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豊臣秀吉の刀狩り

刀狩りの原因

刀狩り」とは、日本において、武士以外の身分である僧侶や農民などからをはじめとする武器を接収し、放棄させた政策のことを指します。刀狩りは、「武具狩」、「道具かり」、「武具改め」、「刀尋」(かたなたずね)とも呼ばれ、日本独特の性質を持った武装解除政策とされています。

古来、刀は武具としてのみならず、信仰の対象や宝物として受け継がれてきました。庶民の家庭でも例外ではなく、戦国時代、農民をはじめとする日本人男性の間では、15歳の成人祝いとして脇差(わきざし)を帯びる「刀指」(かたなさし)と呼ばれる習俗が浸透。

僧兵

僧兵

村においても名字を持ち帯刀(たいとう)する百姓が出現し、「応仁の乱」以降、多発する合戦において農民は自らの家にある武具を用いて兵として合戦に赴いていた他、武装した僧侶が大きく力を持ち、一大勢力を築いていました。

戦国時代、「織田信長」と石山本願寺派の間で起こった「石山合戦」や「比叡山延暦寺」(現在の滋賀県大津市)の焼き討ちに代表されるように、一向宗や根来衆(ねごろしゅう)などの寺社勢力が大きな武力を持っており、戦国大名に対抗していたのです。

戦国時代にはじめて刀狩りが行われたのは、織田家家臣の「柴田勝家」(しばたかついえ)による、1576年(天正4年)の越後国(現在の新潟県)における「刀さらへ」。しかし、この刀さらへの内容は未詳とされています。

また、「豊臣秀吉」による刀狩りにも前身があり、紀伊国(現在の和歌山県)における百姓や、「根来寺」(ねごろじ:現在の和歌山県岩出市)における寺社勢力である根来衆や高野山にある「金剛峰寺」(こんごうぶじ:現在の和歌山県伊都郡高野町)などの大寺院に対し、刀や(やり)、鉄砲などの所持を禁じました。

また、豊臣秀吉は、刀狩り令を発布する1年前、武器を用いた村における紛争の解決を全国的に禁じています。当時、農村には多くの武具が存在し、刀を合戦に用いた他にも、土地の利権を争ったりするなど、村における紛争解決の手段として刀をはじめとする武具が用いられる場合があり、農村の治安は悪化していました。

刀狩りの内容

1588年(天正16年)7月、豊臣秀吉は3つの条例からなる刀狩り令を発布。もともとこの刀狩り令は、「九州平定」における政策の一部で、九州の諸大名と、畿内や近江国(現在の滋賀県)の主要寺社に向けて発せられた条例でした。しかし、「奥州仕置」以降、一度発布した法令は全国に適用されるものとして扱われたことから、刀狩り令も同様に全国に適用される条例となったのです。

「刀狩り令条文現代語訳」

1条

百姓が、刀・脇差・弓・槍・鉄砲、その他武具類を所持することを固く禁ずる。武具を持つことで年貢を怠ったり、一揆を起こしたりして、役人に逆らう者は罰する。代官は武具を集め、進上すること。

2条

取り上げた武具は、建立する方広寺(ほうこうじ:現在の京都市東山区)の大仏の釘や鎹(かすがい)に利用する。そうすれば今世のみならず、来世まで百姓は安泰となる。

3条 百姓は農具さえ持ち耕作に励めば、子孫代々無事に過ごせる。百姓のためを思ってのことであるため、ありがたく思って耕作に精を出すように。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

刀狩り令は、1条で刀狩りの内容、2条でその目的、3条で百姓のあるべき姿を説いたもの。対象が特に「百姓」とされていることから、刀狩り令は身分政策としての特徴を強く持っていました。

戦国時代は、豊臣秀吉がそうであったように、出自が農民であっても才能次第で戦国大名になることができる「下剋上」の時代です。

そのため、豊臣秀吉は刀狩り令によって百姓から武器を取り上げることで、兵として合戦に参加して戦働きに重点を置き、年貢を怠る者や多発する一揆を抑制。さらに、百姓の武装解除をし、その武具を常備軍へ回すことや、刀を武士の象徴とし、刀を所持できる特権階級とすることで、武士と百姓の身分を明確に分ける「兵農分離」を狙っていたのです。

しかし、刀狩り令によってすべての刀や武具が農村から消えたわけではありませんでした。刀狩りはその土地を治める大名が、村を治める領主や大人百姓(おとなびゃくしょう:村役人など、村の代表を務める百姓)に命じて武具を取り上げるという方法を採用。そのため、取り上げられる武具は大人百姓の采配で決められることもあった他、田畑の運営に必要な害獣駆除などに用いられる鉄砲や槍、祭祀などに用いられる武具などは、大名の認可があれば例外的に所持が認められていたのです。

なお、接収された武具は刀や脇差を中心としていたため、刀狩りの目的のひとつに朝鮮出兵の際の武具調達があったとされることもありますが、定かではありません。

刀狩りのその後

大小二本差し

大小二本差し

豊臣秀吉の刀狩りによって、百姓は公然とした、刀をはじめとする武具が所持を禁じられました。

しかし、豊臣秀吉は農村における武具の根絶を目指したわけではなく、百姓から帯刀権をなくし、武具の使用規制によって兵農分離政策を推し進めることが目的。

そのため、農村には多くの武具が残されましたが、兵力を割くことなく各地の治安を回復させ、武士と百姓の違いを明確にしました。戦国時代には指標となる身分制度がなかったため、刀狩りは近世における封建体制の基礎となり、江戸時代に整備された武士を特権階級とした身分制度へとつながっていきます。

江戸時代には、江戸町民すべての帯刀が取り締まられるようになり、刀と脇差の2振を帯刀することができるのは武士階級のみとなった他、刀の長さや(さや)の色、(つば)の形などが、身分によって定められるようになりました。しかし、江戸幕府もすべての刀を庶民から取り上げず、多くの民家には刀が残されており、日本人にとって身分問わず刀は身近な存在として残りました。