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帝国主義(テイコクシュギ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

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帝国主義 (ていこくしゅぎ)
imperialism

帝国主義という言葉は多様な意味に使われてきたが,それは次の三つに大別できる。第1は,他民族や他国の領土に対して支配を拡張したり権力を行使する政策やそのような事実そのものを指す。たとえば,侵略戦争,植民地拡張,他国への強権的な権力行使などを意味する。しかし,事実の指摘にとどまらず,第2に帝国主義という概念は,この支配の対外的な拡張を呼び起こす原因や傾向を示すためにも用いられる。植民地拡大を求める人々の意志,国内で過剰になった資本の投資先を海外に求めること,ジンゴイズムjingoism(排外的愛国主義)のような好戦的な愛国主義などが帝国主義と呼ばれたのはその例である。第3に,さらにこの要因を特定して,国内の社会経済構造が対外的な支配の拡張と関連していると考える論者は,国内体制の構造的な特質を帝国主義と規定する。レーニンが後述のように〈資本主義の最高段階〉(独占資本主義状態)として帝国主義を規定したのは,その代表例である。

 また,この言葉は日常の政治生活で敵を非難するために用いられたり,多様な使われ方をするために混乱をもたらす場合も多いが,社会科学の用法では,帝国主義は戦争,植民地支配,経済的従属などの国際的な対立や支配がどのような権力の特質によって生じているかを発見し,研究の焦点を定める際の嚮導(きようどう)概念として有用である。とりわけ経済企業の活動も,政治権力の浸透力も世界的規模で展開されるに至った現代の国際的な権力構造を巨視的に分析するうえで意味がある。

帝国主義概念の原型形成

帝国主義概念が現代の政治・経済の用語として定着するのは19世紀後半以降である。しかし,この概念が背負っている歴史的意味を鏡として現代的な諸現象が映し出されてきたので,この言葉の歴史的含意を整理しておく必要がある。

 帝国主義の起源は古代ローマのインペリウムにさかのぼる。ここでは共和政ローマから帝政への体制の転換と帝国の形成との関連が,後世の人々に強く意識されている。すなわち,共和政の時代には,インペリウムは命令や権力を意味する一般名詞で,とくに法に基づく正当な命令を指した。ところが,ローマがカルタゴなどとの不断の戦争によって地中海に覇権を確立すると共に,インペリウムはローマの他民族の支配を意味するようになった。これと並行して,支配形態も,元老院などの法的手続を経た正当な授権に基づくものより軍事力と富にものをいわせたあからさまなものが増加し,そのような権力行使をもインペリウムと呼ばれるにいたった。このような統治構造の変質が,のちの人々の帝国主義に対するイメージの一つの原型となった。つまり,戦争政策で海外領土が拡張されると共に,共和政制が衰退し,遠方の属州を専制的に支配する軍人と,〈パンとサーカス〉に象徴されるような手段で大衆を操作する政治家とが支配するような統治構造に退行する,という歴史のアナロジーである。

 帝国主義概念のもつ第2の含意は,絶対王政期の重商主義帝国の戦争政策と国内の専制的な統治構造とを関係づける歴史像より生まれた。近代の人々が継承した帝国という言葉は,絶対君主制の富と権力を称賛し,その版図を示したものであった。それは,フランスのブルボン王朝が典型的に示すように,国内では壮麗な政治儀式に飾られた国王への権力の集中が行われ,国外では〈陽の没することなき帝国〉と形容される広大な領土の拡大が行われたような統治構造を指す。しかし,J.J.ルソーなどの影響をうけた啓蒙主義者にとっては,不断の戦争政策は,民衆の経済的な負担を増大させ,国内政治体制の改革を遅延させる原因と考えられた。そこで,君主や貴族の専制的な権力行使と重商主義にもとづく植民地の領有は強い批判の対象となっていた。A.スミスなどによる国内の自由主義的な改革と植民地の分離・放棄の主張は,このような重商主義帝国への批判にもとづくものである。この18世紀までの自由主義的な帝国主義批判の視角は,19世紀以降の新しい現象を認識する枠組みとして継承された。

近代帝国主義の発生

ウィーン会議から第1次大戦にいたる1世紀の間に,帝国主義は政治の論争用語としても社会科学の術語としても定着していく。この100年は,資本主義の不均等な発展によって工業先発国と後発国との分化が進み,鉄道,通信などの近代交通通信体系や戦艦,機関銃などの新兵器体系の形成とによって政治権力の他地域に対する機動性と浸透力が急速に高まった。それは,いわば世界が階層的な秩序に編成されていく移行過程であったといえる。そのために人々は次々に新しい現象に直面したが,それらが帝国主義と呼ばれる場合には,過去の歴史に対するアナロジーのもとで新しい分析が行われることになった。

 帝国主義が政界の論争の言葉として登場するのは,19世紀前半のフランスである。まず,1830年代にナポレオン帝国の版図の回復をめざす集団が帝国主義者と呼ばれ,次いで1840年代末よりルイ・ナポレオンの大衆扇動的なリーダーシップと植民地を求めて海外派兵を行う戦争政策とを非難する用語として,帝国主義が使われた。この用法はイギリスでも採り入れられ,当初はルイ・ナポレオンの膨張主義を警戒する意味であったが,やがてB.ディズレーリの植民地を重視し海洋帝国の強大さを誇る政治的レトリックに対する非難の言葉となった。

 19世紀中葉のイギリスは,旧来の重商主義を目標とし王と貴族が富と権力を集中する帝国から徐々に脱却し,経済的自由を掲げた中産階級が膨張の重要な担い手の部分になりはじめた。1840年代にはインドにおける植民地の拡大が急速に行われるが,それは伝統的エリート層が支配する東インド会社の経済上の特権が剝奪されていく過程にほかならない。さらに,40年代末よりオーストラリアなど移住植民地への移民が急増して,彼らのうちから,やがて母国イギリスと植民地との政治的な結びつきを強めようとする帝国統合運動が生まれることになった。さらに,アジア,アフリカ,中東など植民地の出先機関で任務についている官僚や民間人の間には,支配地域や勢力圏の拡大をはかる〈前進政策〉が強まった。これらの結果,本国で自由貿易への転換が決定的になった19世紀中葉に,イギリスは世界全域で通商上の覇権を確立するとともに,必要度や現地の政治状況に応じて軍事力を発揮し領土の併合も行っていった。1840年から71年までの領土拡張は,その後の30年間の拡大に匹敵するものである。この膨張は急激に行われたにもかかわらず,本国の政界では緊急の課題とは意識されなかった。また,本国の自由主義的改革の時期と重なっていたために旧来の帝国という言葉のもつ専制政治のイメージに合わないこともあって,1950年代に歴史家によって〈自由貿易帝国主義〉と呼ばれるまで,人々の強い関心を引かなかったのである。

帝国主義の時代

1880年から第1次大戦にいたる期間は,〈帝国主義の時代〉と呼ばれることが多い。ただし,イギリスは19世紀を通じて着々と植民地を拡大し,フランスもアルジェリアなどの植民地化はこの時期以前に着手していることからすれば,1880年の前後で植民地化の速度や形態に大きな断絶があると考えることは不適切であろう。実際,地表面積中で植民地の占める割合は,1800年35%,78年67%,1914年84.4%である。しかしながら,この時期に世界の階層的秩序が人々の目に明瞭になりはじめたことは否定しえない。まず欧米列強では第1に,1880年から1900年までにドイツ,イタリア,ベルギー,アメリカ合衆国,日本などが新たに植民地獲得にのりだし,その地域もアフリカ内陸部,中国,太平洋の島々などを含む世界全域に広がった。さらに第2に,ジンゴイズムが列強内で噴出し,ファショダ事件米西戦争など植民地をめぐる紛争が列強間の軍事対決や戦争の要因となりはじめた。そして,アフリカや中国に対する先占争奪競争は,軍事的緊張をはらみながら展開されたのである。第3に,イギリス,フランスでは世界支配のイデオロギーが台頭した。すなわち,B.ディズレーリR.キップリングJ.F.C.フェリーなどの著作が広く受け入れられるにいたったが,その内容は,帝国主義と植民地支配は,一方でイギリス,フランスなどにとって本国の社会経済秩序を維持するために不可欠であると主張され,他方で植民地化された地域にとっても,文明の恩恵を享受することになると正当化されたのである。さらには社会ダーウィニズム的な人種観や,〈白人の責務〉などの道義的なレトリック,さらに過剰人口の移住先の確保,原料供給地や商品市場の拡大の必要性などが唱えられた。

 次に植民地などの周辺地域に焦点をあてると,1880年代以降,多くの地域で資本蓄積が顕著になりはじめた。多くの植民地で,希金属,銅,ダイヤモンド,石油などが採掘され,綿花,ゴム,茶,ヤシ油,コーヒー,ラッカセイなどの輸出用作物がプランテーションで栽培されたが,それはおもに人口の多い植民地から調達された労働力によって担われ,それとともに人口の集中や交通網の整備が行われた。これらは西欧における資本蓄積とは異なり,宗主国の経済的な必要性に従属する場合が多く,しかも,封建制や部族関係などその地域の伝統的な社会構成を温存しつつ進められることから,周辺資本主義型の蓄積と呼ばれている。ここで,資本の流れは19世紀後半のインド経済の例のように,植民地から宗主国に流出する場合も少なくないが,ある植民地での経済発展が見込めるとなると,他の植民地や宗主国から資金が投下された。このヨーロッパからの資本移動の過程で,C.J.ローズに代表される南アフリカ金鉱経営者のスキャンダルや,〈株屋の帝国主義〉と呼ばれたフランス金融界の植民地投資をめぐる疑惑が暴露された。

二つの帝国主義批判

19世紀末には,植民地経営の実態もヨーロッパに報道されるようになり,それが〈文明の伝播(でんぱ)〉という名目からいかに異なっているかも明らかになりはじめた。たとえばベルギー領コンゴで,ゴムの採集権を独占する会社が住民に採集ノルマを課し,割当に満たない者の手足を切断するという残酷な〈赤いゴム〉に対する告発はその典型である。また,植民地拡大の過程で多くの反乱や植民地戦争が行われた。なかでも,イギリスが大軍を派遣しながらボーア人やズールー族との間で悲惨な戦闘が長期間にわたって繰り広げられたボーア戦争(南アフリカ戦争)は,多くの人々に帝国主義についての疑念を抱かせることになった。この政治的環境から二つの帝国主義批判が生まれた。その第1は母国イギリスの政治経済に焦点をあてたもので,J.A.ホブソンによるものである。彼は雑誌の特派員として南アフリカを訪問し,その戦争の背後には経済的動機,とりわけ大金融業者の暗躍があるとの印象を受けた。そして,帰国後,彼は近年イギリスからの資本輸出が急増している点に着目し,植民地拡大はイギリス国内の過剰資本を投資する先を求める大金融業者と投資階級の特殊利益のためにあり,しかも,帝国主義の全体的な構図を描く能力をもつ司令部は金融業者であるという仮説のもとに《帝国主義論》(1902)を書いた。これは,海外膨張を重大な病理状態と見立て,その病巣はイギリス本国で影響力を増す既得権益の体系であると指摘した点で,多大の意義をもった。しかも,ホブソンは,帝国主義政策を解消するためには,イギリス国内の労働者により多くの価値の配分を行って海外に流出する過剰資本をなくせばよい,という年来の主張(〈過少消費説〉)を《帝国主義論》の中心におき,国際的レベルでの帝国主義批判のベクトルの向きとイギリス国内の公正な分配という改革の方向とを重ねあわせた。このようにホブソンの《帝国主義論》は時流に鋭敏な対応をし,帝国主義の改革の目標を明示したために大きな影響力をもつにいたった。

 第2は,ガンディー主義の形成である。M.K.ガンディーは1893年より1914年まで南アフリカで弁護士としてインド人(大多数はクーリーと呼ばれた契約労働移民)の人権を確立する闘争を行った。イギリス帝国の底辺を担わされていた南アフリカでは,当時,人種差別の法令が次々と実施されたが,それに対するガンディーの反対運動は,当初のイギリスの差別政策と本国での自由主義的立法の間の二重思考の矛盾をつくというものから,帝国主義的な価値体系そのものを転換することを目標とするようになった。すなわち,帝国主義イデオロギーに内在する差別意識(白人,清潔,男性的力強さなどに価値をおき,黒人,不浄,女性的やさしさを卑しめる意識)を逆転し,差別された黒人やインド人の側が屈服させられることのない尊厳を身につけ,反対の意志を表出する勇気が必要であると考えるにいたった。そして,帝国支配を拒絶するためのさまざまの抵抗形態をあみ出し,実施しはじめたのである。つまり,ガンディーの帝国主義批判は,その支配を甘受しているインド民衆の意識変革を志向したものであり,それによって帝国主義的支配のコストを高め,ついには支配を放棄させることをねらったものであった。このガンディー主義の運動は,帝国主義が底辺から権力を掘り崩されていく出発点となった。

マルクス主義者の帝国主義論

これらのイギリス帝国をめぐる帝国主義批判と並行して,後発資本主義国である中欧,東欧のマルクス主義者が,新しい視角から〈帝国主義論〉を展開した。その背景には次の二つの変化がある。第1に,20世紀に入ると列強間の軍事的緊張がいっそう高まり,戦争の危機が強く意識されるようになった。ドイツでは〈世界政策〉が提唱されて海軍は軍拡に踏み出し,他の列強にも軍事的色彩の濃いナショナリズムが強まり,それらは,モロッコ事件などを契機にいっそう激化していった。そのために,植民地拡張のみでなく,各国の軍事的膨張主義や戦争政策の原因が何であるか,が問われるようになった。第2に,ドイツなどでは製鉄業を中心とした重化学工業が発展し,そこではイギリス,フランスにみられない巨大企業が成立した。また,大銀行が発展して巨大な製造業との連係を深め,さらにそれらの集団間でもカルテルなどによって協調がはかられるという経済権力の集中化と組織化が進行した。海外においても,ドイツは商品市場,原料供給地,鉄道などの利権,投資市場などの面で先行するイギリス,フランスの権益に割込みをはかったのである。

 このような事態に対して,マルクス主義知識人は,銀行の役割,保護関税政策の目的,軍国主義などについて論争を重ねた。とくに,R.ヒルファディングは《金融資本論》(1910)の中で,資本主義国間で進行する権力対立と,資本主義国内の経済的な集中と組織化との間には構造的な関連があり,前者は後者によってもたらされると仮定した理論を提示した。この理論をほぼ踏襲したレーニンは第1次大戦の最中に《帝国主義論》(1916)を書き,資本主義国間の対立は政策決定者の意志で変更することはできず不可避的に破局にいたるという意味をこめて,帝国主義を〈資本主義の最高段階〉と規定した。つまり,産業資本にかわって独占と金融資本が支配を確立し,商品輸出にかわって資本輸出が主たる意義をもち,国際的トラストが世界分割を完了し,諸国家が植民地再分割を争うにいたった資本主義の段階を帝国主義と呼んだ。資本主義列強が膨張主義に駆り立てられ軍事対立にいたる原因は,このような資本主義の構造にもとづくと想定したのである。

レーニンの帝国主義論の政治的意味

このレーニンの帝国主義に対する特殊な規定は,それが執筆された時期の彼の関心から,次のような政治的なねらいをもっていたと考えられる。第1に,世界大戦という破局は,政策上の破綻から生じたのではなく,資本主義体制そのものの破局にほかならないことを示すことである(資本主義が相互の利害を調整する可能性を論じたカウツキーの〈超帝国主義〉への反論)。第2に,帝国主義は資本主義のダイナミズムの帰結だとすることで,開戦の呼び起こしたナショナリズムの波に圧倒されている各列強内の社会主義者たちに対して,自己の属する資本主義体制を変革する糸口を発見すること(〈戦争を内乱へ〉)こそが,彼らが直面する政治目標であると説得することであった(〈祖国防衛主義〉への反論)。第3に,帝国主義段階に達した国々ではブルジョアのナショナリズムの主張は,かつての民主主義の推進者としての役割を失い,既得権益を維持し拡大しようとするイデオロギーとなっているが,帝国主義段階にいたっていないロシア,東欧諸国でのナショナリズムの運動は,変革の重要な政治的モーメントとなることを説明することであった(〈経済主義〉への反論)。このようにレーニンの《帝国主義論》は,資本主義の発展途上にあったロシアの革命家の政治的著作でもあった。

 以上のマルクス主義者と同時期に別個の視角から帝国主義を分析したのが,J.A.シュンペーターである。彼は帝国主義的膨張が必ずしも合理的な目標をもたない場合にも支配地域を次々に拡大しようとする傾向があることに着目した。この膨張の自己目的化は,彼によると,第1に,好戦的な規範意識を過去から引きついでいるエリート層が支配し,それと高度の軍事技術や産業基盤が結びついた国々(ドイツと日本)で生じやすい。第2に,軍事機構とそれを支える社会構造は,それがいったんでき上がると当初の目的から離れて戦争のたびに次々と新しい役割を拡大し,軍事技術を開発し,自己増殖していく傾向を指摘した。彼の分析は,帝国主義の社会心理的なメカニズムを掘り下げた点で示唆に富んでいる。また,ホブソンなどは民衆の好戦的愛国主義をあおり立てる大衆新聞が19世紀末より台頭したことを指摘しているし,また,労働者を含む民衆の国内的な不満を対外的な膨張政策によってそらし,国内統合を容易にする手段として植民地や対外危機が利用されていることを指摘した人々も多い。以上の分析はそれぞれに妥当性をもつが,それは植民地の拡大や第1次大戦のような複雑な現象を単一の要因から説明することの困難さを物語っている。

レーニンの理論の妥当性

ホブソンやレーニンなどの帝国主義論は,著述そのものを政治的行為と解釈しうるだけでなく,アフリカ分割や世界大戦という未曾有の変動に直面した知識人が解釈を模索した同時代認識として意義をもった。その後,ロシア革命の成功などによるレーニンの名声の高まりとともに,彼の帝国主義の規定はマルクス主義の公式の解釈となった。そのため,テキストブック化したレーニンの帝国主義論と,それに対する批判が繰り返されたが,その争点は,(1)政治経済体制の特質と外交政策の相互関連,(2)政治行動と経済構造の相互関係,(3)帝国主義と軍事主義の存立条件の異同,(4)戦争の原因をどこまで社会経済的構造で説明できるか,の4点であった。しかし,このような先進資本主義国の経済構造に焦点を定めた分析視角は資本主義国(ヨーロッパ)が世界を動かし,しかも,企業がみずからの属する国家の利害にほぼ沿って活動することを前提としてはじめて妥当性をもちうる。また第1次大戦期までの欧米の帝国主義論は,植民地の側の変化についての情報が得られない条件下で執筆されたことも留意すべきであろう。

 また,その後の実証的な歴史研究によって,植民地拡大や第1次大戦の過程が細部にわたって検討された結果,資本主義の経済構造に焦点をあてた理論からは説明のつかない現象が次々に発見された。まず,イギリスの植民地拡大の速度や特質が1870-80年代を境に大きく変化したと考えることは不適切であることが明らかになり,また,国内経済の独占化は〈帝国主義の時代〉にあまり進展しなかったことも指摘された。第2に,D.K.フィールドハウスやD.C.M.プラットらの経済的研究では,ヨーロッパからの資本の輸出先の多くはアメリカ合衆国など急速に経済発展した地域であり,新たに植民地化された地域は資本輸出の主対象地域でないことも示された。第3にQ.ライトやD.シンガーらの包括的戦争研究によれば,戦争政策などの攻撃的な外交政策がとられた事例のうち,その決定要因として経済的な要因が重要と考えられるのは,全体の一部分にすぎないことも実証されている。さらに第4に,植民地側の歴史資料が明らかになるにつれて,植民地史研究が急速に進み,たとえばE.ストークスやD.ロウらの研究が示すように,植民地化の過程で,宗主国の政策が現地の事態の展開を統制していない場合が多かったことも明らかになった。つまり,植民地化は宗主国の側から変動のイニシアティブが発揮されただけでなく,出先機関の判断や現地の政治的不安定などの状況変化が重要な意味をもつことが多い。とすれば,宗主国の経済構造から分析可能な領域が限られるのは当然といえよう。

現代の帝国主義

第2次大戦後の世界は大きく変動した。第1に,植民地の大部分は政治的独立をとげたため,帝国主義と植民地の領有とを同一視することはできなくなった。しかも新興独立国の中には漸次,経済官僚と軍部を中心とする統治機構を整備する政府が増えていった。その結果,第2に,かつて植民地であった国々の自決権が増大し,旧宗主国や米ソなどの大国との関係でも,これら中小国がイニシアティブを発揮する余地は拡大した。つまり,ヨーロッパが世界を動かした時代に比べ,世界の政治決定が分権化・分散化したといえる。それに対して,第3に,エクソン,GM,IBMなどのさまざまの巨大な多国籍企業が台頭し,本社がおかれた国の政治経済の利害をこえて活動しはじめた。多国籍企業は海外に直接投資を行って支店網をつくり外国企業を支配し,独自の世界的な経営戦略をもっている。したがって,国際経済上の権力はこれらの企業が握り,時として自国政府の外交の方針と対立することも少なくない。さらに第4に,軍事力の面では冷戦下にあって米ソ両核大国が他とは隔絶した軍備,軍事技術,研究開発能力をもっていた。そして,両国の軍産複合体は軍事衛星などを用いた軍事情報の収集システム,軍事同盟や海外の軍事基地網,軍事援助,武器輸出や軍事技術の移転などを通じて,他の国々に対して支配的な地位を築き上げた。

 したがって,現代の世界秩序は,法的には多数の主権国家が平等に分立している状態であり,政治的には中小国や民衆がイニシアティブを発揮する余地が広がっている反面,経済的には巨大な多国籍企業や大国の経済機関などに決定権が集中する傾向があり,軍事的には冷戦下で米ソを頂点とする階層的な世界秩序が形成されてきた。そのため,現代の帝国主義論は新興諸国や民衆の平等化の要請をおしとどめる経済的・軍事的な要因に関心を集中させている。とくに1960年代後半より,新興諸国の経済発展計画の多くが挫折し,深刻な貧困状態が残されていることが明らかになったために,近代化論に対する批判という観点から帝国主義論が展開された。

 その第1の争点は,階層的な世界秩序をどのようなモデルによって理論化するかであった。近代化論が,工業国がたどったのと同一の経済発展コースを発展途上国その後を追ってたどるという単線的な発展モデルを前提としているのに対して,1960年代末より,平和研究者や従属論者(従属論)によって,中心対周辺center andperipheryという新しい枠組みが提示された。たとえば,ノルウェーの平和研究者ガルトゥングJohan Galtungは,現代の世界秩序を封建制になぞらえ,工業国と発展途上国の格差が固定化ないし拡大されることをモデル化した。すなわち,工業化をとげた中心国相互では通商,交通,情報,政治交渉,軍事関係などは水平的で多角的なネットワークが形成されるのに対して,周辺国相互の関係はあまり発達せず,中心国と周辺国の中には縦割りの支配・従属関係が形成されると仮定した。彼によれば,中心国は自動車の生産技術や電子技術のような応用範囲の広い技術を多数の人々が学習して,多様な品目を生産・輸出するのに対して,周辺国はバナナの栽培とか銅の採掘など他に応用範囲が限られた技術しかもたず,限られた品目のみしか生産・輸出しえないと仮定する。このモデルは世界の経済的な格差の継続性を理論化しようとした試みであり,レーニンが帝国主義の矛盾と破局に焦点をあてたのに対比することができる。

 現代帝国主義論の第2の争点として,発展途上国への武器輸出,発展途上国の軍事政権の台頭などと,工業国と発展途上国の間の経済的な格差との相互関係が問われた。近代化論者の一部が,発展途上国の軍備拡大は経済成長を促進すると主張したのに対して,スウェーデンストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の報告書などは,発展途上国の軍拡は乏しい資源の浪費であるだけでなく,兵器を購入し軍事技術を導入することで大国の軍産複合体を強めていることを指摘した。そして,武器輸出,軍事政権などは,大局的には,不平等を修正しようという発展途上国の民衆の運動や中小国の活動を抑圧する機能を果たしていると規定されている。すなわち,現在の世界の軍事的な階層秩序が,経済的な格差を維持する役割をもつ点が注目されている。
軍事化 →植民地 →世界政治
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