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第15回品川たんけん隊の集い・渡辺さんのお話

  • ️Tue Aug 26 2014

日時:平成24年9月15日(土)
   午後2時00分〜4時00分
場所:大井第2地域センター 2階 講習室1

watanabe1s.jpg前回までは、昭和の大井町を中心にいろいろな話を伺ってきましたが、今回は場所も品川(御殿山付近)へと移し江戸時代にタイムスリップをしてみました。
お話しいただくゲストは、渡辺瑞枝さんです。
しながわ観光協会で常任理事をなさっている渡辺さんから[家光と沢庵が結びついた品川]と題してお話を伺いました。

まず、最初に家光と沢庵和尚についてのVTRがございますので、ご覧ください。

ーーー☆『歴史探訪』のVTRをご覧いただきました☆ーーー

徳川家光と沢庵和尚の出会いについては、VTRにもございましたが、それを補う形でお話しさせていただきます。
 沢庵宗彭(そうほう)と言う名前でございます。1573年(天正元年)に但馬の出石で生まれました。
家が貧しかった為、沢庵は10歳で出石の浄土宗の唱念寺で出家しました。
14歳で同じく出石の臨済宗の宗鏡寺に入り、禅僧の修行を始めました。
19歳で大徳寺の三玄院に入り、名を宗彭と改名しております。
32歳になりまして、大徳寺の厳しい修行を経て沢庵の法号を授かっております。
37歳になりまして、慶長14年に天皇の詔を受けまして、大徳寺の153世になりましたが、3日間で退職願を出して堺の南宗寺に帰りました。この事から3日坊主と言われるようになったということでございます。
その後は、大徳寺の大仙院に入りますけど、住職を引き受ける事は無かったようでございます。
 次に家光との出会いについて。
秀忠が亡くなりまして、二条城で家光と接見をいたしました。沢庵自身は永住するという気持ちはなかったんですが、家光は沢庵をたいへん尊敬し、お茶会が御殿山で開かれた折に、品川は風光明媚な場所でもあるしお寺を建てて、そこに沢庵を住まわせると言う事を申し上げて自分が抱える・・と言う事をおっしゃったんですね。それまでにも黒田長政や細川忠隆など、いろんな大名から召し抱えたいという申し出があったが、すべて断っていたようです。最後に家光が召し抱えることになりましたが、苦慮していたようです。将軍様からの申し出を断ることができなかったのではないかと言われております。
寛永16年(1639年)徳川家光が萬松山東海寺として開山いたしました。知行は500石いただいておりました。その時に申し上げた言葉が「1年365日を食べて、7斗2升あれば良い」言ってるんですね。ですから、極めて質素な生活を送ったと思われます。質素であったという裏付けには、その頃おとずれた将軍様に作っておりました大根のたくわえ漬けというのを差出しましたら「とても美味しい」ということで、それからは沢庵漬けと呼ぶことになったようです。将軍様がいらした時でさえも豪華な接待をせず、そのような暮らしぶりだったようです。日常の貧しい生活から生まれたたくわえ漬け(沢庵漬け)だったと思います。

 次は、沢庵の死について。
正保2年(1645年)に享年73歳で亡くなっております。亡くなる前に、画工(がこう)に命じて「一円相(いちえんそう)」を作らせ、自ら一点をその円のなかに書き、一円相の観照文(かんしょうぶん)ともいえる賛を円の上に書して寿容(じゅよう)(肖像)といたしております。
また、亡くなる時に「全身を裏の山に埋めて、ただ土を撒いて、経を読むなかれ。斎(とき)を設ける事なかれ。特別な衣を着たりせず、平常の如くにしろ。香をたて像を設置する事なかれ。諱(いみな)を求むることなかれ。」と言っておられましたが、お偉い方ですので、実際には、大山墓地に墓所や資料がございます。また、あちこちに沢庵和尚を慕って、いろいろな形で塑像であるとか木像、碑を作っております。最後に弟子が何か残してくれと言いました時に「」という一字を書きました。
数奇な自分の人生を顧みて夢のような人生だったと思われたのではないかと推察しております。
その夢の塔は、服部南郭のお墓の隣にあります。この大きな碑が作られたのはわりと新しいんです。

 次に東海寺の歴史と今ということでお話を続けます。
できた当時は47,000・・・約5万坪の広さがございました。最初は、本堂とか山門は無かったんです。沢庵和尚の屋敷と呼ばれておりました。その後、元禄時代に山門とか本堂が整備され、中門、南門、仏殿、客殿という大伽藍ができあがりました。とても広い為に夜の見回り番というのがありました。
それは東海寺夜番人足、俗に沢庵番とよばれるもので、寺の普請用の材木を警護するための人足として毎夜9人ずつ集められ、境内4ヶ所の番屋に詰めなければなりませんでした。
永住をきらった沢庵和尚が寺を出るのを防ぐためだと誤解されて伝えられたのが、この沢庵番です。
 そして、今の品川学園のあたりに本殿があって東海寺の中心地でした。現在は、玄性院(げんしょういん)が、東海寺の名前を引き継いでおります。最初、玄性院は臨川院(りんせんいん)と呼ばれておりましたが、堀田正盛の諱(いみな)が玄性院だったことからそう呼ばれるようになったようです。
今の東海寺、東海禅寺についてお話しします。世尊殿、鐘楼、文珠菩薩と普賢菩薩が両側におられます。それから十六羅漢があります。あとは閻魔様、帝釈天もあります。これが文化財の公開日に見ることができます。大徳寺から寄進されたという、ちょっと名のあるお釈迦様でございます。それから原爆の慰霊碑がございます。世尊殿の裏には、堀田正盛のお墓があります。堀田正盛は品川神社などの造営奉行でした。品川神社の鳥居にも堀田正盛と書いてございます。その鳥居は都内で2番目に古い鳥居になります。一番古いのは上野、寛永寺のものです。
そして、旧東海寺の敷地には17の塔頭(たっちゅう)があったわけです。
この辺で有名なのは、清光院(細川行孝が母を開祖として建立したと伝えられる)になります。

東海寺が明治に廃寺された理由は?
それは「明治2年に品川県の県庁が設けられることになったから」なんです。
武蔵の国が旧幕府領の直轄の為に、明治政府によって設置された県が、品川県なんです。当時、品川県は、練馬区、杉並区、中野区、新宿区、渋谷区、目黒区、品川区、大田区、世田谷区、および多摩地区の東南、そしてさいたま県の一部までだったそうです。すごい広さだと思います。
当時の知事さんは古賀さんという九州出身の方です。県庁を荏原郡北品川地区の東海寺境内、現在の品川区北品川3丁目11-9に置く予定であった。実際には土地整備などができず暫定的に旧旗本の小笠原八郎邸、現在の中央区日本橋に置かれ、品川への移転準備が完了する前に県が廃された。
準備をしている間に時代が変わって、品川県が無くなったということでした。
この頃の品川で、今でもありますが品川縣ビールができたんです!販売には結びつきませんでしたが、品川縣ビールが、日本で最初にできたビールでした。

◇一番、左の写真が入口になります。
◇そして、次が沢庵和尚の墓です。自然石が二つ重ねてあります。小堀遠州が設計いたしました。
 お墓の前には、説明板があります。
◇その次が、儒学者の服部南郭のお墓です。
◇次が、井上勝さんのお墓です。
 長州藩の武士でしたが、文久元年に渡航禁止令をおかして、伊東博文、井上馨などと密かに海外留学をいたしました。明治維新後は鉄道に尽力したということで初代の鉄道頭(てつどうのかみ)になりました。ひそかに・・と言うことになっておりますが、藩士の方には行くことを通告していたようです。映画「長州ファイブ」にもありました。
◇その隣が、西村勝三さんのお墓です。
 日本工業の先駆者と言われております。大山墓地に入る所に日本近代工業の発祥の地という碑があるんですけど、ここでガラスとか白煉瓦とかいろんなものを作り始めました。西村さん個人のお話しになりますが、元は軍服や軍靴を作っておりました。それでお金持ちになられて、その後、ガラス工業を始めて工業社を作られました。明治維新の時に、品川ガラス製造所ができましたが、初めは官営でしたが、明治6年に太政大臣の三条実朝が工業社の元の形式を作っておりました。うまくいかないということで西村さんにかわり民営になったんですね。
近代工業が発達するのに水が必要になりますので、目黒川の役割も大きかったようです。
◇そして次が、賀茂真淵のお墓です。
◇その次が、渋川春海さんのお墓です。映画「天地明察」が公開されておりますが、天地明察のモデルになった方です。もとは安井算哲といって囲碁の先生だったんですね。数学とか暦学を学び暦の日本で一番権威のある学者になりました。
幕府方が渋川春海、朝廷方が土御門家が天文をしておりました。大事な行事に日蝕がかかってしまって土御門家が廃って来てしまうんですね。その時は幕府方が正確であると言われたんですが、これもある時、日蝕にかかってしまうんですね。その後、渋川春海が研究に研究を重ねて2日間の誤差を発見しました。それで初めて貞享暦(じょうきょうれき)が確率されたということです。この貞享暦は、後の太陽暦のもとになったものです。

 次に、

江戸時代にタイムスリップ

ということで、紫衣事件についてお話しさせていただきます。
紫衣とは、高僧が身につける僧衣のことです。従来は、大徳寺と妙心寺において、僧の出世は天皇の許可によって行われておりました。寛永4年に幕府が綱紀を作っておりまして、幕府の許可が必要となりました。それが「大徳寺法度」です。朝廷が勝手に許可をだしてしまって幕府の許可がなかったので、出世した僧の資格が無いと無効にしました。それで、大徳寺と妙心寺の4〜5名の僧が抗弁書を出しました。それが幕府に逆らったということになり、寛永6年に沢庵和尚は、上ノ山に流罪になりました。朝廷より幕府の方が、この頃は力を持っていたということがわかります。

 その次は、品川神社について。
品川神社は、東海寺の鬼門になっております。東海寺の鎮守として幕府から庇護を受けるようになりました。北の天王祭といわれておりますが、品川神社は鎌倉時代に、源頼朝が安房国の洲崎神社から大明神を勧請して祀ったのに始まると伝えられています。安房国から船で出まして船の上で魂入れをして品川の神社へ持って来たということになっております。海上の神様で、海が荒れたりしないように守る神様となっております。あの頃は、北条氏や里見氏などが、ずっと戦争を続けている時代だったんですね。海上の取締という形で税金をとり、それらが品川神社やお寺などにいって、栄えていくことになるわけです。また、堀田正盛の鳥居でも有名ですし、お神輿は葵の神輿と勝海舟が名付けたそうでございます。名の通り葵の御紋がたくさんついております。大神輿と中神輿がございます。大神輿は、千貫神輿とも言われており皇室にお祝い事がある時以外は、出ないそうでございます。普段出るのは、中神輿で一番最初には家康公が乗ったといわれております。家康公が天下を統一、天下をとったというので、赤い家康公をなぞった天下ひとなめのお面が上について、練り歩いております。格のある神輿ということで、文化財に指定されております。文化財の公開日には、宝物殿が開きますので、お神輿がご覧いただけます。
それから、上社と下社があります。下社には銭洗弁天のように水が出ている所がありまして、そこで、お金を洗っていただきます。とてもいい場所ですので、一度足を運んでみて下さい。ほこらの中のお稲荷さんもあって、かなり古いものだと思っております。お稲荷さんも見ていっていただきたいと思います。
また、品川神社には、7個の鳥居があります。いつの頃からか、7個を一つの神社でお参りすると体が丈夫で天寿を全うできると中高年より上の方達の間で、言われているようでございます。
品川富士と言う富士山があります。人工の物ですが、昔から富士山は信仰対象になる山なんですね。今でも、7月1日には山開きが行われます。文化財にも指定されている行事です。
本殿に向かって右側に、浅間神社、御嶽神社があります。この御嶽神社の前の狛犬を是非、見ていただきたいんです。この狛犬の頭がへこんでるんです。どうしてへこんでいるのか皆さんにも想像していただきたいんですが・・。そこは、ろうそくなどを立てて火を点ける場所だったんですね。品川神社は高い場所にありますから、海に出て行った船が、ちろちろと燃える赤い火を帰って来る時の目印にしていたんですね。寄木神社の狛犬の頭も同じようになっています。
また、神社には銀杏の木が多いことに気づかれると思うんですが、根が浅くても水分を得やすいなど強い木で大きくなるという特長で選ばれているようです。今は、灯台とか羅針盤がありますが、当時はありませんから、大きな銀杏の木を、釣れる猟場や帰る時の目印にしていたようでございます。
現在では、品川神社の方が有名な感じになっておりますが、江戸時代には、東海寺の鎮守ということで、お祭りの時には、先ず、東海寺の境内をまわってご挨拶をしてから渡御に出て行きました。

 次に、天妙国寺、五重塔などについて、お話させていただきます。
天妙国寺は、七堂伽藍の大きいお寺なんですけど、江戸時代の後期までは妙国寺と呼ばれておりました。古地図を見ましても幕末の頃まで妙国寺と書いてあるんですね。なぜ天妙国寺となったかは、わかっておりません。品川歴史館に行かれると天妙国寺の全図というのが、いつもかかっておりますから、ご覧いただくとどんなに大きくて立派だったか、わかると思います。五重塔の礎石が最近になって見つかったですね。平成21年3月に見つけられました。それまで礎石は不明でした。狛江の歴史研究会の方々が来られまして、その団体の中に礎石を発見した方がいらっしゃいまして、たいへん驚きました。ご職業をうかがいましたら建設のお仕事をなさってらっしゃる方でした。天妙国寺にいらした時に、植木鉢をどけてみたら石の真ん中に柱の跡がくりぬいてあるのが、見えたそうです。すぐに住職さんにお話をして、品川区の文化財の方に連絡をして調査が入りました。実際に、礎石だったという大発見!でした。品川区にとってもすごい発見だったなと感謝しております。礎石は、裏の出口の所に置いてございます。
紀伊熊野の方で、鈴木道胤さんが、天妙国寺を建てました。火事にも遭いましたが、17年間にわたりまして、子どもが引き継いで、立派な七堂伽藍が出来上がりました。鈴木道胤さんは、廻船業や材木業で富を得た方ですが、お寺の建築や修復などに貢献した有徳人、大檀那として名前を残しております。こちらには、桃中軒雲右衛門、鳶頭のお祭り佐七、音丸、伊藤一刀斎、切られ与三郎などの有名人のお墓が、ございます。

 次は、問答河岸のお話。
問答という言葉遊びのことですが、沢庵和尚は、将軍家光公がお帰りの時、送っていた場所だそうです。
徳川家光が東海寺を訪れた際、ここで沢庵と次のような問答をしたとされております。

家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」

今の問答河岸の碑のある場所は、菊寿司さんが独自に作られて、もう少し200mくらい離れた場所になります。北品川病院のあたりが本当の場所になるようです。

そして、お鷹狩りについて、お話いたします。
家光は、品川御殿山以外に、大井の来迎院にも鷹狩りに現れたということなんですね。
徳川実紀によりますと189回も品川へのお成りがあったと記されております。
◇5月19日、品川新寺(東海寺のこと)へ行く。萬松山東海寺と命名。金子200万。とにかく沢庵和尚に差し上げた。
東海寺へも何回も来てますし、品川御殿へお成りの途中で鴨をとった等いろいろ記されております。
◇11月13日、品川で鷹狩り。東海寺を訪れる。鶴、鴨、コウノトリが多くとれた。品川の御殿山にて馬揃え上覧の為、品川へお成り。
新造、安宅丸を上覧の為、品川へお成り。品川沖にて船揃い。
次が、肝心なところでございます。
◇10月7日、品川へお成りした際、大井台常林寺にて食事をとったので、お礼として金子10枚を差し上げた。
これが、来迎院のことなんですね!鹿嶋山来迎院常林寺と言われていたんです。堀田正盛が献茶をし、いろんなものをいただいた・・ということが書いてあります。大井に住んでおられる方は、ご存知でしょうが、お茶が有名なんです。大井の来迎院はお殿様が来ておられるので、大井御殿と言われておりました。お茶のお寺と今でも伝わっております。鹿嶋山常林寺来迎院は、もとは常行寺(現在は小さくなりましたが)、南品川にあって当時は一番大きかったんですね。その時に常林寺は常行寺の末寺だったんですね。そして、1840年代に寛永寺が本寺になり、その末寺になりました。格の高いお寺です。
これだけ、品川へお成りとは、どうしてか?と思いますが、心の憂さを晴らすためにも風光明媚な品川が良かったのかと推察しております。

●渡辺さんのお話は、これでおしまいです。
掲載できませんでしたが、品川の三宿や品川事始め、偉人・天才などについてもお話いただきました。充実した内容のお話をありがとうございました。