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多角化と鉄道の近代化(1961 - 1976)|小田急80年史|小田急電鉄

新時代への事業展開
 1955年ごろから輸送量は飛躍的に増え、1959年度の輸送人員は1億6000万人に達しました。新生小田急発足当時、1日8万7000人だった新宿駅の乗降人員は19万3000人と倍増しました。ここにおいて、手狭でもあり老朽化も著しくなった新宿駅を全面的に改良することになり1960年5月着工しました。 新宿駅を小田急の表玄関にふさわしい駅に改良し、駅ビルを建てて百貨店を開くのが新生小田急発足当時からの構想でした。駅施設部分を先行して着工し、1964年2月に新宿駅が地上3線地下2線の立体式ターミナルに生まれ変わりました。さらに、同年末には駅ビル建設を含む新宿西口総合開発工事に取りかかりました。東京都では新宿西口副都心計画の一環として西口広場の整備計画を進めていましたが、当社は副都心建設公社の委託により、この工事を駅ビル建設と併せて施工することになったものです。広場の工事は1966年11月に完成し、立体式駅前広場が出現しました。1967年には、地下2階地上12階(一部14階)の堂々たる駅ビルが完成しました。すでに西口の東京建物ビルに開業していた小田急百貨店は、1966年9月に完成した地下鉄ビルを本館の一部として営業していましたが、この駅ビルの完成で本館の全館オープンをみました。
当社では小田急百貨店新本館オープンを記念して、3編成13両の車両を金色の帯1条を配した朱と白に塗り別け、お買い物電車と名付けて運転しました。
なお、この新本館開店に伴い、東京建物ビルの旧館は売り場構成を一新するとともに別館ハルク(HALC-Happy Living Center)と命名しました。
 

1967年、地下2階地上12階
(一部14階)の駅ビルが完成

観光事業の強化

箱根ロープウェイの開通

   箱根の観光客輸送で箱根湯本乗り入れ以来のヒットとなったのが、箱根ロープウェイの開通です。1959年12月の早雲山~大涌谷間に続き、翌1960年9月に大涌谷~桃源台間が開通して全通しました。
これで小田急グループの交通機関による箱根周遊ルート「箱根ゴールデンコース」が出来上がりました。小田急ロマンスカー~箱根登山電車~箱根登山ケーブルカー~箱根ロープウェイ~箱根観光船~箱根登山バスと多彩な交通機関を乗り継いで箱根を周遊するルートです。
1967年春には割引回遊券「箱根フリーパス」が発売され、現在に至る息の長い人気商品になっています。
また、1970年には富士山麓に「花鳥山脈」、1974年に「御殿場ファミリーランド」、1976年には「箱根アスレチックガーデン」、1978年に「はたのテニスガーデン」、1979年「成城テニスガーデン」が当社直営で次々とオープンしました。
鉄道近代化の進展

 1955年ごろから輸送力の増強が目覚ましく進みましたが、これとともに軌道の強化と安全確保の必要性が高まってきました。軌道構造については37kgレールを50 kgレールに交換する重軌条化を推進し、小田原線は1965年3月、江ノ島線は1971年8月に完了しました。さらに枕木のコンクリート化やロングレール化も進められました。
また、変電所の主要機器は技術革新によってめざましい進歩を遂げました。1960年から1963年にかけて、松田、大野、経堂を制御所とする遠隔制御が実現し、1967年までには湯本および江ノ島線の変電所を除く13変電所を3ブロックに分けた集中監視制御システムが完成しました。さらに1968年3月、全線の電力系統を1ヵ所で集中的に監視制御する給電所を相模大野に新設し、同年4月から本格的に稼働させました。
通信部門の近代化の進展は、1956年に着手した電話交換設備の自動化から始まり、マイクロウェーブを利用した多重通信装置の導入が、当社通信網の充実・強化に画期的な貢献をもたらしました。社内電話の自動化に続いて列車無線の実用化が進められ、1966年4月1日から特急車3編成が使用を開始したのを皮切りに、同年8月には特急車の全編成に装置が取り付けられました。1974年4月には、一般車を含めて全列車への設置が完了しました。
列車の高速・高密度化、長編成化が進むにつれて運転保安の重要性がますます高まり、1960年ごろから車内警報装置や自動列車停止装置(ATS)、自動列車制御装置の研究開発が行われました。当社が開発したOM-ATSは、1968年4月1日から新宿~向ヶ丘遊園間で全特急車と一般車17編成に導入され、1969年7月16日には全線での使用を開始し、1970年3月には全車両への設置が完了しました。

 

ロングレール化を推進

鉄道部門の大建設

1974年5月に
新百合ヶ丘~小田急永山間が開通

 

営団地下鉄千代田線との間で
相互直通運転開始

   1965年ごろから、゛大建設時代゛がやってきました。その皮切りは、1968年11月から始まった環状8号線との立体交差化工事(1971年7月完成)でしたが、以降、相模川橋梁架け替え、海老名電車基地の建設、多摩線建設、新原町田(現・町田)駅全面改良および駅ビル建設、本厚木駅全面改良および周辺連続立体化、営団地下鉄千代田線乗り入れ関連工事、新宿駅の第2次大改良工事と、この10年余りに8件の大工事が連続して行われました。
なかでも、多摩線は多摩ニュータウン30万居住者の足を確保するという社会的要請に応えて建設されたもので、1974年5月に新百合ヶ丘~小田急永山間の工事が完了して6月1日から営業を開始し、1975年4月23日に新百合ヶ丘~小田急多摩センター間(9.1km)が全通しました。

営団地下鉄千代田線乗り入れ関連工事は、都心直通の短絡ルートを拓くとともに、複々線化事業の第一歩となる画期的なもので、1966年7月営団地下鉄によって工事が始まりました。当社は1967年3月以降、営団地下鉄と協議を重ね、1972年10月から代々木八幡~東北沢間の工事に着手しました。1978年3月30日に全工事が完成し、翌31日から営団地下鉄千代田線との間で相互直通運転が開始されました。
また、町田駅ビルは、地下2階地上11階、線路が3階部分を貫通するというユニークなビルで、1976年9月に竣工し、町田小田急百貨店が開店しました。
再度の新宿駅大改良は、地上・地下5線を10両・210mホームとするとともに、南口駅舎を全面改良して各線との連絡機能を改善するもので、南新宿駅の移設を含む広範囲に及び、1982年3月31日に完成。新都心の玄関口にふさわしい機能をもった近代的なターミナルに面目を一新しました。