【核と沖縄米軍基地】Part 2: 宜野座の小学校のそばで「原子砲」ぶっ放した米軍基地、キャンプ・ハーディー - Osprey Fuan Club
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これが米軍が沖縄に持ち込んだ原子砲 (アトミック・キャノン)
沖縄戦のさなか、宜野座松原のあたり一帯には、沖縄でも最も劣悪な状態の収容所がおかれ、多くの人々が命を落とした。あの沖縄戦を生き抜いてもなお地獄は続いていた。
その沖縄戦から7年後、米軍は新たに宜野座松原の土地を接収し、米陸軍基地キャンプ・ハーディーを構築。
第1回目は、ここキャンプ・ハーディーが、本物の小型核兵器 W54 をつかって米陸軍秘密部隊グリーン・ライト部隊が特殊作戦訓練をおこなっていたということを、昨年話題になったアメリカの CIA 核戦略についての著作から紹介したが、
今回は、このキャンプ・ハーディーに、とても「小型」とはほど遠い核兵器が持ち込まれていたことをご紹介したい。
まずは2013年4月23日、
沖縄タイムス阿部記者の記事から。
原子砲、松田小そばに 夢の国と核の島
同じ55年の10月25日。宜野座村の松田小学校校舎からわずか100 メートルほどのところに米軍が原子砲280 mm カノン砲を持ち込んだ。小型の原爆核砲弾を撃つ核兵器。発信の付け根はドラム缶より太い。
こんなに大きな大砲があるのか、当時5年生の當眞進さん (68歳) は度肝を抜かれた。通常弾による初の試射を前に全校児童約180人が一番新しくて頑丈な職員室の建物に集められた。
窓越しに原子砲を見つめる。火の玉が出たかと思うと、猛烈な風圧が木々をこちら側になぎ倒してきた。直後、轟音が届き、同時に窓ガラスが砕け散った。欠片が刺さって顔や手のあちこちから血を流している子がいた。体にも刺さったのか洋服も赤く染まっていた。児童4人がけがをした。コンクリート製の梁やレンガ造りの壁もひび割れるほどの衝撃だった。
「今日も射撃演習すると言われています、授業も全然できません」。翌日たまたま宜野座村訪れた米議員による土地問題の調査団に、校長は訴えた。
米兵達は射撃準備をすると、木陰や畑のあぜ道にさっと身を隠した。威力も知らされない子供たちが被害にあった。東野さんは原子方があった場所に立ち、よくもこんな学校のそばで、よくも核兵器をと悔しさをにじませる。
松田区の海岸沿い、今の国際交流村には、75年までキャンプハーディがあった。住民が夜道を歩いていると、突然武装した米兵があぜ道から現れることがよくあった。ぱっと出てきて、いつも本当にびっくりした。住民を敵に見立てたゲリラ戦の訓練だったんでしょうね、と當眞さん。
松田区は民間地まで全て米軍の演習地のように使われた。地元で生まれ育ち、町田小の校長を務めた仲間さちよさん (83歳) は、松田も沖縄全体も、日本に「糸満売り」に出されたようなものと言う。昔はここらでもよくあった。だが、子供を打った親は涙を流す。お祝いをしようなんていう親はどこにもいないよ。
< 社会部 阿部岳 >
政府は28日主権回復の日式典を開くサンフランシスコ講和条約が発効した53年、日本は独立したが、沖縄は72年まで米軍施政下に置き去りにされた。20年間本土と沖縄が選んだ別々の問題を証言でたどる。
この、とんでもない「原子砲」M65 とは何なのか。
M65 280mmカノン砲はアメリカ陸軍が戦後1953年から1963年まで運用していた野戦重砲。核砲弾射撃を任務としアトミックキャノン(原子砲 Atomic Cannon)と呼ばれた。
信じられないことだが、米軍は、核砲弾射撃仕様の大砲をキャンプ・ハーディーで、しかも小学校のすぐそば、子どもたちの面前でぶっ放したのだ。
信じられない・・・
在沖米軍に関して、常にわれわれはそう思わされ続けているのだが、
しかし、命の観点から見て途方もない非常識が積み重なったものが軍であり、それが戦争というものなのだろう。
経験したことのないものにはわからない、と、年寄りはよく言っていたが、軍と戦争には、「常識」が通用しない、通常の「道理」が通用していない世界なのだ。
状態良くオクラホマの米陸軍砲兵博物館に展示されているM65の写真を見てみよう。
この大砲は、冷戦時代にソビエト軍が西ドイツを攻撃した場合に使用するために開発された。11インチ口径の280mm銃は、1949年にW-9 15キロトン弾頭を収容できる最小の大砲であると見なされている。1953年、この銃はネバダ州のテストサイトで最初の原子砲を発射した。15キロトンの発射体は正常に6.2マイル発射され、地上525フィートで爆発した。1951年から1953年の間に合計20個のM65が製造され、そのほとんどが西ドイツに配備された。2台のトラックを搭載した銃は長さ85フィート、幅10フィート、重量は86トンを超え、狭い道路でドイツの村を通り抜けるのは困難だった。
冷戦さなかの西ドイツに配備されていたという、この M65 が、宜野座の松田小学校のそばで火を噴いた「原子砲」である。
まだ信じられない人には、沖縄公文書館で1995年の米軍記録写真の中にも数枚の M65 写真を見つけたので、ご覧になってほしい。上の写真と寸分違わぬ砲台だ。
《AIによるカラー化処理》
【原文】 Members of the 663rd FA Bn. during training with the 280 MM gun.
【和訳】 280mm銃で訓練中の第663野戦砲兵大隊のメンバー
撮影地:
撮影日: 1955年11月
並べてみよう。
しかも、公文書館の米軍記録写真によると、1955年11月。タイムスの記事にある1955年10月25日の試射の時期と符合する。撮影場所は記されてないが、向こう側の地平線が海である地形や土の色から、キャンプ・ハーディーで撮影した可能性は大きい。
沖縄公文書館所蔵の貴重なキャンプ・ハーディーのカラー写真三枚のうちの一枚。
Special Forces-Okinawa. Hardy Camp.特殊部隊−沖縄。キャンプ・ハーディー
撮影地: 宜野座村 撮影日: 1967年 6月
恐ろしく巨大な原子砲 280mm。こんなものを小学校のそばでぶっ放したというのだ。弾頭の大きさに注目してほしい。
【原文】 Members of the 663rd FA Bn. during training with the 280 MM gun.
【和訳】 280mm銃で訓練中の第663野戦砲兵大隊のメンバー
撮影地:
撮影日: 1955年11月
宜野座のキャンプ・ハーディーだけではなく、普天間でもぶっ放していたらしいことを示す写真も見つけた。
《AIによるカラー化処理》
【原文】 280mm Atomic Cannon with crew ready for firing at Futema Area. Filed: G&W-Rifles-280mm Atomic.
【和訳】 普天間地区で発射準備のできた280mm原子砲
普天間地区で発射準備ができたと書いてあるところによると、発射したんだろう。むろん、核弾頭ではなく普通弾での演習だが。
核砲弾の実射はネバダで一回しかおこなわれていないという。
1953年5月25日にネバダ核実験場にてW9核砲弾の実射を伴う核実験(アップショット・ノットホール作戦グレイブル実験)が国防長官や統合参謀本部議長列席のもとで実施された。核砲弾の実射試験はこの1回のみである。
M65は20門が生産され、ヨーロッパと韓国に配備された。敵の目標とならないために、設置位置は頻繁に変更された。 配備核砲弾は1952年からW9が用いられ、1955年から1957年にかけて改良型のW19に更新された。W9およびW19は両方とも80発が生産されている。
そのM65のネバダでの核砲弾の映像が残されている。
フェイク映像ではないかと願うほど身の毛のよだつM65核実験の映像はこちらである。
後半部分は、まさに核兵器の恐ろしさを脳裏に刻むもので、見るに堪えないが、前半部分の発射の衝撃だけでもすさまじいものがある。
これが、まさに宜野座の松田小学校の子どもたちをおそった射撃の衝撃波である。
米兵達は射撃準備をすると、木陰や畑のあぜ道にさっと身を隠した。威力も知らされない子供たちが被害にあった。
沖縄での、人を人とも思わないような米軍のやりたい放題は、この時からどれほど変わったのか。支配者然とした横暴さは沖縄占領時からどれほど変わったのか。対話はできているのか。
それをしっかり本土の方たちにも確認してもらいたいのである。
パネルを落としておいて、一般市民に安全上の懸念はない、などと、あたかも眼下に県民の暮らしが見えてもいないかのような姿勢が、おなじ事故を何度もおこさせる。
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1972年の日本への復帰前に、沖縄に1200はあったと言われる核兵器。撤去されたというが、本土や韓国へ核弾頭を「供給」する武器庫でもあった沖縄の米軍基地から、本当に核兵器が撤去されたかどうか、疑う人も多い。
核を沖縄に押しつけ、本土は表向きの非核、という構図。
それは今の普天間やオスプレイの問題も含め、すべての米軍と自衛隊基地問題に関していえることだ。
それが、沖縄の基地問題は、「沖縄の」問題ではなく、「本土の」そして「日本の」問題だというゆえんである。
Part I もご覧下さい。