干拓(カンタク)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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干拓 (かんたく)
海や湖沼の水面や低湿地などを堤防で締め切って内部を排水し,新たに農地などの陸地を造ること。干拓という用語は1914年の耕地整理法によって定義され,それ以前は埋築,埋立てと混用されていた。造成された土地を干拓地といい,一般に外水面よりも低い。干拓は開墾の一種ともいえるが,堤防をきずき,地表水を排除して農地を造成する点が普通の開墾と異なる。
干拓は,対象とする水面によって海面干拓と湖沼干拓(湖面干拓)に大別される。海面干拓は,海岸の干潟または海面を堤防で締め切り,内水を干潮時に排水門を通して排水するか,補助的に排水ポンプを使うことによって排水して陸地とする。一方,湖沼干拓は,湖面,湖岸,沼地を堤防で囲み,内水を排水ポンプにより排除して陸地とする。流域からの集水を地区外に導くため堤外に流入水を集めて排除する水路,すなわち承水路や,洪水を一時的に貯留する遊水池を設ける。また,干拓方式には干拓堤防が直接海に向かって築堤され,その内部を干拓する単式干拓と,湾口をまず堤防で締め切り人造湖をつくって,その内部に内堤をめぐらす複式干拓の2方式がある。前者は従来日本で多くとられた方式で,後者はオランダにおいて一般に行われている。日本で第2次大戦後行われた児島湾の干拓や八郎潟干拓は後者の形式をとった。
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適地条件
海面干拓では,(1)河川の堆積作用が大きくて干潟が拡大すること,(2)海底が平たんで,みお筋(干潟内の流水路)が少なくないこと,(3)潮汐の干満の差が大きくて干拓地の排水がよいこと,(4)築堤費が造成費の約1/2をしめるから,堤長に比して造成地が広くできること,(5)築堤する地盤の地耐力が強く,堤防が沈下しないこと,(6)外洋からの風波,潮流が堤防,樋門(ひもん)などに悪影響をあたえないこと,(7)干拓地の灌漑,除塩のために用水が豊富であること,(8)工事用資材とくに石材,築堤用土が多量,安価に得られること,(9)干拓地の造成によって,漁業,用水,排水などの既得権益への補償が小さいこと,などがあげられる。湖沼干拓ではさらに,湖沼に流入する河川の水量が小さく,灌漑用水に不足せず,湖底が水面より高いことながどあげられる。干拓は水面下の土地を陸化して農地を造成するので,耕地開発史からみれば特異な事象である。初めはつねに干潟になっている部分を築堤で囲ったが,築堤技術や排水技術が進歩するにしたがって,かつては小規模であったが,今日では巨大な干拓地を浅海まで広げて造成するようになった。
ヨーロッパの干拓
ヨーロッパでは北海,バルト海,アドリア海の沿岸に広い干拓地がある。オランダではライン川,マイン川の三角州を国土とするが,その面積の25%は海面下にあり,60%は高度5m以下の低地である。この低地はゾイデル海の干拓地でポルダーと呼ばれる。12世紀から民営の水防組合がポルダーを造成しはじめ,15世紀から国営の排水組織をつくり,19世紀に排水に風車ポンプが利用されてから大規模干拓が行われた。20世紀にはゾイデル海干拓はさらに大規模化し,現在は北西部(1万9600ha,1930年完工),北東部(4万7600ha,1942年完工),東部(5万3200ha,1956年着工),南西部(5万9600ha,1960年着工),南部(3万9600ha,計画中)の5区に分けている。イギリスでは北海沿岸のフェンランド干拓で34万haの干潟を対象に,16世紀から小規模の干拓地造成がはじまり,17世紀からポンプ排水によって大規模となった。フランスでは16世紀からビスケー湾岸にオランダ式のポルダーが造成され,17~18世紀にモン・サン・ミシェル湾岸に広大な干拓地を造成した。イタリアではポー川の三角州の干潟に適地が100万haもあり,20世紀に15万haの干拓地が造成された。
日本の干拓
東日本に湖沼干拓が多く,西日本に海面干拓が多い。湖沼干拓地は新田という地名であるが,海面干拓は旧藩領によって異なり,八代海の新地,有明海の牟田(むた),搦(からみ),籠(こもり),瀬戸内海の開作,新開などがあり,大阪湾,伊勢湾では新田という。湖沼干拓は17世紀の治水技術の発達によって,干潟八万石,飯沼,見沼,紫雲寺潟などに2000~3000haの干拓地ができた。海面干拓は17世紀に築堤技術の進歩によって,東京湾,伊勢湾,大阪湾,瀬戸内海,有明海,八代海などに,数十haから数百haの規模のものが多くなり,中でも沖新田,福田新開,七百町新地などは1000haの規模があった。近代には八郎潟(174km2)が最大の海面干拓の規模を誇っている。
執筆者:菊地 利夫 江戸時代に達成された干拓地は,海面干拓の方が湖沼干拓よりも面積的にもはるかに広く,新田開発の対象地としてもより重要な位置を占める。海面干拓の技術は江戸時代前期より中期以降により一段と発展したようで,尾張藩の例を見ても,江戸前期の熱田周辺のものより中期以降の,より西部の海部(あま)郡(元は海東郡・海西郡に分かれる)地域から伊勢北岸にかけての部分が,より大規模である。海面干拓には,計画した海面を取り囲んで沖手に築造した堤防が高くかつ堅固で,いったん排水して得た新陸地を保護しうる強度であることが必須条件である。また陸面上の湛水(たんすい)地の干拓には,最初に,海面または他の大河川に排水しえて,容易に埋没破壊などのおそれのない十分な幅と深さとをもつ排水路を造ること,および湖沼はもともと低地であるから,大雨などの際はたちまち湛水して元の形に戻る場合も少なくないから,それらの際に備えての十分な排水機能をもたせることが必要である。近代の京都市南の巨椋池(おぐらいけ)(大池)干拓地では淀川に通ずる排水口である一口(いもあらい)に強力な電力排水ポンプが設置され(1934),これが巨椋池干拓地を支える最大の柱となっている。歴史的に著名な越後紫雲寺潟新田の陸化に際しては,初めから排水に苦心していたが,ひと夜暴風雨によって排水の河筋が決壊し,はからずも一挙に排水しえたと記しているのは,これらのことが予想外の事件で禍福相転じた例として興味深い。なお海岸遠浅地での土砂の滞留による浅海化を促進するため,有明海などでは海中に木,石を投棄したが,これをよりどころとして,土砂が波の動きにつれてたまり,浅海化を一段と促進したこともあるとみられている。
海面干拓の場合の困難な問題として,出資者,出資団体に十分な資力がなく,当然石垣とすべき外堤を土堤のままにとどめたため,後日に堤防の大決壊を招来して,大面積の干拓地が一挙に海没化し去った肥後横島新田の〈郷備(ごうび)開き〉の例がある。この築造に加わった移住希望の農民は,一挙に多大の損失を被った。尾張海部郡の地先に1707年(宝永4)に開かれた神戸(かんど)新田も,1722年(享保7)に半ば以上が地震と高潮のためいったん海底に没し,ようやく100年近く後の1801年(享和1)に,かつての神戸新田の海没部分をも併せ,神戸新田の地先に,同じ神戸家による服岡新田が開かれるまでは海没のままであった。海面干拓の代表的地域は西から有明海沿岸の肥前・筑後・肥後,備前の児島湾岸(戦後の干拓により元の児島湾はごく一部の淡水面を残すのみとなった),大阪湾岸,木曾川下流の尾張・伊勢の北部などに著しく,内陸水面では北上川の中・下流部(宮城県),越後平野中の潟の干拓などが数えられる。
海面の干拓地は,江戸期には領主的立場から,その水田化がもっとも望まれていた。しかし周辺に流入する河川水は開発期の古い,上流部村々の設けたせきによる引水によってほぼ使いつくされてすでに十分の余裕がなく,1823年(文政6)に完成した備前児島湾岸の興除新田も,幕府倉敷代官の絶大な援助の下,高梁川上流の湛井十二ヵ郷用水の末を庄村から引く東用水路,それより下流の同じ高梁川岸の酒津から引水する八ヵ郷用水の定水川の流末を引く西用水路の2本が造られたものの,西用水路からの水はしばらくで不通となり,現在に至っても東用水路の流末村庄の余水を受けている実情である。また肥後の玉名郡横島新田でも,菊池川本流からの引水施設の完成までは,一面の畑地であり,粟その他の雑穀を主とし,施工者有吉家が,新田造成に働く農民労働者への給与を粟で行っていた事実からも,開発当初の作付状況を察しうるのである。
上述した海面干拓の盛んであった地域,とくに有明湾岸,児島湾岸,伊勢湾沿岸の海部郡地方などでは,江戸時代前期から後期の各年代にわたり,古い時代のものは幅が狭く,時代を下るにしたがってその幅の拡大している各期の干拓地が帯状に連なり,より沖手は,より堅固な築堤が行われ,いったん干拓地が進出すれば,内陸部の旧堤防は不用となり,周囲よりも一段と小高い旧堤上は,畑地,墓地,屋敷地,収穫物の乾燥場などとして利用され,沖手へ沖手へと干拓地の進出の歴史の跡を示している。またいちばん外側で現海面に接する堤の内側はおのずから海水の侵入を受けて半鹹水(はんかんすい)をたたえる池敷として残されているものもある。たとえば備前沖新田の〈仕切外〉と呼ばれる部分に水ため地が多く,また伊予西条市西部の禎瑞(ていずい)新田では,毎年夏に日を定めて,半鹹半淡水に好んで生息する魚類を捕獲する行事が行われる。
干拓地造成の資財,資金のいっさいが開発権者(実行者)の手から支払われた場合と,資材は開発権者(地主となる),労力は農民の負担という関係で成立した干拓地とでは,爾後の土地の分配,地主・耕作者間の耕地に対する権利関係などに著しい差を生じ,土地問題としても興味深い事象を提供する結果となっている。海面干拓は塩抜きに年数を要し,十分の収穫をうるまでには,かつては20~30年を要したが,戦後の現在では早く2~3年ですみ(岡山県立興除農業高校での実験による),また淡水干拓は開発の初めから高収穫に恵まれ,かえって初め2~3年は生育をチェックする必要さえあったという大差が見られた(巨椋池干拓では徒長する稲葉の先を切り取ってようやく稲穂を実らせた)。
干拓の出資者は近世前期には領主の場合が多く,村請(近隣村民の協同による請負開発)がこれにつぎ,前期から見られた町人資本による町人請負は,享保(1716-36)以後著しく栄え,その結果として一村一地主,全小作農の村も数多く生じ,昭和の農地改革のときに至ったものも少なくない。
→新田開発
執筆者:喜多村 俊夫
中国の干拓
中国の古代には華北にも現在よりはるかに多くの湖沼があり,長江(揚子江)中流の湖南・湖北の地帯,同下流の三呉のデルタ地帯,珠江下流デルタなども今より低湿の地が多かった。これらはその後多く耕地化されたわけであるが,干拓を埋立てと区別するならば,それに大略該当するのは三呉の耕地化であろう。この地方は隋・唐ころまでは,低湿地を避け,小河川の水を利用して,火耕水耨(かこうすいどう)と総称される,華北にくらべて粗放な直播(ちよくはん)連作の稲作が行われていたが,南宋の成立後,人口の増加にともないはんらん原も開発されてきた。彼らはこの地一帯に網の目のように流れる小河川に沿って堤防(圩(う))を築いて囲込みをし,その中を周辺から漸次耕地化していった。これがいわゆる囲田,圩田,湖田と呼ばれる干拓田である。圩田の排水,灌漑は堤防中の閘(こう)(水門)によるが,水位の関係上,竜骨車,水車なども用いられた。圩田の大なるものは数百数千頃(けい)におよび,国家か大豪族の力を必要とし,宋代の荘園発達の一原因となった。華北の湖沼が耕田化される場合は,黄河水系の河川の多くは泥土を多量に含むため自然の力で埋め立てられるケースが多く,長江中流地の耕地化も長江の泥土によるところが多いと思われる。もっとも後者の地域は長江の遊水地としての役割をもっているので厳密には干拓地とはいえない。珠江デルタの開発も主として埋立てである。中国の干拓は華北では水源地確保とのかね合い,華中以南では洪水に対する問題とがからんでいることが注目される点である。
執筆者:米田 賢次郎