賤民(センミン)とは? 意味や使い方 - コトバンク
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賤民 (せんみん)
ヨーロッパにおける賤民の系譜は,古代世界を別にすれば,初期中世の〈人間狼(人狼)Werwolf〉までさかのぼることができる。人間狼とは,氏族団体(ジッペ)の平和を乱す夜間の殺人,放火などを犯した人間が,氏族団体から追放されるとき(平和喪失)に呼ばれた名称である。平和喪失を宣告された者は死者とみなされ,その妻は未亡人,子は孤児とされる。氏族団体から追われた者は人間世界のなかに住むことを禁じられ,森のなかに入ってゆくが,彼らすべてが森のなかでのたれ死したわけではない。狼の皮を身にまとい,似たような運命の者が集団をなして暮らしていたとみられる。後の伝承によると,十二夜Zwölftenのころに狼の皮をまとった人々の群れが夜中に村を訪れるという。村人は戸口に塩や食糧を用意して戸をかたく閉じて彼らが通過するのをまつ。中・近世の〈荒野の狩人wilde Jagd〉の伝説は,死の神オーディンに率いられた死者の軍勢とされているが,彼らも人間狼の後裔とみられる。
氏族団体構成員は,本来自分たちだけを〈人間〉とみなし,氏族団体の外部の者を人間とはみなさなかった。氏族団体から追放された者をも死者として扱ったのである。こうして死を媒介にして〈人間〉から差別される存在が生まれたのである。
中世においては,賤民とは,名誉をもたない者,法をもたない者とされているが,それは氏族団体ないしは共同体から排除された者,他の共同体から承認されるみずからの共同体を構成しえない者を意味している。法をもつということは自分の名誉を氏族団体ないしは共同体によって保証されることを意味しており,具体的には不法行為を受けた場合に,氏族団体ないしは共同体が後ろ盾となって彼の名誉を守ってくれる地位をもっていることをいう。しかしこの場合,狭義の共同体にのみとらわれてはならない。人間が生活してゆくうえで自然ととり結ぶさまざまな関係を内包した世界を視野に入れなければならないのである。狭義の人間の生活共同体と同時に,死,彼岸,死者への儀礼,性,豊穣祈願,動物,大地,火,水などの人間自身を規定すると同時に人間の外にもある自然のエレメント(要素)を含めた世界を考えねばならないからである。
これらのエレメントはいずれも人間にとって相反する二重の相貌をおびている。人間の共同体にとって不可欠なものであると同時に,危険なものでもありうる。この危うい関係のうえで,その二重の相貌の境に位置する人間が存在する。例えば刑吏は人間社会の秩序を維持するうえで不可欠な存在であるが,これは生と死の狭間に生きる存在として,共同体の外の死の世界と接触をもっている限りで怖れの対象となり,賤視される存在となる。墓掘り人,浴場主(外科医を兼ねる),夜の世界に生きる夜警などはみな,死,彼岸,死者に対する儀礼とかかわる点で怖れと賤視の対象となる存在であった。
亜麻布織工(アマ),粉挽き,娼婦などはいずれも狭義の共同体から排除された存在として中世において賤視の対象であったが,これらの人々も成長,豊穣,性(エロス)などとかかわる存在であった。機織りも粉挽きも出生,成長と結びつく呪術的な仕事であり,娼婦は性という人間の内部にありながら人間を超えるものと結びついている点で,これらの人々も人間生活の二重の相貌の境界に生きる人々であった。このほか皮剝ぎ(皮),羊飼い,犬皮鞣工,家畜を去勢する者なども同時に共同体構成員ではない存在として賤視されていたが,彼らも動物とかかわる点で,人間の共同体を超えた世界と接していたのである。
煙突掃除人,乞食,遍歴楽師,陶工,煉瓦工なども共同体構成員になれない存在であり,特に遍歴芸人のような放浪者は定住民の共同体成員からは怖れられ,賤視される存在であったが,彼らも,土,火,水などとかかわる点で共同体にとって不可欠なものでありながら,他面で危険なエレメントと深くかかわる存在として怖れと賤視の対象とされたのである。
狭義の共同体Mikrokosmosとその外に広がる世界Makrokosmosとの狭間に生きる以上の人々の仕事は共同体が成立する以前においてはまだ職業として確立していたわけではなかった。それらは12~13世紀以前においては畏怖の的ではあっても賤視の対象になってはいなかった。ヨーロッパにおいては12~13世紀以降に村落共同体と都市共同体が成立するが,それ以前の氏族団体においては家が人的結合の基本的な単位をなしていた。この段階においてはミクロコスモスとしての家とマクロコスモスとしての世界が対峙していたのであって,司祭や呪術師,国王ですら前述の仕事にたずさわった人々と同じく二つの世界の狭間に生きていたのであった。しかるに12~13世紀以降共同体が成立するとともに人間がみずからなんとか制御しうるミクロコスモスの領域が拡大され,キリスト教信仰の普及とあいまって,かつての多元的な世界像に代わって一元的な世界像が成立していった。時間と空間も徐々に一元化される傾向が生まれ,生と死を包みこむ創世神話から最後の審判にいたる直線的で一元的な世界把握が支配的となっていった。このような世界把握を担ったのが聖職者であり,その力によって権力を掌握したのが世俗君主であった。こうしてミクロコスモスとしての共同体を基盤にしながら,二つのコスモスの存在を否定し,世界を一つの理論で一元的にとらえようとする試みが生まれたとき,かつて二つの世界の狭間にあった人々はその特異な位置を失い,新しい一元的な価値のヒエラルヒーから脱落して賤視される存在に転化していったのである。
このほかにユダヤ人やウェンド人,ジプシーなどをあげることもできるが,これらは狭義の共同体外の存在として位置づけることができる。
ヨーロッパにおいて共同体が解体され,ミクロコスモスとマクロコスモスの二元的世界が一元化され,個々人が国家に直接掌握され,賤民であっても兵役につかねばならなくなったとき,賤民身分が消滅してゆく。それと同時に啓蒙思想と近代科学思想の普及によって人間のなかにありながら,自然と呼応するエレメントが単一のものとされ,均質化されたものとしてとらえられるようになり,人間と自然との危うい関係の境界線上に生きていた賤民は消えてゆく。しかしこれらのエレメントの均質化は仮構のものであり,性と死のようにいまだ境界線上にあって均質化されないエレメントにみられるように,賤民の問題は近代社会においても消滅したわけではない。
執筆者:
中国
中国においては,古くから血統あるいは職業などによって区別される身分制度が存在した。具体的な例をあげていえば,良民と賤民,士人と庶人,士農工商の四民などである。良民には士人と庶人が属し,自由民であるが,士人は上級自由民,庶人は農工商の民で,下級の自由民であった。これに対し,賤民は不自由民で,私的・公的な権利や利益の享有に制限が加えられていた。〈賤民〉という用語についてはいくつかの理解がありうるが,以下においては,奴婢(ぬひ)や奴隷を含めて,最も広義に解釈することにしたい。
中国における奴婢(奴隷と同義)の起源ははなはだ古く,甲骨文にもみえているが,その発生の状況を明らかにすることはできない。先秦時代には臣・妾と称せられたが,漢代以後,奴・婢という言葉に置きかえられ,唐代にいたった。原則として,男の奴隷を奴,女の奴隷を婢といった。ところが,南北朝から唐代にかけて新しい賤民=不自由民が現れてきた。部曲(ぶきよく)である。奴婢はいわゆる奴隷であるが,部曲は奴隷と良民の中間にあり,農奴serfに近い存在であった。すなわち,奴婢は本来家内奴隷として発生し,生産労働にはほとんど従事しなかったが,前漢末から後漢時代にかけて大土地所有が発達すると,その耕作者として,荘園主の保護下におかれる隷民が生まれ,客あるいは部曲と呼ばれるようになったのである。客とは外来者,または一時寄留者の意であり,部曲はもと軍隊用語で,部隊の意であるが,後漢末ころから,荘園の客の一群を指すのに用いられるようになった。そして,三国から唐代にかけて,大土地所有制が盛行するとともに,部曲の数は増加した。部曲は家族をもつことを前提とし,財産を所有したが,主家の戸籍に隷属して登録される不自由民であった。彼らはまた公職につくことこそできなかったが,売買の対象とされることはなく,その大部分は農業労働者であった。
これに対し,奴婢は,後漢の初め,法律によって身体の保護を規定されてからは,もはや単なる財産ではなくなったが,なお売買の対象でありつづけた。奴婢はもともと家内奴隷であったが,政府によっても所有され,官奴婢と称した。その地位は私奴婢とほぼ同じであったが,別に部曲と同様のものもあり,官戸と呼ばれた。ところが,唐代中期から大土地所有制の内容が変化しはじめ,これに対応して部曲身分の解放が行われると,部曲の数は減少し,上級賤民としての部曲という用語は,10世紀末をもって,記録の上からも姿を消した。部曲に代わって農業労働に従事したのが佃戸であり,彼らは完全な自由民であった。このように,身分制は消滅の方向にあったが,一朝にしては清算されなかった。宋代以後にも依然として官奴婢は存続し,反乱に連座した者の家属がこの身分を与えられ,また,賤業による区別の観念が生じ,特殊な世襲の賤民階級がつくられるにいたった。
この種の賤民には,賤役に従事するゆえに賤視されるものと,歴史的理由によって良民と区別されるものとがある。前者には娼妓,俳優,隷卒(役所にあって特定の賤役に従事する者),六色(冠婚葬祭の雑役に従事する者),理髪師などが,後者には楽戸,堕民(だみん),九姓漁戸,蛋(蜑)民(たんみん),寮民,棚民,丐戸(かいこ),伴当,世僕などが属する。楽戸は音曲歌舞を業とし,河北,山西,陝西に居住する。堕民は浙江省の紹興にあり,代々賤業に従事させられた。九姓漁戸は浙江省におり,蜑民は広東に多く,漁業に従う水上生活者である。棚民は福建,浙江,江西の山間に住み,原始的な農業を営む。丐戸は江蘇省の常熟・昭文両県にあり,代々乞丐(きつかい)(乞食)を業とした。伴当と世僕は他の賤民と少し異なり,奴婢の特殊なものと考えられ,伴当は安徽省の安徽州に,世僕は同じく徽州,寧国,池州において,祖先以来,この地の地主や商人の家で使役されてきた。
これらの賤民は,賤業に従事するとはいえ,独立の生計を営み,特定の家に従属するわけではなく,この点で奴婢などとは区別さるべきである(ただ,伴当と世僕は特定の家に従属し独立の生計をもたないから,特殊な奴婢とみなすべきであろう)。彼らは法律上,奴婢とほぼ同じ地位におかれたが,特定の家に従属したわけではないから,奴婢のように,家長に対する法律関係はなく,また,独立の生計を営んでいたから,その種類によっては租税を納める義務をもち,この点では良民と変わらなかった。
これら9種の賤民を良民にすることは,清朝の方針であり,1723年(雍正1)に楽戸を,ついで蜑民,丐戸,堕民以下を良民となすべく,解放令が発せられ,3代を経たのち,科挙に応ずる資格を与えることになったが,実際上の効果はほとんどなかったようである。なお,以上すべての賤民階級に対して,1909年(宣統1)に,法律的にその身分を廃止することが決定されたが,ながく根強い伝統のなかで存続し,彼らの最終的解放は,人民共和国の成立をまたねばならなかった。
執筆者:寺田 隆信
朝鮮
賤民は古代から存在するが,高麗時代までは公私の奴婢(ぬひ)が大部分を占めていた。公奴婢は官衙に所属し,私奴婢は貴族のほか農民にまで所有され,さまざまな労働を強制された。かつて高麗時代に広範に存在した〈郷〉〈所〉〈部曲〉を集団賤民とする説が有力であったが,現在ではほぼ否定されている。李朝時代になると社会発展による職業分化の中から,職業と結びついたかたちで〈七般公賤,八般私賤〉などと呼ばれる多様な賤民が析出され,厳しい差別に苦しんだ。しかし法的規定と社会通念には多くのずれがあり,社会通念にも幅があって一律な賤民規定は難しいが,おおむね次の7種が賤民と認められる。(1)白丁 賤民の代名詞であり,屠殺や柳器匠などに従事する被差別民。(2)才人 白丁から分化し,軽業などを業とする大道旅芸人。(3)巫覡(ふげき) 男女のシャーマン(なお〈ムーダン〉の項目参照)。(4)喪輿軍 葬礼の柩かつぎ,墓掘り人夫。(5)僧尼 李朝の排仏策から生まれ,最下層に在家僧がある。(6)妓生(キーセン) 官衙に所属し,歌舞音曲や売春などを業とし,針線婢,医女としても官衙で使役された。(7)公私の奴婢 賤民の中で最大のものであり,全人口の10%程度が存在したと推定される。公奴婢は中央・地方の官衙に所属し,私奴婢は両班(ヤンバン)など私人に所属して売買・譲渡の対象であった。1894年の甲午改革で賤民も身分解放されたが,偏見は強く残った。その後,朝鮮戦争と近代化による社会変動の中に彼らも姿を没した。
執筆者:吉田 光男
日本古代
日本古代の賤民は,人民を良民と賤民に区分した8世紀の律令法のもとでの良賤制により身分として確立した。7世紀までの賤民の形成は,(1)犯罪による没身(賤民にすること),(2)人身売買・債務による奴隷化,(3)捕虜の賤民化,(4)手工業者などの賤民化,(5)王族・豪族・寺社の隷属民の賤民化,などにより進行していた。養老令の戸令は,官有賤民として陵墓を保守する陵戸(りようこ),朝廷で労役に従う官戸(かんこ)と公奴婢(ぬひ)(官奴婢),私有賤民として家人(けにん)と私奴婢の合わせて5種の賤民の身分を定めた(陵戸は大宝令では賤民ではなかったとの説もある)。陵戸は奴隷ではないが,官戸,公奴婢,家人,私奴婢は奴隷であった。官戸・家人は家族を形成し,家業を有し,尽頭駈使(家族全員同時の使役)されない点で,公奴婢・私奴婢と異なるが,実際は官戸・家人は少数で,賤民の大多数は公奴婢・私奴婢であり,かつ公奴婢・私奴婢は家族を形成する場合が多く,官戸・家人と同様の存在形態を示していた。官戸,公奴婢,家人,私奴婢は,一般に手工業や農業に従事する労働奴隷ではなく,それらの補助的労働や雑役に従事する家内奴隷であった。手工業部民の一部は律令制では賤民に準ずる身分の雑戸(ざつこ)に編成されたが,8世紀半ば以降解放されていった。賤民は同身分間での婚姻しか認められず,良民との通婚も禁止された。没身刑はすでに3世紀にあったが(《魏志倭人伝》),律令では王権に対する反逆罪を犯した者の父子・家人に適用され,官有賤民とされた。
私有賤民の成因の一つの人身売買・債務による奴隷化は,7世紀後半に顕著となったが,庚午年籍(こうごねんじやく)(670)と庚寅年籍(こういんねんじやく)(690)の造籍により良民と賤民の区分を固定化し,貧窮のため父母が子を売り,兄が弟を売り,また負債により賤民とされた場合の取扱いを庚寅年籍作成の際に定め,良民(公民)が人身売買・債務により没落して奴隷化することを防止し,国家支配の基盤としての公民身分の確立をはかった(賤民として戸籍に編付された人民が,良民であることを訴える例は8世紀に多数見られる)。私有賤民の人口は,良賤制確立以降は,誕生による増加によってしか増えないことになった(売買による移動は多数あった)。また,賤民を解放して良民とすることを放賤従良といった。私有賤民は,一般の公民も所有する場合があるが,大量に所有するのは貴族・豪族や寺社であり,それらは氏賤,寺賤,神賤とも称された。奴の和訓はヤツコで家の子の意味であり(臣・妾・賤もヤツコと訓じる場合があった),私有賤民が貴族・豪族や寺社の譜第隷属民であったことを示している。奴婢は奴隷的存在形態自体により卑賤視されたのであるが,官有賤民の場合には罪の穢に対する卑賤観も働いていたと考えられる。8世紀半ばの官有賤民の今良(ごんろう)身分への解放を端緒として,789年(延暦8)には良賤間の所生子を良民とすることに改めてから,陵戸以外の官私賤民は激減し,律令賤民制は解体していったが,卑賤観念や穢の観念により人間を差別し賤民身分とすることは,平安中期以降の新たな賤民制の出発点となったのである。
→奴隷 →被差別部落
執筆者:石上 英一