捏造された福沢諭吉像―今も進行する『東日流外三郡誌』汚染―
- ️Sat Sep 02 2006
捏造された福沢諭吉像―今も進行する『東日流外三郡誌』汚染―
原田 実
◎福沢諭吉は侵略主義者?
福沢諭吉(1835~1901)といえば、読者はどのような人物を思い浮かべるだろうか。日本に民主主義・啓蒙主義の種をまき、近代化への道を切り開いた思想家。『学問のすすめ』を著し、慶応義塾大学を開いた教育家。『時事新報』を創刊し、新聞界に「不偏不党」の精神をもたらしたジャーナリスト・・・・現在、彼の肖像が一万円札に用いられているのも「偉人」としての肯定的評価が定着していればこそだろう。
しかし、1970年代から現在にかけての思想史学界では、福沢に対して、まったく逆の方向での評価が流行している。すなわち朝鮮・中国に対する侵略主義者、日本人以外のアジア人を蔑視した民族差別主義者といったものだ。
その観点から福沢を批判してきた論客の代表として安川寿之輔氏(現・名古屋大学名誉教授)があげられる。安川氏は福沢の思想の思想は侵略主義とアジア蔑視にあるとみなし、その思想に主導された以上、近代日本の歩みがアジアへの侵略にむかうのは必然であった、そして福沢が現在も偉人視されているということは現代日本もまた周辺諸国侵略への志向を維持し続けているということだ、と説き続けている(註1)。
この主張ゆえに安川氏の説は反戦・護憲の旗を掲げる市民運動から歓迎され、自ら「不戦兵士・市民の会」理事を務めるだけでなく、多くの市民団体に招かれて今も講演活動を続けておられる。
思想史学界に蔓延する福沢侵略主義者論、その根拠となっているのは岩波書店による現行『福沢諭吉全集』全21巻分のうち9巻分を占める『時事新報』論説だ。その中でも特に悪名高いのは「脱亜論」(1885年3月18日初出)という表題の社説である。これは日本がすすんで西欧文明をとりいれているのに対して、支那・朝鮮の二国は頑迷で儒教の専制主義にこだわり、西欧諸国から見れば野蛮な制度を残そうとしている。これでは二国とも西欧列強による支配を逃れえない。日本は彼らと同一視されるのを防ぐために隣国との友誼を絶つ勇気を持たなければならない、というものだ。
さて、「脱亜論」は支那・朝鮮の状況を厳しく非難してはいるが、日本が支那・朝鮮を積極的に征服すべきだ、という主張は含んでいない。ところが『時事新報』論説には、中国人を「チャンチャン」よばわりする漫言や、日清戦争のことを「豚狩の積りにて之を遇したる程の次第」というような社説が含まれており、その中に位置づけるなら、『脱亜論』こそ、侵略戦争正当化・アジア蔑視の理論的主柱をなすものと読まれてしまうのである。かくして侵略主義者・民族差別主義者としての福沢諭吉像は論壇に定着した。
ところでこの福沢侵略主義者論は『東日流三郡誌』問題とも無関係ではない。『学問のすすめ』冒頭の「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」との言葉、これは内容的には『アメリカ独立宣言』からの翻案という説が有力だ。だからこそ福沢も「云ヘリ」との語を添えている。
ところが、かつて古田武彦氏により、この言葉は『東日流外三郡誌』から福沢が盗用したものだという説が唱えられたことがある(註2)。
その根拠の一つにされたのが、福沢侵略主義者論である。つまり、侵略主義者であり、民族差別主義者だった福沢の思想と、この言葉に示された平等主義とは馴染まない。しかし、この言葉は福沢にとって他所(つまり『東日流外三郡誌』)からの借り物にすぎないとすれば納得できる、というわけだ。
もちろん、実際には逆で、『東日流外三郡誌』の偽作者・和田喜八郎の方が福沢の言葉を盗用したわけである。また、古田氏の福沢盗用説が発表された後、和田喜八郎が福沢諭吉から和田家に当てられた書簡なるものを古田氏に提出し、それが慶應義塾大学から偽作として一蹴されるという一幕もあった(註3)。
その後、真偽論争の進展とともに『東日流外三郡誌』が和田喜八郎の偽作であることは完膚なきまでに明らかにされた。しかし、古田氏の説の根拠、すなわち『東日流外三郡誌』「天ハ人ニノ上ニ・・・」の言葉と福沢思想が不整合だという主張には、明確な反論がなされることはなかった。
(1) 安川氏の福沢諭吉批判は『日本近代教育の思想構造』(新評論、1970)まで遡る。その後の安川氏の関連著作としては『福沢諭吉のアジア認識』(高文研、2000)、『福沢諭吉と丸山眞男』(高文研、2003)などがあげられる。
(2) 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂、1990
(3) 斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物往来社、2006
◎福沢諭吉侵略主義者説の虚妄
さて、近年、思想史学界に蔓延する福沢侵略主義者論を根底からくつがえすような研究が現れた。平山洋氏(現・静岡県立大学助手)の『福沢諭吉の真実』(註4)である。
平山氏は『時事新報』論説全体を分析の対象とした。福沢は1898年、自らの全集を編纂しているが、その中に『時事新報』論説はとられていない。その年、福沢は脳溢血に倒れ、晩年は失語症に陥っていた。ところが『時事新報』主筆だった石河幹明の証言によると晩年の福沢はさかんに会話したのみならず、精力的に執筆していたという。たしかに後天的失語症はリハビリにより回復できるものだが、福沢の高齢と病状を考えると石河の語る晩年の福沢の姿はきわめて疑わしい。
石河は1925年、1933年の二度にわたって福沢全集を編纂しているが、そこには『時事新報』論説が多数納められている。時に1933年版には福沢自身が筆をとったとは考えにくい晩年のものも多く取られていた。戦後の1958年、現行『福沢諭吉全集』が編纂されたが、『時事新報』論説を収録するという石河の方針は継承された。
『時事新報』論説に福沢の筆とは考えにくいものがあることは2001年、井田信也氏により指摘されたところである(註5)。
しかし、『時事新報』論説に福沢以外の筆になるものがあるとしても、それは福沢の意を受けての代筆ともみなしうるため、思想史学界では井田氏の指摘の重要性は理解されていなかった。
平山氏は井田メソッドに基づいて『時事新報』論説の分類を進め、福沢真筆には侵略主義・民族差別主義的文言は特に見られないことを明らかにした。
安川氏らが槍玉にあげる「脱亜論」は福沢真筆であったが、これだけから福沢を侵略主義者・民族差別主義者よばわりすることが不当なことは先述した通りだ。
では、なぜ、石河編纂の、そして現行の全集に侵略主義的・民族差別主義的言説が多々見られるのか。それは石河が自分の書いた論説を福沢のものとして全集に収録したためと思われる。石河の証言で、晩年の福沢が驚異的な回復をしたとされるのも、石河自身の文章を晩年の福沢の筆といつわるためであったとすれば納得できるのである。
この平山氏の研究は安川氏らによる福沢否定論をその根底からくつがえすものといえよう。福沢否定論は別人の文章を福沢のものと信じ込まされ、虚像の福沢を攻撃し続けていたのである。
なお、石河が二つの論集を編纂した時期は日本の領土的拡張が大衆的支持を得ていた時代である。『時事新報』主幹時代の石河は結果としてその思潮を先取りしていたことになる。石河は自らの文章でも、その時流を予見していたものを福沢に仮託することが、すなわち福沢を讃えることになると判断したものであろう。
そして、その同じ文章が戦後、近代日本の歩みのすべてを否定する風潮が広まると、今度は福沢をおとしめるために「活用」されるにいたったわけである。
(4) 平山洋『福沢諭吉の真実』文芸春秋社・2004
(5) 井田信也『歴史とテクスト』光芒社・2001
◎安川氏の『東日流外三郡誌』支持
安川氏は2006年発表の著書の「まえがき」冒頭で次のように述べている。
「本書は、語彙や文体から起草者を推定する“井田メソッド”による『福沢諭吉全集』無署名論説の筆者の再認定作業を行い、アジアへの侵略・蔑視や天皇尊厳を説く社説は“民族差別主義者・天皇賛美者”の石河幹明らが起草した論説であるという誤った認定にもとづいて、新たな福沢諭吉の美化・偶像化をはかった平山洋『福沢諭吉の真実』、井田信也『歴史とテクスト』の二著を、全面的な誤謬の書として批判したものである」(註6)
つまり、安川氏は明確に平山・井田氏の著書(特に平山氏)を批判するために一書を著したわけである。ここに安川氏の危機感を見ることができる。
そして、この著書において安川氏は次のように述べている。
「(前著読者から)『学問のすすめ』冒頭の“天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず(と云へり)”は、これまで私自身もその説を踏襲してきた、諭吉自身が翻訳した『アメリカ独立宣言』にヒントを得て福沢が考えだした文章であるという定説的な理解を批判・否定する古田武彦『真実の東北王朝』(駸々堂出版)の関係部分のコピーが送られてきたのである。青森県五所川原市のリンゴ農家の屋根裏から取り出された『東日流外三郡誌』ほかの『和田家文書』のなかに“天は人の上に人を造らず・・・”の出典があるというのが古田の主張である」(註7)
「『東日流外三郡誌』と『真実の東北王朝』の引用箇所以外は未見・未読の私は、古田説を全面的に支持する資格はない。しかし(中略)これまでの「天は人の上に人を造らず・・・」の出典についての定説的解釈(アメリカ独立宣言由来説)の私の踏襲を撤回して、古田説を基本的に支持する意向を表明しておきたい。理由は、定説的解釈を踏襲しながら、長年にわたって消えなかった私の疑問が、古田説に依拠することでより合理的に解釈できるからである」(註8)
安川氏は同書で『東日流外三郡誌』と福沢の関係について「これ以上、私はこの問題について詮索する意思はない」と述べている。
古田説を基本的に支持すると表明しながら、その根拠となる史料について詮索しないというのはそれだけで無責任な話である。
さらに安川氏は2006年9月2日、横浜市で開催された「教科書・市民フォーラム発足記念集会」で講師となり、『学問のすすめ』序文に関する古田武彦説と『東日流外三郡誌』真作説を支持する発表を行っている(註9)。
さらにその同時期、安川氏は古田氏と会見したことを古田氏の支持組織が発表している(註10)。
また、年末には古田氏が編集する雑誌『なかった』にも安川氏の著書の抜粋が掲載された(註11)。
古田説を「全面的に支持する資格はない」はずの安川氏がいつのまにか積極的に古田氏を支持し、その広告塔まで務めるにいたったのである。すでに安川氏の知的誠実さは失われたものともみなしてよいだろう。
なお、問題の安川氏の著書については、すでに平山氏の詳細な反論が発表されている(註11)。ちなみにその中で平山氏は『東日流外三郡誌』について「この文書は完全な偽書であると安本美典編『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(廣済堂出版・1994年)は主張している」と一蹴している。
(6) 安川寿之輔『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』高文研・2006、「まえがき」iページ。
(7) 安川同書、366~367ページ。
(8) 安川同書、369ページ。
(9) QUE「福沢諭吉と田中正造―近代日本の光と影」
http://blog.so-net.ne.jp/JesusLovesYou/2006-09-02
(10)古賀達也「古賀事務局長の洛中洛外日記」
http://sinkodai.typepad.jp/blog/2006/09/index.html
(11)古田武彦直接編集『なかった 真実の歴史学』第2号・ミネルヴァ書房・2006年12月
(12)平山洋「『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の逐語的註」
http://blechmusik.xrea.jp/d/hirayama/h29/
◎市民運動が偽書宣伝の場に
安川・平山論争は一応、現在も進行中ということになっている。しかし、2007年1月現在のWikipediaには次の文言が見られる。
「第2世界大戦後の福沢批判者が依拠している、侵略的絶対主義者福沢諭吉とは、実は石河幹明自身のことにすぎない、と平山は主張する。その主張が正しいかどうかを、決定的に証明することは困難である。福沢がある無署名論説に関与した、という証拠は見つけ出すことができるかもしれないが、無関与だった、という証拠を提示することは難しいからである。しかし、平山の主張が正しいということを、ある程度推測することまでは可能である。それは、福沢が署名入りで発表した、『福沢諭吉全集』の第7巻までの著作に、現在なお福沢を批判し続けている、安川寿之輔・遠山茂樹・子安宣邦・鹿野政直・ひろたまさきらが依拠する問題論説が、“含まれていない”、ということによってである」(註13)
私もこの評価は妥当なものと考える。安川・平山論争の学問上の決着はすでについていたのである。さらに安川氏はすすんで偽書の宣伝塔になることで自らの学問的水準を露呈したものといってよいだろう。
平山氏が石河のものとみなした論説について、安川氏はそれが福沢のものとみなす根拠としてしばしば石河の証言を用いる。これは古田氏が『東日流外三郡誌』真作説の根拠にしばしば和田喜八郎の証言を用いたことを連想させる。古田氏と安川氏が接近するのは、あるいは必然だったのかも知れない。
さて、『学問のすすめ』序文と「脱亜論」は古田氏や安川氏がいうほど思想的に相容れないものなのだろうか。
明治15年(1882)、福沢は朝鮮独立の志を持つ金玉均・朴永孝を迎え、慶応義塾大学への留学を認めた。以来、福沢はかの国の独立派の人々と親交を結ぶことになる。
その後の日韓併合(1910)にいたる流れを知る者は誤解しやすいところだが、当時、朝鮮は清国の朝貢国であり、日本はむしろ清国からの独立を支援する勢力とみなされていたのである。明治17年、朝鮮独立派はソウルでクーデターを起こす(甲申事件)。
ところが朝鮮政府は清国の軍隊を呼び込んでクーデターを鎮圧し、金や朴ら独立派を捕らえて残忍な処刑を下した。つまり清国はクーデターを利用して朝鮮への支配力を強め、さらに朝鮮政府は自らの手で独立への芽をつんでしまったのである。さらにそれによりこの両国の国際的信用は大きく失墜することにもなった。
福沢の「脱亜論」での支那・朝鮮に対する厳しい物言いはこの成り行きへの失望によるものであった。福沢は朝鮮の独立を期待していた。だからこそ朝鮮政府がその期待を裏切ったという失望は大きかったのである。日韓併合の時に福沢が存命だったなら、それはかつての清国が犯したのと同様の暴挙と断じたことだろう。そもそも、福沢が侵略主義者・民族差別主義者であったなら、朝鮮独立派の人々が彼を尊敬し、親交を結ぶことはなかったに違いない。この文章について、同時代的背景から切り離して個々の言辞をあげつらっても誤解を生じるだけだろう。
『学問のすすめ』では、「天ハ人ノ上ニ」の言の後には次の文が続いている。
「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ,カシコキ人アリ,オロカナル人アリ,貧シキモアリ,富メルモアリ,貴人モアリ,下人モアリテ,ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ」
つまり、本来平等であるはずの人間に実際には賢愚・富貴の差が生じている。その差を克服するためには一人一人が学問に志し、努力することが必要だ、というのが、『学問のすすめ』の主張であり、その枕として冒頭の文章が置かれているのだ。
この『学問のすすめ』の思想を国家レベルに当てはめたものがまさに「脱亜論」の主張ではないか。日本は西欧に進んで学ぶことで西欧に抑圧された現状を克服しつつある。支那(清国)・朝鮮もそうなる可能性があったにも関わらず、自らその希望を断ち切ってしまった。これでは日本も隣邦としての友誼を保ち続けることはできない、というわけだ。
『学問のすすめ』冒頭と「脱亜論」が矛盾するというのは、前者を『学問のすすめ』全体の文脈から切り離し、後者を歪められた福沢諭吉像の中に位置づけることによって生じた誤解にすぎないといえよう。
したがって「脱亜論」を根拠に『学問のすすめ』冒頭が福沢思想にそぐわないというのは不当であり、その真の出典に『東日流外三郡誌』を持ち出す必要もないのである。
なお、1970年代に刊行された市浦村版『東日流外三郡誌』には「人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といった言葉は見えるが、福沢諭吉の名はまだ登場してこない。
和田喜八郎は人口に膾炙した言葉をその出典も気にしないでつい使っただけと思われる。ところが、谷川健一氏や故・松田弘洲により、この言葉が福沢からの盗用であることが指摘された(註14)。
そこで和田喜八郎は福沢諭吉が『東日流外三郡誌』からこの言葉を引用したという話を新たに捏造した。それを古田氏が(さらに安川氏が)真に受けてしまったというわけだ。
1991年の時点で和田喜八郎にだまされた古田氏はともかく、『東日流外三郡誌』が偽作である証拠が出揃った2006年にもなって古田説を支持した安川氏は迂闊という他ないだろう(それとも自説の傍証に使えるものなら史料としての真偽は問わないということか)。
なお、安川氏は「交通費さえいただければという条件での個人的な市民運動として、福沢諭吉の見直しの講演・(集中)講義・授業の出前活動は続けている」(註15)「各地からの出前のさらなる注文を期待したい。とりわけ若者向けに、高等学校・大学の教員からの、一コマでもいいから、講義・授業の無償代行の申し出を期待したい」(註16)と述べている。
しかし、これは市民運動の名を借りて学問的にすでに敗北した説を存命させようという悪あがきではないだろうか。さらに安川氏が教材に『東日流外三郡誌』を用いるなら、その講演・講義・授業はそのまま偽書宣伝の場になるわけで、社会的には害悪でしかない。
安川氏は、自らを反体制に位置づけておられるのであろうが、その福沢諭吉論は戦前の日本のすべてを軍国主義として否定するという戦後の風潮におもねっているにすぎない。
高名な「学者」が無償で講義・講演・授業するからといって、その場が偽書の宣伝に用いられたなら、社会的評判を失うのは主催した団体の方である。好意を装って社会運動を食い物にし、結果として経済的被害よりももっと大きなダメージを与えかねない曲学阿世の徒に、市民運動団体の方でも警戒すべきだろう。
なお、余談だが、『学問のすすめ』冒頭とともに、福沢諭吉の言葉としてよく知られたものに「諭吉心訓・七則の教え」なる人生訓がある。ところがこれも『時事新報』論説の多くと同様、別人の作が諭吉に仮託されたものらしい。そのあたりの事情については清水義範氏が小説の題材として扱っている(註17)。
(13)Wikipedia平山洋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E6%B4%8B
(14)谷川健一『白鳥伝説』集英社・1985
松田弘洲『東日流外三郡誌の謎』あすなろ舎・1987
(15)安川同書、384ページ
(16)安川同書、385ページ
(17)清水義範『心訓小説 福沢諭吉は謎だらけ』小学館・2006