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板橋宿

中山道 板橋宿
   所在地:板橋区 板橋1丁目~板橋本町
        旧中山道沿い

①本陣 ②問屋場 ③脇本陣 ④高札 ⑤脇本陣 ⑥縁切榎

⑦脇本陣 ⑧遍照寺 ⑨乗蓮寺

板橋宿 上宿・中宿  中山道分間延絵図

中山道板橋宿 平尾宿  中山道分間延絵図(上図の右に下図左が続く)

木曾街道板橋之駅  英泉

板橋宿
江戸から数え、中山道最初の宿駅。南北に延びる宿駅部分を含め、村としての地域名称を示す場合は下板橋村が多く使用された。宿内で川越街道を分岐する。天保期(1830-44)には宿往還の長さ20町9間、うち町並地の長さ15町49間であったが、地子銭の免除はされていなかった。宿場町は、江戸側から平尾宿・中宿・上宿の三宿で構成され、それぞれに名主が置かれた。近世後期には平尾宿の名主を豊田市右衛門家、中宿の名主を飯田宇兵衛家、上宿の名主を板橋市左衛門家がほぼ世襲で勤めた。享保期(1716-36)には中宿を中心とする地域は「古町」と称されており、近世前期には中宿を中心に宿場町が形成され、次第に平尾宿・上宿に広がっていったと思われる。
日本歴史地名体系

近世後期には中宿に本陣1軒があり、脇本陣は上宿・中宿・平尾宿に各1軒。旅籠屋は寛政12年(1800)に大21軒、中21軒、小26軒で、天保期には大35軒、中12軒、小7軒であった。近世後期には本陣は飯田新左衛門家(名主飯田家より分家)、脇本陣は前期の名主三家が勤めていた。文久元年(1861)の和宮下向に際しては、脇本陣飯田宇兵衛家が宿所となっている。人馬継問屋場は中宿にあり、天保期には問屋・名主兼帯3人、問屋・本陣兼帯1人、年寄3人・帳付4人・馬指6人がおり、問屋4人は毎月5日交代で務めた。伝馬役は寛永15年(1638)より50疋・50人を勤めた。うち囲人馬は5疋、5人。
享保8年(1724)の6,7月頃より江戸音羽町の茶屋がつぶれ、平尾宿に大勢移住して飯盛旅籠を開いて賑わう一方、古町は寂れていったという。享保3年(1718)幕府は旅籠1軒に付2人の飯盛女を許可したが、明和期(1764-72)には江戸四宿は例外とし、板橋宿の飯盛女は150人までとなった。飯盛旅籠屋は平尾宿に集中し、料理屋・茶屋が軒を連ねていた。
同上

2005/06

中仙道の首にして日本橋より2里あり。往来の旅客常に絡駅たり。東海道は川々の差支(さしつかえ)多しとして近世は諸侯を初め往来繁々れば伝舎(えきごや)酒舗軒端を連ね繁盛の地たり。駅舎の中程を流るる石神川(しゃくじかわ)に架かる小橋あり、板橋の名故に発(おこ)るとぞ。板橋は上下に分てり。この地を下板橋と称す。
江戸名所図会

上:右:現在の板橋
下:板橋の説明板

橋は川の改修に伴い昭和47年(1972)に架け替えられたもの。

上:右:本陣跡碑(古地図番号①)
 仲宿47-8・10

板橋宿の中程、現在のスーパーが本陣跡。本陣飯田家は代々新左衛門を世襲した。
飯田家に伝えられた関札(大名が宿泊したときに掲げる札)や古文書は、郷土資料館に寄託されている。

板橋区文化財マップ

左:平尾宿脇本陣跡  (古地図番号⑦)
  (平尾名主屋敷跡)
  板橋3-15-10

板橋宿平尾の名主・豊田家の屋敷跡。豊田家は代々市右衛門を世襲し、脇本陣も兼ねていた。近藤勇が処刑までの間監禁されたり、ペルシャ産のつがいのラクダが逗留したこともあった。
豊田家に伝わる古文書や絵画・煎茶道具などは、豊田家が板橋宿の中で文化的にも中心であったことをうかがわせる。資料は郷土資料館に寄託されている。

板橋宿中宿脇本陣跡(古地図番号⑤)

板橋宿 巣鴨絵図(1854)

板橋駅 江戸名所図会

左:問屋場・貫目改所跡

右のスーパーの場所が本陣跡で、その先に問屋場があった。その場所には碑も何も無い。

乗蓮寺 江戸名所図会 
   (古地図番号⑨、 巣鴨絵図赤丸しるしの場所)

現在の乗蓮寺

乗蓮寺
江戸名所図会によれば応永年間(1394-27)の創建とある。約600年前に了賢無的和尚が当時草深い板橋の山中村に草案を結び民衆を強化したのが始まりで、のち安土桃山時代の末期に今の旧中山道沿いの仲宿に移転したと言われる。
現在は北区赤塚に移転している。

中宿名主飯田宇兵衛家の脇本陣跡。皇女和宮がここに宿泊した。

文殊院(投込寺)
真言宗寺院。江戸時代初期に延命地蔵のお堂を拡大して寺院となったと伝わる。板橋宿本陣・飯田家の菩提寺でもあった。本尊の文殊菩薩は寛文12年(1672)以前の造立。墓地には飯田家歴代の墓のほか、江戸時代宿場の飯盛旅籠の一つ「大盛川」の墓なども保存されている。
板橋区文化財マップ

他に宿場時代の遊女の墓がある。

新藤楼玄関
板橋宿にあったもの。現在資料館に置かれている。

縁切榎
上宿の近藤家(遠江の金指近藤家)抱屋敷の前には縁切榎といわれる第六天の神木の榎の古木があり、楽宮(さざのみや 有栖川織仁親王王女、1804年徳川家慶(いえよし 12代将軍)に嫁ぐ)や和宮(かずのみや 孝明天皇の妹宮 1861年徳川家茂(いえもち 14代将軍)に嫁ぐ)などの通行に際しては迂回して通行したという。
日本歴史地名体系