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銀行(ギンコウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

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銀行 (ぎんこう)
bank

銀行といっても,いろいろな種類の銀行があり,さまざまな金融業務をいくつも同時に兼ねて営業を行っている。すなわち,資金の受入れや取立て,送金,支払,貸付け,投資,ディーリング(既発行債券の売買),為替取引,貸金庫や信託などのサービス提供などの業務(のすべてあるいは一部)を営む企業組織が銀行である。しかし,銀行を銀行として特別な存在とさせているのは,銀行が人々一般から預金を受け入れ,その預金(の少なくとも一部)が支払決済の手段として機能するという点にある。

 銀行は金融機関ないし金融仲介機関の一種として,経済の究極的な貸手から借手へ資金が移転する過程で資金の仲介という機能を果たす。すなわち,間接証券(金融機関みずからに対する請求権。第二次証券ともいう)を発行して,支出以上に所得のある黒字主体(貸手)から資金を吸収し,所得以上に支出を行う赤字主体(借手)の発行する債務証書である本源的証券(直接証券,第一次証券ともいう)を取得し,赤字主体の資金調達に向ける。これが資金仲介の機能である。銀行の基本的な役割はこの資金仲介の機能を果たすことにあるが,同時に,銀行の発行する間接証券の一部が,当座預金のように通貨として広く支払決済に使われる。したがって,銀行は資金仲介機関であるのに加えて,通貨の供給機関でもある。別の表現をすれば,銀行は一国の支払システムの一環を形成する。この点が,銀行を他の金融機関から区別させる重要な要因となっている。逆にいえば,金融(仲介)機関のうち,通貨として機能する支払決済手段を供給する企業組織を銀行ということができる。

 日本では,金融機関として次のような組織が制度として確立している。普通銀行,信託銀行,長期信用銀行,相互銀行(1989年以降,第二地方銀行に転換),信用金庫,信用組合,労働金庫,農林中央金庫,農業協同組合,漁業協同組合,生命保険会社,損害保険会社等の民間金融機関と,郵便貯金,日本輸出入銀行(輸銀),日本開発銀行(開銀)等の公的金融機関,それに中央銀行である日本銀行である。民間金融機関のうち,当座預金等の通貨を供給している金融機関は,上記の順序に従えば普通銀行から漁業協同組合までであり,これらが,一部には銀行という名称がつけられていないとはいえ,機能上は銀行ということができる。なお,普通銀行は通常,都市銀行と地方銀行に区分されるが,これについては〈都市銀行・地方銀行〉の項を参照されたい。さらに,中央銀行である日本銀行は,いうまでもなく銀行である。公的金融機関のうち輸銀や開銀といった公的金融機関は,銀行という名称がつけられてはいるが,通貨を供給していないので厳密には銀行ではない。郵便貯金については,通常郵便貯金が出し入れ自由で,郵便振替を利用して支払や決済に用いることができるので,通貨と考え,郵便貯金事業を公的な銀行とみなすことができなくはない。だが,そうした見方は通常はまれである。

普通銀行と銀行法

各種の銀行はそれぞれ法律によってその設立,業務分野が規定されている。なかでも中枢を占めるのは普通銀行(普通銀行・特殊銀行)であって,銀行法(1927公布,28施行)がその立法措置である。普通銀行以外の銀行に関する法律は,銀行法に準じて,それぞれ固有の業務分野の性格が加味されて制定されている。信託銀行は信託業務,長期信用銀行は長期資金の供給,相互銀行,信用金庫,信用組合は中小企業金融機関といわれるように中小企業への各種銀行サービスの提供といったように,それぞれの機関はその属する業態固有の性格が法律によって規定されている。信託業法,長期信用銀行法,相互銀行法,信用金庫法等々である。公的金融機関についても,それぞれが立法措置のもとにあることはいうまでもない。

 銀行法は制定以来50余年もの間,改定されずに施行されてきたが,1981年6月改正され,翌82年4月1日から施行された。旧銀行法は,大正末期のいわゆる金融恐慌の反省から生まれたものである。明治・大正時代をとおして,日本は何度か金融恐慌を経験した。とくに,第1次大戦が終わった後の1920年に戦争ブームの反動から生じた恐慌や23年の関東大震災が銀行業に与えた打撃は,大きかった。多数の銀行で取付け騒ぎ(預金の一斉引出し)がおき,休業や倒産が生じた。こうした事態が繰り返されぬよう,銀行経営の健全化を図る事項を法定したのが,27年の銀行法である。そこでは,(1)銀行の定義が改められ,資金の貸付けと受入れ(与信と受信)の両業務を併せなすものが銀行とされ,また,営業として預金の受入れのみをなすものも銀行とみなされ,銀行法の適用対象となった。なお,それ以前の銀行条例(1890公布,93施行)では,証券の割引のみを行うものも銀行とされ,預金の受入れのみを行うものは,銀行とはみなされていなかった。(2)銀行は株式会社のみが営業できるとされた。(3)銀行の最低資本金が法定され,弱小銀行の整理,合併・合同が促された。旧銀行法のおもな特色をあげると以上の3点となる。

 旧銀行法は50年の間,効力をもちつづけた。その基本的な理由は,制定時において,銀行経営の自主性を尊重することがたいせつであり,みだりに法律によって規制することなく,なるべく自由活動の余地を多くし,必要な場合にも,法律ではなく,〈機宜に適し且つ寛厳その宜しきを得る行政上の運用〉(銀行法制定の際に設けられた金融制度調査準備委員会の民間臨時委員会による1926年8月16日付けの答申意見より)にまつのがよいとされ,法律もこうした判断をくんで作られたからである。その結果,銀行に対して所管官庁である大蔵省の行政指導が,きわめて大きな意味をもつようになった。また,そうであるからこそ,銀行法は改正なしに効力をもちつづけたのである。

 しかし,経済・社会情勢の変化は,旧銀行法の枠内で弾力的に行政指導を行うだけでは対処しきれない問題を生じさせ,新しい銀行法を必要とさせるほどになった。そこで,幾多の論議の末,成立したのが,新銀行法である。この法律の国会提出の際付された理由は,この間の事情,新法の性格をよく物語っていると思われるので,以下に一部を省略して引用しよう。〈経済社会情勢の変化に対応して,銀行の健全経営を確保し,国民経済的,社会的に要請される銀行の機能の適切な発揮に資するよう銀行制度の整備改善を図るため,法の目的を明らかにし,営業年度の半年から一年への変更,休日および営業時間の弾力化,証券業務その他の業務の明確化を図るとともに,同一人に対する信用の供与の制限,業務および財産の状況に関する説明書類の縦覧等の規定を設け,あわせて,金融の国際化に対応して外国銀行支店等に関する規定を整備する等のほか,……,銀行法の全部を改正する必要がある〉。新銀行法と同時に,それと密接に関連する相互銀行法や信用金庫法,それに証券取引法の改正も行われ,日本の銀行制度は法律上は新しい時代を迎えることとなった。

現代の金融と銀行経営
高度成長期

1981年に新しい銀行法を誕生させるに至った経済・社会情勢の変化とは何であり,それが銀行にどのような影響を与えたかを,概説しよう。そのために,まず,高度成長期の金融と銀行経営に触れる。第2次大戦後,日本経済の復興とその後の高度成長の過程を支えたのは一つには企業の旺盛な設備投資であり,もう一つには個人の高い貯蓄であった。その間,金融は高い個人貯蓄から生み出される資金をいかに円滑に企業投資に向けるかという役割を担った。また,成長する経済の規模にあわせて,適切な通貨を供給し,ときには拡大が行き過ぎる場合,日本銀行の金融引締政策が有効に行われる条件を整えることも,金融に課せられた課題であった。こうした役割・課題は銀行を中心とするいわゆる〈間接金融(直接金融・間接金融)優位〉の金融機構によって解決されてきた。個人の貯蓄資金の大部分が銀行の発行する通貨やその他の間接証券の保有に向かい,そうして得た資金の多くは銀行を中心とする金融機関から企業向けの貸出しという形態で,企業の資金需要を満たしたのである。銀行貸出しという金融取引は,その性質として,相対(あいたい)取引であり,資金供給を行う銀行は特定の借手と暗黙にせよ長期的な顧客関係を結ぶことを有利と考えがちである。また,資金を需要する企業にとって銀行借入にたよる以上,特定の銀行ないし銀行群とやはり暗黙にせよ顧客関係を継続するほうが有利であることが多い。こうした特徴をもつ銀行貸出しが金融取引の大宗を占める結果,高度成長期の日本の金融市場では,その時その時の利子率によって資金の需要と供給が調整されるのではなく,非価格要因で資金需給が一致するという機構が確立した。いわゆる信用割当てのメカニズムである。独占禁止法の適用除外措置の第1号として成立した臨時金利調整法(1947公布)や銀行経営の健全性の維持をたてまえとする金融行政(行政指導を含む)が,銀行間の競争行為を制限したことも,信用割当てのメカニズムを強化した。こうした性格の金融市場のもとで,個々の銀行はその時々の規制のもとで一定の利ざや(貸出利子率と預金利子率の差)を保証されていたので,できるだけ多くの預金を集める一方,安定顧客である貸出先を確保し,将来の有望な顧客を開拓することに経営の基本をおいた。激しい預金獲得競争,企業グループの維持,新規成長企業の育成といった現象が,併存してみられたのである。

高度成長期以後

1970年代に入ると,経済環境は大きく変化した。それまでの年平均10%の高い経済成長率を維持することは,日本経済にとってきわめて難しいこととなった。経済成長の社会的費用ともいうべき,公害,生態系や環境の汚染に対し,人々の関心が向くようになったことも,経済環境の変化の一つであるが,それ以外に,71年のニクソン・ショックを契機に,戦後の国際貿易・金融体制を支えた固定為替相場制が崩壊し,73年2月に日本も変動為替相場制への移行に踏み切ったという,国際金融制度の変化もある。さらに,73年10月,OPEC(石油輸出国機構)の原油価格の大幅引上げや,それに続くアラブ諸国の原油供給削減措置の採用などにより,いわゆるオイル・ショックが生じ,石油を中心とした資源供給の制約が日本をはじめ世界の先進国に強まったことも,新しい経済環境である。

 こうした環境変化に適応する過程で,日本経済は一時期(1973-74)過剰流動性インフレーションをひきおこした。そして,そのインフレ抑制の後遺症という新しい条件も加わって,1970年代後半以降の経済・金融情勢は,かつてと比べて,大きく様変りした。金融面では,企業の設備投資は沈滞した。一方,個人の貯蓄は依然として高水準を保ったので,国内民間部門としては,貯蓄超過が発生した。すなわち,個人の貯蓄から企業の投資へという,かつて主流を占めた資金の流れは相対的に後退し,それに代わって,政府部門が資金の借手として大きく登場するようになった。また,海外への資金供給も大きな地位を占めるようになった。より具体的には,政府部門のなかで中央政府・一般会計の赤字が恒常化し,国債発行が行われるようになった。国債発行は1965年度から常態化していたが,75年度以降はその大量発行が定着し,金融システムに多大な影響を与えた。また,海外への資金供給の圧力は,日本経済の国際的地位の向上と相まって,日本の金融の国際化を推進した。

 国債発行(とくに大量発行)は,日本の金融市場に価格(ないし利子率)で需給が調整される公開市場を大規模に発生させた。まず,債券の現先市場が1973年ころから急成長した。当初は金融債を利用して,保有者が短期間の資金調達のために買戻し条件付きで金融債を売却するというものであったが,国債の大量発行が始まると,現先取引は国債の流通取引の一つの手段として活発化した。現先取引の活発化は大口法人預金の債券への代替をひきおこした。そこで,都市銀行をはじめとする大銀行は,競合商品として,譲渡性預金(CD)の導入を図り,79年5月,それが公に認められた。CDはその利子率が発行者である銀行と保有者の交渉によって決まる短期大口の自由金利預金であり,第三者への譲渡が可能である。このように,債券現先やCDが金融市場に登場したことによって,日本の金融市場は,まず短期資金取引で自由な価格の公開市場を有することとなった。この間,日本銀行が銀行間のコール市場について建値制を廃止する(1979年4月)とか手形売買市場を創設する(1972年6月)など一連の金利の弾力化措置をとったことも,短期金融市場の自由化・公開化を促進した。さらに,このことは国債を中心とする債券流通市場全体の成長をも刺激した。そして,中期国債(満期が2年,3年,4年のもの)の入札発行が78年6月に開始されたように,国債発行市場にも影響を与えた。こうした金融市場の自由化の動きは,金融の国際化からも促進された。80年12月に施行された新しい〈外国為替及び外国貿易管理法(外為法)〉の改正は,金融の国際化を一歩進めたもので,その結果,本邦企業等の海外での資金調達が活発になった。

 日本の金融システムが以上のような構造的変化を受けるなかで,銀行経営も従来とは違った性格を帯びることとなった。第1に特記すべきことがらは,銀行の資金運用面で,国債などの自由市場資産が著しく増大し,同時に,負債発行面ではCDなど自由市場で資金を調達できるようになった点である。第2は,海外での活動がとくに大銀行で拡大し,海外での市場利子率や変動相場制下の為替レートの動きが,銀行の利益に大きな意味をもつようになったことである。第3に,銀行間でまた他の業種との間で,競争が激化した。第1の点は,市場における利子率の動きに対応して,運用資産・発行負債をどううまく調整し,低い危険負担で高い収益をあげるかという,新しい経営手法を銀行が必要とする事態を招いた。資産負債管理(いわゆるALM)の手法が多数開発された。第2の点は,銀行のいわゆる国際業務の急成長である。貿易の拡大に伴う外国為替の取扱いや海外支店,営業所,さらには現地法人の設立によって,海外進出の日本企業に対しもろもろの金融サービスの提供を行うだけでなく,外国の企業,政府に対しても,海外の銀行と共同してシンジケート・ローンを組んだり,証券業務をも行うなど,多様な国際業務が展開され,急成長をとげた。だが,それと同時に,発展途上国等への大きな貸しこみも生じ,いわゆる累積債務問題に直面する事態を招いたことも疑いない事実である。国際金融取引には,為替レートの変動による為替リスクや政治的・社会的な理由もからみ国全体が破産するとか利払いが滞るといったカントリー・リスク等,国内金融取引にはみられないリスクが伴う。国際化は銀行経営に新しいリスク管理の必要性を促した。

 大量国債発行や国際化の結果,国内で自由価格の公開市場が拡大し,海外での金融・資本市場の利用可能性も著しく進んだことによって,銀行をめぐる競争状態は,以前と違って,著しく競争的となった。銀行貸出しの信用割当てのメカニズムは,とくに優良企業に対する貸出しについては,機能する余地が狭まった。優良企業への貸出条件であるプライム・レートは,銀行業の管理価格的性格をもっていたが,今日では,超優良企業に対し,プライム・レート以下の貸出しが行われるケースも生まれ,管理価格の性格が弱まった。これは,とくに民間銀行の短期貸出しについて著しい。貸出市場の競争激化は,借手(とくに企業)の資金需要がかつてほど旺盛でないこと,優良企業は公開市場での資金運用によって金融資産の蓄積を進めたこと(だから,銀行から資金を借りる以外に,必要ならば保有金融資産を市場で処分して資金を入手できるようになった),国内の銀行だけでなく,外国銀行(在日支店)からの借入れや海外市場での起債・新株発行による資金調達が可能になったことなどの理由で,もたらされた。一方,銀行の資金調達面でも,競争は激しくなった。先に触れたように,CDは大口資金をめぐって現先取引と競合している。もちろん,CD発行が許された銀行その他の金融機関の間でも競争は激しく,CDの利子率は競争的に決定されている。さらに,大口資金の調達のみならず,一般個人の貯蓄をめぐっても,競争は促進された。かつてみられた預金獲得競争は規制のもとでの非価格サービス競争であった。しかし,自由価格の公開市場の発達にともない,そこで運用する資金を個人等から,規制利率よりも少々高めの利率を払っても,調達できれば,利ざやを得ることが可能となったので,そのために個人向けの新しい金融商品が登場するようになった。注目すべきは,そうした新商品が銀行以外の金融機関からも提供可能であるという点である。たとえば,証券投資信託の一種である中期国債ファンド(略称中国ファンド。1980年1月創設)がその好例である。競争の激化は,このように一面では新商品の開発競争という形で表れた。これは,高度成長期にはそれほど著しくなかった現象である。

 なお,銀行業をめぐる競争は,公的金融機関である郵便貯金が定額貯金を主力に増加を続け,個人預貯金や個人金融資産に占める相対的比率の上昇を招いたことに端を発して,郵便局対民間金融機関(とくに都市銀行)のいわゆる郵貯論争という形をとっても表れている。1981年に創設された期日指定定期預金は,規制金利の枠内で銀行が郵貯の定額貯金に対抗するためにつくった新商品である。新商品開発以外にも,銀行は競争行為を活発にした。自由な公開市場の成長は,各種金融業務の間の境界分野をあいまいにしたのに加えて,エレクトロニクス化による情報通信技術の発達が,各金融業態をこえて金融活動を行うことを容易にした。そこで,いくつかの分野(とりわけ,収益性や成長性のある分野)が,各種の業態からの参入の的となった。その好例の一つは,銀行による国債窓販(窓口販売の略)とディーリング業務である。83年4月,銀行は新規発行国債の窓販を開始し,84年には,既発行国債の売買(ディーリング)に進出した。これは,銀行法改正当時,論議をよんだ問題で,そうした業務に進出しようとする銀行とできるだけ従前どおり占有を続けようとする証券会社との間の対立を呼んだ。このように,金融業における競争は,かつて法律や行政の力も加わって守られてきた各種の金融機関の業務分野をこえて,新たな進出を図ろうとする動きと,それに対抗し既得権益を守ろうとする動きとの衝突,業態間の対立を呼んだ。これがいわゆる垣根問題であって,既存の制度を再編する場合,つねに論議の的となった。もちろん,業態間の対立ばかりがあるわけではない。異なる業態に属する金融機関,証券会社が複数提携して,新しい商品やサービスの提供を図るという現象も生じた。この場合,外国の機関が重要な提携先として大きな役割を演じる場合も少なくない。

 高度経済成長を支え,それに支えられてきた戦後日本の金融システムの特徴の多くは,低成長の到来とともに消滅する傾向をたどった。金利規制,専門金融機関主義,預金・貸出しを通じる顧客関係重視といったものの維持が困難となり,金利の自由化や金融の自由化が促され,市場競争が活発化したのである。銀行はそうした変化を受けて,それに適応した経営を図らねばならなくなった。その間に生じるであろう銀行業の再編や,その際に生じるかもしれない銀行経営の悪化,信用秩序の動揺にどう対応するかが,銀行行政の一つの課題となった。
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バブルの発生と崩壊--不良債権処理

1980年代後半に株価・地価等の資産価格が急騰したが,90年代になると急落し,バブル経済は崩壊した。1986年から89年にかけて,株価・地価の上昇で,毎年350兆~500兆円,名目GDPの92~140%もの規模のキャピタル・ゲインの発生によって,資産価格の値上りがいかに大きかったかを知りえよう。しかし,株価は89年末をピークに低下に転じ,地価は91年以降,大都市圏をはじめとし本格的な下落に転じた。この間,銀行はバブル期に不動産担保貸付けに暴走したため,バブルの崩壊により,地価下落→不良債権の増加→貸し渋り→金融不安という状況に陥った。不良債権の増加により,90年代半ばには住宅金融専門会社7社が破綻し,住宅金融債権管理機構が設立され,96年10月住専7社から6兆0944億円の財産を承継し業務を開始し,12月より債権の回収にはいった。

 94年12月,東京協和・安全の2信用組合破綻以降,破綻が本格化した。第二地方銀行の兵庫銀行が95年8月,太平洋銀行が96年3月,阪和銀行が96年11月,それぞれ破綻した。特に97年11月北海道拓殖銀行(都市銀行),山一証券,徳陽シティ銀行等の破綻により,日本の金融システムは最大の危機に直面し,〈日本発,世界金融恐慌〉の寸前までいったといわれる。この間に政府は金融の規制緩和を段階的に進め,またBIS(国際決済銀行)による自己資本比率の規制の導入(1993),預金保険機構の強化策なども講じてきたが,金融危機はいっそう深化している。

 98年6月には日本長期信用銀行の経営危機に伴い,住友信託銀行との合併構想が公表された。このような状況のもとで政府・自民党は検討の末,98年7月金融機関の不良債権の抜本的処理策(金融再生トータル・プラン)を正式に決定した。小渕恵三内閣はこれに基づく金融再生関連6法案を第134臨時国会(1998年8月開会)に提出した。銀行は不良債権の早期処理と〈日本版ビッグバン〉に向けての生残り戦略の二面作戦を展開している。
執筆者:編集部

銀行の機械化
個別銀行内の機械化

1952,53年ころからパンチカード・システムが導入されはじめ,50年代後半にその利用が本格化した。これによって大量データの処理が可能となり,総勘定元帳の作成や預金,貸出し,外国為替の統計業務等の後方事務の一括処理や統計資料の集計等が容易となった。

 60年ころからコンピューターが導入されはじめたが,この段階での利用形態はオフライン集中処理方式であり,営業店で直接操作することができなかった。利用対象も預金,貸出しの利息計算等,あるいは公共料金等の預金口座からの自動引落しなどに限定されていた。

 65年ころから銀行の大衆化路線によって事務処理量が飛躍的に増大したことや,コンピューター,通信技術の進歩を背景に,営業店の端末機操作で即時に元帳更新等を行うオンライン方式が始められた。銀行業務のオンライン化は,まず普通預金等の預金業務から始まり,ついで銀行の本支店間の為替業務のオンライン化へと進んだが,この段階では科目別のオンラインシステムにとどまっていた。しかし,この預金,為替等の科目別オンラインシステムによって,同一銀行であればどの支店でも預金の出入れが可能なサービス等ができることとなった。

 75年ころになると,コンピューターの大型化,性能の向上,低価格化や磁気ディスク装置の大容量化等を背景に,貸出業務,外国為替業務を含めた全科目総合オンラインシステムが導入され,各科目別の連動処理が実現した。これによって為替の振込金を預金口座に自動的に入金したり,貸出金の返済を預金口座から自動的に引き落とすことによって行うことが可能となった。この間にあって,本部等のセンターのコンピューターと本支店の端末機等とを結ぶ全店オンライン化も進展し,すでに銀行,相互銀行,信用金庫のすべてに導入されている。今やコンピューターとデータ通信が銀行と企業,銀行と家庭をつなぎ,決済が行われるエレクトロニック・バンキングの時代に入ろうとしている。

 銀行の店頭には,現在,現金自動支払機(キャッシュ・ディスペンサーcash dispenser,CD),現金自動預金機automatic depositer(AD),現金自動預入支払機automatic teller machine(ATM)等が普及している。1969年に,一部都銀で導入されたオフラインの現金自動支払機は,その後オンライン化され,79年に登場した現金自動預入支払機と合わせると,すでに都市銀行はほぼ全店舗に設置されている。機械の操作に使われるキャッシュ・カードの発行枚数は,82年9月当時で都市銀行は3300万枚,地方銀行は2500万枚にのぼった。

銀行相互間の機械化

全国銀行データ通信システムは,加盟金融機関相互間の内国為替取引を行うシステムで,東京銀行協会の内国為替運営機構で運営している。また,国際銀行間データ通信システムは,外国為替に関する通信,たとえば顧客送金や金融機関相互間付替等に関する情報伝達をデータ通信によって行うシステムである。ただし,決済機能を有しないため,決済はコルレス金融機関相互間の相対で行う必要がある。

銀行と企業間の機械化

銀行と企業のコンピューターを通信回線で接続して,振込手続や入金通知などの業務,また為替情報,金利情報などのデータサービスを行うシステムをファーム・バンキングfirm bankingという。1982年10月の電電公社の回線自由化により,83年4月から都市銀行各行がこのサービスを開始している。

電子マネーの導入へ

金融サービスの電子化の動きは,金融機関間の事務処理の電子化・ネットワーク化のほか,ファーム・バンキングや金融EDI(Electronic Data Interchange)等,主として企業間の資金取引の分野で顕著である。しかし最近では,プリペード・カードやクレジット・カードの利用の拡大のほか,電子マネーの開発をはじめ,小口・小売決済の分野でも進展が見られるようになった。

 電子マネーは,利用者による資金の支払を受けて現金に代わる決済手段として発行され,利用者はこれを物品やサービスの購入の際に使用し,その受領者は発行体から相当の支払を受けるという仕組みである。世界各地で電子マネーの実験が始まり,日本でも1997年7月から東京の三鷹地区での〈JCBスマートキャッシュ実験〉(1998年2月まで)や,同10月から神戸市の〈VISAキャッシュ〉を使った実験も始まっている。

 〈電子マネー及び電子決済に関する懇談会報告書〉(1997年5月,事務局は大蔵省銀行局・国際金融局)は,〈電子マネー・電子決済は,情報通信技術の進展を金融サービスに取り入れ,情報社会における利用者のニーズに対応して効率的な決済の方法を提供しようとするもの〉で,〈一定の条件を満たしていれば,金融機関以外でも電子マネーの発行ができる〉とし,電子マネーの発行を幅広い業種に開放する一方,〈発行体破綻時の消費者保護のための方策について検討が必要である〉としている。
執筆者:後藤 新一

世界の銀行発達史
古代・中世の銀行

今日の銀行の原型は近代西ヨーロッパの銀行発達史のなかで形づくられてきた。しかし,その歴史をみると古代バビロニアに端を発している。前3400年から前3200年ころに建立されたといわれるウルクの赤い神殿は最も古い銀行の建物である。それは家畜や穀物などを実物利子をとって貸し付け,また,実物財貨の保管を行った。しかし,バビロニアの職業的銀行業者の主要業務は,現金支払を節約するための振替業務であった。彼らは,遠隔地間の預金振替により商取引を決済する手段を提供したのである。銀行は,この業務を基礎としてしだいに信用をも供与するようになった。バビロニアにおいては,こうして信用業務に重点をおく形で銀行業務が発展したのだが,古代の他の地域では雑種通貨の流通が商業活動の障害となっていたために銀行業務は両替業務から生じた。ギリシア世界で経済的繁栄をきわめた都市国家アテナイには,トラペジテスとコリュビステスという2種類の銀行業者が活躍したが,後者は文字どおり両替商であった。また,ローマの銀行業者(アルゲンタリウス)はもともと両替商であった。しかしながら,ギリシア・ローマ世界においては銀行史のうえで新たな進歩がみられた。とくにギリシアでは,銀行が支払の保証をしてその見返りに手数料をとる,といった支払委託の引受けが典型的銀行業務となった。それは,近代の手形引受信用acceptance creditの起源といってよい。また,ローマにおいては預金(レケプトゥムreceptum)制度を基礎として今日的な意味における当座勘定取引が発生した。こうした銀行業務の発展と並行して都市国家による公立銀行の設立も盛んになった。その主たる設立目的は国庫収入の維持・増大を図ることにあったが,一般の銀行と同じく両替業務や預金業務(貨幣保管業務)を営んだ。公立銀行は前4世紀ころのギリシアで最初に設立され,とりわけプトレマイオス朝のエジプトにおいては国王による銀行独占の手段となった。

 中世ヨーロッパにおいては,古代の銀行業務が継承される一方,新しいタイプの銀行業者も登場してきた。一つは,非定住的な金貸業者であり,ユダヤ人,ロンバルディア人およびカオール人に代表される。彼らは高利の貸付けを行い,また,企業信用を供与した。第2の型は,13世紀から14世紀末にかけて租税徴収請負業務により巨万の富を蓄積した富豪たちである。なかでも有名なのがフィレンツェのペルッツィ家やメディチ家であり,彼らは王侯間の戦争にも戦費の融資を行った。とはいえ,いかに大富豪とはいえその財力には限界があったから,王侯や自治都市は,融資の約束の見返りに特定の独占権を与えて一種の公立銀行の設立を企てた。その最も古い事例はジェノバのサン・ジョルジョ銀行(1407設立)である。ところで,中世の銀行史との関連で特筆すべき点がいま一つある。すなわち,為替手形(トラッテtratte)の発生である。しかし,トラッテは裏書による譲渡が不可能であり,それができるようになったのは17世紀になってからのことである。中世の銀行の支払仲介機能は手形の引受けに限られており,手形の役割が飛躍的に高められるためにはイングランド銀行の設立をまたねばならなかった。

近代ヨーロッパの銀行

ヨーロッパ近代の銀行史は1694年のイングランド銀行の設立をもって始まる。同行は,手形割引業務を組織的に営み銀行券の発行を許された株式会社組織の銀行であり,文字どおり最初の近代的株式銀行であった。それは19世紀のイギリスで本格的発展をとげた株式銀行のモデルとなった。イギリスにおける私的株式銀行の創始者と目されるのはトマス・ジョプリンThomas Joplinである。彼は1833年のナショナル・プロビンシャル銀行の設立に関与し,支店制度を根幹とする株式銀行の原型をつくりあげた。一方,34年創業のウェストミンスター銀行の総支配人ギルバートJ.W.Gilbartは,発券業務のイングランド銀行への集中を目ざす諸銀行立法に対抗して預金業務(預金の管理とその短期的貸出し)を中心にすえた新しい型の銀行を構想し,またそれを実現させた。イギリスの株式銀行は彼らの敷いた路線にそって発展をとげ,支店制株式預金銀行と呼ばれるようになった。フランスにおいても類似の発展傾向が確認される。70年代にフランス最大の株式銀行となったクレディ・リヨネは預金業務を中心として躍進し,預金銀行(バンク・ド・デポbanque de dépôt)の典型となった。同行頭取アンリ・ジェルマンHenri Germainはこうした方向を推進するうえで指導的役割を演じた。

 ところで,フランスの株式銀行のなかには,預金銀行とは異なる,もう一つのタイプの銀行が見いだされる。それは長期の産業金融を主要業務とする事業銀行(バンク・ダフェールbanque d'affaires)である。その原型は,1852年にポルトガル系ユダヤ人ペレール兄弟によって創設されたクレディ・モビリエである。彼らは,銀行による産業の統制をスローガンとするサン・シモン主義を思想的背景としていた。サン・シモン主義の影響はドイツにも及び,ラインラント出身の企業家メビッセンG.von Mevissenは,1848年にシャフハウゼン銀行の設立に,53年にはダルムシュタット銀行の創設に加わった。これらの銀行はいずれもクレディ・モビリエ的な性格をそなえていた。しかし,それだけではなかったところにドイツ特有の事情がある。すなわち,預金業務をも兼営する銀行として企画されたのである。こうした型の株式銀行は特殊ドイツ的銀行型と称されている。

 イギリスにおいては,ドイツやフランスに比して,長期産業金融を営む金融機関の発展は皆無といってよいほどであった。むしろ,長期金融業務は国際資本移動の仲介機能として発達し,その担い手はマーチャント・バンカーmerchant banker(近年はマーチャント・バンクと呼ばれることが多い)と呼ばれる金融業者であった。彼らは,その名声と豊富な自己資本を元手にして,手形引受信用を供与し各国の公債発行を引き受けた。彼らの事業活動はロンドン金融市場を拠点として国際的な広がりを示した。たとえば,最も著名なマーチャント・バンカーであるロスチャイルド商会ロスチャイルド家)は,ロンドン,パリ,フランクフルト,ウィーンおよびナポリに店舗をかまえ,ヨーロッパのみならずラテン・アメリカ諸国の公債発行をも請け負った。マーチャント・バンカーのなかにはユダヤ人が多く,彼らは中世の非定住的な高利貸に似た特徴をもっていた。19世紀後半になっても,法外な手数料をとって公債発行を引き受けるマーチャント・バンカーが存在した。しかしながら,彼らの高利貸的性格はしだいに失われていった。というのは,株式銀行が国際金融業務に参入して競争が激化し,マーチャント・バンカーの独占体制が崩壊したからである。他方,こうした株式銀行業務の国際化と並行して,あるいは,その前提として各国で銀行集中が進展した。ドイツでは,活動分野の異なる諸銀行の結集(銀行コンツェルン),被合併銀行の支店化,持株支配などの多様な形態で集中が行われ,4D銀行(ディスコント・ゲゼルシャフト,ドイッチェ銀行,ダルムシュタット銀行,ドレスデン銀行)の寡占体制が成立した。イギリスにおいては,もっぱら被合併銀行の支店化という方式で銀行合同運動が展開し,五大銀行(ミッドランド,ロイズ,ウェストミンスター,ナショナル・プロビンシャル,バークレーズ)が形成された。また,フランスでもクレディ・リヨネを筆頭に四大銀行(他は,ソシエテ・ジェネラル,国民割引銀行,商工信用銀行)が台頭した。

 20世紀になると銀行業の国際化は一段と進んだ。すでに1870年代には公債発行を複数の銀行が共同で引き受けるための財団(コンソシアムconsortium)の結成がみられたが,この方式は,近年の多国籍企業への融資を目的とした継続的なコンソシアム(いわゆる多国籍銀行multinational bank)にまで及んでいる。また,国際金融業への進出に消極的であったイギリスの株式銀行も,1905年にミッドランド銀行が外国為替業務に乗り出して以来,活発な活動を展開した。株式銀行の活動がこのように国際化するにつれ,19世紀に登場した種々のタイプの株式銀行も同質的なものとなり,銀行そのものよりも銀行制度のうちに各国の特徴が反映されるようになった。とくにソ連(ロシア)およびアメリカの銀行制度が重要である。

ソ連・アメリカの銀行制度

ソ連(ロシア)では,革命後急速に銀行国有化が推進され,1922年には銀行券の発行権限が全面的にロシア共和国国立銀行に集中された。同行は翌23年にゴスバンクと改称し,預金銀行業務をも管理するに至った。第2次大戦後,ゴスバンクへの銀行業務の集中はさらに進み,農業部門以外への長期金融業務と国際金融業務とを除くすべての銀行業務が同行によって営まれた。これは単一銀行制と呼ばれ,社会主義圏の集権的銀行制度の範例となった。1991年のソ連崩壊の翌年,ロシア連邦の中央銀行機能はロシア中央銀行に引き継がれた。一方,アメリカにおいては,支店をもたないユニット・バンクunit bankの理念が根強く残り,反独占的かつ分権的な銀行制度が形成された。1863年の国法銀行法National Bank Actは,同法の規定に基づいて設立された国法銀行の支店開設を認めなかった。しかも,その規定は1935年の銀行法に至るまで効力を発揮した。また,1913年の連邦準備法Federal Reserve Actは,全国に12の連邦準備銀行(連邦準備制度)を設置して分権的な中央銀行制度の確立を目ざした。しかし,たとえばカリフォルニアのバンク・オブ・アメリカ(バンカメリカ)のように,支店制預金銀行として発展をとげた巨大銀行もあるし,1870年代に出現した投資銀行家を中心に大規模な金融トラストが展開するという局面もみられた。国際金融面においても,1919年のエッジ法Edge Actにより設立された銀行法人(EAC)は,60年代における巨大な多国籍銀行の発生に対して先駆的役割を演じた。
執筆者:神武 庸四郎

日本の銀行発達史
中央銀行制度の成立

他の近代的経済制度と同様,銀行も明治期にはいって先進資本主義国から移植された。もちろん,それ以前にも金融業者は存在した。中世から近世にかけて主要な都市で発達した両替商はその代表的なものであって,彼らは金銀銭の売買・預金・貸付け,手形振出し,為替取引などを営んでいた。しかし両替商のうち銀行にまで発達したものは,それほど多くない。日本の法令に銀行の名称がはじめて使用されたのは,1872年(明治5)11月公布の国立銀行条例といわれる。それより先,1869年政府の勧奨のもとに東京など8ヵ所に為替会社が設立された。為替会社は金券,銀券および銭券を発行するとともに身元金,預金および政府貸下金を運用するなど金融業務を行ったが,そのなかにはカンパニー(会社)を誤って,バンク(銀行)と称したものもあったという。

 国立銀行条例は伊藤博文の熱心な主張に基づき,アメリカの銀行制度をモデルとして制定され,第一・第二・第四・第五の各国立銀行が設立された。この国立銀行は兌換(だかん)銀行券を発行するものと定められたが,政府が政府紙幣を増発したため,銀行券は困難におちいった。このため76年8月政府は条例を改正し,銀行券の正貨兌換を廃止し,通貨兌換に改めた。この改正では銀行券の発行限度額は増加され,金禄公債証書(明治政府が旧士族に交付した公債)の出資が認められたことなどもあって,国立銀行の設立は容易になり,78年12月までに153行が発足した。一方,それまで国立銀行以外,銀行を称することは禁止されていたが,国立銀行条例改正にともない,それも解除され,76年の三井銀行をはじめ,安田銀行などの普通銀行(普通銀行・特殊銀行)が成立した。1882年10月には日本銀行が開業し,85年5月兌換券の発行を開始した。日本銀行発足により銀行券の発行は日本銀行に集中されることになり,国立銀行は普通銀行に転換することとなった。そして96-99年に122行が普通銀行として再発足した。また1893年7月の銀行条例施行に加えて,日清戦争後の経済発展を背景として普通銀行の設立は相つぎ,1901年には普通銀行数は1800行をこえるに至った。こうして日本銀行は,預金を主要な資金源とする普通銀行の頂点にたち,兌換銀行券による商業手形の再割引を通じて通貨供給にあたる体制が成立した。ただこの時期の普通銀行は頭部に少数の大銀行,下部に多数の小銀行という構成をとり,貸金会社的な銀行が大部分であった。

 1893年1月貯蓄銀行条例が施行され,一般大衆から零細な貯蓄を集めることを目的として貯蓄銀行の設立が盛んとなった。1900年前後にはまた,諸種の特殊銀行が整備された。すでに1880年2月貿易金融を目的とした横浜正金銀行(東京銀行)が開業していたが,不動産金融を目的として日本勧業銀行(第一勧業銀行)が97年8月,各府県農工銀行が97年11月から開業した。また1900年4月北海道拓殖銀行が北海道の開発金融機関として発足し,02年4月には日本興業銀行が長期工業金融を目的として開業した。そのほか植民地銀行として,1899年9月台湾銀行が開業し,09年10月韓国銀行(1911年8月朝鮮銀行に改称)が設立された。

 第1次大戦の好況期に普通銀行は資金の充実を図り,大規模となった。銀行数はすでに1901年をピークとして減少傾向にあったが,20年以降不況が長期化する過程で銀行集中は急速に進んだ。ただ日本の銀行合同の特徴は,地方銀行どうしの合同が主流であった。三井・第一・三菱などの都市大銀行と地方に散在する中小銀行とでは,それぞれ行風,営業基盤,経営環境などが異なり,大銀行による中小銀行の合同はきわめて少なかった。政府もまた地方銀行の強化育成を方針とし,地方的合同を奨励した。とくに27年3月の銀行法公布,翌28年1月施行により銀行最低資本金額は100万円と定められ,かつ原則として単独増資が認められなかったため,中小銀行の合同は一段と進み,銀行数は1926年に比べて31年には半減した。この不況期に経営困難におちいった普通銀行に対し,日本銀行はしばしば救済融資を行った。その最初は1920年3月の第1次大戦後不況の発生時であったが,とくに関東大震災や金融恐慌に際しては積極的な救済活動をなした。このように銀行動揺の続く一方,三井・三菱・住友・第一・安田の五大銀行はますますその基礎を強化し大型化した。農工銀行の救済にあたったのは日本勧業銀行であった。経営不振の農工銀行は勧銀への依存を強めていたが,21年4月公布の勧農合併法(正称は〈日本勧業銀行及農工銀行ノ合併ニ関スル件〉)に基づき,21-23年に農工銀行19行,27-30年に8行が勧銀と合併され,勧銀は経営規模を拡大した。

銀行の戦時統制

日中戦争の勃発にともない銀行等金融諸機関に対する戦時統制が実施された。1937年9月公布の臨時資金調整法により銀行は時局緊急産業への重点的融資にあたった。ついで40年10月公布の銀行等資金運用令に基づき,政府は銀行に対し強制融資制度を実施し,命令融資の範囲を拡張した。太平洋戦争突入後の42年2月にはナチス・ドイツのライヒスバンクをモデルとして日本銀行法の改正が行われ,日銀は国家目的への全面的協力を義務づけられた。銀行合同も金融統制の必要上強要された。すでに1936年政府は〈一県一行主義〉を表明していたが,42年5月施行の金融事業整備令により政府は合同を命令することも可能となった。この結果一県一行は進み,また大銀行間の合同(三井・第一の合併,三菱の第百吸収)が強行された。1931年683行あった普通銀行は40年には280行,45年には61行に減少している。これらの普通銀行はもっぱら預貯金の吸収にあたるとともに政府の法的規制に従うことになり,自主的な投融資活動を行う余地を失った。1942年4月金融統制団体令が公布施行され,同年5月以降金統制会が発足している。普通銀行と同様,貯蓄銀行の合同も一段と進行した。43年3月普通銀行の貯蓄銀行業務兼営が認められるようになったため,貯蓄銀行の普通銀行への合併が進み,貯蓄銀行数は1940年の69行から45年には4行に激減した。また勧農合併もいっそう進行し,1944年には農工銀行は姿を消すに至った。このように軍需融資の円滑化を図るため,各種金融機関が動員活用されたが,それだけでは不十分であった。このため1942年4月戦時金融金庫,45年4月共同融資銀行,同年5月資金統合銀行が設立された。このほか1942年3月に南方開発金庫,45年2月に外資金庫も設立されている。

敗戦と銀行制度の変化

第2次大戦の終結にともない銀行制度も著しく変化した。1945年9月連合軍総司令部の指令に基づき戦時金融機関(資金統合銀行,戦時金融金庫,南方開発金庫,外資金庫)ならびに植民地銀行(朝鮮銀行,台湾銀行)は閉鎖された。47年6月横浜正金銀行も閉鎖され,1946年12月設立の東京銀行が普通銀行としてその業務を継承した。さらに48年連合軍総司令部は,特殊銀行に対し普通銀行に転換するか,預金受入れに関し厳しい制約を受ける債券発行銀行に改組するか,いずれかの道を選ぶよう指示した。これに基づき,日本勧業銀行と北海道拓殖銀行は普通銀行に転換し,日本興業銀行は債券銀行の道を選んだ。その後特殊銀行制度が廃止されたため,50年4月興銀も勧銀,拓銀とともに普通銀行に転換した。しかし各種金融分野を確立する観点から,52年6月長期信用銀行法が制定され,同年12月,同法に基づいて興銀は長期信用銀行に転換,また新たに日本長期信用銀行が設立され,57年4月には日本不動産銀行(日本債券信用銀行)も設立された。また1954年4月外国為替銀行法が制定され,東京銀行は外国為替専門銀行に転換した。普通銀行も敗戦によって打撃を受けたが,貯蓄銀行や信託会社はとりわけその性格上,戦後インフレ期に苦難の道をたどり,前者はすべて普通銀行に転換し,後者は信託業務を兼営する普通銀行に転換した。なお1951年6月相互銀行法が公布施行され,無尽会社の大部分は相互銀行に改組された。一方,基幹産業に対する融資機関として1947年1月復興金融金庫(日本開発銀行)が開業したほか,民間金融機関を補完するため,政府機関として国民金融公庫住宅金融公庫,日本輸出銀行(現,日本輸出入銀行),農林漁業金融公庫中小企業金融公庫等々が設立された。
執筆者:杉山 和雄