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受験風土に咲いたあだ花
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今のセンター試験の前身である。英、数、国から化学まで7科目もあって、出題量がやたら多い。ヒーヒー言いながら棒暗記に励んだ。せっかく詰め込んだ英単語や年号が、転んだ拍子に飛び散ったら大変である。本番直前は階段を踏み外さないようそろそろ降りたりした。
あれから20年、いまや文科省が詰め込み教育を反省する時代だというのに、若いころ詰め込んだ数々の語呂合わせが脳にしみついて消えない。
たとえば「照る皿プラ美香」。テルモピレー、サラミスなどペルシャ戦争の戦場名を縮めた。かんかん照りの日、皿に天プラを乗せて歩く美香ちゃん。暗記のための呪文だから、宿命的にくだらない。
「凍傷なるなるカノッサの屈辱」は、1077年に神聖ローマ皇帝が雪のなか教皇に謝罪した事件の年号暗記用。カンブリア紀から始まる地質年代は「顔しで席にミジュ吐く三枝」と覚えた。どれも、その後の人生では役に立たなかった。
これらに比べると「水兵リーベ僕の船。七曲がりシップス、クラークか」はあか抜けている。水素H、ヘリウムHe、リチウムLiと元素名を順に覚えられるのはもちろん、リーベは「愛する」の意とわかってドイツ語の勉強にもなった。
情景も美しい。ドイツの水兵が僕の船を気に入ってくれた。七重八重に曲がった航路を船が行く。あの人影は店員か――。「晴れやかな船旅がまぶたに浮かびますねえ」。解説しながら先生が陶酔していた。
暗記ばかりして何になる。ことの本質を学ばなくていいのか。まっとうな怒りや疑問を感じたが、目前に迫った試験を乗り切るため、私も土壇場で「水兵リーベ」に飛びついた。一夜漬けである。
こんな暗記一辺倒、どうせ日本だけだろうと長いこと勝手に思い込んでいた。
「彼のかかとは、もっといいビジネスが好きだ」(His heels like better business)。数年前ニューヨークの高校で、先生が黒板に大書し、生徒に復唱させているのを見た。名詩でも暗唱しているのかと尋ねると、周期表だという。「全くつまらないからな、昼寝しないなら馬鹿が砂糖入れちゃうぞ、カンザスの猫」と続く。米国版「水兵リーベ」も相当くだらない。
水兵の故郷(?)ドイツではHとHeは飛ばして、「いとしのベティ、お願い、来て」と覚える。韓国では「すーへり、りーべー、ぽんたんじる、さんぷー」と唱える。一本調子の直球勝負。
ところが、周期律発祥の地ロシアでは、周期表を暗記していなかった。老いも若きも学生も教授も「そんなもの暗記したことがない」の一点張り。水兵リーベが、本場ペテルブルクに存在しないとは。建都300周年でにぎわう街角で、私はひとり途方に暮れた。
発明と恋愛の鉄人
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世紀の大発見だったが、周期律に没頭したのは36歳前後の2年半だけ。その後、研究テーマはめまぐるしく変わった。無煙火薬を開発し、北極海の砕氷船を設計し、油田開発を急がせ、国勢調査の結果を分析した。ウオツカの含有アルコール分を定める政府委員に選ばれたこともある。
もともと移り気な性分なのだろう、女性関係もめまぐるしかった。
ペテルブルクの科学史家エレナ・ギナクさん(43)によると、大学卒業の間際、16歳の少女にひとめぼれした。思い切って求婚し、断られた。27歳で留学したドイツでは地元の女優と大恋愛。ロシアに戻ると、姉の勧めで6歳年上の女性と結婚したが、夫婦仲はよくなく、別居がちだった。
18歳の美しい画学生に入れあげたのは43歳の秋。猛反対した周囲は、ふたりを引き離そうと女性を遠くイタリアへやったが、大化学者は恋心を抑えられない。大学を休職してローマまで追いかけた。
離婚に踏み切ったことでメンデレーエフは当時のロシア正教会から懲罰されたが、大金を神父に払うことで再婚も強行した。
男48歳、すさまじい恋愛体質である。後に変な格言を残している。「結婚は愛情と理性とでよく考えてからになさい」
水兵もリーベもなきロシア
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年に1回しか手入れしない髪とひげ。猫背を丸めて教壇にのぼると、水素や酸素を駆使して化学実験を披露した。手品師みたいに教室を沸かせるのが好きだった。
「知識の詰め込みは無益。大切なのは観察することと考えること」というのが教師としての持論で、周期表の意義を熱っぽく説いても、それを丸暗記させるようなまねはしなかった。
その影響かどうか、メンデレーエフ以後、ロシアでもソ連でも、周期表暗記が必須とされた時代はなかったという。
ペテルブルクは1703年にピョートル大帝が築き上げた水の都。300周年を祝う行事に好景気が重なって、どこも観光客でいっぱいだった。観光名所、エルミタージュ美術館にほど近い書店で、中学3年生のサーシャ・ナウモフ君(14)に周期表の勉強法を尋ねてみた。「クラスに1人変わった男の子がいて、周期表を丸暗記したぞと自慢していた。でもみんなに暗記しろなんて先生は絶対言わないよ」
ロシアの教科書をめくると、周期表は小5から登場する。「ゆとり教育」の日本より4学年も早く、内容もずっと詳しい。
有機化学者のアンドレイ・ザイツェフさん(33)も、周期表を覚えた記憶がないと言う。「族ごとに性質を大づかみに知っておけば足りる。各元素の名前や位置を細かく小中学生に暗記させる必要はない」
昔も今もペテルブルクでは、化学の試験になると、黒板脇に周期表が掲示される。元素を順に並べたり、空欄を埋めたりするような試験はないそうだ。ロシアに「水兵リーベ」が存在しないわけである。
愛憎ないまぜ日本との因縁
56歳で大学を退いたメンデレーエフは、政府の中央度量衡管理局長に就任した。
実験とたばことチェスの静かな晩年を、1904年の日露戦争が乱した。日本ごときに負けるわけがないと、たかをくくっていた。旅順が陥落したと聞くと「私も武器を取って戦う」と大声をあげた。敗戦後は、小村寿太郎との交渉に向かう首席全権ウィッテに講和条件を献策したりしている。
東工大大学院助教授、梶雅範さん(47)はメンデレーエフと日本のつながりに詳しい。ロシア海軍の士官だった長男は、1891年、ロシア皇太子に随行して来日した。滋賀県を訪問した皇太子が沿道警備の巡査に切りつけられた大津事件では、現場写真を撮影している。
長男は長崎に4度寄港し、計80日余り滞在した。その間に、秀島タカという女性と深い仲になり、女児が生まれた。「あなた様の息子から便りがない」。タカから泣きつかれた義父メンデレーエフは、ふびんな母子にあてて何度か生活費を送っている。
関東大震災で亡くなったという説があるものの、母子のその後ははっきりしない。もし健在だったとしたら、子孫はきっと、入試の直前に「水兵リーベ僕の船」と唱えているはずである。
社会部・山中季広