英語(エイゴ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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英語 (えいご)
English
今日世界で最も多数の人々によって話される言語の一つ。ふつう話者の数が最も多いのは中国語とされるが,実際には他言語と言ってよいほど相互に通じないいくつもの方言に分かれているので,地域による変異が少なく,高度の統一性をもつ相互理解可能な言語としては,英語が最大であり,地域的にも最も広く行われる言語である。イギリス,アメリカ合衆国,オーストラリア,ニュージーランドなどの実質上の公用語,カナダ,南アフリカ共和国,フィリピン,また第2次大戦後独立したアジアやアフリカの多数の国々でも公用語の一つないし共通語として用いられる。また憲法によりアイルランド語を第1公用語とするアイルランド共和国でさえも,実際には第2公用語である英語を母語とする人の方がはるかに多い。控え目に見積もっても英語を母語とする人々は5億を下らないであろうし,また高等教育の共通媒体,さらに国際共通語として,英語が最も頻繁に用いられる言語であることも忘れることはできない。
系統上英語はインド・ヨーロッパ語族のうちゲルマン語派の西ゲルマン語に属し,その中で現代ドイツ語が高地ドイツ語であるのに対し,英語は低地ドイツ語系で,オランダ語などに近い。
歴史
1世紀からブリテン島に駐留してケルト系の住民を支配するとともに外敵から守っていたローマの軍団が410年に本国に引き上げた後,5世紀半ばから6世紀にかけて大陸のユトランド半島,今日のドイツ北部およびオランダの一部に住んでいたゲルマン系のジュート人,アングル人,サクソン人が多数ブリテン島に渡来,定住するようになり,しだいに先住のケルト人を制圧しあるいは辺境の地に追いやってイングランドの支配者となるとともに,彼らの言語がこの地に定着した。英語の歴史はそこに始まるが,その発達の歴史をふつう3期に大別し,(1)古英語(450-1100),(2)中英語(1100-1500),(3)近代英語(1500以降)とする。この区分はインド・ヨーロッパ語(以下印欧語と略す)の特色の一つである屈折(屈折語)を尺度として行われる。古英語は高度の屈折,中英語は水平化された屈折,近代英語は屈折の消失,によってそれぞれ特徴づけられる。
古英語
Old English,略称OE。イングランドに渡来したゲルマン族がアングロ・サクソン人と総称されたことからアングロ・サクソン語とも呼ばれる。OEの時代区分については,OEが記録として現れるのが7世紀末なので,700年をOEの始めとする見方もあり,またOEで書かれた《アングロ・サクソン年代記》の記録の最終年が1154年であることから,(ことに書きことばについては)12世紀半ばをこの期の終りとする見方もある。OEは各部族の定住した地域により次の四つの方言に分けられる。(1)イングランド北部,ハンバー川以北のノーサンブリア方言Northumbrian,(2)その南,テムズ川までのマーシア方言Mercian(この二つはアングル人の定住地域に行われたので合わせてアングリア方言と呼ぶこともある),(3)ジュート人の定住した南東部のケント方言Kentish,(4)サクソン人の定住したウェスト・サクソン方言West-Saxon(略称WS。ウェセックス王国の英語)である。これらは早くから総称的にEnglishと呼ばれたが,ときにはSaxonとも呼ばれ同義に用いられたらしい。8,9世紀ごろノーサンブリアおよびマーシアには学芸が興隆し,一時は全欧に冠たる地位を占めたが,たび重なる北欧の侵略者デーン人(バイキング)による僧院の略奪と破壊に遭い,これら方言による文献はおおかた失われた。後世に伝わるOEの文献はWSによるもので,これはアルフレッド大王(在位871-899)が果敢な反撃によりデーン人から自領を守り,協定を結んで彼らとイングランド内に平和に共存する一方,自らラテン語の哲学・宗教書をWSに訳し,年代記を編ませるなど,宗教と学芸の興隆に意を用いたことによる。大陸時代以来の口碑,他方言による文学もWSで書きとどめられ,あるいは転写されて残った。WSで新たに著作する者も多く,9世紀以降WSはOEの文学的標準語となった。しかしこれは今日の英語の直系の祖ではない(後述)。OEの特徴は複雑な屈折があること,語彙に外来語が少なく,また固有の語彙や語要素の巧みな組合せで複合語や派生語を自由に生み出す造語能力があることである。この点OEは現代語の中では英語よりドイツ語に近い。
中英語
Middle English,略称ME。この時期の終りを1500年とするのは,この頃までが文化的には中世に属し,これを境にルネサンス期に入るからであるが,英語の発音の変化を重視して,その変化の現れる1450年以降を近代英語とする見方もあり,これらの事情を考慮し,さらに1476年に大陸からもたらされた印刷術が急速に英語に及ぼした影響(標準語の普及など)を考えると,いずれにせよ15世紀は,中英語から近代英語への過渡期と見ることができよう。1066年フランスのノルマンディー公ウィリアムがイングランドの王位継承権を主張して来攻,英王ハロルドは敗れて,ノルマンディー公がイングランド王を兼ねることになった。いわゆるノルマン・コンクエストである。ノルマン人は本来北欧人で,10世紀にフランス王はこれを懐柔するため彼らに土地を与え,その首領を封建諸侯に列せしめた。彼らは短期間にフランスの言語と文化を吸収したが,その言語はノルマンディー方言だったので,これをノルマン・フレンチNorman-French(略称NF)と呼んでパリを中心とする中央のフランス語Central French(略称CF)と区別された。ノルマン・コンクエスト後イギリスの支配階級や高級聖職者はほとんどノルマン系に占められ,またノルマンディーはじめフランス内にいくつかの領地を保有し続け,英仏間の往来が続いたので,支配階級の間ではフランス語が日常語であり,ラテン語とともに公用語,公文書,文学の言語としても用いられた。このフランス語はアングロ・フレンチAnglo-French(略称AF)と呼ばれる。英語は庶民の日常の言語として生き続けるが,OE自身の変化にデーン人の北欧語の影響が加わってすでに古英語後期に始まっていた変化は,ノルマン・コンクエストにより拍車がかけられ,英語が再び社会の公の場面に現れるようになったときには,古英語とは著しく特徴の異なるものになっていた。英語の復権は,13世紀初頭のフランス内の領土喪失,疫病による農民人口の減少の結果としての相対的な農民の地位の向上,ギルドや都市の形成などを背景に促進され,上流階級のフランス語能力の低下とも相まって,行政,司法,祭儀などでの庶民への配慮の必要などから,14世紀後半には英語が公用語として認められるにいたった。この時期に英語の父G.チョーサー,詩人J.ガワーも英語で詩を書き,J.ウィクリフは聖書を英訳した。MEの方言には,(1)北部(ハンバー川以北およびスコットランド),(2)東中部,(3)西中部,(4)南部,(5)ケントが認められる。
古英語期末の文学標準語としてのWSはノルマン・コンクエストによって滅び,その後に現れた英語による著作はそれぞれ作者の方言で書かれたが,14世紀後半に入り政治・経済の中心,交通の要路としてのロンドンの重要性が増すにつれて,この地域のロンドン方言が単なる一方言を越えて,標準と目されるようになった。チョーサーやガワーもこの方言で書いている。この方言は東中部,南部,ケントの諸方言が接触し混じり合う境界の方言で,東中部にあるオックスフォード,ケンブリッジ両大学の権威,ロンドンの宮廷,上流社会,高級聖職者や知的職業人の社会的威信のゆえに,しだいに標準語と見なされるようになった。15世紀後半に導入された印刷術はロンドンの英語による作品や文書を大量に普及させ,この方言の標準語としての確立に大きな役割を果たした。現代の標準語Received Standardのもとになったのはこの方言である。のちにイングランドではこれが地域方言の枠を越えて社会上層の階級方言の性格を強め,上流子弟の全寮制学校(たとえばイートン校)などの制度によって全国にわたる社会方言を形成するにいたった。他方,他の社会階層や他の地域の方言は非標準語として,ときに社会的差別の対象になった。MEの特色の一つは屈折の著しい弱化である。OEの複雑な屈折語尾がMEでは一様に-e[ə]となり,ME後期にはゼロとなった。これは英語が強弱アクセントの言語で,原則的に語幹第1音節に強勢があり,この音節が意味上重要な部分であるために,以下の音節の母音が弱く不明瞭な音色となる傾向がもともとあり,それが促進されて,古くは区別されていた屈折語尾の弱音部の母音が一様に[ə]になったものである。これを水平化levellingという。また語彙ではフランス語起源の語が著しく増し,OE起源の多数の語とOEの豊かな造語能力が失われた。
近代英語
Modern English,略称ModE。ルネサンス期の終わる1650年までを初期近代英語,その後19世紀末までを後期近代英語,20世紀の英語を現代英語と区分することができる。ModEでは屈折はほとんど消失し,屈折の担っていた機能(格,法,相などの区別)は前置詞と助動詞の多用や特定の固定した語順によって担われることになった。ルネサンス期の英語には,ときに奔放と思えるほどの自由闊達さがあり,ギリシア・ローマの古典や大陸の文学との接触を通じてギリシア語,ラテン語などの古典語やスペイン語,イタリア語などからの借入がふえ,また文人たちの新造語も加わって語彙が豊かになり,また,論理や文法規則にもあまりとらわれなかった。シェークスピアと《欽定訳聖書》(1611)はこの時代に属する。17世紀後半には古典主義の傾向が生じ,〈理性と散文の時代〉と呼ばれる18世紀にかけて文人や学者により英語を論理と規則に服させ,規範を設けてこれに従わせようという努力がなされた。今日まで影響を及ぼしている学校文法はこの時代の規範文法家に由来する。綴りの統一,語彙や発音の〈純化〉が叫ばれ,拠るべき権威としてのアカデミーの構想も何度か立てられたが,これはついに実現を見なかった。話しことばの地域および社会方言分化はいっそう複雑になるが,文学では方言による著作がまれになった。ただし18世紀初頭まで他国であったスコットランド方言は例外で,18世紀の詩人R.バーンズなどスコットランド英語で書いており,今日でもイングランドの地域方言のように社会的差別を受けない。19世紀には英語の標準語が確立し綴りも統一された。この時代には,科学・技術の進歩に伴う語彙の拡大,植民地経営など外国との接触の機会の増加による大量の外来語の流入は目ざましく,ヨーロッパ以外の言語,ことにインドの言語からの借入が多くなった。英語地域の拡大も著しく,17世紀の北アメリカへのイギリス人の移住に始まり,18世紀以降イギリスのアジア,アフリカ,オセアニアへの進出で英語圏は一挙に広まった。ことにアメリカ合衆国は世界最大の英語国へと成長している。一方,中国,オーストラリア,南太平洋地域,アフリカなどで英語と現地語の混用から各地独得のピジン・イングリッシュ(pidgin<business)が発達した。20世紀に入ると,2度の世界大戦に勝利を得た英語国,とくに著しく強大となったアメリカ合衆国の国際的地位の上昇から,英語が外交用語としてのフランス語,科学用語としてのラテン語やドイツ語とならび,とくに第2次大戦後はそれらをしのぐにいたり,国際機構や学芸,スポーツなどの多くの国際会議の第1公用語として用いられるようになり,これに伴い世界各国で外国語としての英語教育が隆盛となった。
綴りと発音
OEがラテン文字で記録されるようになった当初,綴りはラテン文字の音価ないし近似の音価を表しており,ラテン語にない音の表記にはルーン文字のとð(いずれも後にはthと転写),およびラテンの合字æが援用され,綴りと発音の関係は規則的であった。しかし発音は時とともに変化するのに対し,綴りは保守的であるから,その間にずれが生じるのはどの言語でも同様であるが,近代英語で発音と綴りの関係がとくに不規則であるのは次のような事情による。(1)屈折の水平化,消失の過程で,強勢のない音節の母音の音価が明瞭を欠くようになって[ə]となり,綴り字もa,o,uがeに合流し,さらにこれが弱化してゼロとなったが,多くの語で綴り字eが黙字として残った(たとえばOE stanas[stɑːnɑs]→ME stones[stɔːnəs]→ModE stones[stounz])。(2)ノルマン・コンクエストの後,フランス語彙とともにその綴りが導入され,フランス系の筆記者が英語音の表記にもフランス綴りをもち込んだ(OE hūs〈家〉→ME housのouなど)。(3)フランス語など外来語のアクセントの影響。末尾音節に強勢のあるフランス語はじめ,英語とアクセント型の異なるラテン語,ギリシア語,イタリア語,スペイン語などから語彙が多く借入された結果,英語のアクセントは非固定型(語により強勢の位置が異なる)となった。(4)15世紀半ばごろから16世紀にかけて英語の母音体系総体を変容させる母音大推移Great Vowel Shiftが起こった。この時期はME期後半の英語がアングロ・フレンチに代わり書きことばとして再浮上し,ロンドン方言中心の標準語が成立,印刷術の導入で,読み書きが急速に普及する,まさに標準的綴りが固定する時期であったため,きわめてその影響は大きかった。この母音推移を図式化すると図のようになる。またこの推移を長母音について表に例示する。そのほかOEの[uː][o]などの円唇性の消失で[ʌ]が生じ,綴り-u-,-o-,-oo-の一部が[ʌ]と発音されるようになっている(blood,mudなど)。綴りはこのずれを残したまま固定し,多少の修正を経て今日にいたっている。(5)子音の場合も歴史の過程で,本来発音されたものが消失(knife,writeなどのkやw)したり,隣接母音の長化と置き換えられ(nightのghがサイレントになり直前のiが二重母音[ai])たが,綴り字としてはそのまま残され,その音の消失の結果同音となった他の語と区別する機能を果たしている(knightとnightなど)。近代とくに18世紀以降には綴り字改革がたびたび試みられたが,僅少の例外を除いて成功を見ないのは,綴り字のこの弁別機能を無視できないことにもよる。
現代英語の発音
イギリスの標準語の発音(容認発音Received Pronunciation,略称RP)は教養ある南部(ロンドンを含む)方言に基づくものである。RPの母音を国際音声字母(IPA。A.C.Gimsonの方式による)とその母音を含む単語で示すと以下のとおりである(なお,日本語の音による説明はあくまでも便宜的なものである)。
[зː]は口を半開きにしたややあいまいなアー,[ə]はそれに近い音だが前後関係で揺れがあり,また弱音節にのみ現れる点で他の母音と異なる。近年RPでは[](および一部では[uə])も区別せず[ɔː]と発音する傾向があり,たとえばpaw,pour(およびpoor)が同音の[pɔː]となる。また[əu]は他方言やアメリカ英語では[ou],スコットランド英語では[oː],そのほかに[ɑ⋃]と発音されるなど音価の揺れが大きい。
子音を国際音声字母で列挙すると[p,b,t,d,k,ɡ,f,v,θ(thin),ð(this),s,z,∫(ship),ʒ(vision),r,h,(church),dʒ(judge),l,m,n,ŋ(long),j(yes),w]である。このなかで[r]は母音の前では摩擦音であることが多いが,無摩擦持続音に発音されることもあり,母音間で先行の母音に強勢がある場合は,はためき音flap(国際音声字母の[
],日本語カラダのラの子音に近い。たとえばvery,horrorなど)となる。[r]は古くは巻舌に発音され,今日でもスコットランドの一部ではこの発音が聞かれる。アメリカ英語では無摩擦持続音あるいは反舌音である。[ʒ]は語頭に立たず,語末に立つのは借入語の場合(rouge,garageなど)である。[h]は語末や音節末に立たず,[ŋ]は語頭,音節頭初には立たない。音の配列上日本語と著しく異なるのは,子音を末尾にもつ音節構造と子音結合の多いことで,2ないし3個の子音の結合が語や音節の頭初にも末尾にも現れ,末尾には4個の結合も可能である(temptsなど)。ModE初期までは屈折語尾の-(e)d,-(e)sは[-id],[-is]([-iθ])と発音されていたが,この弱母音が消失,[-d],[-t],[-s],[-z]となり,これが先行の音節に付いてその一部となった。その結果英語には単音節語がふえた。語のアクセントは強勢による点で日本語の高低アクセントと異なり,また音節数とかかわりなく強勢がほぼ等間隔に現れる点は,日本語の各音節がほぼ等しい長さに発音されるのと著しく異なる。たとえば,
の8音節の1,2,3,4,5の間はほぼ等時であるのに対して,日本語では,たとえば俳句を例にとると,その17文字はほぼ等量の17の拍である。英語の音の高低(ピッチ)は語固有のものではなく,統語のレベルでイントネーション(抑揚)として機能する。屈折語で語順の差違が担うニュアンスの差,強調,対照などを示す役割を,語順の固定した英語では,強勢とイントネーションがかなりの程度まで担っている。
語彙
ノルマン・コンクエストの後,13世紀後半に英語が再び社会の表面に現れたとき,OEの語彙の約85%は失われ,フランス語を主とする外来語がこれに取って代わっていた。しかし使用頻度の高い基礎語彙にはOEに由来する親族呼称,体の部分,食物,住居,動植物の名称などの多くが含まれる。father,mother,brother,child,son,daughter,head,hand,foot,eye,ear,nose,mouth,house,door,loaf,apple,cow,fowl,tree,beech,oakなどである。ケルト語からの借入は地名,河川名など固有名詞を除くと無視し得るほど少ないのは,ケルト語が被征服者の言語であったからであろう。
OE後期には北欧人が多数イングランド中部,北部,スコットランドに定住したため,北欧語からの借入は多く,基礎語彙の中にも北欧語に置き換えられたものがある。たとえば,名詞sister,egg,kid,gap,root,形容詞ill,low,weak,wrong,動詞call,die,get,give,takeなど。北欧語は英語と系統的に近い北ゲルマン語で,同語源の同形または近似の形の語彙が多く,借入は違和感なく行われた。北欧語からの借入はこれらの例も示すように日常語であり,OEと北欧語の同源の語がともに残存して意味分化した例(shirt:skirt)や〈雲〉の意の北欧語skyが〈空〉の意に転用された例もある。また通常借入の行われ難い機能語の中にも,英語の人称代名詞they,their,themのように北欧語に由来するものでOEのhīe,hieru,himに取って代わったものもある。なお北部の方言やスコットランド方言には北欧語からの借入が多い。
ラテン語については,アングロ・サクソン人が大陸居住中にローマ帝国の文化に接触して若干の語彙を吸収しており,それが受け継がれている。butter,cheap,cheese,church,emperor,kitchen,mile,street,wall,wineなどである。ブリテン島渡来後はローマとの直接の接触はなく,先住のケルト人を介してローマ人の残した語彙の若干を取り入れた。Chester,Lancaster,Leicesterなどの地名はラテン語castra(=camp)に由来する。その後7世紀のキリスト教の宣教,10世紀のキリスト教復興に伴って教会,聖典,聖職者などに関するラテン語起源,およびさらにギリシア語にさかのぼる語彙が借入され,これとともに文化的・学術的な語彙も入った。abbot,angel,candle,hymn,mass,organ,pope,priest,temple,cap,silk,pear,plant,school,grammarなどは初期宣教時代,apostle,creed,idol,prophet,history,cell,paper,titleなどは後期に属する。またノルマン・コンクエスト後支配階級の日常語および公用語となったフランス語は本来ラテン系統の言語であるから,その語彙の大部分はラテン語にさかのぼるが,それがフランス化した形で英語に入っている。中世を通じてラテン語は政治,法律,教会,学芸などの国際的な用語であり,したがって英語に入った語彙は学問的,専門的な固いものが多く,書きことばの中で用いられた。たとえばallegory,contempt,frustrate,genius,intellect,minor,necessary,picture,polite,quiet,substituteなどがそれである。ルネサンス期には古典学問の復興の影響でギリシア語が学ばれるようになり,ギリシア語から直接,語彙が借入された。ラテン語,フランス語経由で中世にacademy,atom,Bible,harmony,theatre,tragedyなど,この期以降alphabet,drama,chorus,elegy,pathos,epic,theory,orchestra,museum,hyphen,dogmaなどが入ったが,直接の借入としては,anonymous,catastrophe,criterion,lexicon,thermometer,tonicなどがある。ラテン語の借入もなお盛んに行われ,これら借用語彙が流行し,それが度を過ごしてシェークスピアなどに皮肉られている。ギリシア語は語要素の結合による新語生成力に富み,ラテン語の学術語としての伝統と相まって,近・現代において科学・技術の国際用語に多大の貢献をしている。telephone,photograph,psychologyなどギリシア語からの造語のほか,televisionのようにギリシア語とラテン語の結合した例もあり,20世紀の発明・発見の命名に際してこれらの言語が盛んに活用されている。
このようにさまざまの印欧語からの借入が行われているが,英語の語彙に最も深甚な影響を与えたのは,初めに述べたようにやはりフランス語である。ME期に政治,法律,宗教,軍事,洗練された衣食住に関する用語はアングロ・フレンチの借入語が用いられ,同義のOE起源の語彙の多くが消失した。uncle,aunt,person,people,mistress,servant,face,table,dress,blue,brown,ruby,city,country,beast,crown,empire,tax,office,baron,bar,prison,army,navy,peace,war,useなど,フランス語からの借入は広範囲に及ぶ。なかにはOE起源の同義語が残って意味分化した例として(前者がOE起源),cow/beef,swine/pork,sheep/muttonのように家畜と食肉,sin/crimeのように道義的罪と法を破る犯罪の区別などがある。しかし大量のフランス語起源の語彙の借入,定着にもかかわらず,音韻体系や文法の骨組みは英語のまま残り,借入語も多くは英語の音韻体系や語形に同化した。ルネサンス期以降,イタリア語,スペイン語などからも借入がなされたが,後世のフランス語借入語(emigré,coup,guillotineなど)と同様,英語に同化されずに外来語として意識されるものが多い。allegro,canto,piano(イタリア語);armada,patio(スペイン語)などである。印欧語以外の言語,ヨーロッパ以外の言語からの借入は,アラビア語の学術用語(algebraなど)は14世紀ころから入っているが,ほとんどが17世紀以降,イギリスの海外進出,植民地支配,アメリカ建国に伴って増大した。20世紀にはジャーナリズムやマス・メディアの発達に伴って新造語,短縮形,頭文字の組合せによる省略形が普及している(teach-in,technocracy;telly;GATT,radar,TV,UFOなど)。
文法
OEの名詞には性(男性,女性,中性),数(単数,両数,複数),格(主格,属格,与格,対格,(助格))による形態上の変化があり,形容詞はその修飾する名詞の性,数,格と一致した。OEの屈折語尾の母音がMEで水平化され,ModEではゼロとなったが,名詞では複数形の一つ-asから-esを経て-s,属格形の一つ-esから-s(-'s単,-s’複で示す)となり,これらが現代英語に屈折のなごりをとどめている。形容詞の屈折は完全に消失して,比較の変化(-er,-est)を除き無変化となった。これは印欧語では珍しい。冠詞,代名詞も性,数,格により複雑な変化をしたが,人称代名詞の変化,指示代名詞の単数・複数,および疑問代名詞who,whose,whom(ただしwhomは口語では消えつつあり,Who are you looking for? Who did you see? が普通)の形を除き無変化となった。屈折語尾の消失は,その結果の一つとしては,文法上の性の消失につながり,人間や動物,擬人化された事物という現実世界の性別が語彙(actor:actress;bull:cow)や人称代名詞he/sheに反映されるのみとなった。OE動詞には語幹母音が交代する強変化動詞と,過去形に歯音[d,t]をもつ弱変化動詞とがあり,前者は後の不規則動詞,後者は規則動詞にだいたい対応する。人称,数,法,時制により語形変化をし,また現在分詞と過去分詞は形容詞と同様の変化をした。時制には現在形および過去形があり,法には直接法,接続法,命令法があって,形態上区別された。これらのうちModEには現在,過去,現在分詞,過去分詞の形態上の区別と,三人称単数現在の-sのみが残った。接続法(日本語の英文法用語では〈仮定法〉)や命令法の名称はあるが,それは特別の語形をもたず,法に該当するものは統語上の用法に具現される(It is imperative that he be punished. If I were you... Come here!)。この点フランス語やドイツ語などと異なる。また分詞も形容詞と同様無変化となった。一方,ModE,とくに後期には複合時制(完了形--have動詞+過去分詞,進行形--be動詞+現在分詞)の発達,また疑問,否定構文中や代動詞としてのdoの用法などの発達があり,ことに現代口語では進行形の出現頻度が高く,その機能も多様化した。
このような屈折の消失の結果,語順が統語上決定的な重要性をもつにいたった。OEで屈折によって明示された文中の要素間の関係は,ModEでは固定した一定の語順と句前置詞の多用によって示され,また助動詞が接続法(仮定法)の語形の消失を補うとともに,未来の時相,話者の態度(断定,意志,命令など),各種のニュアンス(ていねいさpolitenessの段階など)を表現し分けるようになって,文法の中心が語形論から統語論に移ったと言えよう。前置詞はOEでも用いられたが,ME以降はその比重が増し,また表現の正確を期して新たな前置詞や句前置詞が発達した。たとえば,与格形に代わってto,for+名詞,属格形に代わってof+名詞という形が普通となり,またapart from,in accordance with,in spite of,with regard toなど句前置詞が多用されるにいたった。ModEでは主語が文頭に,述語動詞がこれに続き,目的語や他の文要素がその後に来るのが基本的な語順である。また二つ以上の文が同等に並ぶ重文,一つが主文で他がこれに従属する複文,複文の一種で従属文が主文の中に埋め込まれた文など,複雑な文が作られる。修飾語は修飾される語に隣接するのが原則である。語順の倒置は一定の条件の下で可能であるが,OEや古典語のように自由でなく,したがって強調,対照,ニュアンスの差などの表現には語順の倒置ではなく,特殊な構文(たとえば分裂文--It is John that came yesterday. What I want is charity.)や強勢の置かれたdoの使用,話しことばでは文強勢とイントネーションが用いられる。
屈折の消失がもたらしたもう一つの側面は,品詞の転換が比較的自由なことである。たとえばwork(名詞,動詞),right(形容詞,副詞,名詞,動詞),round(形容詞,副詞,前置詞,名詞,動詞),(the)moment(名詞,接続詞)などである。また名詞が形容詞のように他の名詞を修飾する例(peace movement,stone wall,ticket office,world war,World Communication Year),動詞と名詞の複合から成る名詞(breakdown,makeup,takeout),動詞から転用された名詞を含む動詞句(give a kiss,have a look,take a walk),動詞連結による可能性や相などの表現(be to open;begin to rain,finish writing,go on talking)などの多様な表現が,ニュアンス,文語,口語やスタイルの差によって使い分けられ,屈折の消失を補っている。このようになると語形による品詞の分類はModEでは困難なので,文中の位置によって従来の品詞にかえて語類(従来の名詞は第1類,動詞は第2類などとなる)を立てる学者もいる。しかし,逆にいえば英語が今日の国際的地位を占めるにいたったのは,屈折の少ない語形の単純さとそのことに伴って生じた用法上の柔軟性によるところが大きい。
→アメリカ英語
日本における英語教育
日本人と英語との最初の出会いは1600年豊後に漂着したウィリアム・アダムズ(三浦按針)にさかのぼる。その後江戸幕府が鎖国政策に転じたため,洋学はほとんど蘭学に限られたが,1808年のフェートン号事件を機に幕府は英語通詞の養成を始めた(1809)。その後19世紀半ばにいたり,識者の間に英語の国際的重要性の認識が生じ,53年のペリー来航,それに続く日本と諸外国との外交関係の成立に伴い,62年幕府はほとんど蘭学中心であった蕃書調所(ばんしよしらべしよ)を洋書調所と改称し,英学を開講している。のち洋書調所が開成所(1863)を経て,明治新政府による開成学校から大学南校へと発展していく過程では,逆に蘭学は衰え,英学が正科となっていった。幕末から明治にかけて,幕府使節団,薩長など藩の留学生などが欧米に派遣されたが,その中にはやはり蘭学から英学に進んだ福沢諭吉らがいる。一方,同じころ私塾で,あるいは来日外国人から英語を学ぶ者もふえた。外国人の中にはJ.ヘボン,E.サトー,B.H.チェンバレンらがいて,英和,和英辞典を編みあるいは教鞭を取って,後の日本の学者や英語教育者を育てた。72年(明治5)には学制が施行され,中等学校以上の正課に英語が取り入れられた。当時の英語学習は,英語を介して西欧事情に通じ,西欧の学問,知識を吸収するのが目的であったから(しかもそれも書物によらざるを得なかった),したがってその教授・学習法は訳解が中心で,ちょうど漢文の〈返り点・送りがな〉方式に似ていた(このやり方はのちに変則英語教育と呼ばれた)。明治中期には,神田乃武(ないぶ),斎藤秀三郎,外山正一らによって,発音・会話と直読直解を重視する正則英語教育が唱えられ,正則英語学校の開設(1896)や,外山の《正則文部省英語読本》とその解説書の発刊を見た。だが,当時もまだ英語は知識吸収の媒体としての性格が相変わらず強く,大勢としては訳読による理解が中心で,英語での発表の教育はまったく不十分であった。その中で,東京,大阪などの外国語学校,高等商業学校,英・米人宣教師の多いキリスト教系の学校などで会話や発音にも重きが置かれた教育が行われるようになり,また高等師範学校や津田梅子創立(1900)の女子英学塾(津田塾大学の前身)などで日本人英語教師が養成されるにいたり,明治末ころには従来用いられた英・米の教科書に代わって自前の教科書や各種辞典,文典が発刊され,岡倉由三郎らの英語教授法を論じた著作も世に出た。
1913年には第1回英語教育大会が開かれたが,大正中期以降学校教育における英語教育の存廃がたびたび論じられるようになった。その背後には日本の国力充実に伴う民族主義,国粋主義の台頭,翻訳書の増加,文法・訳読偏重の変則教授法の結果,〈役に立つ,話せる〉英語力が伸びない,という現実があった。22年イギリスの言語学者H.E.パーマーが文部省外国語教授顧問として来日,翌年には彼を所長として英語教授研究所(後の語学教育研究所)が設立され,英語教育の改革が緒についた。パーマー提唱のオーラル・メソッドoral methodは英語による英語教育で,発音と口頭作業,〈英語で考えthinking in English〉,翻訳の過程を経ずに英語で反応する訓練を強調し(それゆえオーラル・ダイレクト・メソッドoral direct methodとも呼ばれる),この方法はとくに入門期に有効であるとした。また,17年にイギリスのD.ジョーンズの《English Pronouncing Dictionary》が刊行され,その後まもなく日本でも岡倉の《英語小発音学》や市河三喜の《英語発音辞典》が出,国際音声字母(IPA)による発音表記が日本の辞典や教科書に採用されるようになった。しかし,オーラル・メソッドによる授業は教師の力不足,1学級の生徒数が多すぎること,同僚や生徒の家庭の無理解などのために,実践面で普及せず,英語教育の主流は依然として訳読・文法方式であった。満州事変以降,戦時には英語教育廃止論が起こり,戦争末期には英語の全廃された学校も多い。英語専門の学校ですら十分な教育が受けられなかったため,第2次大戦後は資格ある有能な教師が不足し,新教育制度による中学校が義務教育となり,英語が選択教科の形をとりながらも実質的には必修となったにもかかわらず,教育の実が上がらなかった。しかし米軍を中心とする連合軍の占領は,〈英会話ブーム〉に象徴されるように英語学習への強烈な動機づけとなった。
55年ころ,戦後の英語教育の再建を目ざしてアメリカのフリーズCharles Carpeter Fries(1887-1969)の唱えるオーラル・アプローチoral approach(フリーズ・メソッドFries' methodとか構造的アプローチstructural approachともよばれる)が紹介された。1940年代に盛んになったアメリカ構造言語学の理論を踏まえた教育法で,言語が構造として備えている音韻,語構成,文構成などの一定の型(パターン)に慣れるための文型練習(パターン・プラクティスpattern practice),ミニマル・ペアminimal pair(1点において異なる二つの言語形式の対比),および口頭発表を特徴としている。母語の使用や訳読に厳しい制限を設けないという点,オーラル・メソッドと異なるとされるが,目標言語をできるだけ多く用いる機会を設けること,音声の重視,基礎構文の反覆や文中の語句の入れ換え練習など,むしろ共通点が多く,オーラル・メソッドが文脈や状況を取り込んでいるのに対し,オーラル・アプローチはいっそう体系化されているものの,機械的に過ぎるという批判も出ている。56年にオーラル・アプローチに基づく英語教育法改善を目ざして英語教育協議会(ELEC)が発足,米英の第一線の学者を招いて教育法の研究,教員の再教育等に貢献している。60年ころからチョムスキーの生成文法の影響が日本にも及び始め,60年代後半には英語教育にもこの考え方が取り入れられるようになった。
ラジオによる英語教育の歴史はほとんど昭和初年のラジオ放送開始と共に始まり,岡倉由三郎の英語講座は格調の高さで好評であった。戦後はNHKのほか民放局も加わり,昭和30年代にはテレビ放送も始まって,英語国出身者を交えて多彩な英語教育番組が組まれて,英語教育の普及に一役買っている。1960年ころから録音教材を用いての語学ラボラトリーlanguage laboratory(略称LL)が英語教育に取り入れられ,その後視覚教材も併用され,さらに本格的視聴覚教育が威力を発揮するにいたっている。外国語教育は早期開始が望ましいことは定説だが,諸般の事情から,現在小学校での英語教育は少数の学校に限られ,早期教育は塾や個人にゆだねられている。しかし,全般的に見れば戦前や戦争直後に比べ,日本人の英語力は会話の面を含めて大幅に上昇しているということができよう。
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