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家系の整理

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文政10年(1827)、賴山陽四十八歳(満46歳)の年譜にはこんな記事が載っている。この年、梅颸は六十八歳、杏坪は七十二歳となっていた。梅颸夫人にとっては山陽京都住まい後3度目の上京である。
1月24日 山陽の恩人築山捧盈(嘉平)病没
2月19日 母・梅颸京上りの為出立、叔父・杏坪同伴
管茶山を始め知友を訪ねなら東進
3月1日 山陽、梅颸及び杏坪を大阪に迎える
墓参(飯岡家の墓地)、訪友(篠崎家・中井家など)、舟遊
3月6日 京都入り、洛中見物 3月15日 嵐山一泊 3月18日 吉野山に桜を見に三本木を出発
同行者:宮原節庵、大堀正輔、大倉笠山、川辺岱(はじめ)等
将軍家齋、太政大臣に任ぜられる
3月20日 吉野着。 満開。 二泊 3月22日 多武峰 3月23日 初瀬の観音、奈良 3月24日 宇治一泊 3月25日 黄檗、醍醐、清水、三本木 3月27日 (雨) 大槻磐渓、来訪 3月28日 平野の夜桜
小石元瑞、浦上春琴、雲華、大槻磐渓、江馬細紅、計18名
3月 『春水遺稿』成る 4月11日 近江八景。 大津二泊
又二郎、三樹三郎、梨影、児玉旗山
4月26日 南洞公(日野資愛)に招かれる
梅颸、杏坪、雲華
4月29日 高尾・嵯峨2泊 5月3日 清輝楼、留別宴、主客11人 5月5日上加茂にてくらべ馬を見物。 沙川で酒宴
末廣雲華、小石元瑞、浦上春琴、大倉笠山
5月8日 三条柏葉亭、送別宴 5月9日 有馬行き発程。 伊丹の坂上桐陰宅 5月10日 梅颸及び杏坪とともに、有馬温泉 5月11日 山陽、一行を見送り、5/14 帰京
梅颸及び杏坪、加古川、岡山を経て
神辺の茶山宅2泊
竹原の春風館2泊
5月21日 松平樂翁公に『日本外史』を進献する
大窪詩佛、来訪
5月22日 梅颸及び杏坪、広島帰着 6月15日 大阪に大盬中齋を訪ねる 8月12日 管茶山危篤の報を受け西下 8月13日 管茶山病没。享年八十 9月22日 帰京

この年譜を見ただけでも、大きな意味がある年であったことが推測できる。母・梅颸、叔父・杏坪との楽しい2ヶ月余りの遊楽を別にして、次のようなポイントを忘れることができない。

まず第一に、築山捧盈(嘉平)病没と『春水遺稿』の完成。捧盈は山陽幼少時の剣術の師範だけではなく、宮島遊蕩時代の補導、藩の重役としての山陽の救助・支援、と生涯山陽をバックアップしてくれた恩人である。杏坪とともに山陽にとっては欠かせない存在であった。あの時あの人なかりせば、と忘れがたきお方は誰にでも数人はいる。

また、11年前(享和13年)に没した父・春水の遺稿の整理が終わり、『春水遺稿』として一段落する。父の一生を振り返りながら、その思想・愛情を改めて追認することが出来たであろう。特に歴史撰述の願望を抱きながら、諸事情により果たせなかった父の無念が山陽の心を過ぎったことであろう。杏坪の入洛とともに鑑古録事件を再度思い出したに違いない。

第二に、将軍家齋、3月18日太政大臣に任ぜられるという事実の成立である。これに伴い、『日本外史』の結語が完成した。
『源氏・足利氏以来、軍職に在つて

太政の官を兼ぬる者は独り公のみ。蓋し武門の天下を平治すること、ここに至つてその盛を極むと云ふ。』
この文章は、この日付3月18日以前には書けない文章である。事前にニュースとして伝わっていたかもしれないが、実際に事が履行されるまでは「見込み記事」になってしまうからだ。広島での幽閉時代に草稿は出来上がっていたが、その後重なる推敲を経て、画竜点睛の時期が漸く到来したのである。

第三に、松平樂翁公に『日本外史』を進献したことである。この記事からは、過去の二つの事が思い出される。

一つは、樂翁公若き日の老中・松平定信時代の、山陽の父・春水との知遇だ。寛政異学の禁とは、浅野藩で春水が既に実行済みであった学論統一の徳川幕府全国版であった。

もう一つは、春水と杏坪が写本した4冊目の『大日本史』を浅野重晟侯に献上したことで、春水は仕官の道をつけたという方法論である。勿論、山陽には仕官の志など無いのだが、公に『日本外史』を世に出すためのスタートとして、つまり幕府の発禁指定を避けるために、似たような手口を用いた。幕府の圧力を受けずに刊行するための手立てとして松平樂翁公はベストの人選といえよう。

この進献実行直前に杏坪が京都に出てきたことは何かの附合であろうか。事実としては、この樂翁公へのコネ付けは山陽が前年あたりから下工作していたことが資料を見ると分かるのだが、押し迫ったこの時期に杏坪が最後の一押しをしたり太鼓判を押したりしたのかもしれない。実際、樂翁公からは『日本外史序文』を得ることができた。

「おほかた、ことをしるすに、もらさじとすれば、わづらわしく、はぶけば、また要をうしなう、そのほどをうるもの、まれなるべし。評論などするも、おのれにまかせず、をのづからの正理に到れば、穏当にして、その中道をうるがゆゑに、朕兆のめにみへざることまでも、のがする事なし。これをまつたくそなへしものは、この外史とやいはむと、ひそかにおもへば、ひそかにしるしつ、のちの人の論はいかがあらむ。」(文政12年正月)

第四に、大塩平八郎との交友。平八郎の自著『洗心洞剳記』附録抄の一文;
「我を知る者は、山陽にしくはなし。我を知る者は、すなわち我が心学を知る者なり。我が心学を知らば、すなわち未だ剳記の両巻を尽さずといえども、なおこれを尽すが如きなり。」

この年は9月にも会っている。菅茶山の最期に駆けつけた山陽は師の遺品として貰い受けた杖を尼崎近辺で紛失してしまった。「九節杖」という銘があるほどの茶山の愛用品である。竹の節が九つあったのだ。茶山の形見であり、残念無念の山陽は平八郎に相談した。平八郎は快諾して捜索の指令を出し、無事に見付かったという逸話である。山陽の手許に戻ってきた杖には平八郎の書状が付いていた;
「老竹幸ひに未だ化して龍とならず、猶ほ潜みて某水の辺りに在りたり。」

ユーモアのある添え書きではないか。山陽の死後5年、天保8年(1837)、平八郎は決起を敢行した。山陽もし存命中であれば決起を止めたに違いないという説と、いや、山陽はオタオタしたに違いないという説と、解釈は二通りある。

第五が、その茶山の死。久太郎誕生の時から目にかけてもらい、杏坪に伴われた江戸遊学の帰途神辺で教えを請い、幽室蟄居の身が解けたときに最初に就職の手を差し伸べ、自分の廉塾を譲ろうとの好意を示した恩師である。にもかかわらず、山陽は茶山のもとを飛び出し大阪、京都に向かってしまった。気まずい時期が一時あったものの、山陽は引き続き礼を尽くし、その後も、茶山が死ぬまで交流は続いたのである。一生の恩人の一人であった。

この頃の山陽は、京都での生活も20年近くになっており、5回の洛中引越しを経験して、6軒目の居宅に住んでいたが、それが鴨川沿いの「水西荘」である。文政5年(1822)11月から山陽が死ぬ天保3年(1832)9月まで約10年間をここで過ごした。

この水西荘の庭先、鴨川に面した所に建てた小さな家屋(四畳半と二畳と水屋と鴨川よりの廊下とからなる)が山紫水明処という書斎であった。四畳半といっても、京間であるから、部屋に入った感じ方は関東の6畳間ぐらいの広さはある。湿気に強い栗材が用いられており、鴨川に面していても、今でもしっかりと構造を保持している。

この「山紫水明処」から鴨川を眺めると、流れの向こうに、一番左に比叡山が望め、真東よりやや左に大文字がくっきりと見える。「東山 布団着て寝てる姿やふるめかし・・・」とか「東山三十六峰」というのは山陽の造語だと言われているが、ここからの眺めは、京大病院などの近代的な建築物があるにもかかわらず、また、鴨川の護岸工事のために流れが大分東側(遠く)に制御されているにもかかわらず、いまだに見事である【昭和9年の室戸台風の後の水害対策として、山紫水明処の欄干の下の水流は暗渠として工事されてしまった】。

この景色を愛した山陽は「関白我也」と言って一人悦に入っていたという。

【『東山の俗謡』:東山 蒲とんきてねたる姿は、ふるめかし、起きて鳴りゆく智恩院、その楼門の夕暮に、好いたお方に顔見せば、すかぬ客衆に呼び込まれ、アイ 「山寺の入相つぐる鐘の聲、諸行無常は儘の皮、わしは無上にのぼりつめ、花の頂き、とく行て見やう、花はうつらふものなれば、 アイ 「葉こそ惜しけれ、をしけれ葉こそ、綠りの芽出し、色ふかみ艸」】

この地歌・東山を知っていると、祇園町のお茶屋でのもて方が変わってくる。

「山紫水明」という言葉も山陽の造語だ。水明は鴨川の水清きを言い表しているのはすぐ分かる。しかし、何故、山が紫なのか、疑問に思ったものだが、ここの母屋に数年間住んでいて分かった。

それは、春先の陽気が良くなる頃の夕方、或いは、秋も深まった頃、西日を受けた東山がほのかに薄紫色に染まる時間帯があり、あー、これなのだと山紫水明を追体験したことがある。

その当時対岸に住んでいた梁川星巌に「山紫水明の頃」飲みに来ませんかと山陽が誘ったわけも納得できる。夕方4時か5時頃を指した言葉なのであった。
「伊丹の大樽を斎傍に安置し、日々山紫水明の時には傾け申候」
という文が残っている【文政5年11月19日付け水西荘に移転して十日目の手紙、江馬細香及び村瀬藤城宛て】。

例えばこんな使い方である。山陽から梁川星巌への手紙の一つ;
「今日、鮮魚即(せんせき=ふな、魚扁に即なのだが漢字変換に見当たらない)、泉川酒などと有之候。御一來同酔可仕候。雨裏不必待山紫水明之時候。チト早く御出可被成候」

鮒の活きのいいのと銘酒泉川など支度は出来ています、雨が降っているので必ずしも山紫水明の時まで待つ必要もなかろう、早めに今日は始めましょうやと言っているのだろう。なお、この手紙は、水西荘に移住する前の四回目の京寓(文政2年から文政4年)=木屋町二条上がるに住んでいる時のものである。実は、この住居でも既に居宅の一部を「山紫水明処」と名付けているから、現存する場所との混同がしばしば見られる。

残念ながらこの書斎ができたのは翌年の文政11年(1828)であり、この時の旅行団には見るチャンスがなかった。杏坪にとっては最後の上洛であったが、その建築計画は聞かされたかもしれない。梅颸夫人は2年後にも上洛しており、「山紫水明処」の雰囲気とそこからの眺望を満喫したことであろう。

【追記:山紫水明という言葉は山陽の造語だ、というのはインサイダーの見解である。金閣寺が焼けた後、山紫水明処にはスプリンクラーがその第1号として設置された。その関係で消防署とは親しくしていたのだが、送っていただいた消防署関係の機関雑誌類に、山紫、水明ともに支那古典文献で出典があり、山陽はそれをくっつけたに過ぎないという趣旨の一文が掲載されていて、読んだことがある。手許に当該雑誌が見つからず、論者も、山紫の出典も、水明の出典も、確認できないし、今は記憶が定かでない。両語とも、支那の高名な詩人によるものだったと思うが、あやふやに氏名を挙げるのは控えておこう。】

【追記:王勃(唐の詩人)が春の夕暮れを詠んだ詩の一句=「煙光凝暮

山紫」、杜甫(唐の詩人)が夏の朝を詠んだ「残夜水明楼」】

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