中国(チュウゴク)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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中国 (ちゅうごく)
Zhōng guó
誤解
〈それ人は万物の霊とて,天地間に生まるるもの,人より尊きものはなし。殊に我国は神州と号して,世界のうちあらゆる国々,我国に勝れたる風儀なし〉。明治元年京都府が府下人民に与えた〈告諭大意〉の書き出しであるが,中村光夫《現代日本文学史》第1章〈明治初期〉,第2節〈啓蒙思想〉はそれを引用して次のごとく論じている。〈この一節の文章に見られる奇妙な思想の混合は,明治人の心理を象徴しています。人は“万物の霊”であり天地間にあるもので“人より尊きはなし”というのは西洋の近代思想の反映であり,明治新政の原則であった“四民平等”の精神と表裏をなしています。この近代ヒューマニズムの主張が,一方において封建制度を打破する力として働きながら,他方“神州”の信仰と何の矛盾もなく結びつき……〉。日本の代表的知識人の言葉として,これはまことに奇怪千万といわねばならない。なぜなら,江戸時代の,否,明治中期ごろまでの書生たちにおいては常識中の常識であったごとく,〈人は万物の霊〉というのは儒教の古典のうちでも最もポピュラーな《書経》泰誓篇の言葉,そして〈天地の生むところ唯だ人を尊しとなす〉は,そのすぐ下に割りつけられた注釈の言葉にほかならぬからである。
さらにいま一つ例をあげるならば,井出孫六の小説《太陽の葬送》の中に,乃木将軍の殉死に対して〈儒教的な,あまりに儒教的なその死〉と批判的な感懐を述べたくだりがある。しかしながら,多少とも儒教というものに知識をもつ人であれば,この感懐もまた不思議以外の何物でもあるまい。乃木将軍の死は武士道の精華とこそいうべきであろうが,どう考えても儒教的ということはできないように思われる。君父に対するいかに深い哀痛であろうとも,それを礼によって抑制して〈性を滅せしめない〉のこそ儒教の教えであった。汨羅(べきら)に身を投じた忠臣屈原の自殺がしばしば遺憾とせられるのは,すなわちそれである。儒教が要求するのは何よりもまず思慮,そして思慮によって中庸を守ること,である。直情径行は戎狄の美学にすぎない。〈士は己を知るもののために死す〉とは俠者のことにすぎない(俠と儒とは対極概念)。事実,歴史をふりかえってみても,社稷(しやしよく)(国家)に殉じた臣というものはいくらでも思い出せるが,君主に殉じた臣というものを思い出すのはむつかしい。
日本と中国
中国について何かをいうことは,やさしいようで実は大変むつかしい。それは何よりもまず,中国と日本との関係の地理的歴史的な密接さに起因する。日本はおそらく,歴史の最初から中国文化の不断の波をかぶってきたと思われる。もちろん多くの場合,朝鮮半島の民族と国家が中間で媒介したということはあるが,やがては直接の接触が主流となる。大局的に見て日本が,中国文明の圏内に,ただしその最周辺部に,あったことは疑いない。漢字,儒教,律令(国家体制,政治制度),仏教,の四者を指標として中国を中心とする東アジア世界というものを構想することもできるし(西嶋定生),指標としてはさらに稲作(南中国),ある時期から木綿布を着用すること,食事に箸を用いること,等々を取ることもできよう。ただし,少なくとも明治維新以前まで,中国から日本への影響はまったくの一方交通であって,日本から中国への影響は,扇子のごとき例はあるにしても,ゼロに等しかったといってよい。日本のかな文字のごとき,もし中国に対して何らかの示唆を与えていたならば,大きな貢献として特筆されたであろうが,そのようなことはまるでなかった。
ただ注意すべきことは,日本は中国に対して,海を隔てて辺境に位置していたので,陸つづきの地域にくらべてその独自性(たとえばその主情性)をはるかに有利に保持することができたということである。中国は政治的には諸外国を朝貢国として扱ってきたが,日本は然るがごとく然らざるがごとき態度,しばしば明確に独立の態度,をよく維持してきた。さらにまた日本は明治以後,西欧文明を進んで受け入れたという事実がある。それには,日本にはすこぶる有利な(心理的に有利な)事情があった。つまり,日本はつねに外国を師としてやってきた,これまでは中国文明を師としてきたが,今日それはもはや最高のものではない,今日,西欧文明を摂取するに何らためらう理由はない云々。西欧文明に対していわば無駄な抵抗を重ね,そのためにさまざまな苦しみを嘗めざるをえなかった中国,われわれはその頑迷固陋さを笑うが,しかし借物の文明をまるで衣がえするように乗りかえるのと,自己のいわば血肉そのものを入れかえる痛みを経験せざるをえない場合と,この二つを同一に見なすことはできないと思う。
要するに明治に至って歴史上初めて中国→日本という流れが逆転して,日本→中国という流れが生まれた。その最も顕著なものは言葉であって,政治,思想,学術,あらゆる方面に日本製の新漢語がはんらんし,今日ではもはや完全に定着して誰ひとりその由来を意識しないまでになっている。日本より逆輸入されたこれらの漢語をぬきにしては,今日いかなる文章をも成すことはできないであろう。もとはといえば日本人が欧米の文物を摂取しようとして苦心して作り出したものであるが,さらにまたそのもとはといえば,中国から輸入した漢字というものの存在と,儒教の書物などによってあらかじめ理論的抽象的思考の能力が養成されていたこととのおかげである。かくて,歴史上初めて本格的な日本研究書《日本国志》(黄遵憲著)が出現し,明治維新にならおうとする政治改革運動が起こった。留学生は日本に殺到した。その数は1905,06年のピーク時に8000名といわれている。数千年来の王朝体制にとどめを刺した辛亥革命は日本留学生が行った事業といってよく,その策源地は東京であった。かくて日本人の先進国意識は抜きがたいものとなり,中国への軽侮は夏目漱石をして,少しは受けた恩義のことを考えたがよかろう,といわしめるまでになった。はやくも1885年,福沢諭吉は〈脱亜論〉を書いていた。日本はすでにアジアの固陋を脱して西洋の文明に移ったのに,不幸なることに固陋な儒教主義の国(支那,朝鮮)と隣りあわせている,日本として,とても〈隣国の開明を待ちてともにアジアを起こすの猶予あるべからず〉,隣国だからといって特別の考慮は不要である,アジア東方の悪友を謝絶することこそ急務であり,〈まさに西洋人がこれに接するの風に従って処すべきのみ〉と。
では西洋人はアジアに対してどのように接したか。一つには文明の師として,だが同時に,あたかも一枚の紙の表裏のごとく,二つには帝国主義者,侵略者として。日本は第2の風に従うことにはなはだ果敢であった。もちろん,ヨーロッパ帝国主義への抵抗,そのためのアジア連帯の意識もたしかに一部に生まれた。そしてその意識にとって,本来連帯の中核たるべき中国の現状は,何ともじれったいかぎりであった。いわゆる〈右翼〉の源流の一つに,このようなアジア主義の意識があったことは否定すべきではない。やがて大勢は,侵略に抵抗するための侵略,という大義名分に滔々として流れてゆく。だが中国の生れ変わりに協力し,中国を真に強くすることによって連帯を実現しようとした宮崎滔天のような人も,やはりいたのである。
要するに中国は日本にとって,愛憎二面的な対象である。少なくとも,明治以後はそうである。しかしいかに思い上がった傲慢さの底にも,欧米へのとは異質の身近さの感情は消失しなかった。〈中国と日本の関係はギリシアと西欧文化の関係に等しい。日本人は中国へ観光客としてよりも巡礼として行く〉(エドガー・スノー)。ある程度の教育をうけた日本人で孔子や孟子の金言のいくつか,李白や杜甫の詩の一句や二句を記憶にとどめていないものは少ないであろう。われわれは単なる風景,習俗,物産の珍しさを喜ぶよりも,孔孟,諸葛孔明,李杜韓白(李白・杜甫・韓愈・白居易)の国であることに感動する面が,たしかにある。さらにいま一つ無視できないのは,敗戦までの日中関係の特殊さの結果として,中国への往来にはビザを必要とせず,多くの日本人が自由に彼我を往来し,住みつき,商業その他を営んでおり,そのうえまた日中戦争で多くの庶民日本兵が肌身で親しく中国を体験した,という事実がある。そのことが侵略への荷担にすぎなかったといえばまさにその通りであるが,しかし,とにもかくにも肌身で中国を体験した日本人が飛躍的に増大したことは,中国への民衆レベルでの親近感という点で,無視することはできないであろう。
現代中国を見る尺度
今日では,さらに,社会主義中国(中華人民共和国)の出現という新しい事態がある。それはとくに,その革命成功にいたるまでのほとんど叙事詩的ともいうべき前史によって,イデオロギーを超えた感動を全世界にまきおこした。中国は今度は,日本の知識人,いわんや左翼知識人にとって,一転して金ピカの存在となる。侮蔑は一転して熱狂的な崇拝となり,それは当然反発を生みつつ,ほとんど一時代の〈世相〉とまでなった。やがてそれも文化大革命とその失敗によって,幻滅をもってサイクルを閉じるが,そしてその時期は社会主義国一般の信用失墜の時期と重なったが,ともかくこの社会主義中国の出現は日本の中国観に複雑な要素をつけ加えたのである。いわんや毛沢東時代の完全な終焉,現代化政策のなりふりかまわぬ開始は,イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソンの有名な定義〈共産主義とは工業化におくれをとった民族が一挙にそれに追いつこうとするときにとる国家形態〉を,否応なしに想起せしめるほどである。
かくて,新中国と旧中国の連続,非連続の問題は,われわれのこれから慎重に検討すべき課題である。もちろん革命である以上,単なる連続であるはずはない。事実,金ピカ時代,日本における論調には,中国は完全に過去から絶縁したという語気のものが多かった。しかし今日ではむしろ連続面に注目するものが多いようである。中国自身においても〈文明の民族的風格〉とか〈中国的社会主義〉というものが,さかんに強調されている。つまり,われわれの中国の理解--それはもちろん現代中国の理解ということに帰着する--の前には,(1)日本人であるがゆえの困難,に加えて,また(2)伝統的中国文明対西欧文明(五・四運動時期の標語によれば,デモクラシーとサイエンス),という図式以上に,もっとも具体的には,(3)次のような課題が存在することを知る。つまり(a)数千年にわたってまったく独自に形成せられた中国固有の伝統文明,(b)マルクシズム,社会主義の国家体制,(c)国家体制のいかんを問わず今日の最大問題ともいうべき工業化,科学文明,少なくともこの三つの座標軸を用意してかからねばならないということである。最小限この三つの視点をかみあわせることなしには,例えば,今日の外国資本の大胆な導入や農業における野放図ともいえる生産請負制奨励などから誰もが容易に抱くであろうところの疑問,中国は社会主義をすてて資本主義に移るのではないかという疑問,などに有効な示唆を与えることは到底できないのではないかと思われるが,率直にいって筆者にはその力量はない。以下にはただ,これらの座標軸のことを頭におきながら,ただ一つ,伝統的中国の諸相を概観して,読者への参考としようと思うのである。
地大物博もしくは広土衆民
これは中国を論ずるものが誰でもまず第一に取りあげる点で,国土の広大,物産の豊富,住民の多さ,改めて説明の必要はない。今日の人民共和国の領土は,清朝のそれが原型となっており,それから外モンゴル(および台湾?)を引き去ったものといってよい。他に香港,澳門(マカオ)の問題。清朝では,(1)本部(内地ともいう),(2)藩部(内蒙古,外蒙古,回部すなわち西北のイスラム教徒地域,青海,チベット),(3)満州(清朝発祥の地なのでとくに直轄地とした)の三部建てで統治した。そのうち外蒙古はロシア革命の波及によって1924年にモンゴル人民共和国として独立している。満州つまり今日いう〈東北〉も中華民国時代,日本の傀儡政権〈満州帝国〉が一時独立を称していたことがあるが,これは日本の敗戦によって消滅した。中華民国は台湾で独自に政権を立てているが,要するに政権の問題であって,大陸側も台湾側も台湾が中国の一部分,つまり台湾省にすぎないことは明言している。広さはソ連,カナダに次いで世界第3位で,全ヨーロッパとほぼ等しく,アメリカより大きい。日本の約26倍もある。満州,つまり〈東北〉(遼寧,吉林,黒竜江の3省)のみで日本の3倍の広さであり,四川省一省のみで日本全体より広い(四川省は人口もほぼ1億)。
いうまでもなく中国は農民の国であり,このような国土の広さは大きな強みのように思われがちであるが,実際には耕地として利用されているのは全領土の10%程度にすぎないのである。その広い土地は,冬季-52℃を記録したこともあるほどの黒竜江省より純然たる熱帯の海南島--ただし,最も暑いのは海南島ではなく新疆ウイグル自治区のトゥルファン盆地で,日中の最高気温が47℃を記録したという--,さらに高地帯では標高4000m,年平均気温が-6℃,空気すら希薄なチベットを含む。山岳,砂漠,湖沼,単調な海岸,ありとあらゆる地形をそなえている。とくに注目すべきは,古来,ひとたび洪水を起こすとほとんど想像を絶する災害を引き起こす黄河や長江(揚子江)をその腹部にかかえていることである。筆者は1935年黄河の大水害(山東,それが波及して江蘇,その被災者500万人,救済を要するもの200万人,飢餓に瀕するもの27万人)の際の被災農民の流浪の実態--ひっきりなしの貨物列車での輸送,山東省済南市での収容,を親しく見たことがある。政府の救済金,世界各国よりの義捐(ぎえん)金などは役人にピンはねされて末端に来ると雀の涙にも当たらないとのうわさであった。そのせいかどうか,城内各戸に割当てられた被災民は夕方うす暗くなると,厳重な禁止にもかかわらず,三三五五大通りにあふれ出,通行人に立ちふさがって物乞いをする。実に不気味な光景であった。曲りなりにも近代化した国民党政府のもとで,また必ずしも未曾有とはいえない規模の水災においてさえ,かくのごとく,歴史上,水災,蝗害,飢饉に際してややもすると数万,数十万という流民集団が発生し,一部はいわゆる流賊となって各地を襲撃,転戦してまわったのが実感的に納得できた。人民共和国の政府が,ともかく人民を食わせることに成功した,としばしば特筆される背景には,このような現実があったことを知るべきである。
歴史の南進
中国の領土は,というよりいわゆる中国文明の地は,最初から今日の広さをもっていたわけではない。黄河の下流地域,今の山西,河南,河北,山東の接触地帯のあたりにまず文明が開け(殷王朝),ついで陝西省の西安の近くに周の民族が興り,東進して殷を倒し,いわゆる中原の文明を築いた。その文明の継承者たる秦・漢王朝は政治的,名目的にはベトナムにも達する範囲の支配者となったけれども,しかし南方地域がどれほど開発されていたかは疑問である。南方とは,(1)せまくは長江下流,江の南北にまたがっての一帯,とくに江蘇,浙江などの江南地域,(2)ひろくは長江以南の南中国全般を指す。漢(前漢・後漢)につづいて三国時代,次いで南北朝時代という大分裂時代(魏晋南北朝時代),それが統一されて隋・唐の大帝国の時代を迎えるが,この時期に江南の開発は相当に進み,さらに五代十国という50年ほどの短期の分裂時代をへて宋(北宋・南宋)に入って福建広東の地域まで本格的な開発と漢化が進んだこと,文化と経済の中心が江南に移ってゆきつつあったこと,はよく知られている。やがて元の時代をへて明・清時代に入ると,南方優越の形勢は決定的となる。科挙における進士合格者の数,学者芸術家の数,税負担の額,すべて江蘇,浙江を頂点とする南方が圧倒的である。モンゴル民族の征服王朝たる元朝が南人に対して過酷であったことが,かえって南方士大夫の文化を発展させ精彩を与えることとなったという(内藤湖南)。中国文明の歴史は,南進の歴史といってよい。南船北馬,南人は軽薄,北人は素朴,南方は地主小作関係が多く,北方は自作農が多い,南方の士大夫は晩年は仏教にふけり,北方の士大夫は道教にふける,など南北を対比したいい方は無数にある。辛亥革命,人民革命の革命家がほとんど南方(とくに浙江,湖南,広東の3省)出身であったことはよく知られている。
人口,民族
中国の人口の膨大なことも,近代にはじまったことではない。堅実な計算で漢代に人口6000万,宋代に1億5000万弱,清末に4億と計算されている。唐の玄宗皇帝(712即位)の時代に長安の人口100万,宋・元時代杭州の人口150万。清の乾隆帝のとき,1793年(乾隆58),イギリスの使節マカートニーに随行したアンダーソンの旅行記を見ても最も印象的なのは,彼がいたるところ人間の多さに驚いていることである。山間の村落地帯を通過する際でも,人間の多さということを特筆している。当時のイギリス(あるいはヨーロッパ)はよほど人口が少なかったのであろう。今日,人口は10億0800万(1982),日本の人口の10倍。ただ注意すべきは,そのうち漢族人口は93.3%,非漢族いわゆる少数民族(その数は56)は6.7%,しかるにその居住地は,少数民族のそれが全中国面積の50~60%にわたっていることである。われわれは中国といえば,漢族の居住地と考えやすいが,中国人の90%以上が漢族であるという点ではそのとおりであるが,居住地域については,いわゆる中国の半ば近い地帯は主として非漢族の居住する地域(もちろん漢族も混住する)であることを知っておく必要がある。行政区画は台湾省をふくむ23省4直轄市,5自治区(ほかに香港,澳門(マカオ))に分かつ。自治区(○○民族自治区)とはこれらの少数民族のとくに濃密な居住地帯を自治区として,行政上にも特別な地域としているのであり,その風習,言語,文化(なかには独特の文字を有する民族もある)の保護には,考慮が払われているが,同時に共通語としての漢語(中国語)の普及にも力が注がれている。教育の普及,情報伝達の利便,生活の向上……おそらく歴史始まって以来初めて,中国人(漢族プラス少数民族)が中国〈国民〉としての自覚にめざめる事態が名実ともに出現する日はそれほど遠いことではあるまい。10億の〈国民〉! それは世界史上空前の出来事といわねばならない。
中華意識
地大物博の物博の面,つまり物産の豊かさについては,今は省略するとして,ここで一つ取り上げておきたいのは,中国文明が地理的に他の文明世界と隔絶して存在し,発展してきたという事実である。もちろん唐や元が世界国家であること,明代以降〈西北〉や雲南という辺境地帯にトルコ系その他のイスラム教徒の民族やイスラムを奉ずる漢族が独特な地域文化を造り上げていたことは周知のところである。いわんやインドや中央アジアからの仏教の伝来,普及,中国化のごとき,やがて天台,華厳の雄大で細緻な哲学をもつ宗教を生み,ついには禅宗という世界にまったく類例のない宗教を生んだ。それを前の諸子百家,後の宋学(朱子学・陽明学)につないで考えるとき,中国は通説に反して,世界有数の哲学国であったのではないかとさえ思われる。通説に反してといったのは,ヨーロッパ哲学の規準に合わないものを低次の哲学と考え,中国は要するに詩文の国であって哲学的思索に長じなかったとする傾向が根強くあるからである。生活様式の面でいっても,漢民族はもともと日本人と同じ座り方であったのが,五代・宋以降になると椅子が一般化し腰かけ式の生活が普及した。それは胡人の影響であるという。--しかし大局的に見て中国の地理的位置は,他文明の世界とは隔絶する方向に作用したことは,疑うことはできないであろう。それにまた,中国に近接する地域には,それと肩を並べるような文明は存在しなかった。このことがいわゆる中華意識,というより,他民族・他文化への無関心,を助長した大きな原因であったと思われる。中国におけるヨーロッパ研究の現況については知らないが,少なくとも日本研究,日本学は,吉川幸次郎がしばしば嘆いたように欧米にくらべてはるかに劣っている。そもそも日本のことなど,まともに研究するに値するなどとは思ってもみなかったのではないかとさえ疑われる。すでにあげた《日本国志》以後,戴季陶《日本論》(1928)以外にどれほどの研究があるだろうか。このような中華意識が近代ヨーロッパ文明,ヨーロッパ帝国主義との接触以降,中国をして事々に失策を重ねしめた大きな原因の一つであったことも疑うべからざる事実である。しかし,同時にまた中国の中華意識というものが,ある時期までは決して単なる空威張りでなかったことも知っておく必要があろう。たとえば科学でいっても,中国が遂に〈近代科学〉を生み出さなかったのは周知の事実であるが,しかもまた〈16世紀以前の中国は,はるかにヨーロッパを凌駕する科学文明を築きあげていたのである〉(藪内清)。
歴史の古さ
これも周知の特徴である。中国は17,18世紀ヨーロッパにおいても歴史の国として広く知られ,ヘーゲルのごときも,中国が世界で最も古い歴史記録をもつ国,また歴史家の輩出した国として特筆している。ただ,歴史の古さということには,いろいろな意味がある。(1)文字通りに中国史の始まりの年代的古さということ。もっとも単なる古さだけの問題ならエジプトやメソポタミアの古代王国もそうであるが,中国の大きな特徴は,(2)その歴史が,つまりその文明が,終始同じ漢民族によって,同じ中国の大地の上に,中断することなく,しかもつねに高水準に,維持し続けられたことである。このことは,ヨーロッパ人も一様に驚嘆の念をもって言及するところであって,世界史における奇跡と称せられる。すなわち今日のヨーロッパ文明の源流がギリシアとヘブライであることは誰もが知っているけれども,ヨーロッパ文明はギリシアの,またはヘブライの土地・民族において,展開され開花したわけではない。そのことを考えると,中国文明が同一地域・同一民族において〈殆んどが彼ら自らの創作になる諸文化〉を不断に維持発展しつづけてきたことは,驚異的事実といわねばならない。(3)古文献の豊富さ,とくに史書の豊富さにおいて,中国は世界に冠たるものがある。ある研究によると,1750年までに中国で出版された書物の総数は,その年までに世界中で中国語以外で印刷された書物の総数を上回っていたといわれるが,そのうちで最も数量的に多いのは歴史書であった。
文献によると,漢民族の最初の天子,五帝の筆頭たる黄帝の即位は前2674年というから,今日まででほぼ4700年になる。もっとも,黄帝以前に神農,さらにその前に伏羲がいたが,伏羲の即位は前3308年にあたる(もちろん書物によって数値はいろいろであるが今は董作賓による)。そうすると今日まで5000年を超えることになる。もちろん伏羲,黄帝以後,尭帝,舜帝,禹王(夏王朝の創始者),湯王(殷王朝の創始者),文王・武王(ともに周王朝の創始者)などの諸帝王および周公(周王朝の諸制度,いわゆる礼の大成者)などの聖人が出現して,中国文明の伝統を築き上げたとされる。尭・舜から周公までの7人の天子(周公は天子ではないが天子に準じて扱う)と天子の位にはつかなかったがこれらの先王の道を大成し後世に伝えたところの孔子,とを合わせた8人が代表的聖人である。これらの聖天子の年代もすべて歴史書に与えられているけれども,もちろんそれが今日より見れば神話的,伝説的年代に過ぎないことはいうまでもない。中国史上学問的に確実な年代の最初のものは前841年(いわゆる共和元年)とされているが,しかしそれ以前でも,ほぼ確実な年代としては,周の武王が殷の紂(ちゆう)王を討って周王朝を開いた前1027年あるいは前1066年もしくは前1111年,さらに一王朝まえ,湯王が夏王朝の桀(けつ)王を攻め滅ぼして殷王朝を開いた前1523年などがあり,もちろん研究の進展により多少動くことはあるとしてもそれほど大幅な動きはないであろう。ただ,殷のさらに一代前の夏王朝については,今日まだ確実な遺跡が発見されていないので,《史記》などの記載がはたして史実であるか否か問題が存するが,要するに,おおよそ紀元前10世紀以後,文献の記載がほぼ史実を反映している時代に入っているといってよく,前841年以降一年の間断もなく編年されているのであって,このことは世界において全く類を見ない事実といわなければならない。日本の歴史と(たぶんギリシアの歴史とも)大きくちがうのは〈神代(かみよ)〉というものを設定しないことである。歴史はどこまでさかのぼっても人間の歴史である。たとえ伏羲が蛇身人面であったとしてもそれを神代とする意識は存しない。
ヨーロッパへの衝撃
中国の歴史の古さが大きな衝撃を与えたのはキリスト教世界に対してであり,それはあるアメリカ学者のいうように〈ほとんど解決できない問題をつきつけた〉のである。なぜかというと,聖書の教えるところによれば,人類は神の怒りにふれていったん大洪水で絶滅させられ,ただノアとその3人の子供のみが箱舟のおかげで助かったのであり,現在の人類はすべてノアの子孫にほかならないのである。しかるに,黄帝にしろ,さらに古く伏羲にしろ,大洪水(前2233年の出来事という)よりはるか以前の人物であり,しかもその人民はただの一度として絶滅に遭遇することなく連綿として生存し続けていることは,中国の史書が明確に記録している。そのうえ,かの大洪水のことが中国の史書に全然言及されていないというのも不思議な話であって,もしかするとかの大洪水は,ただユダヤ人の間におけるのみの局地的なものにしか過ぎなかったのではないか。いずれにしても,聖書の記述を疑わざるを得ないことになったのは,当時のヨーロッパにおいてはゆゆしき大事件であった。このことと,今ひとつ,中国の聖人天子が宗教の助けを借りず,ただ理性のみに立脚して理想的政治を行ったと認識されたこと(孔子の教えはその哲学化である)とは,ボルテールその他の啓蒙学者が盛んに賛美して,カトリックを支柱とするアンシャン・レジームの権威を動揺させることに少なからぬ貢献をしたのである。もっとも,ルソーのみは中国にきびしかった。韃靼(だつたん)人(満州族を指す)の桎梏(しつこく)から国を守ることができなかったとすれば,シナに栄えた学問や哲学というものにいったい何の意味があったのか,と。
政治機構--封建と郡県
中国の文明はしばしばローマのそれにくらべられ,政治的文明と称せられる。たしかに両者は,多くの少数民族をも含む非常な広域,いわゆる〈天下〉が,中央政府より派遣する官吏によって統一的に統治せられた点で似ている。しかし中国の場合は周囲に先行する高度の文明をもたず,いわば独力で,すこぶる整備した政治機構を作りあげたのである。夏王朝,殷王朝は別として,周王朝以後の中国史は,秦王朝を境に明確に,封建・郡県の二つの時代に区分される。周の初期に全盛で春秋時期まで維持された封建制度の時代,これはとにもかくにも礼と徳が支配したとされる時代。それが徳の対立物たる〈力〉主義によって陥った〈戦国〉の分裂抗争という過渡期(春秋戦国時代)を秦の始皇帝が再び統一(前221)して以後の郡県の時代,これは法律と官僚の支配した中央集権の時代。秦以後,清朝の滅亡(1911)まで2000年,郡県の制度というものはもはや動かすべからざる情勢となったが,しかも国家の教学としては道徳と礼楽を原則とする儒教が採られたので,聖人たる周公の定めたところであり,儒教経典の記載するところである封建の世は後々まで政治の理想としての魅力を失わず,封建に帰れ,とか,郡県制の中に封建の意を寓せしめよ,とかの声は事あるごとに繰り返された。徳川時代の漢学者の中には,郡県制下の中国よりも日本の方が優越している,なぜなら封建制だから,と主張したものもあった。なお,混乱を避けるためにことわっておきたい。現代中国歴史学の通用語として,中国の伝統的な歴史学でいう郡県制の時代を封建制の時代としているのは,まるであべこべの用語法であるが,これは上部構造たる政治体制によってでなく土台たる生産関係によって時代区分(原始共産制時代→奴隷制時代(古代)→封建制時代(中世)→資本主義時代(近代)→共産主義時代)を行うべきだとするマルクス主義理論によっているからである。つまり〈封建〉はfeudalismの訳語として用いられているのであって,この理論によれば,早い説では秦(前246-前207)以前から,おそい説(日本のマルクス主義史学の一派)では宋代(960建国)から(両説の差1000年!),アヘン戦争(1840)までを封建時代(中世)とし,アヘン戦争以後を半封建・半植民地という特殊中国的近代とする。したがって政治体制としては中央集権的官僚体制という常識ではまるで正反対の体制が封建的と呼ばれることになり,ひいてはジャーナリズム用語としても旧時代的,アンシャン・レジーム的なものがすべて封建的と呼ばれるようになっているのである。
中央政府
郡県制下の中国の政府の形態はさまざまに変遷したけれども,唐・宋をへてほぼ明・清において完成した形としては,中央には六部(現代日本風にいえば六つの省)すなわち吏部,戸部,礼部,兵部,刑部,工部がキャビネットを構成し,地方は府・州・県によって行政を行う。州と県は大差ないので,あわせて県として数えるとその数は明代で1400ほど,現代で2100ほど。県の広さは大ざっぱにいって日本の郡くらい。府は県をいくつか合わせた単なる行政事務上の単位で,兵庫県のとなりが大阪府というようなものではない。あるのは県だけで,それをいくつかずつくくった単位が府である。別に,中央政府に対しては給事中,地方に対しては御史,という監察機構が置かれている。官(後述の〈吏〉に対していう)は,府・州・県の最末端の官にいたるまで,すべて中央より定期的に派遣される(任期は3年)。もちろん六部の上に,統括者としての宰相があるはずであるが,明の太祖がそれを廃止してしまって以来,明・清を通じて宰相は置かれなかった。君主独裁体制の完成とはすなわちこのことであって,中央・地方のすべての政務の指示,決裁は天子の一身に集まり,天子はおそるべき繁忙に追いこまれる。〈世界でいちばん忙しい天子〉(宮崎市定)が出現する。なぜなら,中国は徹底した文書行政の国であって,政務はすべて中央・地方の官僚より上奏文という形で直接天子に提案され,天子のそれへの決裁(回答)という形で発令され実施にうつされるからである。つまり,天子の性癖や怠慢が,政務にただちに反映することとなる。もちろん実際には天子の周辺にはおのずから顧問が生まれてくる。天子の学問上の助言者,もしくは秘書官として設けられた大学士が政治の相談にもあずかるようになり,これが〈内閣〉を形成し,少なくて2,3名,多くても6,7名程度の大学士の合議によって事実上最高決定がなされるようになる(わが国でいう内閣は六部,中国の内閣は複数の総理大臣グループのこと)。具体的にいえば,天子の決裁の下書きをひとつひとつの上奏文に貼付して天子に差し出す,天子はそれを自筆で写して書きこめばよいのである。つまり中央政府は内閣・六部というのが根幹の体制であるが,しかし清朝になると軍機密保持の便宜上,天子の側近にさらに軍機処(参謀本部)が設けられ,これがいつしか恒常的な政務機構となって,内閣の取り扱うべき政務を軍機処が扱うようになり,内閣は有名無実のごとくなったが,旧中国の特徴として,いったん存在しはじめた内閣を廃止してしまうことはしない。このような,誰が考えても任務や権限が重複し,実質的に無用に帰した官庁を廃止しようとせず,いつまでも存しておくのは,例えば2000年前,漢代の九寺という行政最高官庁(法務庁たる大理寺,対属国外務庁たる鴻臚(こうろ)寺など)が六部その他と重複するにもかかわらず,重複したままで,ごく一部分でも職務を分け与えて,歴代綿々として存続せしめられたごとき,今日の常識からは到底理解できない。その繁雑さには中国史の専門家でも音をあげてしまう。〈官は士を養うために設けられた〉もの,といういい方がしばしば見られるが,政治を儒教でいう〈礼楽〉として考える考え方がその底に働いているのである。
地方行政
地方の場合は,さすがにもう少し解りやすくなっているが,不思議なことに,府以上を統括する官,つまり省の長官,というものは正式には置かれたことがない。もしその統括者が,つまり各省の長官が必要な場合は,臨時に巡撫あるいは総督という職名で中央から派遣される。それが地方長官として常設化してしまった清朝においても形式上はあくまで臨時派遣で,その下には何ひとつ部局は置かれない。私設秘書官(幕友)の一群がいるのみである。注目すべきは,すべてあるランク以上の官の間には,本質的に上下統属の関係が存しないことである。例えば中央の内閣・六部の間,また地方の督撫・布政使の間,地方と中央の間にも上下統属の関係は存在しない。六部は内閣とは独立に天子に意見具申(上奏)をし,命令をうけ,督撫は内閣・六部と独立にそうし,布政使もそうし,六部の長官と次官との間でもそうである。このことは,責任回避を事とする風を生み,重要案件が発生した場合には,非常に困難な問題を惹起するであろう。
監察制度
今ひとつ旧中国の政治機構の特徴として,監察機関が非常な威勢をもったということがある。つまり御史(および給事中)の制度であって,清朝の末には,御史の制度こそ中国政治の最大の癌とすらいわれるようになった。それは,御史は単なる風聞にもとづいて弾劾してもとがめられないという特権をもち,その官吏弾劾権というものが新しい,積極的なもののチェックを事とする傾向があり,またしばしば党派主義や報復の道具となったからである。梁啓超は〈中国の政治は役人に善いことをさせようとはしないで,悪いことをさせないことにばかり気を配っている〉と評した。〈一利を興すは一害を除くに如かず〉(耶律楚材)の精神である。しかし監察の重要性は中国人の政治感覚にしみついているので,中華民国の〈五権憲法〉にも立法・司法・行政の万国共通の三権のほかに,監察権というものが特に加えられ,考試権(科挙試験を想起せよ)とともに政治の五つの基本条項(五権)の内に数えられていた。
官僚--エピソード
要するに,問題は官僚である。郡県制中国は,とくに君主独裁政治の中国は,官僚の世界である。県の最下級の官まで,中央から派遣される。もし現代中国における旧中国との連続・非連続を論ずるなら,官僚制,官僚主義こそ連続の最も顕著な例であろう。ところでこの官僚は,同時に非連続的な面ももっているのであって,それはすなわち,旧中国の官僚が科挙試験を通過した士大夫=読書人よりなっていたという点である。ここに一つのきわめて特徴的なエピソード,《紅楼夢》と並ぶ清朝の代表的小説《儒林外史》第8回に見えるエピソード,を紹介しておきたい。江西省南昌府の知府(府知事)蘧(きよ)氏が辞職引退し,後任の王氏が赴任してきたので前知府の息子の蘧公子が応接するが,王氏がしきりに利権の所在,裁判の運用(賄賂の収入源)のコツといったことばかり聞き出そうとするのがうるさくてたまらない。そこで次のような話をする。〈父がこの南昌府を治めていたときは,父の役所では,詩を吟ずる声,碁を打つ音,曲をうたう声,この三種の音声がすると評判でしたが,このたび先生の御着任で,それが次のような三種の音声に変わるのではないかと思われます〉。新知府の王氏〈どのような音に変わります〉。〈秤(はかり)の音,算盤の音,鞭の音〉。王氏は皮肉られたとも気づかないで,顔色を正して答えるには,〈われわれ朝廷のために執務する者は,お互いにこのように真面目にやらなくてはならないと存じます〉。秤の音とは税金(当時の中国の銀貨はコインというよりは銀塊である)をはかる音であり,算盤の音とは財務一般,鞭の音というのは裁判(刑罰)にはげむことである。今日の常識では,よき地方官とはおそらく後者でこそあろう。詩作にふけり,碁を打ち,曲をうたう(義太夫をうなる)というのは,官庁としてあるまじき風景でなければならぬ。しかし,ここでは何のためらいもなく前者の方が称賛されているのである。
もちろん実際の政務がこういう文雅な読書人主義によって実効的に行われるはずはない。官僚のもとにはそのポケットマネーによっていわゆる幕友が招聘せられて実際の行政を分担し,さらにその下には読書人でもなく官でもない窓口実務者としての胥吏(しより)というものが大量に存在する。官吏という語があるように吏=官という用法ももちろんあるが,法制上の概念としては,吏と官とははっきりと別物である。胥吏は事実上無給にひとしいから直接人民からとりたてる手数料(これはいくらでも手かげんできる)で生活する。人民を直接相手にすることの少ない中央政府においても,官僚の新任・転任事務を扱う吏部の胥吏などは莫大な収入がある。官僚の俸給(俸禄)はほとんど滑稽というほかないまでに薄給である。いうまでもなく,官僚の懐にはいかに清廉潔白な官僚といえども,慣習的に黙認され,前提せられている役得というものが莫大に入るしかけになっている。役得といっても,われわれが想像するようなものとはけたがちがう。宮崎市定があげている例を借りると清朝の雍正年間,河南省巡撫の年俸は銀150両,勤務地手当が年に銀3万両(本俸の200倍),だが実際の収入は銀20万両であったという。単純に計算して17万両ほどが役得なのである。まさにM.ウェーバーのいう家産官僚制の典型的なものといってよい。--要するに官僚はここでは学識と,学識が必然的にともなうところの道義,とによって権威をもち人民を教化指導する者であり,実務は二の次なのである。徳川時代の武士もある意味で官僚といってよいと思うが,その場合武士が徹頭徹尾実務家であったのと対照的である。もちろん〈人民のサーバント〉のイメージなどまったくない。今日中国政治の問題たる官僚主義を伝統の面から見るとき,このような点が目につくのである。
士大夫(読書人)と科挙
官僚はその実体において士大夫であり,士大夫とは読書人,つまり儒教経典の教養の保持者としての知識人である。ふつう士大夫とは読書人・官僚・地主の三位一体といういい方があり,それぞれliterati,mandarin,gentryの語が当てられることがある。事実,官僚はほとんど例外なく地主(相当な規模な地主)であったが,それはしかし必須の条件ではない。あえて図式化していえば,読書人が官僚となり,官僚となることによって地主となるのである。〈君子は多く前言往行を識(し)って徳を蓄える〉(《易経》)。学問が徳を生む。徳こそ政治の原理である。科挙はこういう前提に立って,ただ儒教経典(ただしその解釈学は朱子学に限る)に対する知識とそれの応用としての作文・作詩の能力,書法(わが国でいう書道)の程度を見るのである。行政のための専門的知識を見ようとするのではない。そのようなことは必要に応じて幕友をやとって,まかせておけばよい。科挙受験のためには長期の勉強が必要であり,それにはもちろん相当な財力のあることが望ましいに相違ない。従来この点が過度に強調されてきたが,しかし実際はごく普通の家庭(都市の小商人,農村の小地主,自作農など)の子弟からの合格者もけっして珍しくはなかった。〈倪煥之の父は両替屋の手代で,のち番頭まで出世したが,生活はむろん余裕などあろうはずはなく,どうやら雨露をしのいでいた。もうこれ以上望みはない,せめて息子だけでも出世させたい。その頃(清朝末期)はまだ科挙という制度のある時代で,科挙に受かって素寒貧(すかんぴん)から一足とびに出世した例が都会地ではいくらもあった。そこで父親は煥之が四,五歳になると,書のうまい,評判のいい私塾の先生を彼につけた。帳付け用の読み書きだけで終らせたくなかったのである〉(葉紹鈞著・竹内好訳《小学教師》第2章)。この主人公は1905年科挙が廃止になったので,結局,革新気運に乗って新しく出現した中学校に行くことになる。
→読み書き算盤
読書人とは,(1)最広義ではもちろん官民を問わず知識人一般を指すが,(2)そのうち民間の読書人はほとんどが科挙受験志望者で,多くはすでに妻帯し何らかの収入の道を講じつつ,つまり社会人として生活しつつ,経書の暗誦,作文・作詩の修練にはげむ。そして根気よく生員の試験を受ける。一生涯受験生というのも珍しくない。この試験は3年間に2回挙行される。(3)生員。府学,州学,県学の学生で,俗に秀才という。生員にパスしたならば科挙の第一関門を通過したわけである。学校の学生とはいうものの,学校は授業や学業をするわけではない。学籍簿の保管,年何回かの試験,ときたま教官の訓話,の場所にすぎない。生員はすでに完成した正真正銘の読書人である。官僚に準ずる身分であることが法的に保証され,みだりに逮捕されず,税制上の優遇その他の特権を受ける。(4)挙人・進士。生員はさらに試験によって挙人,ついには進士にまで進む。生員は任官することはできないが,進士は当然,また挙人ももし任官を望めば,実際に官僚になれる。つまり,(2)は民,(3)は準官,(4)は官の身分に入るわけである。いま便宜上,科挙の第一関門を通過したもの以上,すなわち生員,挙人,進士((3)と(4))の全体を士大夫と考えるならば,挙人,進士への関門ははなはだ狭いから生員はどんどん増加する一方で,生涯を生員のままで終わる者が多く(いわゆる落第秀才),社会においてこの狭義の士大夫の9割方は生員である。もちろん彼らは税制上の特典を受けているが,挙人,進士とちがい官僚となることはできず,したがって順当な致富の道(任官→役得→致富→地主)をもたない。学校よりの給費はあるが生活はきわめて苦しいのがむしろ普通で,塾の経営,住込みの家庭教師,内々で商店の書記,ときには胥吏にまで身をおとすものすらあったらしい。士大夫といえばすぐ経済的社会的な名士,特権を悪らつに利用して官吏と結託し人民を苦しめる土豪劣紳,を連想する。事実またそのような人物はけっして少なくなかった。そもそも彼らが税制上の特権を有していたということ自体,それだけ人民の負担に転嫁されたということであった(旧中国の税制は一県定額制)。地方人民の害虫として郷紳(すぐあとに述べる),生員,胥吏の三者をあげるのは定論であったといってよい。なかでも生員への糾弾はきびしかった。今日の研究は,しかし,生員が概して貧困であったことを明らかにしている。
これまでのような,一筆抹消的論法では,中国における知識人の意味を見失うことになりはしないであろうか。ベトナムのある歴史家は,旧ベトナムにおける人民と密接に接触する読書士大夫たちと官僚士大夫たちについて,ピープルの儒教とマンダリンの儒教とを区別し,反フランス闘争などにおけるピープルの儒教の役割を強調したが,この区別は中国においても有用なのではないかと思われる。明代の民変(悪役人などへの人民の反抗的騒擾(そうじよう)事件)などの先頭に立ったのは多くは生員であった。民変は実は士変だ,という声のあったゆえんである。従来そのような現象を,いずれに腹に一物ある行動,と知らず知らず官僚-郷紳の立場から,皮肉な眼でながめるのが例であったのは,反省すべきではあるまいか。
郷紳
挙人,進士は官僚となる。ただし,彼らはあくまで郷里に本宅をおいて税制上その他の特権を享有し,着々土地をふやして大地主となり,質屋その他に出資したりして富をふやす。退官後も特権が保証されて地方に大きな権勢をふるう。その特権,権勢の源泉は当人が官僚であったという事実であるから,その在官時代の辞令は大切な身分証明書であり,犯罪を犯した場合は官に没収される。知県・知府(知事)の最初の〈政務〉は彼らを表敬訪問することである。地方政治の実際は彼らの世論によってきまるとさえいわれる。これがいわゆる郷紳で,そのあくどい連中が土豪劣紳である。土豪劣紳は別として,普通の場合彼らは特権的地主としても慣習的に許容せられた範囲で行動し,慣習的に期待せられた義務を果たす。清朝初期の有名な学者・詩人の朱彝尊(しゆいそん)の乳母は朱氏が4歳のとき朱家を去って結婚したが,干ばつ,蝗害で大飢饉がおこり,たまたま夫も死んだので再び朱家に身を寄せた。ところが朱氏の家は,曾祖父には明朝の内閣大学士を出したほどの代々読書人の名家でありながら,しばしば食事にも事欠くほどの状態であったので,彼女はやがて流涕して辞去した。それから10年の間に5回嫁入りしたが,夫はいつも貧乏人であった。彼女はいつも嘆いた。〈十郎坊ちゃん(朱氏のこと)が早く金持ちになって下さらないかしら。そうすればもうこれ以上,こんな年寄りが嫁にゆかなくてもすむのに〉。郷紳には一族のみならず縁故者一同の熱い期待があつまる。それに答えるのは彼らのまず第一の義務であった。さらにその社会的地位に伴う義務として郷紳は,協議して恒常的もしくは臨時的な慈善事業,橋梁や堤防の修理・改築,争乱時における郷土防衛などの企画や遂行を指導・担当しなければならない。官は税金徴収と裁判など以外,例えば日本の諸藩のごとく殖産をすすめ指導するなどのことはほとんどなく,人民を完全に放っておいたので,〈官は民と疎,士は民と近し,民の官を信ずるは士を信ずるにしかず〉で,人民は郷紳の指導のもとに〈自治〉体制をとらざるをえなかったのである。旧中国がしばしば国家と社会の二重体制と呼ばれるのはこの点を指している。
同じく士と呼ばれても,日本の徳川時代の武士が城下に集中的に居住せしめられ,上から下まで完全な俸禄生活者で,いったん俸禄を離れるとその日の生活にさえ窮する状態であったが,しかし自国(自藩)を富強にするために職務に精励した,のとは大きな相違である。またこのように郷党に本拠をかまえていることが,〈君臣は義合〉〈義が合しなければ去る〉という儒教の原則と見あうものであったことも指摘するまでもない。忠誠は命がけのものではない。〈君子篤恭にして天下平かなり〉(《中庸》)。郷党において身を修め家を斉(ととの)え,人民の指導者に任じていることで,天下国家の治平に十分貢献しているのである。ちなみに,19世紀前半(太平天国の大反乱以前)で生員,挙人,進士つまり狭義の士大夫の総数110万,前述のごとくその90%,98万が生員,挙人・進士は12万という数字があり,110万の当時の全人口4億に対する比率は0.27%,つまり1万人につき27人,12万のそれは0.025%,つまり10万人につき25人,日本の武士が一般人に対して10%であったのにくらべて,全くの桁ちがいといわねばならぬ。--なお,おことわりしておきたい。実際には買官によって生員相当,挙人・進士相当の地位や官職を手に入れるものも多く(売官),また武官志望者のためのあまり尊敬されぬ武科挙による武生員,武挙人,武進士もあった。上の記述や数字は,それらをすべてひっくるめていることに注意されたい。
農民
士大夫に対して庶民はどうか。まず農民。今日中国人口の80%は農民である。この率は歴史をさかのぼるほど高いであろう。農本主義の国であるから農民は定めし優遇せられたであろうと思われるかもしれないが,事実はそうでなかった。農は国の本,生業の正道である,ゆえに税金も農民から取るのが正道,商業など論ずるに足らず,という論理で,農民に対する税の方がはるかに重かった。小作人の地主への小作料が収穫のほぼ50%,地主・自作農は税を納めるが規定の税率はもっと低く,また安定した率であってそれだけならばそれほど問題はない。農民をくるしめ疲弊せしめたのは,むしろ官僚の恣意的な付加徴収つまり役得であった。窮迫の極,田畑の売り払いは頻繁となる。明・清のころ〈千年の田,八百の主(持主)〉という諺があったという。中国の農村は,とくに先進地域の南方では零細な土地が目まぐるしく売買されたらしい。地主というのも普通,かかる飛び飛びの零細な土地の買いあつめで,したがって小作人といっても,農奴制の目やすとされる経済外強制というものは多くの場合,あまり顕著でなかった。中世的な一円領主といったおもむきではなく,むしろ近世的な光景である。経済外強制がもしあるとすれば,それは国家に対してであった。このように見てくると,少なくとも明・清時代の小作人は,どう考えてもあまり農奴らしくない。国家に対して農奴とはいえるかも知れないが,普通の意味での,つまり領主・農奴的生産様式の時代が封建時代(中世)といわれる場合の農奴には当たらないと考えたほうが穏当であろう。下部構造の面からいっても,旧中国はどうもマルクス主義史学的な意味での封建制ではないように思われる。
→小作制度 →地主
中国の農民において最も注目をひくのは,その爆発力であろう。つまり農民反乱(起義という)の規模の大きさ,はげしさ,頻繁さである。むしろ旗を押したてて百姓一揆,というようなものではない。一王朝を倒すほどの大規模なものとなればまさしく〈農民戦争〉である。漢末の黄巾の乱,唐末の黄巣の乱,元末の朱元璋ら〈群雄〉の乱,明末の李自成の乱,清朝中期の白蓮教の乱。太平天国も中国では農民戦争とされている。いずれも王朝の末期に爆発し直接に革命(一王朝を倒し別の王朝をたてること)しないまでも王朝の運命を決定した。朱元璋のごとく,ついに天子の座にのぼり,明王朝をひらいた者もいた(洪武帝)。農民起義→農民戦争は,その直接のきっかけはともかく,ほとんどが自然災害→飢饉を背景におこる。黄巾の乱や白蓮教の乱のごとく農民社会に広がっている秘密結社的宗教が中核となることが多い。明の太祖も明教という秘密宗教のメンバーであった。中国の農村にはこのような〈香を焚いて結盟し夜集まりて暁に散ずる〉秘密宗教結社が無数に存在していたのである(秘密結社)。その教義は〈真空家郷,無生父母〉というふうに仏教と道教との混合であるが,どちらの教団とも関係はなく,それぞれ独自の教名(聞香教,白陽教,八卦教などなど)を名のるが,それぞれのあいだには何の連絡もない。本来メシア主義的要素をふくむものが多いが,さりとて平時けっして反官憲的ではない。しかし官憲は神経をとがらせ,ことに白蓮教系統のものにはきびしかった。--かくて政府軍を相手に各地を転戦して歩くうちに何万,何十万とふくれあがり,その過程で生員,挙人のような知識分子も加わり,組織,綱領が明確となり,ついには政権奪取が目ざされる。しかし農民軍の意識は結局〈天子思想〉を抜け出ることができず,結局は王朝の再生産に終わるのであった。中国の歴史を〈一治一乱〉(孟子)の語で表現することが多いのは,要するにかかる繰りかえし現象を指している。
商人
特権商人,なかでも塩商のこと。その官僚との癒着,文化的貢献,などについては周知のところであるから省略する(塩法,塩)。ここでとくに指摘したいのは町のごく普通の商人,商店主たちの意外な一面のことである。専制政治下の一般商人といえば長いものには巻かれろの典型のように考えられているが,中国の場合,かならずしもそうでないらしい。それは〈罷市(ひし)〉(商売をやめる,の意より同盟閉店)という行動である。罷市は近代では例えば五・四運動,五・三〇運動,国民軍の北伐,人民解放軍の進撃の際など,学生や工場労働者のストライキに呼応して決行されたものが記憶に新しいが,実はこの罷市は古くから存在した。少なくとも明代以後は頻繁に存在した。それも民族の危機というほどの大規模な問題でなくとも,例えば地方官憲の理不尽な暴政に反抗して,郷紳の非人道的な横暴を黙視するに忍びないで,あるいは道理ある民変(民衆暴動)への同情ストとして,大都会でも小都会でも,商人はしばしば罷市を決行した。なかには,前任地で悪名さくさくたる県知事が転任してくるというので一斉に罷市し,県城(県庁所在都市)の城門を閉ざして一歩も入れず,ついに追いかえしてしまったという例さえある。もちろんなかには,名知事の離任を惜しんで罷市,などといううさん臭いのもないではないが,いずれにせよこのような一般商人の政治的(?)意思表示行動というものは,徳川時代にはあまり聞いたことがないように思う。罷市についての研究はほとんど見当たらないので詳しくは語りえないが,ともかく,中国の商人といえば,打算一点ばりでただお上の風向き次第というイメージであるのは再検討を要するのではあるまいか。
→商業 →商人
士大夫文化
中国の文化は,世界においてもきわだった独自性をもっている。例えば,世界の文明国中,ただ中国だけが表意文字の漢字を使用している。その形の複雑さのゆえに人民共和国では簡体字を制定し,ゆくゆくは拼音(ピンイン)化,つまりローマナイズすることを国是としていたが,最近ではその便利第一主義と口頭語のみを言語として文字を言語要素とみとめないヨーロッパ風言語観とが反省され,漢字全廃論は大幅に後退しているらしい。漢字がすべて表意的に用いられているわけでもない今日,中国の急務はむしろかな式文字の創出ではあるまいか。漢字を素材にした独特の芸術であるところの書法(日本でいう書道)のごときは,東アジア以外の人々にはなかなか理解できにくい芸術であろう。西洋人にわりあい理解しやすいのはおそらく絵画であろうが,しかしそれも中国画に独特なジャンルである水墨画,山水画にいたっては(否,彩色画にあっても),単なる絵画の専門家と見られることを極度に嫌悪し,おおよそ描写そのことを心がけない文人画つまり士大夫画(もちろん,描写主義の絵画がないというのではない)というものはなかなかとっつきの悪いもののように聞いている。〈胸中の丘壑(きゆうがく)をえがく〉とか〈気韻生動〉とかいう精神は(胸中丘壑,気韻),そう簡単には共感されるものではなかろう。詩というものは世界各国共通に存在するものではあるけれどもヨーロッパの場合,それは詩人という特殊な天分の文学者の仕事であるのに対して,中国では,少なくとも学問をしたほどの人はすべて原則として詩人なのであり,当人に財力さえあれば,作品は詩集として出版される。唐の詩の作者の数は約2000人,作品として今日残っているもの4万8000,宋では6800人,作品は唐の数倍に達するといわれる(唐詩,宋詩)。その詩題も単に雄大な風景に接したとか,またとない感動をうたうとかのみでなく,行住坐臥,日常茶飯,すべてが詩の題材となるのである。吉川幸次郎がかつてアイザヤ・バーリンIsaiah Berlinにこのことを語った際,バーリンは,それでは大文学というものは現れにくいのではないかと疑い,吉川は,それは大文学ということの定義如何による,と答えたということである。種々の点で日本の和歌や俳句の場合と似ているが,ただ詩の場合は古典の教養をふまえた典故の使用という大きな条件がある点が異なる。詩と書とは,士大夫の必須のたしなみであり,書法が水準以下であり,詩が人並みに作れて人と応酬できない士大夫というものは,ちょっと考えることができない。今日中国の最高指導者たち,毛沢東,朱徳,陳毅,董必武などがみな自己の詩集をももっているのは,この伝統であろう。文人風気と完全に切れていると思われる周恩来にすら有名な雨中嵐山の詩がある。
儒教が国教ということ
これらすべての背景となっているものは,いうまでもなく儒教である。儒教はしばしば中国の国教といわれるが,しかしキリスト教が欧米諸国の国教的地位を占めており,イスラム教がイスラム諸国の国教であるのとはおもむきが異なる。それは,その教義を絶えず説ききかせる聖職者をもたず,教徒がつねに信仰を確かめるための教会をもたず,礼拝の儀式も,官の主催する孔子廟の釈奠(せきてん)の祭りと児童の入塾の際の叩頭礼くらいのほか,ない。他教徒に対してそれを異端邪教として迫害,殺戮したこともないし,国家に対抗して教会として起ちあがり抗争を試みるということもなかった。そもそも自己の教えを宣(の)べ広めようという伝道の熱情というものをまったく欠いている。儒教的人間とは〈学ぶ者〉であって〈信ずる者〉ではない。中国文化は非宗教的文化,中国人は非宗教的,というのは誰がいい出したことかは知らないが,キリスト教やイスラム教,徳川以前の日本仏教などから見たならば,そのような印象を受けることは当然であろう。徹底して儒教主義に立つ科挙試験も,イスラム教徒が受験し,パスし,高官に至る例は,別に希有ではない。ともかく儒教が孔子以来,普通の意味での宗教的色彩というものをほとんど欠いているということは否定すべくもない。天に対する儒教徒の感情には,確かにある意味で宗教的なものが認められるし,いわゆる宗廟の祭り(祖先祭祀)も宗教の一種といえないこともない。しかし宋学はそれを合理化することに力を注いできた。現代中国の代表的哲学者・哲学史家馮友蘭(ふうゆうらん)(北京大学)は宋学の伝統に立つことを明確に表明しつつ,人間の〈境界〉として自然境界,功利境界,道徳境界,天地境界の四者をあげ,哲学の使命は人間を最高の境界,天地(と合一する)境界,にみちびくことにあるとしているが,それは道徳境界よりも高次なものでありながら,しかも決定的にラショナルであくまで非宗教的なものであると力説している。ヨーロッパでも日本でも哲学の上には宗教という一層があり,哲学の窮極は宗教に通ずるというふうに説かれることが多いが,その点,馮友蘭の説ははなはだ異色というべきであろう。馮友蘭はコロンビア大学留学生の出身であり,欧米思想とキリスト教に対する理解は決して浅くないはずであるが,しかもその書の中でキリスト教をまるで迷信といわんばかりに論じているところがある。
儒教の政治思想
儒教の大きな特色はその政治主義である。それは儒教と並ぶ思潮である道家(老荘)の主張ときわめて明白な対照をなす。道家においては,国家天下を治めることは,人間最高の課題,道のエッセンスをもってすべき事業,ではない。それは要するに道の残余物,道の塵芥的な部分が適用さるべき分野にすぎない。〈道の真は以て身を修め,その緒余は以て国家を為(おさ)め,その土苴(どしよ)は以て天下を治める〉(荘子)。道家と儒家ではプロセスがいわば逆になっているのである。いかにみごとな詩であっても,国を憂え民を憂えるの情が流露していない作品は,第一流のものとは見なされないであろう。儒教の政治原理は徳である。徳は聖人の経典や先人の事跡,言語を読書して,仁の心を涵養し,礼すなわち正しい習俗を実践するところに養成される。儒教は政治主義であると同時に文化主義である。老荘のごとき反文化を理想とするものではない。儒教はしばしば礼(名教)の教えといわれ,礼は人間の自然を抑圧するもの,礼の外面性,ということがことさらに強調せられてきた。徳と礼とを掲げるところ,あるものは偽善のみといわれた。魯迅のいわゆる〈人間を食う名教〉である。毛沢東が人民を苦しめる四つの権力として挙げた政権,族権,神権,女性に対しての夫権も,要するに名教の名のもとに人民を圧迫したのである。たしかに礼・名教は郷紳士大夫の護符の役目を果たしたことは否定できない。キリストの言葉がことごとに領主たちに有利であったのと同様である。しかし儒教は一方において仁を説いており,仁が儒教のいわば魂であることは,儒教の発展とともにますます確認されていった。礼は仁の心に裏打ちされていないとき,単なる外面性に堕する。仁の心をやしない礼を正しい意味において実践する。そこに徳が形成せられる。徳を身につけたものが君子であり,君子が修己治人(己れを修め,人を治める)するところに儒教の真の姿がある。その修己治人の全過程を明確に示したものが,《大学》の〈修身,斉家,治国,平天下〉の4項目(くわしくは格物,致知,誠意,正心,修身,斉家,治国,平天下の8項目)である。その窮極において人間は〈天地の化育を賛け,天地と参になる〉(《中庸》),天地と並立して恥ずかしからぬものとなる,という。このように儒教を簡明に体系化したのは何といっても朱子の功績である。孫文は《大学》の4項目を〈外国の大政治家さえまだ見透していない最も体系的な政治哲学〉と誇っているが,必ずしも単なる自賛ではないと思われる。たしかにそこに見られるのは素朴で安易な連続観であり,道徳と政治との無差別,であろう。しかし,(1)その全過程中にヨーロッパ風の政治哲学では必ずしも重要視されているらしくない家庭(家族)というものが必須の一環として立てられていること,(2)国の上に天下を置き,平天下ではじめて全過程が完結すること,(3)8項目からさらに進んでいえば天地の化育を賛けることが窮極とされていること--ともかく,個人,家族,国家,世界という4項方式で政治を考えようとする試みは,今日やはり吟味に値するのではあるまいか。中国に対してつねにかぶせられる形容句は〈偉大なる文明の伝統〉ということであるが,しかも一方で儒教について何かプラス面を承認することをほとんど恥とするような風が,今日なお,みとめられる。その偉大さは,儒教の抑圧にもかかわらず,それに抗して発揮された人民の創意に基づく文明であったがゆえに偉大であったのか。政治的プロパガンダとしてならばともかく,多少とも冷静に考えるならば,それはあまりに説得性に欠けるであろう。数千年の伝統をもつ大文明が,ひとえに非条理なものに立脚していたと考えるのは,およそ常識に反する。われわれは今日,文明の原理としてのキリスト教やイスラム教を内面から,いわば〈同情〉をもって理解しようとする,それが客観的理解への第一歩であるとする。いまや,儒教に対してもそうすべき時期に来ているのではないか。そしてその場合,儒教もまた歴史的展開を経てきていること,したがって,今後展開さるべきものがまだまだ眠っているかも知れないこと,を忘れるべきではない。
→中国思想
家について
中国の家というとすぐ大家族,同一家計下での大共同生活と考えられる傾きがあるが,それはむしろ特殊な場合で,普通は両親,未婚の子供数人,それに祖父母が加わったくらい,が独立家計の家族をなしている。もちろん一村一部落全体が同姓などというのは珍しくないが,それもただ独立の家が集まって村を成しているというのみで,特別に団結力に富むというわけでもなく,何の変哲もないものらしい。ただ,中・上流の場合,旧中国での家族は〈一夫一婦多妾〉制で妾たちは同じ邸内に住むし,結婚した子供たちが父母や祖父母と同じ屋根の下もしくは同じ郭に住むことが多く,特殊なわずらわしさがある。妾は下流社会から買われることが多いが,決して日蔭者ではない。妻が男児をめぐまれない場合はすすんで妾をすすめるのが美談とされている。ただ妾は正夫人の統制には絶対に服従しなくてはならない。夫人も妾も必ず異姓の人でなくてはならない。ときには正夫人をなかなか娶らず,永らく妾のみの場合もある。有名な大学者で辛亥革命の革命家でもあった章炳麟(太炎)や,日本の陽明学者大塩平八郎(中斎)の場合がそれで,妾とはいうものの事実上,奥さんにほかならないのである。庶出の子も正夫人を生母と同様に尊敬しなくてはならない。科挙その他公式のことでは嫡出庶出を全然問題にしないから,庶出子でも正途(科挙を通過した官僚を正途出身という)によって大官となり名士となった者は数えきれない。子供の教育には,資力があれば家に家庭教師を賓客として寄宿させて行う。一族の貧困家庭の子供はそれに便乗させてもらうことが多い。しからざれば町や村の塾に通わせる。女子には教育を授けないのが原則であり,〈才なきことこそ女の徳〉という諺があったくらいであるが,実際は士大夫の家の夫人には教養ある婦人が珍しくない。父母の権威は大きく,その叱責に際しては子は相当大きくなってもしばしば地にひざまずき,むちを受ける。相続はもちろん長男が家をつぐ(祖先の祭祀をする義務・権利を継承する)が,財産は嫡出と庶出とを問わず男の兄弟全部に均等に分けられる(祭祀のための特別財産は別)。均分相続は上流・下流を問わずはなはだ厳格に,例外なく実行される。それゆえ,相当の名家でも財力を維持しつづけるのは代々の当主のよほどの努力,才覚が必要である。この制度が中国に資本主義のおこるのをさまたげたという説があるほどである。--もちろん,おじ,おば,いとこ,などの親族というものの存在すること,それが何かと家事に口を出すこと,日本と変りはない。普通,中国の大家族といっているものは,(1)前述のごとくそれぞれ家計を異にする近親が同居もしくは近接居住する風習を指すものであるらしいが,(2)しかし同時に指摘すべきは別に宗族というものがあるということである。つまり同一の祖先から分かれた諸家族(なかには相当遠隔地に住むものもいる)の結合組織で,その血縁系統を示す族譜,族約(祭祀の規則,貧困者救済,学資補助,一族に恥辱をもたらした者に対する制裁など)をもち,族長の主催によって定期に祖先祭祀を行い,親睦をはかる。宗族のうち誰かが出世した場合,一族の者から泣きつかれると,万難を排してその面倒を見ることは体面上当然の義務である。筆者はこの(2)の意味での大家族を過度に重く見ることには反対であるが,ともかく儒教には墨子の兼愛に反対して近きより遠きへという愛の差等性を強調する思想があること,それがネポティズムの根拠となっていることを知っておくべきである。康有為や孫文が〈天下を公となす〉(《礼記》)を強調したのは大いに意味があったのである。
人民主義の伝統
たとえば,さきにわれわれは士大夫のモットーは〈己を修め人を治める〉ことであり,官僚には治者の意識のみあって人民のサーバントという意識はなかったといったが,実は,韓愈とつねに併称される唐の柳宗元は早くすでに次のごとくいいきっている。およそ官吏たる者の職は何であるか。〈けだし民の役(民に使役される者)である。民を役する者であるのみではない〉。民が租税を出し〈吏ヲ傭(もち)イテ平ヲ我ニ司ラシム〉,人民の間に不公正が存在しないように官吏を傭(やと)ってその仕事に当たらせているのである。報酬を受けながら仕事を怠る者は,盗みをはたらいているのと同然である。人民が怒り罰しないのは,単に現実の勢力関係によることにすぎない。〈勢ハ同ジカラザルモ理ハ同ジキナリ。吾ガ民ヲ如何ンセン〉。これが孟子の〈民を尊しとなす〉(民ヲ尊シトナス,社稷コレニ次グ,君ハ軽シトナス),の直系であることはいうまでもない。儒教のうちには元来ラジカルな人民主義的伝統があったのである。もちろん孟子にはまた〈大人の事あり,小人の事あり,或る者は心を労し或る者は力を労す。心を労する者は人を治め,力を労する者は人に治めらる。人に治められる者は人を養い,人を治める者は人に養わる。これ天下の通義なり〉という有名な一節があって,まさしく士大夫存在の根拠づけを行っているのであるが,同時にまた人民のための政治をいたるところに主張し,人民をしいたげる天子は天子ではない,誅殺されても仕方がないという(いわゆる〈革命〉)。かかる《孟子》が朱子によって四書の一つに指定され,さらに科挙試験が朱子学を指定学説として以来,《孟子》は士大夫の必読書として言々句々暗記するまでに読まれたのである。明の太祖のごとく拒否反応を示した者もありはしたがそれも一時のことで,君主専制体制というものは,まことに大らかなものであった。おそらく偉大な文明,偉大な思想体系には,相反するものを同時に含んでいるようなところがあるのであろう。わが中江兆民は〈此の(民権自由の)理や漢土に在りても孟軻,柳宗元はやく之を覰破(しよは)せり,欧米の専有に非ざる也〉といい,ルソー,柳宗元を併称しているし,兆民の弟子幸徳秋水ははっきり社会主義者となったのちにも,仏教よりも神道よりも,とりわけ耶蘇教よりも〈予は儒教を好む〉と明言し,かつ自分を社会主義に導いてくれた書物の第一に《孟子》を挙げている。《孟子》の人民主義は君主をみとめているので真の人民主義ではない,民本主義にすぎないという説があるが,納得できない。奴隷制の上に立つアテナイの体制を人は民主主義とよんでいるではないか。
人民を疎外
儒教における人民主義のことを述べたが,しかし現実にはそれはぜんぜん実現されなかった。儒教政治では人間を,君・臣・民の3層に区分するうち,儒教の主体的実践が要求されるのは君臣の2層のみであって,民は圏外に置かれていた。官僚(もしくは準官僚)であるということが,〈国の教え〉においても優先したのであり,圧倒的多数を占める人民はただ治められるのみで,人を治めることを説く儒教においては主体ではありえなかった。その最も端的な証拠は年に1度官営でとり行われる孔子のまつり釈奠の礼に参列できるのは生員以上であって,一般人民は参列を許されなかったことである。黄帝が仕立て屋の守護神であり,魯班が大工の守護神であるのと同じ意味で,孔子は士大夫の守護神にすぎないといった人があるが,けっして荒唐の説ではない。清末改革運動のリーダーたる康有為が散砂のごとき中国人民を〈国民〉につくり変えようとして,そのためには,ヨーロッパ列強におけるキリスト教のごとき宗教が必要であると孔教を提唱したとき,彼が痛憤したのは,儒教がこれまで人民を疎外してきたという事実であった。もちろん儒教の側としては弁解の余地はあった。士大夫と民との間には,けっして日本の武士と百姓町人との間におけるごとき生れによる限界があるわけではなく,志を立てて聖賢の書を読み科挙の試験にパスさえすれば何びとといえども士となり臣となることができるたてまえだからである。しかしながら最も遺憾とせざるをえないのは,儒教国家が経典の教えに反して,一般人民の教育に何ら力を尽くさなかったことである。およそ世界の教えのうち,儒教ほど教育を重視したものはあるまい。キリスト教の人間像が信仰者であったとすれば,儒教のそれは〈学者〉,学ぶ者であった。周の盛時,〈王宮,国都より閭巷(りよこう)に至るまで学校あらざることなく,人生まれて八歳なれば王公以下庶民の子弟に至るまで皆小学に入り,十五歳なれば大学に入る〉のが聖人の制度であった。しかるに歴代王朝のしたことといえば,庶民教育のためにはせいぜい義学,社学という公立学校に補助金を出すことくらい,それすら実際にはほとんどなされなかったらしい。
仁の思想の展開
儒教の教理が発展の結果到達したもう一つの成果をあげてみよう。それは仁説である。仁はもともと〈人を愛する〉ことであったが,やがて宋学では〈天地の生生〉の徳の人間における発現とされ,〈万物一体の仁〉が唱えられるにいたった。王守仁(陽明)はいう,井戸に落ちようとする赤ん坊に対する惻隠の情,哀鳴する鳥獣に対する忍びざるの心,草木の枯折に対する憐憫,瓦石の破壊に対する愛惜の情,すべて人間生れつきの〈一体の仁〉の発現である,瓦石ともともと一体なるものでなくて,どうしてあのような愛惜の情がおこりえようか。もちろん,その本意が人間社会における仁の実現の要求にあったことは疑いないが,しかもまた天地の生生の徳の実現たる仁の徳が,生物はもとより無生物にまで及ぶものと主張せられていることは,十分に今日的な意味を有すると思われるのである。筆者は儒教哲学の人類への貢献の最大なものの一つとして,この〈天地万物一体の仁〉の思想をあげたいと思う。
徳の反対物--武力・労働・法律
儒教国家としての中国の非常に顕著な特徴は,力もしくは武的なものへの徹底的蔑視である。これはおそらく中国史を貫いて変わることのない特徴であった。政治の原理は力によって圧伏することではなく,徳によって化することである。壮大な理想としては王道主義(覇道)。もちろん現実には軍隊を動かすことは絶えずあった。隋・唐の高句麗遠征,清朝の回部遠征のごとき,侵略といわれてもしかたのないものである。けれども,軍人は文官に対してはつねに一段低いものとせられ,また〈武人は義理を知らず〉というのはほぼ定論であった。義理は,すなわち道義,節操のことである。バートランド・ラッセルはいう,〈徴兵を免れる為にみずから己の肉体を傷つけた青年を詩人が英雄扱いにしたような例は,他のいかなる国にも見られまい〉と。白楽天〈新豊の折臂翁〉の詩を指して言ったのである。
もっとも,徳の強調,力の蔑視,にはもう一つの面があった。力といえば肉体労働も力である。孟子のいわゆる〈心を労する〉と〈力を労する〉との区別,つまり精神労働と肉体労働の区別,において明白なような労働の蔑視も,読書人社会の現実においては,要するに徳の優越の思想に帰着せしめてよいように思われる。かのばかばかしく長く伸ばした指の爪という士大夫独特の風俗は,まさにこのことを誇示していたのである。法律も徳の反対物としていやしめられる--といって悪ければ,やむをえないもの,政治の補助手段として,しぶしぶ承認されるにすぎない。中国の法律は古くから罪刑法定主義の立場をとって恣意を排しており,ことに明律・清律となると非常に詳備したものであった。〈はじめのころ中国にやって来た西洋人は,中国の裁判によい印象を抱いていた。中国の法律体系が西洋にくらべて遅れるようになったのは,18,19世紀,近代西洋が法律や刑罰の改革を行ってから後のことである〉(フェアバンク)。人を治める官僚としては法律の知識は当然要求されるはずであるが,〈読書万巻,律を読まず〉(蘇軾の詩の一句)というのが,平均的士大夫の心意気であったことは疑いない。そのような実務は,私的な顧問たる幕客にまかせておけばよいことであり,幕客はまた現場で先輩について学んでいったのである。ヨーロッパ中世の大学で,神学部とならんで法学部が早くから設けられていわば看板学部となっていたらしいのとは,大いにちがう。
→中国法
宗教
儒教が意識的に非宗教的であろうとした教えであることはすでにいったが,しかし,では儒教が最も重視する祖先祭祀は宗教ではないのか。また,国内いたるところの県城に見られた城隍廟,郷賢祠(郷土の偉人たちをまつる)の類はどうか。鬼神(日本語でいうカミ)は陰陽二気の最高の活動形態(鬼神は二気の良能)といえばたしかに合理的な考え方であるが,〈丘(孔子の自称)の禱るや久し〉,儒教の徒はなぜそれに祈るのか。--儒教以外で見ると,もっと明白である。多くの壮麗な仏教の寺院と僧侶,道教の道観と道士,また農民戦争の項でふれた道教仏教混合の民間の無数の秘密結社的宗教(寺というものを持たないで教主や信徒の家にこっそり集まっておつとめをする),孔子,老子,釈迦をいっしょにまつる三教堂。関帝廟にひざまずいて現世利益を哀求する老若男女,山車(だし)がくり出したり芝居がかかったりして盛大をきわめる廟会(びようえ)(縁日)。中国社会はむしろ宗教的現象で満ち満ちていたといってよい。儒教主義官僚の厳格な者はしばしば淫祠邪教の整理を断行したが,すぐまた息をふきかえす。キリスト教徒たちは低級な偶像崇拝,迷信と軽蔑するが,中国にはおよそ宗教戦争とか異端迫害,魔女狩りというきちがいじみたものは存在しなかった。多くの問題の存在することはみとめるが,それはむしろ解決を民衆の教育水準の向上にまつべきもののように思われる。そして,中国における宗教の特徴として,仏教では大乗仏教をとり入れ,その哲学的大展開をなしとげたこと(既述),一方またこれら悟りの宗教と対照的な祈りの宗教,心情の宗教,民衆的宗教として浄土教を生み出したこと,宋以後はほとんど禅と浄土教のみといってよい状態になったこと,しかし一般に僧侶は無学であまり尊敬は受けなかったこと,清末に改革革命運動の志士たちの間に仏学が,心力を強調し衆生救済を説く教えとして,また西洋哲学に対抗しうる組織的な哲学(たとえば唯識)として復興したこと,などを指摘したい。道教研究は戦後急激に開拓されてきた分野で,もちろん道士の専門的修行や儀式などもあるが,むしろ注目したいのは《太上感応篇》などの説く道教的立場よりの倫理説である。徳目など全般に儒教の影響下にあるのは当然であるが,善行悪行を数量化してプラス・マイナスの点数として毎日記録点検して,善にうつることに努めるという功過格の思想は本来道教のものであったという。民衆の内的自己鍛練のための方法として最も重視すべきもので,たとえば商人などをただむき出しの利欲でのみ行動するものと考えるのは早計であろう。そのほか,科学史の方面では,道士の練丹術のための化学実験がとくに注目され,彼らの発見したのが黒色火薬であったこと,そのプロセス,などが確認されたりしている。
→道教
科学
本稿の冒頭に中国的なものに対する誤解の例をあげておいたが,いまひとつ,これは誤解といってしまってよいかどうか一抹の疑いは残るが,有名なジョゼフ・ニーダムが紹介している話がある。J.B.ビュアリ《進歩の観念》(1920)には,古代ヨーロッパ人には全然知られていなかった火薬,印刷,羅針盤を発明したという理由で〈古代人〉に対して〈近代人〉をうまく擁護したルネサンス期のひとたちの議論を評価している個所があるが,これらの発明が実は中国人のものだという脚注すら見当たらない,と。ニーダムはまたいう,〈紙,印刷術,羅針盤,火薬がなかったら,どうして西洋における封建制度から資本主義への変化が可能であったろうか〉。紙,印刷術,羅針盤,火薬が中国人の四大発明といわれるものであることは,いうまでもない。にもかかわらず,中国では科学が発達しなかったというのが,つい最近までほとんど定説であった。その定説を打破したのは戦後,藪内清,ニーダムの精力的な活動の結果である。かくて,問題は次のごとく立てられるべきであったのである。ヨーロッパに対して一歩もひけをとるものでなかったことが今日しっかり証明されている中国の科学文明は,なぜ近代科学を生み出すことができなかったのか,と。--個々の科学的技術的進歩の成果については省略するとして,今は上の〈なぜ〉の問題を考えてみたい。普通その原因として,(1)中国が極東に偏在して匹敵するほどの強国,文明国を周囲にもたず,したがってそれからの摂取ということもなく,中国が伝統の中に眠りこんでしまっていたこと,(2)儒学一本槍の科挙の試験に人材が殺到したこと,(3)専制主義のもとでは,天子がヨーロッパ科学の吸収を禁止したとあってはいかんともしがたかったこと,(4)元の世界帝国のもとで中国科学文明が高潮に達したあとをうけた明代が,学問衰退の時代であったこと,などなど。(1)(2)(3)については異論はない。しかし(4)については筆者は異なる見解をもっている。それは,明の学問が衰退して空疎だというのは清の考証学の立場からいったことであって,けっして妥当な認定ではないということである。それは考証学者が哲学(代表的には陽明学)や哲学と同時存在的に盛行した実用学を学問でないと非難しているにすぎない。しかし一面またある意味では妥当である。そして,まさに空疎で衰退であったことが,今日の科学史家もみとめている明末における科学書の輩出という事態を招いたのである。明代後期という時代はある現代の学者が,諸子百家の百家争鳴時代の再来,と評したような自由主義の時代であった。通俗歴史書,通俗百科全書,文学鑑賞読本……のような清朝の学者の顔をしかめさせるような書物,李贄(りし)の奔放過激な評論集などがにぎにぎしく出版され,大歓迎をうけていた。現に科学史家も承認しているように,薬物学の李時珍《本草綱目》,生産技術百科全書たる宋応星《天工開物》,探検地理学の徐宏祖《徐霞客遊記》,造園学の計成《園冶(えんや)》,軍事学の戚継光《紀効新書》,茅元儀《武備志》のごとき,実際的研究の書もこの時代に続出しているのである。それらはすべて清朝の学者の仕事のような精密な古典研究ではない。清朝にはみることのできないような型の書物である。古典を引用しても,すこぶるあらっぽい。いいかげんなところでちょん切って意味不明にしたりしている。その背景に商工業の発展を考えることも,ヨーロッパ耶蘇会士たちのもちこんだ西欧科学の刺激を考えることもできるであろう。要するに中国科学を衰退せしめたのは,文字の獄に象徴されるような清朝の士大夫弾圧政策に萎縮して,ただひたすら高度に精密にして科学的な古典研究の一路に逃げこんでしまった清朝の学者の責任,彼らの格物致知放棄の責任,であったのである。筆者の中国論は,この指摘をもってしめくくることにしたい。
→中国科学
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