三成の佐和山城、徹底破壊 政権交代を見せしめ : 京都新聞
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三成の佐和山城、徹底破壊 政権交代を見せしめ
戦国武将石田三成(1560~1600年)の居城・佐和山城の本丸跡(標高233メートル)を発掘調査していた滋賀県彦根市教委は24日、石垣の隙間に詰める小石が堆積しているのを確認した、と発表した。石垣を解体した際に埋めたとみられる。佐和山城の廃城については古文書に記録があるが、破壊状況の詳細が調査で確認されたのは初めて。
市教委は「石垣は皆無で、曲輪(くるわ)面も激しく削られている。本丸の形状をほとんどとどめておらず、城が徹底して壊されたことが分かる」としている。
佐和山城の調査は国史跡指定に向けて2011年度から開始。昨年11月から本丸跡の調査に初めて着手し、約25平方メートルの範囲を発掘した。
調査では、石垣の隙間に詰める小石が土中に堆積しているのを確認。見つかった大量の小石は直径10~20センチで、ほとんどが佐和山で産出された堆積岩の一種のチャート。排水を良くするため石垣の背面に詰めた「裏込め」の石と推定される。小石は石垣の解体に伴い崩落後、大量の土砂で埋められたとみられ、最深部で約2・8メートルにも達していた。
また曲輪面も激しく削られており、この作業で生じた大量の土砂を使って小石を埋めたと考えられる。
佐和山城は1600年の関ケ原合戦後、彦根藩初代藩主井伊直政が入城。その後、彦根城築城に伴い廃城となった。「井伊年譜」から、石垣が彦根城の部材に使われたことが分かっており、市教委の調査でも確認されている。さらに井伊家に伝わる「古城御山往昔咄聞集書(こじょうおんやまおうじゃくのはなしききあつめがき)」には、本丸の天守が大きく切り崩されたとの記述が見られ、今回の調査結果はこれを裏付けた形だ。
今回の調査では、城の石垣が上下2段で構成されていたことも判明した。下段の石垣を組んでできた平場を土台にして上段の石垣を築いた可能性が高く、市教委は、築城時期を探るうえで貴重な発見としている。
27日午前10時から現地説明会がある。市教委文化財課TEL0749(26)5833。
■豊臣の象徴切り崩す
城郭に詳しい滋賀県立大の中井均教授 九州、四国地方で、寛永の城割りによって徹底的に破壊された事例はあるが、関西で、しかも慶長・元和年間の城割りでこれほど徹底した事例はない。彦根築城でまず石材などが運び出され、その後、それまでの象徴であった佐和山城が切り崩され、政権が豊臣(石田)から徳川(井伊)に代わったことを見せしめたのだろう。
【 2016年03月24日 22時30分 】