家系の整理
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例えば、三兄弟を表して、春水は「方」、春風は「円」、杏坪は「三角」というものがある。こうした言い方に見られるように、春水は四角四面の堅物と言われているが、そんな面ばかりでもないような印象は昔から抱いていた。春水が何度も往復したに違いない江戸からの帰途で甲州街道を取った時があるようだが、その時の詩に次のようなものがある。帰藩の途中、甲州路の属目、
山驛蠺為業 山駅蚕を業となし。
無家不種桑 家として桑を種(う)えざるなし。
憐看襤褸女 憐れみ看る襤褸(らんる)の女。
績織為誰忙 績織、誰がために忙しきや。
ボロをまとった粗末な服装の女性が機を織っているのを甲府辺りでみかけたのかもしれない。「誰がために忙しきや」、なんとも思いやりと同情が込められた詩ではないか。久太郎にとって優しいパパだったとは言わないが、堅物一辺倒だったと決めつける気にはなれない。
さて、広島に帰って3ヵ月後ほど経つと、年譜には「氣鬱病」になったと書かれている。前述の中村真一郎は、久太郎の江戸遊学自体の位置付けを、もともと久太郎の神経症の治療が目的で行ったものだと想定している。従って、短期1年で広島に帰ってきたのは「病気中退」だということになるし、賴家の立てた計画は失敗したのだと断定する。その延長上にある久太郎の神経症は、故郷でますます悪化したという解釈なのだ。
帰郷後半月足らずで、父は「久太郎、鬱症」、母は「久太郎、気色あしき方」と日記に綴っているというのを例証として挙げている。徹頭徹尾、久太郎の神経症体質をテーマにしている本であるから、それはそれでいいのであろう。
しかし、すでに見てきた通り、久太郎は慢性的なノイローゼでもなければ、昌平黌を病気中退したわけでもないのである(と思う)。それでは、この「氣鬱病」をどう解釈したらいいのだろう。
私には、満17歳の少年が、「地方派優等生」として都会の空気に触れ、帰郷後、ボーっとしたり、考え込んだり、気が抜けたりするのは、多感なこの年頃ではよくあることではないかと思われるのだ。また、都会に出ることにより、社会の仕組みに対する認識が一層深まった可能性もあり、個人と社会との関係とか、社会における自分の位置付けということがより明確に自覚されることもあると述べてきた。
多分、徳川幕藩体制のなかの芸洲浅野藩、浅野藩のなかの賴春水の立場、藩儒・賴春水の嫡男として自分が置かれた状況、こんな構図で、社会の中の自己というものが鮮明に認識されだしたのではないだろうか。江戸遊学が契機となって、より明確に自己を対象化することが出来るようになったのだろう。
今までは自分の気に入った題材を選び、自分の好きな様に詩文を作っては、色々な人から誉められてきた。そして、多作な久太郎である。しかし、賞賛を得たのは子供であったからなのだ。「子供」にしては、知識が豊富で、詩作能力もその量もスゴイ、という観点で評価されていたのだと思う。
しかし、この年頃になると、また、江戸という都会では、周囲の反応の仕方が少々変わってきたはずなのである。いつしかそこに中味や内容に関する他者のコメントが登場し始めたのだ。子供だからということで見逃されていた部分に箍がはめられる場面が出てきたのであろう。
つまり、久太郎が生きている時代の身分制度や社会制度や政治(まつりごと)に関する社会的な規制を含んだ論評が跳ね返って来はじめたはずなのである。周囲はいつまでも子供扱いにしてくれる訳ではない。そして、江戸の昌平黌には生意気盛りの、口達者はゴロゴロころがっているのだ。久太郎の作品に対する批評のレベルが上がると同時に、久太郎自体も視野が広くなり、相乗的な結果として、考える時間が多くなることは当然ではないか。
自分の創作物に対する批評の質が高くなるにつれ、それに対応する自分の理論武装も明確になってくる。明確になってくればくるほど、社会の矛盾も見えてこよう。こんな経験はこの歳頃に特有のものだ。悩み、考え抜いて導き出した方向が必ずしも正論になるというわけではないが、自分を取り巻く社会そのものに鋭い観察が注がれるものである。
その結果、自己に対する批判も出てこよう。また、社会に対する批判も出てこよう。江戸遊学というのは、このプロセスが急速に磨かれた時期ではなかったろうか。社会の矛盾に敏感な歳頃なのである。そして自己主張が社会規範と矛盾するような場合に、落ち込んだり、物思いにふけったりするのはよくあることなのだ。多くの青年は、自己主張を曲げないまでも、妥協という対処方法を身に付けていくものだが、それが円滑に見出せない場合は爆発、暴発することだってある。妥協の座標軸如何では、過度の落ち込みから突発的な衝動行為まで、大きく揺れ動く青年期なのだ。
精神症説にしろ、倒幕大志説にしろ、「山陽解説生き甲斐派」とでも呼べるような諸氏は、こぞって、この時期の久太郎をノイローゼ亢進期または苦悩期と位置付けている。安藤英男は、寛政10年9月11日付けの久太郎の文章に着目した。これは、親友の大窪商山の別荘で諸友と会したときに作られたものだ。
「友の楽(たのしみ)たる大なるかな。古(いにしえ)の英偉・雋傑(しゅんけつ)の士、その常に壱鬱(いちうつ)・憤悶の想いあるものは、すなわち其の才の用いられざればなり。・・・・」
かなり長い文章なのでほとんどを省略するが、この部分は「古来、すぐれた人物が煩悶するのは、彼らの才能が用いられないからからである」、という意味だ。こういう発言が出てくる久太郎は、過去の歴史撰述者の境遇を既によく理解していた、と見て取ることができるだろう。
つまり、孔子の『春秋』、司馬遷の『史記』、司馬光の『資治通鑑』、朱子の『通鑑綱目』はみな撰述者の不遇な時期=時の権力者から疎んぜられた時期=自由にモノが言える環境=世間の柵(しがらみ)を気にしないでもいい状況、での作品であることを彼は認識していたのだ、そして、日本の国史を書きたいという決心がこの時期に既に形成されていたと解釈してもいいのではないだろうか。
久太郎は日本の歴史を書きたかったのだ。それは、江戸と広島との往復時に創作した詠史、江戸滞在中に創作した詠史によくあらわれている。「一ノ谷合戦」「蒙古来襲」「楠正成」、みなそうではないか。
仮にそうだとすると、歴史を書くという自己実現が、自分が置かれている環境の中ではかなり難しいものだということを、久太郎はこの時期に同時にひしひしと認識していたに違いない。浅野藩の、藩儒賴春水の、息子としては、それは「してはならない事」として、自己を対象化していたと思われるのだ。「すなわち其の才の用いられざればなり」という個所に、久太郎の自己位置付けが覗われる。そうであれば、彼の苦悩は相当深刻なものであったことが推測されよう。しかし、何故、歴史が書けない立場なのか?
国史編纂というのは、実は、既に、父・春水が企図していたことなのである。そして、父・春水がやりたい事でもあったのだ。そして、実際にやり始めていた事実がある。そして、、、、藩命により中止されたことだった。このことを、この歳になった久太郎が知らないわけがないであろう。
もう少し、詳しく説明すると、広島藩に藩儒として取り立てられた春水は(天明1年=1781年)、国史編纂を藩の事業として取り組むように再三願書を出した。それが聴許されると、弟の杏坪を助手に申請し、天明5年(1785年)から寛政元年(1789年)までこの事業は実際に進められた痕跡がある(久太郎満4歳から8歳の間)。それは水戸藩の『大日本史』の向こうを張ったものであった。
春水の国史設計図では、『大日本史』が紀伝体で膨大すぎるので、「編年体」で「縮冊」しコンパクトにすることと、その間に「論賛」という形で歴史論文を織り込むことがその体裁である。『鑑古録(かんころく)』という本の名称も付けられ、神武天皇から開化天皇まで作業が進んだのだ。その時に、突如、中止命令が出たのである。
それは幕府の圧力を受けた浅野藩の指令であった。そんなことを藩の事業としてやることは幕府としては許す事ができないのである。ならば、『大日本史』は何故許されたのだ? 水戸藩の国史編纂は、幕府も認めざるを得なかった事情があるからである。水戸光圀を不遇の身に追いやった幕府の負い目があったに違いない。しかも、光圀は家康の孫である。幕府は「光圀」が故に、不承不承黙認したということなのだろう。しかし、浅野藩という外様大名の身分で国史を編纂するなどは「もってのほか」のことだった。
幕府のこの管理感覚は、理解できないことではない。つまり、国史などができると、幕府への反体制の芽が生じてくるのは目に見えていたからである。統治者の嗅覚は鋭いものだ。
事実、『大日本史』のお膝元=水戸藩では後日倒幕の志士が数多く登場したではないか。この時点で、人民を軸として歴史を考える人物は日本では皆無であっただろう(と思う)。となると、歴史を捉える視座は「大義名分」しかない。そうなると、徳川幕府の根底が揺すぶられてしまうのである。
賴春水は朱子学で広島藩を統一した張本人だ。国史撰述の視座は「大義名分」以外に有り得ないではないか。「大義名分」が徳川幕府にとってまずいのなら、しからば、何故、異学禁制を以って官学を朱子学で統一したのであろう。それは、田沼体制に対する反動やその立て直し政策から「つい出てきてしまった」産物なのかもしれない。徳富蘇峰は、松平定信が自ら提唱した政策ではないと述べている。異学の禁は、それを行った幕府が自らの体内に自分で爆弾を仕掛けたようなものである。勇み足とも言えよう。そう見ると、聡明な松平定信がさっさと身を退いてしまったのも、この矛盾に気がついていたからかもしれない。という、勝手な推測である。
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