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お遍路のススメ / お遍路とは・遍路とは

 四国に限らず、巡礼はもともと僧が中心の修行でした。しかし、江戸時代を境に庶民の姿が多くみられるようになります。そこには江戸期における社会情勢の変化を見て取れます。

  江戸時代までの四国で行われていた修行は、浄土へ渡ることを目的とし、その中心は僧たちによって行われていました。
  一方、大師信仰が広まるにつれ、四国には各地の僧たちが大師ゆかりの霊場に修行・参拝するために訪れるようになるのですが、これも当初は僧を中心とするものでした。
  しかし、大師信仰が庶民にも浸透してくるにつれ在家の人々の中にも四国に行きたいと願う者が現れてきます。実際に庶民遍路の姿が歴史資料に現れるはこの頃からで、江戸期以降より庶民の手によって書かれた巡礼記や歴史資料が登場する様になります。

<偏路獨案内書>
江戸時代の遍路たち
の様子

<おかげまいり絵図>
江戸期、お伊勢参りは「おか
げまいり」と呼ばれ流行した

  この江戸時代を境に起きる遍路の庶民への広がりは四国に限ったことではなく、伊勢・西国・坂東・東北など、全国各地の霊場へ巡礼する庶民の姿が書かれる様になるのも江戸時代を境としています。特にお伊勢参りは「おかげまいり」とよばれる集団巡礼となり、庶民の間で流行しました。
  では、なぜこうした民衆巡礼がさかんになったのか。そこには江戸時代における社会背景の変化があったと考えられます。

  江戸時代は戦乱期の終息によって、社会の安定がもたらされます。その中で封建制度の確立は民衆の中に商人を中心とした裕福層が生まれます。彼らは農民に比べ金銭的にも時間の上でも自由あり、巡礼には時間とお金が必要であることから、江戸時代当初の民衆巡礼層の多くはこの商人を中心とした裕福層で占められていました。
 その後、江戸期以降における、政権の安定は農民層にもゆとりを生み、上位農民層にも巡礼が広まってゆきます。

 一方、封建制度はこれまでの政権と以上に民衆に大きな生活規制を強いて、庶民が一時的であれ居住地を離れることは難しくなっていました。ただし、社寺に巡礼に行くことはだけは唯一の例外として認められており、このことが民衆巡礼をさかんにさせる要因のひとつにもなりました。

  また、徳川家康は全国を統一すると大規模な街道の整備を急務としました。江戸から各地に通じる街道を全国規模で整備し、街道沿いに宿駅(宿場、また、公用の荷物や通信物を運ぶ送り業務を行う)を置き、政治、経済、軍事上の大動脈として街道は大きな役割を果たしました。
 やがて街道は多くの人々が旅する庶民の道としても使われるようになってゆきます。このころにはある程度の交通環境が完備され、民衆の巡礼をより可能なものにしていきました。

  民衆の巡礼の増加にともない、有名社寺のまわりには大規模な宿泊設備が整えられ、社寺へつながる街道や周辺の街は栄えました。「おかげまいり」が流行した伊勢神宮では、つらなる街道に宿場が栄え、周辺は歓楽街としておおいに賑いました。伊勢神宮の古市は当時、江戸の吉原、京都の島原と並んで三大遊郭の一つとして知らました。しかし、このような社寺周辺の歓楽街の発展は、参拝を観光化させる要因にもなりました。

<備前伊勢音頭総踊>
当時、伊勢の古市には遊郭が約70軒、遊女は1000人以上いたとあり、備前屋・杉本屋・油屋の三遊郭はその名を知られた有名遊郭でした。油屋は現在でも歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」で演じられ、当時の面影を今に伝えます。

  以上のような社会状況の変化は四国においても例外ではありませんでした。ただし、四国におけるその発展は本州に比べ緩やかでした。海を隔てていたことや、社寺が広範囲に分布する巡礼であったため、その社寺に通じる街道や交通の整備は遅れていたようです。

 しかし、その一方で遍路道には巡礼を案内する標石や道しるべなどが置かれ、地図に社寺の位置などが書かれた案内書なども刊行されました。各地には遍路屋と呼ばれる遍路専門の宿が整備され、その後、木賃宿(一般の農民が営む宿)なども広まりました。また、金毘羅参拝が有名になるにつれ四国への定期航路が整備されてゆきました。

 こうしたことから、四国にも徐々にの庶民が訪れるようなってゆきます。とはいえ、四国の遍路はまだまだ困難なもので、川橋は少なく、渡し舟さえまばらでした。遍路道には多くの難所があり「へんろころがし」と呼ばれました。しかし、それがかえって他の参拝のような観光化が進まず、素朴な信仰が保たれることにもなりました。

[四國偏禮霊場記]
(しこくへんろれいじょうき)1689年。真念著・洪卓画。寂本編集。

 江戸時代には民衆を対象に大量印刷された様々な遍路案内本が刊行された。

<真念庵>真念設立の辺路屋。37~38番間。もしくは38~39番間(打戻り)。

<11~12番間のへんろ道>
へんろころがしの面影を残す。今も難所だが整備されています。

  江戸中期にかけて民衆による遍路は最盛期をむかえることになります。土佐藩の記録では1700年2月から7月にかけて一日に2~300人の遍路が関所を通ったと記録されています。これまでは巡礼とはいえ庶民が自分の住む土地を離れ自由に旅をすることなど考えられませんでした。この庶民への巡礼の広まりが示すものは、社会における庶民の位置が大きく変わってきたことを示すものでもあります。

  江戸時代を境に全国で民衆の巡礼が盛んになってゆきました。当時、四国での巡礼者の特徴として挙げられるのが「職業遍路」の多さがあります。日本の難民と呼ばれた職業遍路はどのような人々だったのでしょうか?

  「職業遍路」とは一時的な遍路ではなく、四国を巡りつづけることを職とした人々のことです。ではなぜ、かれらは四国を巡りつづけるに至ったのか、そして、どのようにして生計を立てていたのか。そこには様々な理由で地域や社会からはじきだされた人々が遍路となり、「お接待」と呼ばれる風習によりかろうじて生き延びていた姿が見えてきます。

  「お接待」とは遍路に対して支援する昔ながらの風習です。無償で宿を提供にしたり、食べ物などを支援します。険しい道のりだった四国遍路において、お接待は遍路の存続を大きく支えました。現在でも四国に残るお接待は遍路の歴史に大きな影響を与えることになります。なかでも、職業遍路が四国に流入したことはこの接待を抜きには考えられません。

四国偏路獨案内

(しこくへんろ

ひとりあんない)

 江戸時代のお接待する人々とお遍路たち。

  職業遍路で代表的なものが病気によって故郷を出た人々です。中でもよく知られたのが、ハンセン病患者の遍路で、当時、ハンセン病は遺伝性(※注1)と考えられていたため家族に病人がでると、人に知られる前に遍路に出しました。(※注1:ハンセン病は遺伝病ではなく、現在、完治する病気です。又、元患者の方から感染もしません。ハンセン病に関して詳しくは →「モグネット」のページへ)その他にも重病の病人や身体障害者などが遍路となり四国を巡りつづけました。彼らは「病気遍路」や「へんど」などと呼ばれ、時には一般の遍路と差別されることもありました。彼らは一般的な遍路道を避け、遍路屋に泊まることも出来ず、野宿や本堂の軒などで一夜を過ごすなどして、一般の遍路とは離れ四国を巡りつづけました。

<母娘遍路像>
善通寺に建立後ハンセン病資料館へ移転。
 ハンセン病となった人々が遍路として四国を巡っていたことを今に伝える。

  その他の職業遍路の主な人々は貧困による難民層です。身分制度の中で低階級の労働者の生活は厳しく、貧富の差は広まる一方でした。失業者には何の保証もなく、路頭に迷った多くの人々が接待をあてに遍路になりました。1781年、富後日出(大分)布令の中で失業者が増え多くの人々が四国遍路に流れたことが書かれています。また、飢饉が起こるたびに多くの人々が四国に流れました。天保の飢饉の際、加太浦(和歌山市加太)の船着場には四国へ渡るための極貧者があふれ、そういう人々を無料で乗船せたとが記されています。

  故郷を追われて遍路になった人々は札所を一周しても帰る所もなく、結局は接待を当てに死ぬまで四国を歩きつづけなければならなず。こういった人々の中には、まったく巡礼はせずただ接待を当てに四国を巡る者や、賊化して空巣や強盗をはたらく者たちも現れるようになります。このような遍路は「偽遍路」や「乞食遍路」などと呼ばれ、こういった事態に藩では遍路の規制に乗り出すことになります。

  藩では法令を出し、職業遍路による犯罪や風紀へ対策を打ち出します。遍路には往来手形を提示させ、滞在期間にも期限を設けた。また、規定の遍路道を外れて歩くことも禁止しするなど、再三にわたり遍路の規制法令を出しました。

  しかし、明治に入っても職業遍路は減ることなく、規制はより厳しいものとなってゆきました。明治政府が神道を推奨したことも相まって、遍路狩りが行われるようになると一般の遍路までが捕らえられることもありました。気候の温暖であった土佐(高知)はもっとも乞食遍路が多く、きびしい規制・弾圧が行われました。このような流れから土佐藩では”遍路自体を拒絶すべし”との論議も生まれ、土佐を中心に遍路を冷遇する空気ができていました。

  明治から大正にかけて遍路は減少期をむかえます。遍路の規制に加え、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく;仏教を廃し神道に拠らんとする思想運動)や戦争に向かう時代の中で一般遍路の数は減少していきました。1918年から九州日日新聞にて連載された高群逸枝による「娘巡礼記」の中で、当時の四国遍路は巡礼者というより貧困者や病人の難民といった印象を伺えます。このころの遍路は貧しい人の最後の行き所といった印象も強く、善根宿には職業遍路が溢れてたとあります。

  病気や障害、貧困のほかに罪や偏見などによって故郷を追われた人々なども遍路となりました。彼らは社会福祉制度が確立される昭和40年代までその数を減らすことはなく、四国遍路は福祉が発達するまでの行き場を失った人々の受け皿ともなりました。結果としてお接待は彼らの生計を支えることにもなっていきました。四国には故郷に帰ることなく、人知れず果てた無縁仏の遍路墓が今も無数に残っています。

<無縁仏の遍路墓>
四国のへんろ道には今も多くの無縁仏の遍路墓が残っています。


  貧しい人々や重病の人々が四国に流れ、遍路によって生き長らえたことは、四国に「お接待」という風習にぬきでは考えられない。遍路におこなわれた接待とはどのようなものだったのでしょうか。

  1836年ごろ野中彦兵衛によって書かれた「万覚帳」の中で三ヵ月にわたって遍路した野中彦兵衛は”飯36回、銭4回、わらじ5回”の接待を受けたとあります。当時の接待は米・味噌・漬物などの食べ物を遍路に与えることが多く、品もそれぞれの地域によってさまざまであったようです。土佐の紙生産の村ではちり紙、山村では山芋。阿波の北方では藍商人が多かった為、お金を接待する人が多く、吉野川の周辺では善船といわれた、無料の船渡しが出ていました。又、遍路を無料で宿泊させる「善根宿」も四国のいたる所にあり、善根宿には個人の家を開放することもよくありました。1819年新井頼助が残した「四国順拝日記」では第65番三角寺の周囲に12軒もの接待所があったとあります。

  接待を行っていたのは四国の地元の人々はもちろんですが、他国からも多く人々が接待を行う為に四国を訪れていました。毎年決まった土地から講を組んで接待に訪れる人々を接待講と呼び、「紀州接待講」、「有田接待講」「野上接待」講などは現在でも続いている大変歴史のある接待講です。紀州接待講は1819年すでに専用の接待所まで建てていて、また、有田接待講では多いときで20隻もの船がつらなる大掛かりなものであったと伝わっています。

<現代の紀州接待講>
江戸時代から今も続く紀州の接待講。23番薬王寺にて。

  現在、接待はほとんど四国以外では見られない風習ですが、実は接待は日本のどこの霊場のでもみられた行いであったようです。かつて僧たちが修行や巡礼で各地を巡るときに”お布施”をささげて仏恩(仏の恵み)を受けようといった行いがありました。これを「報謝」・「托鉢」や「喜捨」などといわれましたが、江戸期に入って一般の人々に巡礼が広まると、その人々にも布施と同じように施しを与える風習が定着し、これが「お接待」の原形ではないかと考えられています。

<ラオスの托鉢風景>
アジアの仏道圏では今も人々がつぼを持った僧たちに米や食物などを施す、朝の托鉢をよく見かけます。これらは報謝・喜捨、そしてお接待のルーツといえるでしょう。

  しかし、各地の巡礼記などみても接待についての記載は四国遍路以外にはほとんどみられません。ではなぜ他の地域での接待は姿を消し、現在、四国に残るにいたったのか。そこには他の霊場・巡礼地が観光化していったことが挙げられます。上記で述べましたように、民衆の巡礼ブームのなかで霊場の周辺は観光地としての色合いが強くなってゆきました。現在の有名観光地の多くが有名霊場の周囲に連なるのはこのためです。当然これらの霊場へ向かう人々も巡礼というよりも巡礼をかねた観光旅行といったおもむきが強くなってゆきました。
  接待はそもそも行をおこなう人々を支援することで仏恩(仏の恵み)を受けようといった行いです。「私の分まで宜しくお参り下さい」という代参を託す意味合いや、接待自体が行でもあり功徳となるものでもあります。観光色の強くなった巡礼に当然このような思いを向ける人々も減ってゆき、接待は徐々にその姿を消していったと考えられています。

  ではなぜ、四国には接待が残るにいたったのか、そこには四国独特のきびしい巡礼事情が関係しています。現在でさえ四国八十八ヶ所、約1300kmを歩き抜くことは大変ことです。四国は江戸期以降も街道の整備が遅れていたため、当然、遍路道も大変険しく山道も多い、今よりも八十八ヶ所を歩き通すことは困難な道のりであったはずです。また、標高900mを超える雲辺寺など社寺が山頂や辺境にを含む様々な場所に点在しているため、起伏が複雑な四国の山道を登り降りは「へんろころがし」といわれ、その様な難所跡が現在でもいくつも残っています。
  四国のこのように厳しい巡礼に行くにはそれなりの覚悟と思いが必要であったはずで、物見遊山な観光気分で遍路するというわけにはいきませんでした。困難な巡礼ゆえに観光化されることなく、そのことが遍路者が純粋な信仰者として人々に支援され続けられてきた要因となりました。

  接待は江戸期にかぎらず、その後、明治・大正・昭和を経て現在まで続けらてゆきました。今でも遍路道を歩いていると見知らぬお婆さんが「お茶でもどうぞ」と招いて下さいます。遍路を始めて驚かされるのはこの接待ではないでしょうか。各所で食べ物や飲み物など様々な支援をいただく、こうした人々の支援に励まされた人も多いはずです。私自身も心に残るのことは接待にまつわるものが多いのです。接待は今でも四国の人々をはじめ、他の府県からの接待講により今でも無償で行われて、遍路を象徴する四国特有の風習となっています。

<お接待>
お接待の形は様々です。
右はバスを改造した善根宿です。
お心に頭が下がります。

  四国には結果として接待があったが故にハンセン病患者が四国に流れこんでしまったという悲しい歴史があります(ハンセン病の発病は、らい菌に対する免疫耐性によるものです。らい菌の感染力に関しては、微力であると広く支持されていますが、異論もあり結論づけらません。四国でのハンセン病の発病率と四国遍路との因果関係は科学的に立証されていません)。また、接待によって職業遍路が生まれ、彼らが賊化して住民を脅かす結果にもなりました。それでもなお、接待は現在までつづけられてきました。そんな四国の人々に根づく心情には頭が下がる思いがします。
  現代の遍路はその目的や信仰に関わらず、一般の人が多く訪れる巡礼です。これは他の巡礼ではその信仰者が中心であるのに比べて特質なものではないでしょうか。そこには「お接待」に代表される四国の人々に根づく心情が今もをこの地に多くの人々をいざなうのではないでしょうか。