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仮名(カナ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

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仮名 (かな)

日本で漢字を一部分省略するか,極度に草書化するかによって作り出した文字。片仮名と平仮名との2種がある。他に,漢字の意義を考えずにその音のみをそのまま用いるものを万葉仮名という。日本には古来文字がなかったので,漢字が最初の文字であった。したがって漢字を真名(まな)(ほんとうの文字の意)と呼び,真名を省略するか,草書化して作り出した簡略な文字を〈仮り名(かりな)〉と呼んだ。その音便形が〈かんな〉で,それのつまった形が〈かな〉である。仮名創成以前に日本にも文字があったという説が鎌倉時代以降に現れ,江戸時代には,その実例と称するものも提出された。それを神代文字(じんだいもじ)という。しかし,その大部分は,朝鮮の京城で1443年に創案された朝鮮語の表音文字であるハングルに類似するものか,あるいは空想的な創作であるものが多い。神代文字は多く47字か50字から成っており,それが〈いろは歌〉や五十音図の影響下にあることを示している。しかし奈良朝以前の日本語の音韻体系は47音,または50音とは関係がないので,神代文字はすべて後世の偽作である。日本は朝鮮や中国との交渉によって文字を学んだのであり,最初に知った文字は漢字であった。

万葉仮名

漢字は中国語を書くための文字で,言語の基本的構造の異なる日本語を表記するのには不便であった。ことに,地名・人名のごときを書くに困難だったので,中国でサンスクリット固有名詞を書くに用いた方法,すなわち漢字の意味を捨てて音のみを用いて固有名詞を表記する方法を日本でも用いた。たとえば,《魏志倭人伝(ぎしわじんでん)》にかかげられている日本の地名・国名のごときである。日本側の資料で今日知られている最古のものは,5~6世紀ころの金石文であり,熊本県江田船山古墳の刀身銘や,埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘,和歌山県隅田(すだ)八幡宮の仿製鏡(ほうせいきよう)の〈意柴沙加宮(おしさかのみや)〉という銘などがそれである。それに次いで,漢字の訓を用いて尾治(をはり),小治田(をはりだ)などと表音的に書くくふうも成立した。これを字訓仮名という。また漢字1字で2音を表すもの,たとえば徳太理(とこたり)の徳(とこ)のようなものも用いられた。このような仮名は,推古朝以降ひじょうに多くの例が残存するが,とくに《万葉集》の表記に用いられたので世に万葉仮名という。推古朝のころには宜(が),已(よ),至(ち),移(や),居(け),奇(が),里(ろ)など,後世の漢字の字音と異なる音で用いられた万葉仮名が多いが,それらは漢・魏のころの字音によったものである。約100年後には万葉仮名は大いに広まり,全国で用いられるようになった。大宝2年(702)の戸籍帳によれば,そのころはおもに中国の長江(揚子江)下流地方の呉音(ごおん)を用いており,《古事記》《万葉集》もほぼ同じ字音を用いている。《万葉集》では字音仮名のほかに字訓仮名も多く用いられたが,その中には,恋水(なみだ),山上復有山(出づ),八十一(くく),十六(しし),義之(てし)などのいわゆる戯訓という遊戯的な用字法さえある。《日本書紀》は国威を中国に向かって発揚しようとして編修されたので,《古事記》に比較すると,同時代の著作でありながら,用いる万葉仮名の種類がひじょうに異なり,字画の複雑な文字が多い。その字音は唐の都,長安地方のいわゆる北方音によったものが多く,《古事記》《万葉集》と同じ字を用いた場合でも,別の音を表わしているものが少なくない。《古事記》は用いる仮名の種類165種,《日本書紀》は527種,《万葉集》は580種である。《万葉集》の防人歌(さきもりうた)では,各国別に用いる仮名字母が相違しているから,全国では地方地方で仮名の種類が異なり,また個人的にも山上憶良大伴池主など相違があったらしい。万葉仮名は,多くは《法華経》などの陀羅尼(だらに)や,《切韻せついん)》の中で反切(はんせつ)を示す文字から選ばれている。

 記紀万葉では原則的には音の清濁をよく書き分けており,その用字法の細密な研究から,奈良時代には87の音節が区別されていたことが明らかにされ(橋本進吉の研究),《古事記》では88の区別があったことも知られた。万葉仮名はしだいに簡略な字体が用いられるようになり,大宝2年の戸籍帳にはすでに(部),(川),(牟)などの略字がある。奈良時代末期の手紙などに用いられた万葉仮名の状態は,正倉院に残存する762年(天平宝字6)ころの文書2通(《南京遺文(なんきよういぶん)》所収)によってうかがわれる。そこでは,すでにかなりくずれた字形が用いられている。万葉仮名は平安時代に入ると,宣命(せんみよう)や,辞書の注などには用いられたが,しだいに用途がせまくなり,片仮名と平仮名とによって取って代わられた。万葉仮名は奈良時代を通じて識字階級の用字で,一般の用いるところとはならなかったようである。

片仮名

平安時代に入ってから,古経巻や漢文に訓点を書き込むことが始まり,極度に省略した万葉仮名が用いられた。年代の知られる最古の例は,天長5年(828)点の《成実論(じようじつろん)》であり,承和元年(834)点の《大乗掌珍論(だいじようしようちんろん)》,承和8年(841)点の《大乗広百論釈論》,天安2年(858)点の《百論》など以下多数が現存する。これ以前と思われる《唐写阿毗達磨雑集論(とうしやあびだるまぞうじゆうろん)》の古点,西大寺本《金光明最勝王経(こんこうみようさいしようおうぎよう)》の古点などの仮名も,だいたい奈良時代普通に用いられた万葉仮名の簡略化されたものである(図参照)。

 もとの万葉仮名から,どの部分を採ってくるかは一定していなくて,万葉仮名そのままの八(ハ),井(ヰ),三(ミ)などもあるが,上画をとったナ(奈),ウ(宇),ソ(曾),コ(己),下画をとった于(宇),ス(須),ル(流),偏をとったイ(伊),カ(加),矢(知),く(奴),旁(つくり)をとった又(奴),呆(保),エ(江)などがある。万葉仮名は約1000種ほど用いられていたので,その省画から発達した片仮名は,はじめ種々の異体字があった。たとえば同じイの形でも,ある文献ではこれを伊の省画として用い,別の文献では保の省画としてホと同音を表わすに用い,また別の文献では佐の省画のつもりでサを表すに用いている。950年ころ(天暦年間)までは人により,流派により異体字が多かったが,片仮名が世間に流通するにつれてしだいに字体が統一され,平安末期になると異体字はひじょうに少なくなり,室町時代にはほぼ今日と同形になった。現在の片仮名の字体は1900年(明治33)の小学校令で決定されたものである。

 片仮名は,はじめ仏教の経巻のかたわらに書き込むために発達したが,やがて,片仮名を漢字の間にまじえて,いわゆる仮名交り文が作られるようになり(《東大寺諷誦文稿(とうだいじふじゆもんこう)》,西大寺本《金光明最勝王経》古点の中に見える),やがて《今昔物語》《打聞集(うちぎきしゆう)》《三宝絵詞(さんぼうえことば)》などの説話も片仮名交りで書かれるようになって,片仮名で書いた和歌集(たとえば《後撰集》など)も作られ,その用途は広くなった。しかし,片仮名は,漢字とともに用いられるのが原則的で,漢字の付属的な文字であった。明治時代以来,小学校の文字教育では片仮名を先に学習させていたが,第2次世界大戦後は平仮名を先に教えるようになった。

平仮名

万葉仮名は奈良時代末期にはしだいにくずした字形となり,画数も少ない文字が多用されるようになったことは前述の正倉院の天平宝字6年ころの消息2通によってわかるが,平安時代に入って,ますます粗略な草書体が用いられたと思われる。漢文の傍訓にも,片仮名とともに草書体の仮名が混用された。平安初期は,男子の世界では漢文学が隆盛で,勅撰の漢詩集が相ついで編さんされ,学問といえば漢字漢文を学び,書くことであったから,女子は男子に及ばず,一般に漢字漢文を学ばなくなった。それゆえ女は正式な文字としての漢字の圧迫をうけることが少なく,草書体の文字をいっそう簡略にくずして自分たちの歌や消息を記すに用いた。そのため,女子用の文字として漢字から離れた文字が成立し女手(おんなで)と呼ばれ,男子も女への消息に用いた。院政期に入ってからの例ではあるが,宣命においても,女に与える場合には平仮名で書いた。初期の女手の今日に伝存するものはきわめて少ないが,867年(貞観9)の讃岐国戸籍帳に記された大属藤原有年の申文や,《紀貫之(きのつらゆき)自筆本土佐日記》の臨模本と考えられる《藤原為家(ふじわらためいえ)本土佐日記》の仮名や,《小野道風消息》《高野切(こうやぎれ)》《桂本万葉集》の仮名などが古い資料である。女手は現在ではきわめて多数の異体字が知られているが,もともと簡易を求めて発達したものであるから,発達の当初はかえって異体字は少なく,原則として一つの文献の内部では1音に2字を用いず,1字1音を原則として清濁の区別も書き分けず,もっぱら実用的でやさしいことを目ざしたらしい。《藤原為家本土佐日記》の仮名の字源は,〈安以宇衣於加可幾支木久計介己御散之数須世曾所太多知州天止奈那仁尓奴祢乃能波八比不部保末美三武无女毛也由江与良利留礼呂和為恵遠乎〉の63字で,ほとんどすべて万葉仮名としてしきりに用いられた文字である。

 平安遷都の後,約100年の間に,摂関政治への態勢はしだいに整えられ,宮廷の後宮での女子の世界が文化史的に意味をもってきたとき,そこで流通していた女手は,歌合の文字として用いられるようになり,やがて和歌を女手で書く慣習が成立し,勅撰集である《古今和歌集》が撰進されるとき,女手が用いられた。これは女手が仮り名として社会的に低い位置に置かれていたのが,公的な文字として認められた最初の機会となり,やがて紀貫之によって,初めて散文の日記文学へと用途が拡大され(《土佐日記》),平安時代文学のための文字として《竹取物語》《宇津保物語》以下に用いられるに至り,勅撰和歌集もすべて女手で書かれるようになった。女手は流通するにつれて多くの男性もこれに芸術的洗練を加え,字形を美しくし,字源も新たな文字を選んで変化を求めるなど,複雑な書道の美を生み出すに至った。伝紀貫之筆の《高野切》《桂本万葉集》,伝小野道風筆の《秋萩帖(あきはぎちよう)》《屛風土代(びようぶどだい)》,藤原行成の《和漢朗詠集》などにその跡を見る。また女手は漢字による日記の中へ混用されることもあった。

 平仮名の作者を弘法大師とする伝承があるが,それは〈いろは歌〉を弘法大師の作と伝える平安時代末期以後の誤説にもとづくもので,平仮名は特定の人の創案によるものではない。〈いろは歌〉は清濁を合わせて1音に数えて47音から成っているが,弘法大師の生存したころには,ア行ヤ行のエの区別,コの音の2類の区別が存在していた時代であるから,もし弘法大師が〈いろは歌〉のようなものを作るとすれば48または49の音のものを作ったであろう。現に〈いろは歌〉が〈手習詞(ことば)〉として用いられる前には〈あめつちの詞〉という48音(ア行ヤ行のエの区別を存する)の歌が行われていた。したがって〈いろは歌〉は弘法大師の作ではなく,女手も弘法大師の作ではない。万葉仮名を草体にくずして用いるうちに多くの人々によって形成された文字である。鎌倉時代の初め,藤原定家は〈いろは歌〉47字を,区別すべき最低限の女手と認め,〈お〉〈を〉をアクセントの低い,高いによって使い分けることとした。これは平仮名をもっぱら用いた和歌の世界の,仮名使用上の作法とされ,長く後世までの伝統を形成した。しかしこれは片仮名の文献では行われないものであった。

 平仮名という名称は江戸時代以後に行われた名称であって,江戸時代にも多数の異体字が行われたが,1900年の小学校令において,こんにちの字体に統一され,活字体もこれにならった。第2次世界大戦後,現代かなづかいが行われるとワ行の〈ゐ〉〈ゑ〉は用いないこととなった。また,前にも述べたように戦後は,小学校でまず平仮名から教えることになった。
漢字
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書としての仮名

平安時代には仮名の書体として5種類あったことが《宇津保物語》に見える。それは〈男手(をのこで)にもあらず女手にもあらず〉〈男手〉〈女手〉〈片仮名〉〈葦手〉である。男手は真名と同義で,書体としての称よりはむしろ国語を写す漢字の意で,主として楷書行書の書体をいう場合が多い。次に男手でも女手でもない書体は,男手の草書体のさらに略体で〈草(そう)〉と呼ばれ,男手が簡略化された書体である。《源氏物語》の〈絵合(えあわせ)〉や〈梅枝(うめがえ)〉の巻に〈草〉または〈草の手〉と記されているが,遺品としては〈讃岐国司解(さぬきのこくしげ)〉巻首にある《藤原有年申文(ふじわらのありとしもうしぶみ)》が挙げられる。これは867年(貞観9)の文書で,漢字の草書体がさらに移行して,女手への過渡期的書風が示され,しかも漢字の草書の原形を保った字形である。また墨線のゆるやかな動きは漢字の草書の線とは異質の筆の運びで,抑揚の少ない線で書かれ,この線に日本の書道(和様書道)の根幹的な線質の源流を見ることができる。10世紀初頭に《古今和歌集》の勅撰があり,国文学の興隆によって仮名書きの自由化が進んだ。草の手もしだいに単純化し,漢字の字形から離れた独自の形態をとる方向へ進む。10世紀以降の仮名の作品は,書写当時の巻子や冊子の原形のまま伝存するものは少なく,多くは寸断されて鑑賞用に手鑑(てかがみ)や掛幅装となり,〈古筆切(こひつぎれ)〉となって伝えられている(古筆)。それらの中で草の手の遺品は少なく,伝紀貫之筆の《自家集切》,伝小野道風筆の《秋萩帖》,伝藤原佐理筆の《綾地切(あやじぎれ)》などがあるが,これらはすでに女手や平仮名をも混じえた流麗な運筆である。古筆切の筆者はほとんど不明で,近世に至って鑑定家によって付加されて伝称して来た筆者で,確証あるものは極めて少ない。

 女手は変体仮名と現行の平仮名とを含めた総称といってよいであろう。そして女手において平仮名の完成された形を見ることができる。女手は習いやすさとともに,墨の線の流れの美しさを強調させ,各字を連続した連綿体に発展した。連綿体は草の手でも見ることができるが,線の流れの美しい変化を現すまでには至らなかった。女手の美しさを現今に伝える遺品は《高野切本古今和歌集》を第一とする。これは《古今和歌集》の最古写本としても貴重であるが,仮名書きの最高峰を示す書道史上の優品で,その断簡が高野山に伝来していたので,一連の写本を高野切本と呼ぶ。これは3種の書風に分かれ,伝存する巻次によって分けると,巻第一・九・二十,巻第二・三・五・八,巻第十八・十九に分けられ,全20巻を11世紀中ごろ3人の能筆家によって分担執筆したものと考えられる。3人のうち,第二の筆者が源兼行(みなもとのかねゆき)と推定されている。高野切は仮名の完成された形を示し,ゆるやかな運筆と抑揚は典雅な平安貴族を代表する筆跡である。書写当時のままの完本は巻第五・八・二十の3巻のみで,他は分断され,諸家に分蔵されている。平安時代の三色紙と呼ぶ継色紙寸松庵色紙・升色紙(ますしきし)も,本来は冊子本の歌集であったが,一首ごとに切り放して表具されている。継色紙は小野道風筆と鑑定されているが,書風はほぼ道風時代(10世紀中ごろ)と推定され,高野切よりは古体に属するものである。三色紙とも一首を冊子の1頁あるいは見開き2頁に散らし書きとし,余白の美を極めた典型を見せ,升色紙はさらに墨の濃淡や線の太細によって奥深い雅味をもたせるなど技巧に富んだ書風が現れ,しだいに個性的な書へと移っていく。著名な三蹟の道風・佐理・行成の仮名の真蹟は発見されていない。関白藤原道長の仮名書きはその日記《御堂関白記》に残されているが,日常の書の中に品位ある流麗な連綿体が用いられている。平安時代において筆者が明らかな仮名書きはきわめて少なく,古筆切には前述のごとく古筆家の鑑定による筆者名を冠して称するのが通例であるが,確実なものはまれである。高野切以後の仮名の書風は種々の古筆切に見られるが,書写年代を明確には知りがたい。しかし,平安時代の仮名の集大成ともいうべき名品は《西本願寺本三十六人家集》(三十六人集)であろう。これは12世紀初期の能書家20人の分担執筆で,藤原行成の曾孫定実と次の定信などの筆者が推定され,工芸的意匠をこらした料紙の美とともに,藤原文化の極致を示している。この一群の書風は高野切から約半世紀を経て,すでに高野切のおおらかな書流は影をひそめ,技巧的な個々の運筆は緩急の抑揚に新らしい傾向が見える。墨線のリズミカルな動きに諸種の個性が現れ,また繊細な感覚が横溢している。

 鎌倉時代以降は平安時代の流麗な筆致がしだいに消え,一様に肉太く力強い書体に変移し,初めて流派として法性(ほつしよう)寺流後京極流が始まるが,熊野懐紙に遺された書風によって,12世紀初めの貴族歌人の仮名書きが知られる。13世紀後期,伏見天皇は平安時代の仮名に習熟し,復古的な流麗美で伏見院流と称された名筆で,皇子尊円親王はさらに宋・元の書風を加味して尊円流(青蓮院流)を始められた。この流は近世の御家流(おいえりゆう)の源流である。室町時代は故実を重んじた諸流派が乱立したが,書風としては尊円流と同類の亜流で,概して鎌倉時代以降の仮名は漸次平安時代とは異質の書体に変化し,室町時代に定着した形で御家流に引き継がれた。しかし,明治の西欧文明の急速な輸入の反動によって,復古的な平安時代の仮名の研究や古筆鑑賞の機運が興り,時を同じくして1896年8月,西本願寺において三十六人家集の発見があり,ますます平安時代の仮名の美が見直され,現代における仮名の規範は平安時代におかれていると言えよう。

執筆者:財津 永次