粛親王善耆(シュクシンノウゼンキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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デジタル大辞泉 「粛親王善耆」の意味・読み・例文・類語
日本大百科全書(ニッポニカ) 「粛親王善耆」の意味・わかりやすい解説
粛親王善耆
しゅくしんのうぜんき / スーチンワンシャンチー
(1866―1922)
中国、清(しん)朝の皇族。1898年、父の後を継いで粛親王となり、翌年護軍統領となった。1900年の義和団事件では御前大臣として、西安(せいあん/シーアン)へ避難する西太后と光緒帝(こうしょてい)に従った。07年から5年間、民政部尚書として警察行政の改善に務め、首都北京(ペキン)の治安維持に功績をあげた。その間、日本側と親しくなり、とくにいわゆる大陸浪人の一人である川島浪速(なにわ)とは義兄弟の交わりを結んだ。11年の辛亥(しんがい)革命に際しては宣統帝退位に反対する強硬論を唱えた。中華民国成立後は日本の支配下にある旅順に隠棲(いんせい)し、同地で没した。なお、「東洋のマタハリ」とよばれ日中間で数奇な運命をたどった川島芳子(よしこ)は、川島浪速が養女として育てた粛親王の娘である。
[倉橋正直]
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「粛親王善耆」の意味・わかりやすい解説
粛親王善耆
しゅくしんおうぜんき
Su-qin-wang Shan-qi; Su-ch`in-wang Shan-ch`i
[没]1922
中国,清末の貴族,政治家。清朝の太宗の長子粛親王ホーゲ (豪格) 10代の子孫。光緒 24 (1898) 年父の死により粛親王を継ぎ,歩軍統領に任じられた。義和団事変で西太后らの西安逃避に随行し,御前大臣となる。のち要職を歴任し,宣統3 (1911) 年に慶親王奕きょう内閣の民政大臣,次いで理藩大臣となる。辛亥革命による清帝の退位には強硬に反対したが成功せず,旅順に移住。その後も川島浪速らと満蒙の独立をはかったが,失敗した。川島の養女川島芳子は善耆の娘。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「粛親王善耆」の解説
粛親王善耆 しゅくしんのう-ぜんき
同治5年生まれ。太宗の長子武粛親王豪格10代の子孫。慶親王内閣の民政大臣,理藩院大臣をつとめる。清朝滅亡後,旅順にのがれ,川島浪速(なにわ)らと満蒙独立を画策したが失敗。「東洋のマタハリ」といわれた川島芳子は第14王女で,川島の養女となった。1922年2月17日死去。57歳。