家系の整理
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【追記:2012/5/31】
この駄文を書いたのは10数年前だが、当時書く気になれなかったことを記す。
賴山陽は天保三年(1832)九月二十三日冥歿する。生計を立てるため妻の梨影は天保五年山紫水明処を含む水西荘を処分し、富小路へ移転した。それより前天保四年五月、江戸勤番の帰途京都に立ち寄った聿庵(山陽先妻の子で広島賴家三百石を継承:当時三十三歳)へ復二郎(当時十一歳)の養育を梨影は依頼する。復二郎が行った広島には山陽の母親=静子がまだ健在であった。なお、弟の三樹三郎は山陽の弟子=児玉旗山・牧百峰・後藤松蔭へ預けられる。
京都賴家五代目の話によると、復二郎(京都賴家二代目の支峰)は広島で聿庵(広島賴家六代目)に「いじめられた」という。両家の交流が少ないのは、少なくとも京都賴家が広島賴家を疎んじるのは、これが原因のようだ。ただし、これは京都賴家に伝わる口碑であって、文献では見たことがない。京都賴家の蔵には日本外史の木版とともに未整理の古文書がたくさんあるから、今後文書で口碑が実証される可能性はある。
ただ、資料に拠れば、日本外史の「頼氏正本」出版に際しては支峰と聿庵とが手紙で協議しているから全くの没交渉だったわけではあるまい。因みに、無許可出版して大いに藩財政を潤した「川越本」に対しては頼家から訴訟が出され、和解を見たのは明治8年(1876)のことで川越藩主だった松平家から8万円が支払われた。
もとより当方は杏坪賴家の筋だが、母親が離婚したために賴姓を名乗るようになった「出戻りの賴」である。さて、京都賴家五代目には三人の娘がいた。長女の婿が六代目を継ぐ予定であったが、その夫婦が裁判沙汰になり長女は除籍される。五代目は三女の娘を養女とし、その婿さんが六代目を継ぐ計画を立てていた。しかし、三女は娘が二十歳になるまでは手許で育てたいと主張する。
老齢の五代目は家業(アルミ線材メーカー)を継続しなければならず、従って、次代へ繋ぐ一時的なリリーフを必要とした。そこで、シガラミのない当方へ白羽の矢が立ったわけだ。終戦直後、五代目の奥方は4番目を身篭ったが流産してしまった。ちょうどその頃生まれた当方は小さい頃から五代目ご夫妻には可愛がってもらったという事情もある。
というわけで、事業後継者として当方は京都に住むこととなった。「かならず大政奉還しろ」とよく言われたものだが、当方もそのツモリだったのは言うまでもない。しかし、時が経過するに連れて、「京都賴家は二家あってもいい」と三樹三郎の跡として山紫水明処の母屋にズーと住んでもいいとか、三女の娘が六代目を継ぐのがイヤだと言い出したら「京都賴家」を継いでくれとも、五代目夫婦は言い出す。もちろん、丁重に辞退した。
その頃である。復二郎(京都賴家二代目)が広島で聿庵(広島賴家六代目)に「いじめられた」と聞かされたのは。おそらく、五代目としては京都賴家に伝わる口碑を誰かに伝達したかったのであろう。ビジネスの傍ら、京都賴家の蔵書を財団法人へ寄付する整理なども当方がやっていた。
残念ながら、1989年、当方は家業の専務を辞めることになる。家業を次代に引き渡すには今を生き延びなければならない。そのための経営改善計画を立てたのだが、五代目の承認を得られなかった。それで京都を去ることになったのだが、仮に、その経営改善計画を実施したとてメーカーとして生き延びるのは難しかっただろう。円高の進行により日本で製造業が生き延びる環境にはないからだ。当方がフロリダ州に住んでいるとき、家業が廃業という形で清算されたことを知った。
京都賴家五代目は2009年に102歳で他界されたし、当方も先行き長くないから、「お前だけに言って置く」という事柄を文章化してもいいだろう。
【追記終了】
広島賴家は学者の系統を守り続けており、現在でも東京で研究者の道を歩んでおられる。昔、お訪ねした時には、それほど裕福な表向きはなく、玄関先まで書籍で埋まっていたことに驚いたものだ。眼鏡をかけたいかにも研究者タイプの物静かな方であった。
一方、京都賴家も当初は学者の系統であったが(支峰が東京帝国大学の初代文学部長であったという話を聞いたことがあるが、確認をしたことが無いし、多分、錯覚か希望的誤解があるのだと推測している)、その後、現在の当主(山陽の玄孫=5代目)の父君久一郎の時(昭和4年)にアルミ関連事業に進み、オーナー経営者となった。
ビジネス界に進みながらも、国定史跡賴山陽書斎山紫水明処を管理・維持しながら、財団法人賴山陽旧跡保存会を設立して文化財を保管している。また、明治天皇から頂いたという資金で結成された「京都養正社」を維持しており、これは東山の護国神社の近辺にある霊山で「明治維新に貢献した無名の人々のお墓」をお祭りしている。
【追記】東京帝国大学の初代文学部長の件
京都賴家の2代目支峰は幕末維新の間、京都東山の小堀袋町にあった彦根藩京都家老の邸宅を買い取った(弟の三樹三郎が安政の大獄で処刑されたが、その井伊直弼の彦根藩の家老屋敷を支峰が取得したとは、何かの因縁であろう)。
「支峰は明治元年9月、天皇の東遷に扈従して東京に出で、大学二等教授に任ぜられ、次いで少博士に進み、修史局に勤務したが、間もなく職を辞して京都に帰り、小堀袋町において家塾を開き、父の事業を祖述した。病没は明治二十二年七月で、享年六十七であった。」
と書いてあるから、「初代文学部長」の話は正確ではない。また、洋学や医学も含めて「東京大学」が編成されたのは明治10年だから、先の話は年代的にも合わない。東京から京都に戻った理由は明らかではないが、明治10年に『標註日本外史』賴又二郎等注が出版されている事実を考えると、父親・山陽の著作物の整理に専念したのであろう。爵位を固辞し、父・山陽の「草莽の士」の志を貫き通したというのがインサイダーの解釈である。
【再追記】「元老院議員鶴田皓」の著者鶴田徹氏からご示唆をいただいていたが、文部科学省の「近代教育制度の創始と拡充」を見ると下記のような記述があった。
『昌平坂学問所が復興されたのは明治元年六月二十九日であり、その後「昌平学校」と改称され、また単に「学校」とも呼ばれた。同年十二月に頭取・教授等がおかれ、また知学事(山内豊信)、判学事(秋月種樹)がおかれた。さらに同月入学規則を定めて、二年一月から開校する旨の布告が出されている。二年六月十五日の達により「大学校」が設置されたが、この大学校は、最高学府であると同時に教育行政機関として設けられたものであった。これにより昌平学校は大学校となり、その本校としての地位を占めた。しかし、大学校が国学を根幹として漢学を従属的に位置づけたため、漢学派に強い不満をいだかせ、その後国学・漢学両派の激しい抗争が展開されたことは先に述べた。ことに同年八月大学校の開校に当たり、江戸時代の儒学の牙城であった聖堂において堂々と学神祭が挙行されたことは、漢学派を極度に刺激し、両者の抗争がいよいよ激しくなった。そのため大学校(本校)は遂に休講を続けねばならない状態に陥っている。同年十二月大学校は「大学」となったが、大学(本校)は最高学府としての実質的機能を失っていた。そのため行政官庁としての大学では学制改革の必要にせまられ、先に述べたように、明治三年二月、「大学規制」・「中小学規則」が定められたのである。
この規則は洋学系統の構想によるものであり、これに対して国学派および漢学派は強い不満をもち、その後は国学・漢学両派が結束して洋学派と対立することとなった。そこで大学は新しい紛争に巻きこまれ、その解決が困難なまま、三年七月十二日、学制改革を理由に大学本校は遂に閉鎖された。そのため漢学・国学の最高学府であった昌平学校の系統の学校は姿を消し、その後は洋学系統の大学南校および大学東校のみが残り、それぞれ独立に発展することとなったのである。』
賴支峰が京都に戻ったのは上記のような事情があったものと推測される。東京帝国大学の初代文学部長というのはあり得ない「口碑」だ。分かり易い「言葉」で言い伝えているうちに「東京帝国大学初代文学部長」なんていう表現に置き換えられてしまったのだろう。インサイダーの口碑を金科玉条とするのは考え物である。【追記終了】
後日、松下幸之助氏が音頭を取り、護国神社の前(南側)に霊山歴史館が建立された。また、松下という企業が京都の南禅寺に会社の迎賓館を所有しておられるが、ここは京都賴家玄孫の奥方が昔娘時代に住んでいた家であり、鐘紡の陰の創始者(多分資金だけ出したという意味なのだろう)染谷寛次の屋敷であった。こんな経緯もあり松下家と京都賴家とは懇意となった時期もある。
20年ほど前にNHKで佐竹本三十六歌仙の切り売り競売事件のドキュメントを放映していたが、入札者の一人として染谷の姓が出ていた。名前はカンジと読めたが偽名であったと思う。この染谷氏の孫娘が京都賴家に嫁入りしたのだが、賴山陽の母親、梅颸(ばいし)夫人の再来ではないかと思えるほどの教養と気品を備えた方であった。小さい頃から可愛がっていただき、教えて頂いたこと少なくない。
さて、護国神社がある一帯は霊山と言われ、”りょうぜん”と読むのだが、ここに建設された歴史館は財団法人霊山顕彰会が運営している。この文化的事業に松下幸之助氏ご自身はかなり力を入れ自ら会長を勤めておられた。日経新聞の「私の履歴書」にその経緯を書かれてもいたし、後日、本として出版もされた。確か、葬儀の香典返しとして使用されたと記憶している。
しかし、ご本人が亡くなってからは、松下家の熱意も冷めたような感がある。というより、ご本人以外は、もともとあまり関心がないことであったのだろう。企業としては本業のビジネスの方が遥かに重大なことなのだ、というのも理解できる。世界を舞台に活躍する企業であるから、ごもっともなことだ。日本の過去のことよりレーシングカーの方が興味をそそるのであろう。
今でも不思議なのだが、商いの神様が何故このような事業に興味を持たれたのであろう。当時、京都府警出身の小川鍛氏という方が松下電器産業の重役として勤務されており、その方が霊山顕彰会の運営に熱心であられた。その関係なのであろうか。
松下という企業の創業時、まだ裸電球を製造していた時代だろうか、京都府警のお世話になったことがあるという話を聞いたことがある。多分、松下創業時あれこれやった時代の名残の人事として、京都府警関係者が役員になるという配慮が続いているのかもしれない(昔、朝鮮半島との密貿易で儲けたんだと、くちさがない一部の京雀はやかましいが、松下社史には載っていないであろう)。
さて、京都賴家には、どういうわけか、坂本竜馬の刃こぼれした刀が伝わっていた。この刀が霊山歴史館の要請で出品展示中に盗まれたという事件が発生したことがある。あの辺りには鳩が多く、そのために警報機がしばしば鳴るということから、警報機が鳴っているにもかかわらず「どうせ鳩だよ」と警備を怠ったということが原因らしい。松下氏大変恐縮されて、必ず探し出してお返しするというお言葉があったようだが、未だに発見されていない。刀はどこかで静かに愛好家に秘蔵されているのであろうし、松下家は最早そんなこと忘却の彼方なのであろう。
さて、話を戻せば、今となっては、研究者タイプとビジネスマン・タイプとに分かれている広島賴家と京都賴家とは、肌が合わないのかもしれない。このように両家の交流は疎遠なのだが、両家と親しく交際を続けている賴家があるのだ。それがうちの家系=杏坪賴家で、なんのわだかまりもなく往来してきた。
別に太鼓持ち的に振舞ってきたというわけではないし、両家を「和解」させようという試みも意図もない。しかし、両家からは非常に好意的な扱い方をされてきたのだ。なにも私だけではない。これが部外者の方にはなかなか分からないところだろうし、もっとも、わざわざ関心を持っていただくことでもないのだが、知りたいという方がいれば、説明がいる部分なのである。
多分、一番の原因は、久太郎(後の山陽)の幼年・少年・青年時代を通じて、江戸詰の多かった父親春水に代わり、広島の春水邸で居候していた杏坪が久太郎の面倒をよくみたということなのではないだろうか。言わば、杏坪が久太郎の父親の代役を果たしていた要素がある。
一方、杏坪の方でも、長兄春水の藩への推薦もあり、当初春水の助手という身分を経て、やはり藩儒として取り立ててもらった恩義を感じていたに違いない。当時の三男坊(四男坊)としては、仕官の道はこの上もないラッキーな就職であったはずである。
また、久太郎の脱藩事件のときに、久太郎を「狂人」として扱うことにより危難を切り抜けようと東奔西走したのが杏坪であったと解説している本もある。山陽の血を引く「広島賴家」も「京都賴家」も、血を受け継いできただけでなく、このような内輪話をも受け継いできていたに相違ない。
さて、杏坪は長寿の人で天保5年(1834年)7月23日に79歳で他界したのだが、春水・春風の両兄はもちろん既に亡くなっていたばかりではなく、可愛がった甥の山陽もその二年前の天保3年(1832年)9月23日に既に帰らぬ人となっていた。山陽が賴家を廃嫡された後も、杏坪と山陽との叔父・甥としての交流は生涯続いたのだが、いったいどんなものであったのだろう。杏坪と山陽との接点を軸に、当時のことを垣間見てみようかと思う。
最初に、一年少々をともにした山陽の江戸遊学(1797年3月~1798年5月)とその前後、次に、山陽の脱藩事件と幽室閉居・廃嫡(1800年9月~1803年8月)とその前後、ここでそれ以前に遡って山陽の誕生(1780年12月)とその前後の大阪時代、そして、文政10年(1827年)の杏坪71歳時に山陽の母親梅颸夫人を同伴した上洛という順で追ってみたい。
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