたるとはいわずして、後にはしらずがほしていたれ共、何事も皆(みな)佐渡が妨(はからひ)なり。其時繰引(くりびき)をしたり、是も佐渡がかうしやぶりにてくり引をして、後には我が利口に云けれ共、人々は佐渡がくり引とてわらひける。くり引と云事はあれ共、つひにくり引に合たる者はなくして、佐渡がをしへてはじめて各々もくり引に合たり。くり引に不及、敵が城より出たらば、おつ取〳〵おひ入て付入に城をとらんとはおもはで、さても〳〵佐渡はくり引はしたり。さて又さを山にて先ぜいに追付せ給ひ、其より伏見へ移らせ給ひて、押て大阪へうつらせ給ひけり。秀頼に腹を切せ給ふかと各々存知ければ、御じひなる上様にて、帰て後には将軍様の婿殿に被成ける。
然る間慶長十九年〈甲寅〉之年秀頼諸国のらう人を抱へ、分銅をくづして竹をわりてそれへ鋳流(いなが)して、竹ながしと名付てらう人共にとりくれて、十万余ふちせられると家康聞召て、其儀ならば秀頼の御ふくろを江戸へ下給へと仰つかはされけれ共、思ひ不寄と御返事有ければ、其儀におひては国をも可進に、大阪をあげて国入をし給へと被仰けれ共、其儀も思ひ不寄とていよ〳〵諸らう人をかゝへてふしんをして、てつぽうをみがき矢の根をみがくと聞召て、其儀ならばべつしんかと被仰ける。秀頼もりの片桐市之正異見の申けるは、なにかと被仰候御時分にあらず、兎角に何と成共家康の御意次第に御したがい被成て、御ふくろ様を江戸へ御越被成て御尤と申上げれば、大野修理、同主馬之助、同道けん、さなだ左馬助、明石掃部、其外のらう人共が寄合て申けるは、菟角に御ふくろさまを江戸へ御越被成候儀はいらざる御事に候。市之正は家康のかたんを申候へば、市之正を御せいばいあれと申に付て、市之正はすいたへ引のけける。さては謀叛におひてうたがひなしとて、東は出羽、奥州、関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後、日本に残無所大阪へ押寄せける処に、大阪よりは河内摂津国の、堤をきりて水をはゞませ、道をあしくしたりければ、家康、秀忠、御親子様は都(みやこ)を御出馬あつて、諸せいは奈良口をほうりう寺、だうめう寺、平野へ出させ給ひて、相国様は住吉に御陣の取せ給ふ。大将軍様は平野に御陣を取せ給ひて、岡山へ御陣を取よせ給へば、相国様はすみ吉より天王寺へ御陣のよせさせ給ひて、ちやうす山に御陣の取せ給へば、諸ぜいは城を取まく。然所に城よりは、天ま、せんば、野田、福島、かわ田が城迄指出てもつ。然所に蜂須賀阿波守、かわだが城へ押寄てたゝかいけれ共、取事のならざれば、石河主殿頭横矢にかゝりきび敷せり合て、ふかきゑ河を脇立頭(わきだてくび)立にてとび入〳〵越て、攻かゝりければ、たまらずしてあけてせんばへ引入処に、蜂須賀のり入、次の日せんばをあけける処に、石主殿頭のり入て、せんば橋迄押寄て【 NDLJP:140】橋を越んとする処に、敵はこさせじとすれ共、あたりの衆主殿頭処へすける衆一人もなければ、敵は是を見てあたりのてつぼうをあつめて打立けれ共、事ともせずして良久しくたゝかいければ、相国様聞召て、あたりの者共はすけずして主殿をばすてころすか。主殿は何とて目もあかざる処へ押寄けるぞ。さう〳〵引のけよと重々御使ひの立ければ、其儀ならばとて少引のきて小口をかためていたりけるを、天下にかくれなく申ならしたり。相国様も大将軍様も両日の手がらを御感被成けり。さて城を四方より取つめ、高く築山を築て大筒をかけ、又は江口をつききらせ給ひて、天ませんばの河をほし、天地をひゞかせ攻させ給ふ。然る処に越前少将様と井伊掃部と乱入んとてほりへとび入どいをのり、既(すでに)のりいらんとしたりけれ共、あたりの衆一ゑんにかまひもなく見物したるふぜいなれば、敵は此由を見るよりもあたりの虎口を指置て、おりかさなりてふせぎければ、乱入事もならずして引のきける。ひるゐなき仕合不申及。然る処に城も成間敷と心得てあつかいに成けるは、此儘ゐなりにゆるし給へと申ければ、相国の被仰様には、其儀ならば惣かまいをくづし給へ。其儀においてはいなりに指おかれ給はんと御意なれば、尤とおうけを申てぶぢに成ければ、おそしはやしと乱入て惣かまいのへいやぐらをくづして、一日之内に日本国の衆が寄合て一日の内にほりを真平に埋めて、次の日は二の丸へ入て二の丸のへいやぐらをくづし、石がけをほりそこへくづし入てまつたひらに埋めさせ給へば、秀頼もしよらう人も、もろ共に惣がまいと申つるに、二の丸までか様に被成候う儀共はめいわく仕と申せば、もとより惣がまいと申つる。たゞし本城をばやぶる間敷と申しつるによりて本城はやぶらず。其段になれば物をもいわせずしてうめさせ給ひて、相国様は御先へ京とへ御帰馬被成けるに、大将軍様御跡に残せ給ひて御しをき共被成、五三日御跡に御帰京被成けり。此故は秀頼重而手を被出候共御心安と御意被成、御親子共に卯の正月、駿河関東へ御帰国被成ける処に、二月は早秀頼手かわりの由つげ来る。然る処に手出しに堺の町をやき而手を出す。大野主馬、さなだ左馬頭、明石掃部其外の者共が申けるは、京とをやき払い、大津をやきてせたの橋をやきおとし、其より宇治橋をやきおとして奈良をやくべしと申処へ、早相国様の御馬が京とへ付、押付而早江戸より夜日についで押つめさせ給へば、大将軍様もつゞいて伏見へ御付給へば、秀頼の思召事もかなわず。然る処に、ふる田織部は京とをやき立申さんと申て秀頼と内通申処に、あらわれて其くみのもの迄あらわれ、東寺にはりつけにかゝる。古田織部は御せいばい成されける。其ほかにも御せいばい人おほし。かるが故に、慶長八年
〈癸卯〉〈[#「癸卯」は底本では「癸」]〉五月五日に京とを御出馬被成而、同六日にどうめう寺ぐちへ後藤又兵衛をはじめとして各々出ける処に、たつ田ぐちより出給ふ衆、越後のかづさ守様、政宗、松平下総守、水野日向守、此衆に出合而、松平下総守、水野日向守、指合而両手の前にて合戦してきり負けて、後藤又兵衛は打れける。其外はいぐんしておひ打にせられ大阪指てにげ入。平野筋へは木村長門が出けるが、井伊掃部と藤道和泉と両人指合而、両手にて合戦して木村長門を打取ければ、大阪指而はいぐんしたる処を、おひ打に打けれ【
NDLJP:141】ば、のこりは大阪へにげ入、しぎ野筋へは榊原遠江がおひ打にしたり。然る間同七日には、御両旗(はた)にて押つめさせ給へば、真田左馬之助は天王寺ゑ押出しける処に、大将軍様押寄させ給ひ而御旗本にてきりくづさせ給ひける。大将軍の御手柄広大無変なり。然る所に城に火がかゝりければ、大阪内が町迄一間も不残やけはらいけるはふしぎなり。然る処陣(いくさ)すぎて後に味方くづれこそしたり。然る間秀頼は天主に火かゝりて、千畳敷もやけければ、山里ぐるわへ御ふくろ女房たち引つれ而御入有処に、井伊掃部を仰被付ければ、大野修理罷出て、御のり物を二三でう給候へ、罷可出と被申候由申ければ、御ふくろ斗のり物にて出給へ。其外は馬徒歩(かち)にても出給へと被申ければ、何かと言而出かねさせ給へば、其儘(まゝ)てつぱうを打こみければ、かなわじとや思ひ給ひけるや、火をかけてやけしに給ふ。御供には大野修理、真野蔵人、はやみかいの守、是は秀頼の供をして腹を切てやけしする事たぐひなし。野々村伊予守は行方なし。伊藤丹後守は秀頼さい後の場をはづし、さまをくゞりて出けり。大野主馬、千石惣弥は行方なし。長宗我部(ちやうすがめ)と大野道けんは、落ちて此方彼方(こゝかしこ)さまよひありく所に、長宗我部をば、やはたにてとらまへ而高手小手に諷(いましめ)て、二条の城の駒寄にしばり付而さらし給ふ。道犬をば大仏にてとらまへ而高手小手にいましめて、堺の町を引而両人ながら三条河原へ引出して、あをやが手にかけてかうべをはねて三条の橋の下にかけさせ給ふ。秀頼の落胤の若君も、十斗に成せ給ふを守(もり)がつれまいらせ而、伏見までおちゆかせ給ふをいけどりまいらせて、獄門にて切奉り而、すなわちごくもんにかけさせ給ふ。然間大阪にこもりたる衆は、命ながらへたる衆はこと〴〵く具足をぬぎすて、裸(あかはだか)にて女子もにげちる。こと〴〵く女子をば北国、四国、九国、中国、五畿内、関東、出羽、奥州迄ちり〴〵に捕られけり。
さて因果(いんぐわ)と云ものは有物か、太閤のいにしへは松下加兵衛が草履を取給ひし人を、信長の御取立をもつて人となり、今太閤迄へあげ給ひける人の、信長之御恩のわすれ而、御子の三七殿をぬまのうつみにて御腹をきらせ給ひ、尾張内府をば御地行を召上北国におしこめ給ひ而、御扶持宛行(あてが)いもなくしておき給ふ。さて又太閤の御子秀頼も、相国様打奉らんと大阪にて一度、又伏見にて諸大名に仰而打奉らんと二度め、会津御陣の御跡に諸大名をもよおして伏見の城を攻めころして、相国へむかはせ給ひ而三度め、又去年謀叛の企て、諸浪人をふちして敵に成給ふ事四度め、又当年手を出し而合戦をし給ふ事五度めなり。相国御じひ故四度迄は御ゆるされ被成けれ共、たすけ度は思召けれ共、此うへは是非なき次第、たすけおく物ならば又謀叛(むほん)を可企、然者腹を切給へとて御腹を切せ給ふ。是を見る時んば因果(いんぐわ)と云物有物なり。然る所に御旗奉行の衆今度うろ〳〵としたるを内々聞召被成候哉、御旗の衆一人は甲斐国の者ほさか金右衛門とて武辺もなき者なり。一人は丹波の者せうだ三太夫と申者なり。是も武辺の有もなきも御普代家にては人しらず。御鑓(やり)奉行の者、一人者武蔵の者、若林和泉と申者なり。一人は三河の者大久保彦左衛門と申者、是は相国御代御七代召つかわさる。其身の先祖つたわり申、御【 NDLJP:142】普代のものなり。然ると申処に、御旗奉行の衆御鑓(やり)ぶぎやう衆を下目に見て、何事をも御眼力をもつて御旗(はた)を我等共に仰被付けるとて物ごと談合をもせず、御鑓(やり)ぶぎやう衆はおか敷事申者共哉、出頭人を取むけて有ればこそ彼等に御旗をば仰被付たり。彼等が武辺もしりたり、あすが日にも見よ、彼等が何事もあらば御旗を取まわすすべをばしる間敷き。又依怙をして彼等を取立んとしたる衆本多上野其外の衆の胴骨をもよくしりたり。此衆が武辺定の事をかしき腹すぢなる事なり。只今座敷之上にて何かの事云て依怙したり共、何事もあらば見よ、えこしたる衆迄も恥をかゝせ可申と云ける処に、相国様は岡山の方へあがらせ給へば、御旗をば住吉迄押て行、住吉にて相国様の御座被成候方をしらずして、十方をうしなひて其時御鑓ぶぎやう衆とだんがふ申せ共、御眼りきにて御身逹には御旗を仰被付たり。斯様の時のためにてこそ、御眼力のちがわざるやうに可被成とて一ゑんかまはざれば、重々云寄て彦左衛門云は、然者御旗を阿部野の原へ押上て、あれなる大塚へ両人かけあげて御馬じるしの見えば其方へ押給へといへば、尤とて御旗をあとへ押返てつかへ上て見けれ共、御馬じるしは見えずと云。其儀ならば阿部野の原を押上給へと云ば、天王寺をさして押上げるに、中程にて御旗立ける処へ、彦左衛門がかけよせて、何とて敵ちかき所にて御旗をばふらめき給ふぞ。ちやうす山を左にして押上給へと云ければ、ほさか金右衛門が申は、御身はへたくらしき事をの給ふぞ。ちやうす山なるは敵にはあらずやと言ければ、大久保彦左衛門云けるは、御身こそへたくら敷旗をばたつれ、ちやうす山のを敵にてなきとはたれか云ぞ。ちやうす山のが敵なればこそ、御旗を遅々せずして左へ押上給へと云。相国の御旗が昔よりついに左様にふらめきて敵にへりたる事なし、たゞちやうす山を左になして押上給へと言けれ共返事もなき。良(やゝ)有て天王寺の方へは押ずして東の方へ押ける処へ、又大久保彦左衛門かけ付て、何とて敵を後になして左様に御旗をば押給ふぞ。御旗がまくれて見ぐるしきに、菟角ちやうす山を左にして押上給へと云へ共耳にも不入。然る処にちやうす山の東にてやう〳〵相国様見付申。然る処に早天王寺口にててつぱうのなり取合ける時、御旗を田中に立ける時、御鑓(やり)を御旗の前へ出しければ、ほさか金右衛門がかけ出して申は、只今迄御旗のあとに有ける御鑓を、御旗之先へ出し給ふか、我等はしらざると申時、彦左衛門が申は、不㆑及㆑云(に)我等共のあづかり申御鑓を御身達にしらせんならば腹がいたき。其故物前にて御鑓が先へ不出ば何が可出ぞ、それ故物前にては旗にてたゝき合物か、鑓にてたゝき合物か、何とて御身達のしらん哉。我等二人のだうぐをしり度共しらせ間敷と云ければ、物もいわず帰りける。然処に彦左衛門が云けるは、若林和泉殿御らんぜよ。御旗奉行が何をもしらざる。てつぱう衆はみかすみに有り。てつぱう衆へ押付でかなわざる旗を、遥にへだちたると申ければ、左様に申たるかと云ければ、いや〳〵さやうには不申。然者我等が可申と被申候へば、彦左衛門が申。いや〳〵御無用に候、よき事をば御がんりきに我等仰付たりと云べし、あしき事をば其方と我等なんにいたし候はん間御無用と申ければ、和泉甲は、いや〳〵御ために候間可申と被申候へば、彦左衛門重て申は、【
NDLJP:143】御ための処は指おき給へ、彼等がていにてはまつことの時は、御旗を立申事は成間敷、其時は御身と我等として立可申ければくるしからず。其儀は御心安可有と申処に敵(てき)もはいぐんする。然る処に相国の御馬じるしの天王寺の方に御座候と見て、其方へ御旗(はた)を押けるに、頓て押付るに、天王寺の南にて味方俄にくづれて来りければ、其時御旗を立けるに、二人の旗ぶぎやう一人もゐず。相国様は道より天王寺の方に頓て道畔(ぐろ)に御馬をひかゑさせ給ひて御座被成候。御辺には馬のりとては小栗忠左衛門より外は一人もなくして、ちり〴〵になりけるがにげたる事やらん、又御さきへゆきたる事やらん、御前にはあらず。然共少身の衆は此時に候へば、手前をかせぐとても御先へ出ても似合たれ共、御目をかけられて人となり諸国の衆にもちいられて御影を見、人に怕慄(おぢおのゝ)かれける衆は老若をきらわずして、上様之御あたりを一寸はなるゝ事は何たる武辺をしても第一のひけなるに、ましていわんや何れも有所をしりたる者は一人もなけれども、時のいせいによりて我も存知たり、我も存知たるとは申せども蔭にては有所存知たると申人一人もなし。其時御旗ぶぎやうの衆御旗のあたりには一人もあらずして、はるか後来りて保坂金右衛門が申けるは、大久保平助我等はさきへゆかんと云ければ、彦左衛門申けるは、尤の儀なり。先には鑓がはじまりたると云にさう〳〵ゆきてやりをし給へ、我等は仰被付ける御道具の有所にて可有と申ければ、金右衛門然者我等も参間敷と言ければ尤の儀なり、何事はなけれ共若何事もあらば、仰被付たる御だうぐを枕として、はて給ふを本義と存ずる成と云ければ、其時御旗の所へは参たれ、せう田三太夫は先へ出てむかひより鉄砲をはなしける間、其に寄て先へ出て我等も鉄砲をかけていたるとは云けるが、まことに鉄砲をかけていたるやらん、又はくづれたるやらん人はしらず。たとへば先へ出ててつぱうをかけてある共ゆわれざる事なり。仰被付ける御どうぐのあたりをはなれ申事はきこへ不申。然間はじめより彦左衛門ばかりいたる処へ、頓てすわべ惣右衛門が来たる、おしつゞきて若林和泉が来る。御旗奉行二人はるかおそく来る。然間各々の被申様にも彼衆にましたる御普代の衆も有に、ゆわれざる衆に御旗を仰被付ける物哉。其故上方と御取合の処に、せう田三太夫も上方の者なるに仰被付候儀はさりとはゆわれざると申。甲州関東の儀は上方との御取合なればくるしからざる事なれ共、是と申も出頭衆の気に入たる故なり。きに入而申被付而も御ためには不被可然事成と各さたしたり。さて又相国様は五月八日に御帰京被成けり。大将軍は御跡にとゞまらせ給ひ、秀頼に御腹を切せ給ひて其外御仕置共被成て御帰京なる。
其後相国様京都にて今度大阪にてのよきあしきの御せんさく被成けるに、あるいはでんちやうらうに相申たると云人も有り、又はそうてつ法印に相たると云人も有、あるいは我々互(たがひ)に云合て証人に立相たる人も有、事おかしきせう人成。昔は出家や医者などを武辺之証人に立たる人をば、中々付合もせざれ共、今の世は末世にも成り、出家といしやが武辺の脈とり、又は察(さつ)しれば武辺に成と見へたり。又は度々の武辺のしたる者を、昔は武辺のせう人には立て有に、一代之内敵のかほの赤きも黒きもし【 NDLJP:144】らざる者を、武辺のせう人に立る事、腹筋のいたきほどおかしき事なり。相国様はもとより度々合戦に合付させられて、日本の事は申不㆑及異(い)国迄も隠れなき御武辺第一之相国様なれば、おかしくは思召共それ〴〵に被成而、打おかせられ給へば、申霽れたると思ひ而武辺顔をしていたる人おほし。古き武辺者共は目引鼻引わらひてこそいたり。其故武辺のしなも多し、昔はくづれくちの武辺をば武辺とはいわず、但しくづれざるまへにたがひにつゞゑてまほり合たる時之武辺をば、よき武辺とてほめたり。敵くづれたる処へ人さきにかけ入たると云共、其儀は昔はほめず、のきぐちの武辺が成がたき者なり。然間のきぐちの時手きつくて敵につかれ申時は、五人十人には過ざる者に候間、のきぐちの武辺を昔はほめ申なり。又こゝに只今はおもしろき事を云、兜をきたる者の頸を取ては、もぎ付と云事昔はなければ只今聞当世流か、昔は小者中間ふ丸之頸なりとも、押つおされつ之処にての頸か、又は槍下の頸か、深入をして打たる頸などの手がらなる処にて取頸は、何くびにてもあれ手がらと云たり。今度之大阪などのやうにの追ひ頸をばかぶときたり共(とも)、たとへば大将のくびなりとも手がらの高名とはいわざるに、大阪にてかぶと頸を取たるとて利口する事のおかしや。然どもくづれてにぐる人が帰しししたる武辺をば、其儀をば殊の外にほめあげたり。今度は始めよりくづれたる敵なれば、各々馬にておひかけければ、何時もか様に馬にのり而合戦は可有と斗、たうせいの衆は心得候へども、合戦の時は皆々馬よりおひおろして、馬をば後備ひよりはるかにとおくやる物とはしらずして、何時も馬にのりてあらんと斗言もはかなき事なり。然る所に今度相国様の御旗奉行之衆うろ〳〵としたるを聞召被成候哉、小栗又一郎と大久保彦左衛門が罷出て有けるに、御座の間よりひろ間へ成せ給ひしが、彦左衛門を御覧ぜられて、汝は旗に付而来りたるかと御意の候へば、彦左衛門手を付いてうしろを見ければ、汝が事にて有と御意なれば、我等は御鑓(やり)に付奉り申と申上ければ、汝は旗にて可有と御意なれども、いや〳〵御鑓(やり)に付奉り申すとまた申上ければ、重而又汝は旗にて可有と、あららかなる御こゑを被成而御意の有りけれ共、兎角御鑓に付奉りて参上申由申上ければ、其時したらば旗には誰が付たるぞと御意の時、ほさか金右衛門と小田(せうだ)が付奉りて参たる由申上ければ、何小田(せうだ)々々と三度迄御意なれども、三太夫をわすれける処に、小栗又一郎が申上けるは、せう田三太夫と申ける。其時四方を御らんじけれ共御旗ぶぎやうの衆一人もあらざれば、御広間へ御座被成候つるが立帰らせ給ひて、御目を見ひらかせ給ひて、五日の日淀にとまらんとは誰がいふつると、あら〳〵成御声にて三度迄被仰候へ共御返事申上る人なし。はじめに某(それがし)に御あらため被成候間、某が事にもやと奉存、彦左衛門申上げ申は、よどに御とまりの儀は誰と人を奉㆑指に及不申、上下共に左様に不申候人は、一人も無御座と申上ければ、重ての御諚に、我がとまらんといわざるに、とまらんと云やつばらめはたくらため迄と御諚被成而御ひろ間へならせけり。誰申ともなく申つると申上たらば、誰が云つると御意被成而云くちを御せり被付可申が、上下共不申候人一人も無御座候と言(ごん)上申によりて、彦左衛門はされ共せり被付不申。【
NDLJP:145】又然る処に二三日過而水野日向守御目見へに参而有。小栗又一郎大久保彦左衛門も有つる処に御座の間より書院へならせ給ひけるに、日向守を御らんじて、今度は何としたるぞと御意被成ければ、日向守申上けるは、さればせんばの方より三百騎斗住吉之方へ参申たるが、其内より三十騎程天王寺の土(ど)井に奉付而参申たるが、何方へ参りたるを不存候と申上られければ、其時御諚に、汝がしるべしと御諚なれども、人を指而の御諚なければ、おうけを申上る人もなければ、彦左衛門手を付而、うしろの方をみければ、汝が事なり汝がそこにいたればしりつらんと御意なれば、されば天王寺の土井の方よりもすぐ道の御座候ひつる。其よりにげ出申者がちやうす山の方より岡山の方へ参本道へ罷出申て、本道をくづれ申者と一つに罷成申而参申に付而、敵味方之見わけは不存と申上ければ、其は敵かと御意有りければ、敵のかほは見しり不申、ずいぶんの地行取衆が逃来り申つるが定而其中へも入而参申か不存候。其くづれ而参候衆が御鑓(やり)をもふみちらし申、馬之上にてかなぐり取而切折り申而もちて参候。それを見てやりかづき共が又きりをり申たるも御座候と申上ければ、御諚にさても〳〵腰抜めかな、やりの短きがよきと云事をばいつしりたるぞ。然ば其者共は何方へにげけるぞ。御前の方へ参申つるが、御前様より某などは御先に罷在つる儀に御座候へば前後は不存と申上ける時、其儀ならばやりはなきかと御たづね被成ければ、御鑓も御座候へども多分無御座と申上ける。相国様は三間柄より短きをば惣別にきらわせ給ふ事なれば、鑓をきり折り申たる者を腰ぬけと思召儀共なり。然る処に其明の日二条の御構ひの火たきの間にての事なるに、松平右衛門は御旗は見ぬと云。彦左衛門は御旗は立たるに何とてたゝざると仰候哉と云。いや我等共は見ずと云。又云、七本之御旗の立たるを何とて見給はぬ哉と云。また立たる御旗をたゝぬとはいわれ間敷と云ければ、其の時こゝに御入候各々は見給ふかと右衛門にいわれて、時の出頭におそるゝか、我も見ぬ〳〵と各々口を指上云ければ、さればこそ聞給へ、御旗は立ざるにきわまりたり、我等共も見ず各々も見ぬとの給ふに、御身一人斗立たるとの給ふはたゝざるが必定成と云。又云実(げ)に〳〵左様にも可有、頓て心得たりと云。何と心得給ふと云ければ、云(いはく)べつの儀には有間敷、おそれながら各々の暗の夜程に御らんぜば、我は月の夜程に見申べし。月の夜程に御覧せば我等は昼程に見可申。よく〳〵存知候へば各々は其元へ御越候はで御越有と仰候物か、若其元へ御越候とも、七本之御旗を御らんぜずんばあわて給ふか。其儀ならば不可然と云ければ、重而之戦闘(たゝかひ)はなし。然間彦左衛門申は、其時御旗もおさまりて後具足をぬぎて、ぐそくかたびら斗にて其まゝせう田三太夫と二人参て、上様の御馬の立処、又は御旗の立所を見て返り申つるが、各々は御らんぜ候かと云へば、其時右衛門げにと見る所成を、何のふんべつもなくして見ざると云ければ、彦左衛門左様に見る所をさへ見給はで物をあらそひ給ふかと云。然る間各々有事をろんじて、後には彦左衛門を性(じやう)の強(こは)き者と云。又然る処に二三日すぎて、御前にて御せんさく有而よく申ひらきたる人も有、又あしく申而退(しさ)るも有。然る処に、やりに付きたる者参れと有ければ、又彦左衛門が罷出【
NDLJP:146】る。然る処に御せんさく過ぎて御座敷へいらせられ給ふとて彦左衛門を御覧じ付て被仰けるは、汝は鑓に付て来ると云かと御状なれば、かしこまつて御座候と申上ければ、御けしきかはりたまひて、彦左衛門手を付たる畳のへりをふませ給へば、よこ畳の事なれば二尺四五寸へだたりける其間を、御杖にてつかせ給ひて、汝は何とて我にはつかざるぞと御状の時、御鑓に相そへられ御旗本の諸(しよ)鑓まで若林和泉と某に仰被付候へば、千本に及申たるやりに御座候へば、御旗に付申たる御どうぐに御座候へば、御旗の有所に罷在由申上ければ、其儀ならば何としたるぞと御状の候時、御旗が大和が冬の陣場に立申間、御やりも其に罷有たりと申上ける時、そこに旗は立まじくぞと御状の時、いや其に立申たりと申時皆共見ざると云程に立間敷と御状なれば、彦左衛門申は、何と御状成とも御旗は立申たりと申せば、早御けしきかわりて御わき指をねぢまわさせられて、頭へ埃のかゝり申ほど御杖にて畳をつかせられて、我も見ざるほどに、莵角に立間敷と重々御状なれども、何と御状成共御旗は立申と強く申はりたれば、御状には、其儀ならば何としたるぞと御状之時、ちやうす山の方より崩れて来り申者が、御家中の旗、やり、又は御鑓共にふみくづして御旗斗立て罷在と申上ければ、然者何としたると御状の時、ちやうす山方より参たる者は御前の方へ参而、御前の方がくづれ申と申ける時、弓矢八幡今日の天道我が一代迯げたる事もなきを、あれめが我をにげたると云。大久保七郎右衛門が性(じやう)の強(こは)きに、大久保次右衛門がこわきに、兄弟一のぢやうの強(こは)きやつめなり相模をも我が助(たす)けておきたる。あれめが情のこはき事を云と御意被成て、城内のひゞくほど御声のたかければ、各々何事にやと申て肝を消す。然る処に本多上野守参て彦左衛門が手をとりて罷立とてつれて出る。上様の御そばへ永井右近がまいりて、御道理にて御座候。総別ぢやうのこわき者にて御座候と申上ければ、御腹をいさせられ給ふ。然間彦左衛門召つかいが申ける、ゆわれざる御ことばを返給ふと云ければ、おのれらはしる間敷、何とて上様を迯げさせられたると、天道おそろしく申上申さん哉、上様は小栗忠左衛門と只二騎御馬に召而御座被成候。御へんには二十人ぐみ衆れき〳〵といたる。然共ずいぶんの衆はにげてこそ有らん、御前にはあらず、上様こそ御座被成けり。御内のれき〳〵はおふかたにげける間、申ぞこなひにはあらず。然共此さきの御たづねにはゆる〳〵御たづね被成候に付而御前の方へ参申つるが、御前とは程へだち申間、御前へ参申而からは不存と申上ければ、御機嫌もよく御座候つるが、今日はつめ寄てせり付〳〵被仰候間、某も事の外せき申故に、御前が崩たると申上たる儀は心の外の儀成。又御ことばを返し申儀はべつの儀にあらず、御旗奉行衆うろめきたると聞召けるや、それをにくしと思召て御旗がにげたると御状被成けるは、上様の御ちがい成。御旗にきずを付させられて、御はたがにげたると被仰所にはあらず。其に御腹を立せ給ひて、我が旗はにげたると御状被成候を、各々れき〳〵としたる御取立の衆中々にげ申たり。我等共も見不申と申上たる衆は日本一のひけと云。又は御しうさまの御事をおもわずして当座の御きげんとり申つるは、さて卑怯にはあらざるや、某は相国様迄御代御【
NDLJP:147】七代召つかわされ申御普代の者なれば、御旗にきずをば付申まじき。たとへにげ申たる御旗成ともにげ不申と申上而、其が御咎ならば頸はうたれ申共、御旗のにげたるとは何として可申上哉、各々は当座の御意にいり申とて、以来之御主のためをば不申、我等はとうざにくびは打れ申共、以来の御ためあしくは何としてかは可申、相国様度々之儀を被成申せ共、味方が原にて一度御旗のくづれ申寄外、あとさきに陣(いくさ)にも御旗のくづれ申無㆑事。況や七十に成らせられて、おさめの御ほうどうの御旗がくづれては、何の世にはじをすゝぎ可被成哉、然時んば我等が命にかへても御旗のくづれざると申たるが、御普代の者の役なり。又いかに御取立成とも当座の御気にそむかざるやうにと思ひて、以来の御ためにかまはざる事こそ、御ふだいにあらざる人のやく成。我等御ことばを返し申而からかひ申たる故に、おさめの御ほうどうの御旗はくづれぬになる。其儀をかんがへずして、某を上様にからかい申たる我まま者と申人は、とても末世御主の御用には立事有間じき。御ことばを返し申故に、世間にては我等に腹を切せ可被成由を申と承候へば、其儀ならば我等唐高麗へ落行而、石のからうとに入たればとてものがるゝ事は有間じく、其儀ならば御前へ只今罷出て腹を切迄とて上下をきて出る処へ、小栗又一郎が来りてやどに有かと云。何として被出けるぞや。其儀成、御前へ出給へ。出はぐれたらば出る事成がたし。腹を御きらせあるならば切給へ。年寄衆して御意を得被申候事は御無用成。其に付て何かと被仰候はゞ後六ヶ敷可有、定業はさだまりたり、あしきことをして死したるにはましなり。御主の御ためを申而其があしき事に成ならば是非もなき事成、只今可被出同道可申とて、来りたると申ければ、よくこそ御出有たれ。只今我一人罷出て腹を切せ被成候はゞ可切と存て支度申たり。我腹を切ならば介錯には何時も御身寄外に頼可入人なければ、さいわいの所へ被出候者かな。腹を仰被付ば御かいしやくを頼入事、目出度も御出かな。いざや御ともせんとて二条の御城へ参りければ、彦左衛門が来りたると申而、各々興醒貌にて有ける所へ、上様御出被成而御覧ぜられて通らせ給へば、又一郎も心安とて同道して帰りける。然間からかい申たるよりも、被出間敷所を出たりと人々も申なり。然間卯の年は両上様ながら江戸駿河へ御帰国被成けり。
然間元和二年〈丙辰〉の正月、田中へ御鷹野に御成被成ける処に、俄に御わづらいつかせられて、次第々々におもり給ひて、卯月十七日に御遠行被成ける。御遺言の儀たれしりたる人はなけれども、申ならはしたるは、我がむなしく成ならば、日本国の諸大名を三年は国へ帰さずして、江戸に詰めさせ給へと被仰ける時、大将軍の御状には御ゆひごんの儀一つとして違背申まじき。然とは申せども此儀におひてはおゆるされ可被成候。左様にも御座候へば、若御遠行被成候はゞ、是より日本の諸大名をば国へ帰し申て、敵をもなさば国にて敵をさせ、押かけて一合戦してふみつぶし可申。何様天下は一陣せずしてはおさまり申間敷と被仰候へば、其時御手を合られて、将軍様をおがませられて、其儀を聞き申度ために申つる。さては天下はしづまりたりと御よろこび成され而、其まゝ御遠行被成候と申たり。下々にて、【 NDLJP:148】さても〳〵将軍様の被仰様は承ごとかなと舌を捲いてほめ奉たり。然間相国こそ卯月十七日に御遠行ならせ給ひけれ、各々は不㆑被㆑下して国元にてゆく〳〵と、其元仕置き其外申付而来年罷下給へと仰被越給ふ。此御ことばに付おそしはやしと諸大名は罷下。
さればにや君之御めぐみあまねく、御あはれみのふかくして世もしづまり、かた〴〵も安穏なるにて、昔を思ふに大唐殷の国に旱魃する事三ヶ年なり。然に草木こと〴〵く枯れうせ、人民多くほろびけるうへは、鳥獣にいたる迄いきのこるべしとは見へざりける。国主大になげき給ひて、大法秘法のこさずおこなひ、雨を祈(いのり)給へどかなわず。大王思ひの余りに諸天を恨(うらみ)奉りていわく、我生て寄此方、禁戒をおかさず政みだりにおこなふとも思はざるに、如此日でりして人の生命すくなし。身にあやまりあやまる処あらば、いましめ給へかしとなげき申さるれども、其しるしなかりけり。今は自(みづか)ら命を民の為(ため)にすてんにはしかじとて、広(ひろ)き野辺に出て萱をおほくあつめて高さ二十丈につみあげさす。公卿大臣奇異の思ひをなすに、国王臨幸なりて、其かやの上にのぼり給ひて、まわりに火を付よと宣旨を被成ければ、臣下大に辞して付る者なし。其時大王の給はく、若あやまりて政罌粟(けし)ほどもみだり成事あらばやきぬべし。やくる程の身ならば命いきても益なし。若又あやまらずば天是をまもるべしとて大に逆鱗有りければ、綸言そむきがたくして四方寄火を付ければ、猛火山のごとくにもゑあがりて、炎(ほのほ)空に充(み)てり。大王もけむりに噎(むせ)び、前後もわきまへがたくし、すでに御衣に火の付ければ御目をふさぎ、掌を合十念に住して火境変浄地と念じ給ひければ、天是を憐み大雨俄にふりくだりて、山のごとくなりつるみやう火をけし、国王もたすかり給ふ。人民命をつぎ五穀成就(ごこくじやうじゆ)しけるとなり。是も大王の御心一つをもつてなり。されば論語に曰く、あやまつてあらたむるにはゞかる事なかれ。あやまりてあらためざるは賢(けん)かへりて愚なりと見へたり。然に此文の名を円珠(ゑんじゆ)ともいへり。まことなる玉のばんをはしるによそへてなり。公方様の御ことばのおもき、一つに天下も穏やかにたせいも静まり、国土安穏にしてたみもゆたかにさかへ、目出度御代とぞ申けり。さて又我伝聞くは、親(ちか)氏泰(やす)親様より今当将軍様迄御代拾一代の御事をあらまし伝てきゝおきしに、御代々御慈悲をもつて一つ、御武辺をもつて一つ、よき御普(ふ)代をもつて一つ、御情をもつて一つ、是によつて御代々もすへ程(ほど)御はんじやう目出度なり。御子大将軍様の御代にわたらせ給はざる時は、物をものたまはず、人に御ことばをかけさせられ給ふ御事もなくして、何とも御心の内をしれず。いかにとしても御代につかせられ給ふ御事、いかゞあらんと申人多き時、大久保彦左衛門が申けるは、この君様はあだなる御人にはならせられまじき。其をいかにと申に、清康(きよやす)様は御年御十三にして御代をうけとらせ給ひて、纔(わづか)の案祥の小城をもたせ給ひて、雑(ざう)兵五百の内外の御普代の者斗にて、三河一国を、御年十七八の御時分はきりおさめ給ひて、其後小田の弾(だん)正の忠をおひすべて尾張を半国きりとらせ給ひて、諸国にて案祥の三郎殿と申て、人に怕(おぢ)られ給ふ。其清康様の御育ち、又はなりふりまでも我親共の物語申つるに、すこしもたがわせ給はねば、うたがひもな【 NDLJP:149】き御武辺はたけくおはしまして、諸国の人の恐れをなさざるはあるまじき、目出度御屋方(やかた)可成ぞ。我は年寄の儀夕さりをもしらず。此かき物に後引合て子共ども見よ。つかな蛇(じや)は一寸を出して其大小をしり、人は一言をもつて其賢愚(けんぐ)をしるといふことは、当将軍様の御事なり。御雑談のおもむきを承しに、御武辺ならぶ人有間敷ぞ、御普代久しく召遣(つか)われ申せば、御代も御長久に目出度なり。是やせいやうの詞に、漢の文王は千里の馬を宣じ、晋の武王は雉頭(ちとう)の衣をやくとは、今の御代にしられたり。民の竈には朝夕の煙もゆたかなり。賢王の代になれば鳳凰翅をのべ、賢国にきたれば麒麟蹄をとくと云ことも、此君の御時にしられたり。目出たかりし御事なり。抑東照権現(せうごんけん)は、かたじけなくも紅葉山に崇め奉り、蘋蘩(ひんぱん)の礼社壇に繁く、奉幣しんぎよく石社(せきしや)なり。其垂跡三所は仲哀、神功、応神三皇の玉体なり。本地を思へば、本覚法身本有の如来なり。八万法蔵十二部経の如来も、法しんの如来も、ほんうの如来も何れとわくべき一体なり。名付て三如来と号す。生界経行果上の三重の袂をあらわしたまへり。百王鎮護の誓を起して、一天静謐(せいひつ)にめぐみおはします。まことに是本朝の宗廟(そうべう)として源氏をまもり給ふとかや。現世あんをんの方便は、観音(くわんおん)の信力を起(おこ)し給ふ、仰ぎても信ずべきは此権現なり。相国の御ために清浄衆縁(しゆいん)の建立し給ふ。今の権現堂是成。其のほか堂塔を創立し給ふ。仏僧経巻をあふぎ、御志即壮(そくさう)にして善根も又莫大なり。征夷大将軍に任ず。籌策を帷帳のうちにめぐらし、勝ことを千里の外にえたり。げにやはるかに纔(わづか)の案祥に御座の御時、清康山中岡崎を御手に入させられ給ひて、其後三河一国をおさめさせ給ひて、御子広忠へゆづらせ給ふ処に、伯父(をぢ)内前に立被出給ひて、其後御普代の衆が入奉りて駿河の吉元を頼奉りて、竹千代様を人質に被㆑進し時、継祖父(まゝおうぢ)中にて盗取、小田の弾(だん)正忠へうり奉りて、御六才の御年より熱田大宮司があづかりておはします御時は、かく可有とはたれか思ひよるべきや。今一天四海をしたがへ、唐、高麗、中天竺まで掌なくなびかせ給ひ、なびかぬ木草もなかりける。まことややしきのことばに、天下安寧なる時はけしやくをもちひずとは、今こそ思ひしられたり。
偖(さて)又我子共物を聞け。親氏の御代に三河国松平之郷へ御座被成てより此方、親(ちか)氏、泰親(やすちか)、信光(のぶみつ)、親忠(ちかたゞ)、長親(ながちか)、信忠(のぶたゞ)、清康(きよやす)、広忠(ひろたゞ)、家康(いへやす)、此御代々野にふし山を家としてかせぎ、かまりをして度々の合戦に親を打死させ子を討せ、伯父、甥、従弟、はとこを打死させて、御ほうこうを申上、それのみならず女子けんぞく共に麦の粥粟稗の粥をくわせ、其身もそれをくいて出ては打死をして御ほうこう申上たる、其すへ〴〵子共供が、只今は御前へ可罷出ちからもなければ、ゆくゑもなき人(ひと)の普代(ふだい)と成、一季奉公(ひときぼうこう)をして世をめぐるも有り、御はしりばうかうをするも有り、荷担商(になひあきなひ)をして鰯田作をうりて世をおくるも有、又は御前御ほうかうを申せ共、百俵、百五十俵、弐百俵、三百俵被下候へば、御前の御ほうかうを申せば、髪をゆひ申若とうの一人も二人もつれではかなわず、御城ありきにもならざるとて徒跣(かちありき)にてもならざれば、小者の五人三人持(また)でもならず。百二百三百俵被下候物は年中の上下一衣(え)又は若とう小者【 NDLJP:150】の扶持給にもたらず候へば、内儀は昔親祖父のすぎあひのごとくなる、稗粥のていなり。各々御普代のすへ〴〵のくらし申なり。それのみならず其身が咎とは申ながらにて候へば、さら〳〵御怨みにはあらねども、御勘気をかうむり奉りてこゝかしこ徘徊し、餓死(がし)に及も有り。然間人を召つかう事番匠(ばんじやう)の木をつかうが如し。長木をばうつばりにし、短きをばひじきつかばしらにす。如此人の器用分限に随(したが)いて心もちをしてあてがいつかふ。されば人をあまさずしてすべき事共なり。又年比召つかうともちいさき咎あらんには捨べきなり。或文に曰く、君子はよき事一つしたるをば百のとがあれども人をすてず、下郎はよき事百度したれども、とがを一度しつれば恨みつるなり。人をかへりみるには我ごとくある物はすべてなき物なり。是則(すなはち)主となる時は、人をもどかわしく思ひ、臣と成時は人にもどかるゝ習いなり。惣別三河の者は明暮弓矢をかせぎければ、公儀の道は何れもしらざる。然と申せどもかうぎのよき物何に可被成、日本の諸侍はこと〴〵く御内の者にて候へば、誰をあがらめてせうくわん被成てかうぎのよき物を御用に思召や、余(あま)りかうぎのよき物に昔も武辺をかせぎたる物なし。偖(さて)又日本の諸大名に金銀実(たから)物を被下給ふ事は、海河へなげいれさせ給ふ如(ごと)く也。其を如何(いか)にと申に大名は百姓同前にて、此前々も草の靡(なびき)にて強(つよ)き方へ斗就きければ、後世にもかく可有。何の入(いら)ざる諸国の者は、御身にも成間敷者に過分の御知行を被下候ても、其上に御気遣(きづかひ)可被成。御普代の衆の産広(うみひろ)げたる子が方々へ散(ち)りて有を召集(あつめ)させ被成、御勘気(かんき)の御普代衆をも御赦(ゆる)し被成候はゞ、五千も一万も可有。是を召よせられて御座あらば、百万騎にて寄来る共、上様の御先にて働(はたら)く物ならば、きまんごくのきおふが寄せ来る共、何かはためんや。只今斗にもあらじ。長親様の御時も北条の新九郎が一万余にて寄懸(よせかけ)たるを、長親様五百斗にて斬懸らせ給ひて斬崩し給ひし事も有。家康様の御時氏なを四万三千にて相陣を取時、相国様の人数は七八千にて四万三千につらを出させ給はねば、氏なをは国郡を帰して降参してのく。同太閤の拾万余にておぐちがくでんに陣取給へば、相国様は雑(ざふ)兵七八千にて小牧(こまき)山へあがらせ給ひて相陣をとらせ給ひ、十万余の人数につら出しをさせ給はず、あまつさへ三万余打ころし給ふ。是を見る時んば、御普(ふ)代衆押(おさ)へ召寄させられておかせられ給はゞ、万に御きづかいは有まじけれども、御普(ふ)代の衆といへば肩身をすくめてありく事は是は何事ぞ。他国衆は只今世がおさまりたる故におひさう被成て御普代衆をば外様に召つかはれ給ふ。御代は五百八十年目出、しぜん何事もあらば、他国衆は御目を日比かけられ申たるとはおもわずして、こと〴〵く欠落をすべし。それのみならず只今も左様に可有、御目をかけられ申内はぜひとも御用に立可申とは思ひ申べけれ共、御意も背(そむ)き御言葉(ことば)をも御かけなくば、そばめる心有て御かたじけなく候間、御用に是非共立候はんとおもふ人は一人も有まじき。又御普代衆の御重宝は召つかわさるゝ人の儀は不申及、在々所々に有て御存知なき衆迄もはせ来りて御用に罷可立。然時んば鴆毒(ちんどく)口に甘くして命を断、良薬(らうやく)くちに苦くして身をたすくと云文有。ちんどくと云鳥は海をとび渡(わた)るに毛一つもおちいれば、かいちうの生類(しやうるい)こと〴〵くしするなり。是は口に甘きなり。【
NDLJP:151】然る間おろかなる物のあしかるべき事を、主を賺さんためにいつくしくして、なだらめて心にたのむすぢと心得て申せば耳にいる。まつそのごとく他国の衆はかう儀はよし、口はじやうずなり、御ほうかうはよく申なり。召つかわされよきまゝに御心をゆるさせ給ひて、御膝元(もと)ちかく召つかわされ候事は、ちんどくのくちにあまきがごとし。又は御普代衆は相国様の御代迄山野に伏て夜ひるかせぎ、かまりをして、武辺を家としてやりさきをとぎみがき、矢のねをみがきてつぱうをみがきて、武辺をむねにたやさずして此道をかせぎたる衆の孫子にて候へば、祖父親のぶこつ成すがたを生おちより見つけて候へば、上方衆のやうに、いたいけらしき声づかいして、こびひなのやうに出立て、けいはくを云事は罷成間敷けれども、しかしながら、恐(おそ)らくは御用にたち申事においては、御普代衆に上こす事はおそれながら日本には有まじけれども、只今は御用づくは御国も治まりて天下富饒成うへ、いらざると思召て御普代衆には御ことばがけも不被成候哉。殊吏案祥(あんじやう)御普代(ふだい)、山中御普代、岡崎御普代の衆のすゑ〴〵をば、一しほ御目にもいれ給はざる御事は、良薬口に苦きが如く、然どもらうやくは口ににがけれどもやまいを治する。御普代はぶこつにて召つかわれ候事もどかはしく思召とも、御わきざしと思召御心おきなくゆる〳〵と御心をもたせ給ふ御事は。御普代衆にこす事は有まじけれども、左様には候はでとざまにて召つかわれ候へば、かたみをすくめて各々御普(ふ)代の若き衆はありく。他国衆は只今は御座敷にては御用にたゝんと云て、肩衣にてめをつかせてありく共、取つめての御用には、御座敷の上にて、かゞみたる御普代衆には中々思ひもよらず成間じき。昔の引べつも有、諸国のらう人が浜松へ出来りて御普代衆にもまけ間敷、是非共に御用に立て御旗の御先にて打死を可仕候と、誠(まこと)しやかに高言をきらしければ、上様もさもやあらんと思召、又は御普代衆もげにもと思ひてまけまじとかせぎければ、御普代衆を一度越たる事もなし。其故味方ヶ原にて御合戦に打負させ給ひて、既(すで)に遠江三河もあぶなく思召候時は、日比かうげんきらして有る諸国の諸浪(らう)人は、かけおちをして一人も残らずして、三河遠江の者斗有て、御用に立て御運のひらかせられける。か様なる引べつも候へども、其儀を御存知なくして上方衆を御秘蔵(ひざう)被成、御心をおかせられ給ひて、御身になる御普代重代の衆のすゑ〴〵をば御ことばがけもなし。御普代衆をあつめおかせられ給ふならば、日本国者打かはるとも、百万騎にてよせくるとも、御普代衆五千も一万も可有が、上様の御先にて錣を傾けてかゝるならば、何かはためん哉。御普代衆をあしく被成候事は、上様の御しつついを御存知なきなり。清康様家康様などは御普代の者をたいせつに思召て、弓矢八幡普代の者一人には一郡にはかへまじきと御意被成ける間、なみだをながしてかたじけなしと申てかせぎけるが、只今は御普代の者を御存知なきとてなみだをながしける、うらとおもてのなみだなり。是迄は何れも御ちうせつ被成候御普代衆、又は我々共の儀なり。さて又子共どもよく〳〵きけ。此書付は後の世に汝共が御しうさまの御ゆらいをもしらず、大久保一名の御普代久敷をもしらず、大久保一名の御忠(ちう)せつをもしらずして、御主さまへ御ぶほうかうあらんと思ひて、三【
NDLJP:152】でうの物の本にかきしるすなり。何れも大久保共ほどの御普代衆は数多候間、別の衆の事は是にはかきおくまじけれ共、ふでのついでにあら〳〵かきおくなり。各々のは定て其家々にてかきおかるべければ、我々は我が家の筋を詳しくかきおくなり。先御地行不被下とても、御主様に御不足に思ひ申な、過去の定業(ぢやうごふ)なり。然とは云ども、地行をかならず取事は五つあれども、如此に心をもちて地行を望むべからず。又地行をゑとらざる事も五つあれども、是をばなを飢(かつ)ゑて死するとも此心持をもつべきなり。第一に地行を取事、一には主に弓を引、別儀(べつぎ)べつしんをしたる人は、地行をも取末も栄、孫子迄もさかると見えたり。二つにはあやかりをして人にわらはれたる者が、地行を取と見へたり。三つにはかうぎをよくして、御座敷の内にても立まわりのよき者が地行を取と見えたり。四には算勘のよくして、代官みなりの付たる人が地行を取と見へたり。五つにはゆくゑもなき他国人が地行をば取ると見へたり。然共地行をのぞみて夢々此心もつべからず。又は地行をゑとらざる事、第一には一普代の主にべつぎべつしんをせずして弓を引事なく、忠節忠功を成たる者は、かならず地行をばゑとらぬと見へたり、末もさからず。二つには武辺のしたる者は地行をばゑとらぬと見へたり。三つには公儀のなきぶてうほうなる者が地行をばゑとらぬと見へたり。四にはさんかんをもしらざる年の寄たる者が、地行をばゑとらざると見えたり。五つには普代(ふだい)久しき者が地行をばとらざると見へたれども、例(たと)へば地行はゑとらでかつゑ死ぬるとも、かならず〳〵夢々此心持(もち)を一つもすてずしてもつべし。電光朝露石火のごとくなる夢の世に、何と渡世を送(おく)ればとて、名にはかへべきか。人は一代名は末代なり。子共どもよくきけ。相国様迄は一名の者どもをば御念比に被仰つるに、只今は何の御咎によりて大久保一名の者共は、かたみをすくめせうかを立てありき申事、さら〳〵不審晴れ不申。信光様寄此方今当将軍様迄御九代召つかわされ給ひしに、我等共が先祖(せんぞ)御代々様へ一度そむき奉り申たる事もなし。其故清康様の御時には案祥(じやう)斗もたらせられ給ひける処に、我等共が祖父が山中の城をちやうぎをして、取て進上申なり。其より山中衆が御手に入て山中御ふだいと申なり。広(ひろ)忠の御やうせうなるによつて、眼前(がんぜん)の大伯父(をぢ)にて御座有松平内前殿押領(あふりやう)して、広忠様を岡崎をたて出し奉せ給ひし時、伊勢の方を御らう人被成候へてわたらせ給ふ処に、十人斗も御供をして出るに、大久保一名の者は御供を申ならば、広忠様を御本意させ申奉る事なりがたければ、せんほうになりて御跡に止まりて、是非共に一度は岡崎へ入奉らばやと申て御供をせずしていたり。其外の御普代衆にも其存分にてとゞまる衆もおゝかりける処に、内前殿の仰には、広忠を岡崎へ入申さん者は、大久保新八郎寄外有間じきに、新八郎に入申間敷と起請をかき候へとて、伊賀の郷八幡の御前にて七まい起請をかゝせけり。其故にても、とかく新八郎より外有間じきとて、又伊賀の郷の八幡の御前にて、一度ならず二度ならず七枚(まい)きせうを三度迄かゝせける。其時新八郎やどへかへり、おとゝい共物をきけ。上様を岡崎へ入申まじきと又七まいきしやうをかゝせたり。殿様を一度御本意させ申さんためにこそ御跡にはのこりたり。其心なくば御供をこそ申べけれ。【
NDLJP:153】七まいきせうの御ばつとかふむりて、此世にて白癩黒癩(びやくらいこくらい)のやまひをもかうむれ。又はせがれを八つ串にも刺さばさせ、女房を牛裂にもせばせよ、来世にては無間の住家共ならばなれ、是非共一度は入申さでは置まじきと申て、我等共が伯父我等父などを引かこち、又は林藤助、八国(やかう)甚六郎、成瀬又太郎、大原佐近右衛門などを引入れ、其まゝ広忠を岡崎へ入奉る事も有、又伯父(をぢ)ご様の蔵人(くらうづ)殿御べつしんの時は、我等親の甚四郎と同弟の弥三郎と両人して、蔵人殿御家中をくりわりて口をもきくほどの者を、こと〴〵く岡崎へ引付申せば、蔵人殿御腹をたゝせ給ひて、大久保一るいの者の女子を一人、何共して取て磔にかけ度と被仰候事も有。又有時は御普代衆こと〴〵く一揆を起して御敵に成て、野寺、佐々木、土ろ、はりざきに立こもりて、相国様へ錆(さび)矢をいかけ申時も、我等をぢの大久保新八郎屋敷城をもちて、わづか敵の城へ七八町十町斗へだてゝ、日夜たゝかいける。其時はこと〴〵く御敵を申せば、一国一城のやうなれども、大久保一流共が御味方申たる故に御運の開かせ給ふ。其時土ろはりざきを打あけて、大久保共の有ける上和田へよせかくる。其時正月十一日に大久保五郎右衛門も同七郎右衛門も一度に目をいられける。こと〴〵く手をおはざるはなし。其時上様人一ばんにかけつけさせ給ひて既(すでに)のりいれんと被成ける処に、大久保次右衛門がはしり付奉りて御馬のくちを取、御跡を御らんぜよ、たれもつづき不申とてとゞめ奉り申時、汝共が恩をば七代御わすれ被成間じきと被仰し御事も有。おとゝい共しんるい、いとこ、はとこ供のかせぎ申儀は申つくしがたし。我等をぢも打死をする、いとこ供もおほく打死をして御ほうかう申、又は我等が兄も三人打死をして御ほうかうに申上、又は彼等も十六の年より境目に十二年罷有りて御ほうかう申上、其内四五年もまくらもとにぐそくをおきて、中夜野に伏山に伏、芝のは萱のはをおりしきて、かせぎかまりにくろうをする。然ども不器用にも候哉、つひに武辺のせず、又有時は石川ほうき守逆心のして太閤へ引のきける時は、大久保七郎右衛門は信濃之国こもろに有ける。ほうき守がべつしんなるに、七郎右衛門に急き罷上候へとおり付〳〵御ひきやくの立ども、七郎右衛門覚悟をもつて信濃を治め給へば、只今爰元を引はらい申者ならば、信濃は御手に入間敷と思ひて立かねたる処に、重々御つかひなれば、其儀ならばたれぞのこしおかんとて誰居りて呉よ、かれおりてくれよと頼候へども、伯耆守のき候故は上ても打死をすべし、また爰元に有りても打死をすべし、然る時んば女子共は何と成たるもしらずして、止(とゞ)まり申す事思ひもよらずとて、あらんと云人一人もなし。其儀ならば御ほうかうは何れも同前なり。平助是にて打死をしてくれよかしと被申ければ、彦左衛門申は何れも御ほうかうと承る。同御ほうかうならば罷上て御目の前にての打死は御目に見ゆべし。爰元にての打死は同打死なれども、幕の内の打死、人もしるまじければせんもなし。罷上て御旗先にて打死を可申。其故母と女房を頓てはうき守足の下におきて何と成たるをもしらず。母之儀は、御貴殿と次右衛門権右衛門にも母なればあんずる事なし。女房の行衛もしらずして是に有所に有らずと申ければ、七郎右衛門申は尤の儀なり、何かもいらず、其方をとゞめおかねば爰元の衆も心【
NDLJP:154】とまらずと申儀は尤なり。御ために立つる命と云、又は我等に命をくれて是にあれかしと被申候に付て、其儀ならば尤の儀、是に可有、早々御上あれとてのぼせける。然る間上方はみだれて七郎右衛門こそ取敢(とりあ)へずに上たると云て、こゝもかしこもそゝめきけり。然る処に信玄の御子に御せうどうどのと申て御目くら子の一人、越後の国に景勝のかゝゑておき給ふが、其御父子を甲州へ入奉ると申てさゝやきける。か様の時もゆくへもしらぬ他国へ、十日路行て人のいかねる処に、命をすてゝ御ほうかう申上候。然どもはうきの守させるくは立もせざれば、おのづからしづまりければ何ごともなし。それのみならずしてさなだべつしんの時、御せいばいとして人数を一万余指被越候とき、おしこみてかまひをやぶりて退足につかれてはいぐんしけるに、四五町の内に三百余打れければ、早さうくづれにあらん時、金のあげはの蝶の羽の指物にて、七郎右衛門が加賀河をのり越て返す。七郎右衛門につゞいて彦左衛門が返す。七郎右衛門はかわらにてかけまわれば指物を見て、七郎右衛門所へかけよせける所に、旗をもおしよせける。彦左衛門はかわらにてつきふせて、頭をばとらずして上の段へ押上けるに、彦左衛門は銀の上羽のてふの羽を指たれば、それを見て十一二人参りたれば、七郎右衛門はかわらをもちこたゑる。彦左衛門は上のだんをもちこたへたる故に、総のはいぐんはしづまりたり。然ずんばはいぐんして四五里の間おひ打に打れ可申けれ、のこりたるとても五千も六千も打れ可申を、第一は七郎右衛門が帰したるゆゑ、次には彦左衛門が帰たるゆゑに、五六千の人数をたすけて御ほうかう申上たる事も有。又各々ちかき事なれば存知たり、偽とは申間じき。今度大坂において相国様御旗奉行衆うろ〳〵としたるを御腹立被成、旗はにげたると御意の時、御きに入申とて中々御旗は何方に御座候を不存と申上ければ、其付ていにしへは草履取を、一人としてもたざる者を御取立被成、一も二もなく御出頭を申衆さへ上様の御ひけの事御気に入申とて、御旗をば我等も見不申と申上ける。たとへばくづれ申御旗成とも、御旗は立申たるとて御意にそむくとも、御主様を思ひ奉らば立申と申はらずしてかなわざる処を、御主様の御ひけをもいらず、当座の御意のよきやうにと申事は、御取立の衆にはさん〴〵の事、以来の御用にも立がたし。然る処に彦左衛門に旗は何としたると御意の時、御旗は立申たりと申上ければ、御気色もかわらせ給ひ、畳のむかいのへりを御ふまへ被成て、御杖にてたゝみを突かせ給ひて、旗をば皆共も見ぬと云ほどに立間じきと御意成に、彦左衛門はこなたのへりに手を付ければ、間は二尺余有りけるが、頭(かうべ)をたゝみに付て御旗は立申と申ければ、我も見ぬ程に立間じき、何と御意成とも立申と申上ければ、返してたつ間じきと、おふきなる御声にて御杖にてたゝみをつかせられ、御腰の物をひねりまわさせ給へどもそれにもおどろかず、何と御意なるとも御旗立申と申はりて、ついには申かちける間御旗はくづれざるに成たり。我等が身上の事を各々の様に思ひて、おの〳〵の如くに御はたは立不申と申上候はゞ、さながら御旗はくづれたるになるべし。然る時んば日本に其隠れ有間敷ければ、異国迄も其ひゞき不㆑可㆑然、我等が頭は刎られ申とも御旗に疵は付申間じき。たとへばくづれ申ともくづ【
NDLJP:155】れ不申と申上げて御せいばいに合可申に、いわんやくづれ不申御旗に候間、おそれながら御ことばを帰し申て申はりたるによりて、御旗のくづれざるにしたるは、我等がからかい申たる故なり。是は御ほうかうにはあらざるや。それのみならず七郎右衛門に付て、さかいめに十二年いたるに七郎右衛門者をつれ、七郎右衛門名代に此方彼方(こゝかしこ)の取出の番を、其将になってつとめたる只今迄残りて有者は、御普代衆の内には我一人より外は有間じき。尤其比の取出の番をしたる衆も可有けれども、其衆はことごとく人に付て歩(あり)きたる衆は可有。人をつれて歩きたる人は一人も有間じき、我斗にて可有を、我等をば辛労苦労申上たるとは思召なくして、其比人の内の者に成て、其主人に扶持給(ふちきふ)をうけて、草履取一人のていにて其主人ゑほうかう申たる者をば、若き時しんらうくらうして走りまはりたる由御意にて過分に御地行を被下ける。それは其身の主へのほうかうなり。上様への御ほうかうにあらず。其を御ほうかうと思召候はゞ其主への御ほうかうはなし。我等は境目へ出ると申せども、親の跡と兄の新蔵打死の跡を被下てあれば、七郎右衛門処寄は何にてもとらず。若き間は御手さきを心がけて、我が望にて出たり。其故七郎右衛門をさかいめに召おかれける間、方々以さかいめへ出て御ほうかう申上候なり。人なみに走りまい申事は一々にあらはしてもいらざることなり。面白き事どもなり。御直に御地行被下て、さかいめへ出て御ほうかう申上たる我等共は、辛労とも思不召して、主をもちて其主の供に出たる者をば、さかいめに有てしんらうをしたるとて、過分に御知行を被下ける。子共聞たるか、其いにしへ人につかわれ、草履取一人にて世をめぐりたる衆が、御前へ出人を大勢召つれたり。又今度大坂にておそろしくもなき所にてにげたる者が、過分に重ね地行を取て、人を多く召つれてひらおしにありく。我等共は又武辺したる事もなし、猶々にげたる事もなし、先祖の御忠節もきわもなし、又我等辛労もきわもなし。御主様には当将軍様迄御九代の御普代なれども、か様に被成ておかせられ候へば、右の衆が人多(おほ)にて通れば、わきへ乗寄せてとおる時は、さりとは、御なさけなき御事かなと思へば、人しれず大とちのせいなる涙がはら〳〵とこぼれけれども、何の因果かなと思ひて、心と心を取なをしてこそ歩き候へ。さて〳〵御ほうかうは身にあまるほど申上申なり。上様御座被成候御方へ、後(あと)をして臥したる事もなし。朝夕の看経にも先釈迦仏をおがみ奉りて、其次に相国様をおがみ奉りて、其次に当将軍様御寿命御安穏に御そくさいに、御子様御兄弟様何れも御そくさいに、御じゆみやうあんをんにと拝み奉り、其後七世の父母二親とおがみ奉り申。か様なる儀は当将軍様は御存知なき御事、東照(せう)権現様は見とをさせられ給ふべき。か様に大事と存知奉り申儀をば、神仏も見とをさせられたまはん。おもへば世も末世になりて神もましまさぬかと思ひ奉るなり。然ども子供よくきけ。只今は御主様の御かたじけなき御事はもうとうなし。さだめて汝共も御かたじけなく有間じき。其をいかにと申に、他国の人を御心置きなく御膝元近く召つかわされ、又は何の御普代にもあらざる者を御普代と被仰て、御心おきなく召つかわされ、汝共が様に御九代迄召つかわされける御普代をば、新参者と被成て斗立の三斗五升俵【
NDLJP:156】の三年米を、弐百俵三百俵づつ何れもに被下て何とて忝存知可奉。然共其儀を御不足に存知奉らで、よく御ほうかう可申上、御こんがうをなをし申と御意ならば、弐百俵の事はさておきぬ。弐俵不㆑被㆑下候ても、御草履取になりとも御馬取なりとも、御家を出てべつの主取有間じき。只今こそ我等先祖(せんぞ)をすてさせ給へ。信光様より此方相国様迄御代々の御なさけわすれずして、只今のかなしき事をば、信光様より御代々相国様迄ゑの御ほうかうと思ひ奉り、何とやうにも御ほうかう申上奉れ。其故御主にそむき奉れば七逆罪(ぎやくざい)の咎をうけて地獄におつるなり。此世はかりのやどりなり。後世を大事と思ひて返々も御無沙汰なく、御馬取に被成候共御鑓かづきに被成候共御意にもれ有間敷、御家を出る事なかれ。御普代久しく度々の御ちうせつはしりめぐりを申、御九代召つかわされたる者の筋を、あしく召つかわされ給はば、御主の御ふそくにてこそあれ、万騎が千騎、千騎が百騎、百騎が十騎、十騎が一騎に成とも御草履をなをしてもよく御ほうかう申奉れ。但(たゞし)御ほうかう申上ても不勝づらをして御ほうかうを申上たらば、御ほうこうにならずして反つて七逆罪(ぎやくざい)の御とがと可成。何事をもかごとをも御意次第火水の中へも入て打笑い申て、御きげんのよきやうに御ほうかう申上奉れ。親兄弟女子けんぞく一るいを取あつめても、必ず〳〵返々くりかへし〳〵御主様御一人にはかへ申な。御主様の御ほうかうならば、右の者共をば火水の中、又は敵かたきの中へも打すてゝ二度其沙汰もすな。其さたをしたる物ならば、悔みたるに似べければかならずさたもせぬ事なり。此おもむき汝共が子共によく申つたへよ。是をそむきて御主様へ御無沙汰申上たる者ならば、我死たりと云とも、汝共が笛の根に喰ひ付てくひころすべし。かくは申せども、只今御主様に御忝御事は一ツも半分もなけれども、信光様より此方御代々相国様迄の御あはれみを、我等の代々深くかうむり申、それへの御ほうこうと申、当将軍様迄御九代之御主様と申、又は我等の代々御ちうせつを申上たるを、今末の代に御無沙汰申上たらば、我々代々の御ちうせつがむと可成間、其儀をむなしくなすまじきため、其故御主様に逆心を申せば、七逆罪(ぎやくざい)のとがをかうむりて無間地獄(むげんぢごく)におつべければ、是等のおそれのおそろしければ、返々も御主様に背き奉り申な、よく〳〵心得可申。然共当世の衆は地獄(ぢごく)見たる者なき、何の後生と云人も多し。然共地獄なきと云人は主親をも何共思ふまじければ、主(しう)の用にも立まじければ、左様なる人にはあつたら知行くれても詮(せん)もなき事なり。地獄が有と見てこそ主(しう)にそむけば七逆罪(ぎやくざい)のとがをかうむりて、無間地獄(むげんぢごく)ゑおつるをかなしみてこそ御主をば一しほおそろしけれ。又親に背けば五逆罪(ぎやくざい)のとがをかうむりて、無間地獄(むげんぢごく)ゑおちてよるひる苦(く)をうける。其くるしみのおそろしさに、御主と親をば大事にして御意に背かざるやうにと、人間はたしなめ、地獄(ぢごく)も極楽(ごくらく)もなきと見たらば、主のばちもおやの罸(ばつ)もあたらぬと見べき間、是をおもへば左様に申人は、御主様の御事をも思ひ申まじきは必定なり。かまへて〳〵子共よくきけ、地獄(ぢごく)も極楽(ごくらく)も有にはひつぢやうなるぞ。地獄にかならずおそれて御無沙汰申上申な。御召つかい候事もあしく共、過去の生業いんぐわと心得て可有。然共因果(いんぐわ)は色々に有と見えたり。よき事をしてもよくは報はであしき【
NDLJP:157】も有り、あしき事をしてすゑがさかえてよきも有り。あしき事をして其身の代にあしくあたるもあり。色々とは見えたり。其をいかにと云に、御主様へ敵をして、さび矢を射かけ申たる者の末々の、はんぢやうしてさかゆるもおゝし。又代々御敵を不申上して、矢おもてにかけふさがりて、御代々の御時毎に御忠節(ちうせつ)を申上たるすゑ〳〵の者に、こと〴〵くかた身をすくめて、御敵を申たる筋の者にかゞむ因果(いんぐわ)も有。我等共の因果(いんぐわ)は此因果(いんぐわ)なり。さて又信長などの因果はたちまちにむくはせ給ふ。其をいかにと申に、みのゝくに岩もろの城にて甲州衆を攻おとさせ給ひ、二の丸へ押入堄(しゝがき)をゆひて、こと〴〵くやきころし給ふ。其後甲州へ乱入給ひし時、ゑりん寺の智識達其外の出家達を鐘楼堂(しゆろうだう)へおひ上て、火を付てこと〴〵くやきころし給ふ。比は三月の事成に、其年の六月二日にはあけち日向守べつしんして、二条本(ほん)能寺にてやきころされ給ふは、因果(いんぐわ)は早くむくいたるかと見えたり。さて又太閤の関白(くわんぱく)殿御べつしんとて腹を切せ奉りて、御手かけ衆を三十人斗、何れもれき〳〵の衆の娘(むすめ)達を、三条磧(かはら)へ引出して頭(くび)を切て、一ツあなへ取入て畜生塚(づか)と名付て、三条につかを築給ふ事も因果(いんぐわ)、又三七殿は信長の御子なれば、太閤のためには主にて有物を、ぬまの内海(うつみ)にて御腹を切せ給ふ事も因果なり。昔は長田(をさだ)今は太閤なり。又家康様へ毒をまいらせんと被成けるに、座敷にて御しき代を被成て、御座敷が大和大納言の、上座より下座へ御さがり被成候故に、其御膳が大和大納言にすわりて、太閤の舎弟の大和大納言まゐりて死給ふ。是と申も相国様御じひにて御正直故に、天道の御恵深くして不被参、大和大納言の参りたるも因果(いんぐわ)なり。其後秀頼の大阪にて相国様に御腹を切せ奉らんと有りけれ共、ほぐれてならざる事なれ共、御じひ故に秀頼をたすけおかせられ給ふ。其後又諸大名を語らひて、伏見(ふしみ)にて取かけて御腹を切せ申さんと専支度をしけれ共、思ひもよらずならざる事なれば打過ぬ。其後あひづ陣へ御出馬の御跡にて諸大名をかたらひて、手を出して伏見の城をせめてやきくづし、各を打取て其きおひに関が原へ押出して、合戦して打まけける時、御じひ故たすけおかれ、それのみならず、いなりに大阪の城におかせられ給ひけるに、其御恩をもしらずして今度又諸国の浪人を拾万に及てかゝゑて、御敵をなし給ふ所に、押寄させ給ひて城を取巻給へば、又かうさんのしければ、こりさせ給はで、御じひの深きゆゑに赦(ゆ)りさせ給へば、又次の年手出しをして、堺の町をやきはらへば、又々両将軍様御出馬有りておひくづさせ給ひ、なでぎりに被成ければ、運のすゑかや町も城も一間も残らず、二時の内にやけはらいける。天主に火がかゝりければ、秀頼は御母を打連させ給ひて、山里ぐるわへ出給ひて、又かう参を乞給へば、御じひにて御思案有けるが、いや〳〵又生けておくならば、又もや不覚悟可有に、腹を切せ申せと御意なれば、押かけて腹を切給へと申せば、火をかけて焼死(やけし)に給ふ。是と申も太閤の因果(いんぐわ)又は御とがなき相国様へ度々におひてそむかせ給ふ因果なり。是を思へば因果と云事も有物か、さて又相国様の御じひは申不及候へどもあら〳〵如斯。まづ〳〵御敵をなしてさび矢をいかけ奉り、御命をねらいひたる者共を、こと〴〵く御助け被成候御事さいげんなし。又は尾張内府の太閤にせめつけ【
NDLJP:158】られ被成んと有時、家康を頼奉と仰けるにより、御加勢に御出馬有て合戦を打勝給ふ所に、内ふは太閤にかたらはれ、家康へはさたなしにぶぢをつくりて、あまつさへ家康を打奉らんと内々たくみ給へと、何とも打可奉様のあらざれば程も延(のび)行ける処に、太閤より内ふはぶぢをつくらせ給ふが、家康は何と可被成、同は御ぶぢをも被成候へと仰被越ければ、内ふにたのまれ申せばこそぶぢにもいたさね、さらばぶぢに申とて御ぶぢになる。然時後内ふは太閤に国をとられ給ひて、越前のかたはらにあられぬ成にて御座候つるが、今度石田治部が手がわりの時、家康へ御敵に成て治部と一身に成けるが、合戦に御勝ち候ても御赦し被成て御じひを被成ける。今度は大阪へ不入る故に、役なしに五万石被下候儀は御じひにはあらずや。石田治部が伏見にて御敵をなさんとしければ、上方衆寄合て腹を切せんと申を、各を賺(すか)いてさお山へおくりて越給ふ。御じひにはあらずや。其御おんをわすれて又御敵を申て打ころされ申。佐竹、景勝、島津、安芸の毛利、彼等が御敵を申たるに、御せいばいはなくして反て国郡を被下けるは御じひにはあらずや。秀頼を四度迄ちがいめを御赦されたるは御じひにあらずや。信長の伊賀の国の者をば何方に有をも引出して、こと〴〵くせいばい被成けるに、三河遠江へ参たる者をば隠し置給ひて、一人も御成敗(せいばい)なき、是は御じひにはあらずや。然処に信長の御腹切せ給ひし時家康様者伊賀地にかゝらせ給ひてのかせられ申時、日比の御おん御忝と申て、国中の者共がおくり申奉りて通し申、是も日比の御じひ故なり。是も御因果の御目出度御事なり。又々爰に不審成ことの有けるは、各々犬打童(わらんべ)迄申けるは、本多佐渡守が大久保相模守をさゝえ申たる由ならわしたり。左様の儀を人がしらでなもなき事申、佐渡は相模親の七郎右衛門に重恩を受たる者なれば、恩を忘れて何とて左様には可有哉。其は人の云なしなり。相模は子の主殿を初め我等どもこそしらね、定て其身の御科(とが)も深くこそ有つらん、とても佐渡はさゝゑ申事ゆめ〳〵有間敷とは、今に於て思ひ居れ共、町人民百姓迄も申故は、いかなれとは思へども、げにも左様にもこそありけるかと、ふしんにはあれども、然共しれず。佐渡は若き時分にはむごき物とは沙汰はしたれ共、年も寄ければ定て其心はなほり可申。佐渡守をば七郎右衛門が朝夕のはごくみて、女子のつゞけ塩噌薪(たきゞ)にいたる迄、つゞけてはごくみ、御敵を申て他国へかけおちしたる時も、女子をはごくみ、其故御詫事を申上て国へ帰して、先隼鷹匠にして、其後色々御とりなしを申上、四十石の御知行を申うけて出し、其後もはごくみて、年取にはかならず嘉例にして大晦日の飯と元三めしをば、七郎右衛門処にて佐渡は喰ひけり。関東へ御移(うつ)り被成ても、其故には江戸にても其かれいをばしたる佐渡なれば、いかでか其おんをわすれんや。其故七郎右衛門果つる時も、佐渡守をよびて遺言にも、相模に不沙汰なき様にと頼入て果(はて)候へば、其時も七郎右衛門にむかひて、何とてかぶさた可申、御心安あれとかた〴〵と申つるに、若其心を引ちがへてさゝへても有か。昔は因果は皿の縁(はた)をめぐると云けるが、今はめぐりづくなしにすぐに向へ飛ぶと云こと有。今においていかなればとは思へども、人にさへづらせよと申事のあれば、左様にも候哉、よき因果(いんぐわ)はむく【
NDLJP:159】へどもおぼえなし。あしき因果のあしく報うは見えやすし。さも有か佐渡は三年もすごさずして顔(かほ)にたうがさを出かして、方顔(かほ)くづれて奥歯の見えければ其儘死、子にて有上野守は御改易(かいえき)被成て出羽之国ゆりへながされて、其後あきたへ流されて佐竹殿にあづけられて、四方に柵を付堀をほりて番を被付てゐたり。皆々申ならはすもげにはさも有か、相模守御かいえきも、大うす御大事の御仕置とあつて、京都へ召つかはされ其跡にて御改易(かいえき)被成、又上野守を御かいえきも、大うす御大事の御仕置とあつて、て召つかはされて、其跡にて御かいえき被成候へば、同如くに候故、さてはさゝゑ申たるか、困果(いんぐわ)のむくいかと又世間(せけん)にて犬打わらんべ迄申なり。史記(しき)のことばに蛇(じや)は蟠(わだかま)れどもしゆうけのかたにむかひ、鷺は太歳のかたをそむき巣をひらき、つばめはつちのえつちのとにすをくいはじめ、わうよきはみなとにむかひてかたたがへす。鹿は玉女にむかいてふし候なり。か様のけだ物だにぶんにしたがう心は有ぞとよ、面(おもて)斗は人々にて、霊魂(たましひ)はちくしやうに有物哉。
元和八年六月 日 大久保彦左衛門 花押
子共にゆづる
若此書物を御普代久敷衆の御覧じて、我家之事斗を依怙に書たるとばし思召な。左様にはあらず。此の書置儀者人に見せんためにあらず。我は早七十に及に罷成候へば、今明日之儀も不存候へし故に、今にもむなしく罷成候はゞ、御主様を何程久敷御主様とも存知申間敷ければ、御主様にあふぎ奉御事、当将軍様迄御九代の御主様にて御座被成候儀を、我がせがれにしらせんため、又は我が先祖の御代代の内一度も御敵を不申候へて、度々の御ちうせつを申事をしらせんため、又は我等共のしんらうをしらせん為に書置て、門外不出と申おき候へば、誰人も御覧ぜは有間敷けれども、若落ちりて御覧ぜ候共、えこに我家の事斗書たると仰有間敷候。御普代久敷衆は、何れも我家々の御ちうせつのすぢめ、御普代久敷筋めを如此書立て、子供達へ御ゆづり可被成候。我等は如此、我が家の事を斗書立て子共にゆづり申なり。然る間他所之儀は書不申。以上。