ラホールとは? 意味や使い方 - コトバンク
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- ️Mon Mar 28 2016
デジタル大辞泉 「ラホール」の意味・読み・例文・類語
共同通信ニュース用語解説 「ラホール」の解説
ラホール
インド国境に近いパキスタン第2の都市で人口約874万人。穀倉地帯のパンジャブ州に位置する。ムガール帝国時代の歴史的建造物が多くある。シャリフ首相の出身地。パキスタンの人口の約95%はイスラム教で、キリスト教徒は約2%。ラホールにはキリスト教徒の地区があり、イスラム過激派などからたびたび攻撃を受けている。(イスラマバード共同)
更新日:2016年3月28日
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精選版 日本国語大辞典 「ラホール」の意味・読み・例文・類語
改訂新版 世界大百科事典 「ラホール」の意味・わかりやすい解説
ラホール
Lahore
パキスタン北東端,パンジャーブ州の州都。人口514万(1998)。パンジャーブ五河の一つラービー川南岸近くに位置する。《ラーマーヤナ》の英雄ラーマの息子ラバにより建設され,地名は彼にちなむラーハーバールに由来するという伝承がある。しかし史料に最初に現れるのは,1021年にガズナ朝のマフムードがここを奪取したときである。彼に仕えて征服に同行した科学者ビールーニーは〈イラーバ東岸のラウハバールの都〉と記している。以後,12世紀末のハルジー朝から16世紀初めのローディー朝までのデリー・サルタナット諸王朝のパンジャーブにおける根拠地となったが,1301年にはモンゴルの,また98年にはティムールの侵入により破壊され,この間は停滞した。しかし1524年に,のちにムガル帝国を興すバーブルの支配下にはいって以来,同帝国下で18世紀初めまで繁栄した。第3代皇帝アクバルは1584-98年に,また第4代皇帝ジャハーンギールは1622-27年にラホールに宮廷を置いた。すでに16世紀中期には,囲壁と濠に囲まれ12の市門をもつ旧市ができ上がっていた。旧市北西方のラービー川対岸にはジャハーンギール帝の壮麗な墓廟が残り,また東方に残るシャリマール庭園は第5代皇帝シャー・ジャハーンにより建造されたイスラムの天国のイメージを具現する泉水庭園である。第6代皇帝アウラングゼーブも王宮西に世界有数の規模をもつバードシャーヒー・モスクを建立した。しかし同帝の死後,帝国の衰退とともにラホールも繁栄を失っていった。1767年にはパンジャーブを根拠地とするシク王国の首都となったが,シク戦争(1845-46,48-49)における敗北によりイギリスに占領された。以後,英領パンジャーブの中心として,旧市南方に諸官庁,大学,博物館などの公共建造物と高級住宅地をもつ緑多い新市が,またその東方には広大な軍事駐屯地が19世紀後半に建設された。1947年のインド・パキスタン分離独立にあたってはパキスタン領に編入され,55年に西パキスタン州の,70年には新設されたパンジャーブ州の州都となった。
今日では,囲壁と濠は撤去,埋め立てられ円周道路となっているが,旧市の北西端にはムガル帝国時代の王宮バードシャーヒー・モスク,シク帝国の英主ランジート・シングの墓廟が残り,その南の市中には迷路状に諸バザールが連なる。なかでも旧市南部を東西に走るアナールカリー道路の大バザールは,ムガル以来の伝統をもつ目抜き通りである。独立後,新市と軍事駐屯地の周辺にも都市化が進んだ。新しい工業団地も生まれており,ラホールには金属,機械,繊維,ゴム,電気,化学,鉄道,車両などの工業が立地する。金銀細工,絹製品,革製品などの伝統工芸も名高い。周辺には灌漑用水路の整備された沃野が広がり,そこからの小麦,米,綿花,サトウキビ,油料作物などを集散・加工する。
執筆者:
ラホールの博物館
ラホール中央博物館は1894年に開館されたパキスタン最古の博物館で,細密画,貨幣,民族資料などにもみるべきものがあるが,ことにガンダーラ美術のコレクションが充実していて,シクリ出土の釈迦苦行像や仏伝図浮彫で飾られた奉献塔のほか,ガンダーラ各地出土の多くの優品を含んでいる。またラホール城博物館はムガル時代の細密画,貨幣,文書,武具のほかシク教美術の遺品も収めている。
執筆者:肥塚 隆
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラホール」の意味・わかりやすい解説
ラホール
らほーる
Lahore
パキスタン北東部、インドとの国境にある古都。パンジャーブ州の州都で、パキスタンの学術、文化の中心地である。人口506万3499(1998)、1112万6285(2017センサス)。起源は伝承では『ラーマーヤナ』にまでさかのぼるが、都市として発達し始めるのは1021年にガズナ朝のマフムードがこの地を占領してからである。以後、諸王朝のパンジャーブ地方支配の拠点となり、とりわけムガル帝国の下で繁栄し、1566年ごろには、周濠(しゅうごう)を備えた高さ9メートルの市壁に囲まれ、12の市門をもつ都市となった。現在の旧市は当時のおもかげを残し、旧市の北端にある王城は、ムガル帝国のアクバル、ジャハーンギール、シャー・ジャハーンの3代の皇帝により建設された壮麗な宮殿をもつ。王城の西にはアウランゼーブ帝時代につくられた世界有数の規模をもつバードシャーヒ・モスクがある。ムガル帝国の衰退後は、ここを首都としてシク王国が興ったが、1849年の敗戦によりイギリス領となった。イギリス領時代には、旧市の南方に州庁、大学などのインド・サラセン様式の公共建造物が建ち並ぶ新市や、東方には広大な兵営地区が建設された。独立後は新市と兵営地区の周辺に住宅地が広がり、工業団地も計画的につくられ、繊維、電気、化学、機械などの諸工業が立地している。1940年にはパキスタン建国の礎(いしずえ)となったラホール決議を採択したインド・ムスリム連盟大会が開かれ、それを記念して王城北方のイクバル公園には「パキスタンの光塔」が建設されている。
[応地利明]
百科事典マイペディア 「ラホール」の意味・わかりやすい解説
ラホール
→関連項目パンジャーブ
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラホール」の解説
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラホール」の意味・わかりやすい解説
ラホール
Lahore
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旺文社世界史事典 三訂版 「ラホール」の解説
ラホール
Lahore
7世紀初めの玄奘 (げんじよう) の記録にもみえるが,ムガル帝国の諸帝によって最も栄えた。特にシャー=ジャハーンは郊外に大庭園を造り,アウラングゼーブはイスラームの大礼拝堂を建てた。また1929年にネルーの指導下でインド国民会議派の大会が開かれ,ガンディーによって“プールナ−スワラージ(完全独立)”が唱えられた。
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