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リスボンとは? 意味や使い方 - コトバンク

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リスボン
Lisbon

ポルトガルの首都であり,同国最大の都市。人口52万4640(2005)。ポルトガル語ではリズボアLisboa。イベリア半島のほぼ西端,テージョ川の河口から上流12kmの右岸に位置する。狭い河口に守られた港は自然の良港で,ヨーロッパ有数の中継港。温和な気候に恵まれ,年平均気温は16.8℃,年降水量761mm。雨は冬に集中し夏は乾燥する。〈七つの丘の都〉と呼ばれる同市の地形は起伏が激しく,市街地には急な坂道が多い。官庁街に囲まれたテージョ河畔のユメルシオ広場(テレイロ・ド・パソ)から北のロシオ広場に至る東西300m,南北500mの地区はバイシャと呼ばれ,1755年の震災後再建された碁盤割りの整然とした市街地で,市内随一の商業地区。銀行,貴金属商が集中している。バイシャの東側にはサン・ジョルジ城を頂く丘があり,テージョ川に向かって下る北斜面には市内で最も古いアルファマ地区がある。迷路のように入り組んだ細い急な坂道の両側には家屋が密集し,その町並みは4世紀以上に及ぶイスラム支配の影響を強く残している。バイシャの西側の丘を登るカルモ通り,ガレト通りからカモンイス広場に至る界隈はシアードと呼ばれ,主要な書店,百貨店,食品店などの建ち並ぶ商業地区として有名。カモンイス広場の北側に広がるバイロ・アルトでは印刷,家具製造などの軽工業が盛ん。16世紀に貴族の屋敷町として開発され,道と道とが直交する当時としては画期的な町並みを残す。今日ではアルファマとともに同国特有の歌謡ファドを聴かせる観光客相手のレストランが多い地区である。ロシオ広場の北西に隣接するレスタウラドーレス広場からは,北北西の方向に緩やかな登りで幅90m,全長1.5kmのリベルダーデ大通りが延びている。大通りには車道のほか2本の遊歩道が通っている。街路樹やベンチを備え,同国独特の細かなモザイクが一面に施された遊歩道は美しい散歩道として市民に親しまれている。大通りの終点ポンバル広場の北には広大なエドゥアルド7世公園がある。

 市内の交通網はロシオ広場を中心に,バス,電車,地下鉄などにより整備されている。中心街のケーブルカーやエレベーターも重要な公共交通機関。近郊の観光地シントラ,カスカイスとは鉄道で結ばれる。リスボンは全国の鉄道網の起点で,サンタ・アポロニア駅からは北部へ,テレイロ・ド・パソ駅からは対岸のバレイロ駅(渡し船で連絡)を経て南部へ,それぞれ結ばれている。同市を中心とする道路網も整っており,1966年テージョ川をまたぐヨーロッパ最長の橋(2278m)が開通して以来,南部地域との交通は飛躍的に改善された。しかし渡し船も依然重要な市民の足である。中心街の北わずか6kmに空港もあり,内外の主要都市と空路で結ばれている。港は年間入港船隻数4421,総重量335万トン(1979)の同国一の規模をもつ。河口近くのアルジェースから30km上流のサカベンに至る川岸沿いに立地する,同市の工業地帯と密接な関係を保ちつつ発展している。工業都市としても同国随一の規模を有し,とくに石油精製,造船,化学,製鉄などの重工業が行われる。近年は工業地帯がさらに上流の地域および対岸地域に拡大する傾向がみられる。

歴史

リスボンはギリシア人あるいはフェニキア人の植民市を起源とするともいわれるが,定かではない。前3世紀末,ローマ帝国の版図に編入された頃,当時の呼称オリシポOlissipoあるいはウリュシポUlysippoに代わり,フェリキタス・ユリアFelicitas Juliaと名づけられた。今日の市名リズボアを生んだオリシポの起源については,同市の建設者をウリセスUlisses(オデュッセウスのポルトガル語形)とする伝説が好んで引用されるが,その他の諸説と同様に確証はない。5世紀初頭より西ゴート人の支配下に入り,8世紀初めから400年以上イスラム教徒の統治地域の西方の拠点都市として繁栄。1147年アフォンソ1世は十字軍の援助を得てリスボンを包囲し,3ヵ月後に同市はキリスト教徒の手に落ちた。13世紀中ごろ国土回復戦争を完了した王国の首都がコインブラから同市に移され,以来その政治的役割の高まりと並行して商業都市リスボンは目ざましい発展を遂げることとなる。

 15世紀には同港を拠点とするセウタ攻略(1415)により大航海時代の幕が開き,同市は海外進出の一大基地となる。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(1497-98),カブラルのブラジル発見(1500)も同市を拠点とした。マヌエル1世(在位1495-1521)の頃,港は船でにぎわい,同市は東洋の香料を求めてヨーロッパ中の商人が集まる国際貿易都市として繁栄を極めた。1755年の大地震およびそれに続く津波,大火でリスボンは壊滅的災害をうける。時の宰相ポンバル侯はこれを機に市の大改造に乗り出し,リスボンは近代的都市に生まれ変わった。当時整備されたバイシャ周辺に〈ポンバル様式〉の整然とした建物がみられる。19世紀末以来とくに都市化の著しい北部,西部には現代的な高層建築が多くみられる。リスボンは1755年の大地震以前にも少なくとも2回地震に見舞われており,崩壊,再建を繰り返している同市には史跡都市の趣はないが,注目すべき歴史的建造物も多い。西ゴート人により築造されたサン・ジョルジ城(5世紀),大地震後再建された大聖堂(12世紀),外面が一面に四角錐で覆われた特異な様相をもつカーザ・ドス・ビコスの館(16世紀),マヌエル様式の典型であるベレンの塔およびジェロニモ修道院(16世紀)などが有名。河畔に立つ大航海記念碑(1960)も名所の一つである。博物館,美術館も多く,国立古美術館,馬車博物館,考古学・民族博物館,海軍博物館などがその代表で,トーレ・ド・トンボ国立公文書館は国内随一の収蔵量を誇っている。20世紀初頭より大学も創設され,現在3大学を数え,同国の文教の中心地としても重要な役割を果たしている。
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