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[オピニオン]10月維新の30周年

  • ️Mon Oct 14 2002

故朴正煕(パク・ジョンヒ)大統領は、在任中に2度も共和国を「樹立」しては崩した唯一の大統領だ。第3共和国と第4共和国がそれだ。「樹立」という言葉の正確な意味は、「憲政中断」で、人によっては「革命」とも、「クーデター」とも言う。2度目の憲政中断は「10月維新(ユシン)」(朴正煕政権の強権統治期間)だとも言われる。非常戒厳と共に国会を解散し、政治活動を禁じる非常措置が電撃的に宣言されたのは、30年前の1972年10月17日であった。その措置が「10月維新」と名づけられたのは、9日後の10月26日だった。7年後、朴大統領が非命の死に至ったのも10月26日だった。また維新が立案された所は宮井洞(クンジョンドン)の中央情報部(KCIA、国家情報院の旧組織)の安全家屋であり、朴大統領がむごい死に方をしたのもそこだった。歴史とは振り返ってみると、実に奇妙なところが多い。

◆維新元年は「体育館選挙」の元年でもあった。その年、朴大統領は、統一主体国民会議代議員の2359人のうち2357人(99.9%)から支持を受けて第8代大統領に就任する。体育館選挙が終わりを告げたのは、それから15年後の87年だった。そして、さらに15年が経過した維新の光と影で成長した(金大中大統領、金泳三氏、金鍾泌氏による)3金時代が、その終わりを告げている。維新の残影が完全に消えるまで15年の歳月が2度も必要だったと言ってもおかしくない。

◆「豊年事業」と命名された維新工作は、72年5月ころから李厚洛(イ・フラク)KCIA部長の主導で進められた。歴史的な7・4南北共同声明が出てくる直前だった。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の金日成(キム・イルソン)主席も、そのころに国家主席制を新設し1人支配体制を強固にした。南北共同声明が、南北の統治者の永久政権のための基盤づくりのための道具に利用されたわけだ。当時は、「金日成主席がソウルで還暦の祝いをする」という噂が流れるほど、南北関係には類をみない解氷ムードが造成された。しかし、その噂は長くは持たなかった。今の南北関係には、その時以上に「日差し」が当っているが、南北の政治的な利害関係が変われば、南北関係はまたどうなるのか、気になる。

◆維新政治をした政府は、100億ドル輸出、1000ドル所得、マイカー時代を大々的に宣伝した。広報物には決まって「幸福な暮らし」の様子でいっぱいだった。一方、中高校生たちは「韓国的な民主主義」を理解するために必死になり、「総統制が試みられている」と発言し、維新政権の到来を予告した劉基天(ユ・ギチョン)元ソウル大総長は亡命の途についた。作家、崔仁浩(チェ・インホ)の連載小説「星くずの故郷」とフォークソングが爆発的な人気を博した時期だった。維新は、そういう形で訪れては消えたが、40代の半ば以降と50代はじめの世代にとっては、維新は格別な意味を持つ。こっちに片付けられ、あっちにしまわれてあいまいな時代を送った世代には、陰うつだった若き日が、維新と隣り合っているからだ。

林彩清(イム・チェチョン)論説委員 cclim@donga.com