kotobank.jp

名誉革命(メイヨカクメイ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

  • ️デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,山川 世界史小辞典 改訂新版,旺文社世界史事典 三訂版,世界大百科事典内言及

名誉革命 (めいよかくめい)
Glorious Revolution

1688-89年にイギリスで起こった革命。国王ジェームズ2世を追放して,王の長女メアリーとその夫オランダ総督ウィレムを共同統治者として迎え,立憲君主制の基礎を固めた。

 王政復古体制下の1670年代末期,チャールズ2世の弟でカトリック教徒のジェームズを王位継承から排除する法案の議会提出をめぐって政治危機は深刻となった。結局この法案は成立せず,85年ジェームズ2世が即位した。その直後,これに反対して前王の庶子モンマス公が反乱を起こしたが,支配階層は動かず,あえなく鎮圧された。国王はこの反乱に対して〈血の巡回裁判〉と呼ばれる極刑をもって臨み,議会を休会し,審査法を無視してカトリック教徒を文武の官吏に登用,ロンドン周辺には国民の嫌う常備軍を配置し,宗教裁判所を復活させた。さらに前王に引き続き87年と88年の再度にわたって〈信仰自由宣言〉を発した。この宣言は,信仰の自由の口実のもとにカトリックの復活を図ろうとするもので,しかも88年の宣言は教会における朗読が命じられた。カンタベリー大主教ら7人の国教会高位聖職者が反対の請願を行うと,国王は7人を逮捕して裁判にかけた。このような専制に対する反感が高まった88年6月,旧教徒の王妃が皇太子を産んだ。王位は新教徒の長女メアリーに継承されるという国民の期待は裏切られ,カトリック復帰への危惧が強まった。この高位聖職者逮捕と皇太子誕生という二つの事件を契機に,これまで対立し合っていたトーリー,ホイッグ両党間に和解の気運が生まれ,7人の主教が無罪の判決をうけて釈放された同月末,両党指導者は協議のうえ,オランダ総督オラニエ公ウィレムに向けて,武装援助を請う招請状を発した。彼は当時,ルイ14世のカトリック的侵略政策に対抗する新教側の事実上のリーダーであった。3ヵ月後,ウィレムは〈プロテスタントの宗教とイギリス王国の法と自由〉を守るために遠征する決意を発表し,11月約1万5000の兵を率いてイングランド南西部のトーベイに上陸した。ロンドンに向けてただちに進撃せずに国王軍の自壊を待つ作戦をとると,貴族は相ついでウィレムのもとに集まり,迎撃するはずの将軍マールバラ公も寝返り,王の次女アンも義兄の側に走った。戦意を喪失したジェームズ2世は,王妃と皇太子をフランスに逃がしたのち,一時捕らえられるが,12月ウィレムがロンドンに入った直後にフランスに逃亡した。

 89年1月に開会された仮議会では,この事態をいかに説明するかをめぐってトーリー,ホイッグ両党間で意見の対立がみられ,妥協案としてイギリス人の〈古来の権利と自由〉を宣言することになった。これが〈権利宣言Declaration of Rights〉であって,89年2月,オラニエ公とメアリーはこれを承認し,共同統治者(ウィリアム3世ならびにメアリー2世)として王位につき,ここに名誉革命がなった。仮議会は正式の議会となり,先の〈権利宣言〉を〈臣民の権利および自由を宣言し,王位継承を定める法〉,通称〈権利章典〉として制定。ついで寛容法も制定され,国教会を体制教会としながらもプロテスタント非国教徒にも信仰の自由が認められた。

 なお,スコットランドにおいてはジェームズ2世を支持するジャコバイトの勢力が強く,名誉革命を承認する議会とジャコバイトの間で武力抗争が行われた。一方,アイルランドではジェームズ2世の逃亡後,プロテスタント地域の解放を求める蜂起があり,それに呼応してジェームズ2世はフランスの援助のもとに89年3月ダブリンに入った。ウィリアム3世はこの事態を放置せず,みずから兵を率いて遠征し,7月ボイン川の戦闘でジェームズ2世の軍隊を破った。これ以後,アイルランドにおける土地の収奪とカトリック弾圧がピューリタン革命期のクロムウェルの征服にもまして徹底的に推進され,これが今日の〈アイルランド問題〉の原点となった。

 名誉革命は17世紀初頭以来の国王と議会の対立に終止符を打ち,〈議会における国王〉に主権が存在するという中世以来の伝統的な国制を守りながらも,議会制定法の優越する議会主権体制の基礎を固めた点にその意義が認められる。この成果がほぼ無血のうちに達成された点を評価して,〈名誉〉革命とする評価がイギリスにおいては定着しているが,逆にこれを単なる君主の交代にすぎないとする評価もある。しかしこの革命の真の意義は,前のピューリタン革命と関連づけて把握されねばならないであろう。すなわち,王政復古体制がけっしてピューリタン革命前の旧制度の全面的な復活を意味しはしなかったのに,後期スチュアート朝の2人の国王が革命の教訓を忘れて絶対主義の復活を図ったことから名誉革命が起こったのである。したがってピューリタン革命の成果が,王政復古体制を経て名誉革命によって守りぬかれ,かつ補強されている点を逸してはなるまい。とりわけ,ピューリタン革命中に後見裁判所の廃止によって実現した,土地に対する私有財産権の法的確立が,資本主義的な生産様式の発展に適合的な社会をつくりだすことに大きく寄与した点を高く評価しなければならない。17世紀のイギリスにおける二つの革命(ピューリタン革命と名誉革命)を世界で最も早い時期にたたかわれたブルジョア革命とみるのは,この意味においてである。

 二つの革命はいずれも議会を中心にして貴族・ジェントリーのレベルでたたかわれ,歴史的な権利の回復の要求を基調とした。ことに名誉革命に至る過程においては,〈40年代の恐怖〉すなわち民衆蜂起による革命の急進化を恐れた支配階層が,民衆の政治関与を徹底的に排除したのが注目される。これが,スコットランドとアイルランドを除いて,革命を〈無血〉のうちに遂行するのを可能にし,〈名誉〉革命たらしめた最大の理由である。したがって,名誉革命が樹立した体制下にあって,議会とくに下院の占める地位は著しく向上したものの,国王とその大権は否定されず,また選挙権の拡大などの議会改革は行われず,それが古い貴族寡頭支配の体質を温存させることになった。しかし,名誉革命後も大土地所有者の手に政治権力は掌握されつづけたものの,彼らは外国貿易に従事する大商人たちと手を結んで,植民地帝国の建設を推進し,工業化の前提条件を整えていった。
執筆者: