家康の天下取りを影から支えた伊賀忍者の「盛衰」 | 歴史人
2月5日(日)放送の『どうする家康』第5回「瀬名奪還作戦」では、今川家に囚われている自身の妻・瀬名(せな/有村架純)や子供らを取り戻そうとする松平元康(まつだいらもとやす/松本潤)の姿が描かれた。作戦に抜擢されたのは、本多正信(ほんだまさのぶ/松山ケンイチ)。家臣たちからまったく信用のされていない人物だったが、元康は正信に奪還作戦の指揮を委ねることにした。
松平家三代に仕える忍集団・服部党の登場
東京都千代田区の半蔵門。今なお皇居に残る地名は、この地に屋敷を構え、江戸城の搦手門を守備していた服部半蔵に由来する。
今川家との全面対決に踏み切った松平元康だったが、目下の憂いは駿府に残した自身の妻・瀬名や子供らの身だった。家臣たちと策を練るも、良い案はまるで出てこない。
そこで、大久保忠世(おおくぼただよ/小手伸也)が推挙したのが本多正信だった。忠世は正信を、誰も考えないような奇策を思いつく者と言うが、他の家臣は一斉に反対する。正信をイカサマ師だとまで罵(ののし)る家臣もいた。
藁(わら)にもすがる思いで正信を呼び寄せた元康は、瀬名らを駿府(すんぷ)から盗み出す、という正信の策に賭けてみることにした。
正信は、落ちぶれていた忍びの服部(はっとり)党頭領・服部半蔵(はっとりはんぞう/山田孝之)を作戦に引き入れ、侍女を通じて瀬名と連絡。夜陰(やいん)にまぎれて連れ出すこととなった。
ところが、作戦は今川方に漏れ、あえなく失敗。返り討ちとなった服部党は半蔵以外、全滅する結果に終わった。今や敵方となった元康に通じたとして、瀬名ら一家は牢につながれ、死罪を言い渡される。
さらなる状況の悪化を招き絶望する元康に対し、正信は挽回を期して、新たな作戦を進言した。
松平三代から江戸幕府にも仕えた服部氏
忍者は、戦国時代に「しのびのもの」と呼ばれていた隠密集団である。
一般的に、天下を狙う規模の大名たちはほぼ例外なく忍者集団を抱えていたといわれている。奥州・伊達氏の黒脛巾(くろはばき)組、後北条氏の風魔党などが知られるが、その他、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)や越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)、中国地方を治めていた毛利元就(もうりもとなり)なども配下に忍者集団を配置していたという。
彼らの役割は、主に敵方の様子を探るなど情報を収集したり、敵陣を撹乱(かくらん)したりすること。武力衝突ばかりが注目されがちな戦国時代において「情報」の重要性に気づいた武将たちは、謀略戦に欠かせない忍者集団をいち早く配下に組み入れていたのだ。
なかでも、徳川家康はこうした諜報(ちょうほう)組織を最大限に活用した武将といわれている。家康が用いた忍者集団が、服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)をはじめとする伊賀忍者だ。
伊賀忍者と徳川氏すなわち松平氏とのつながりは、半蔵の父である服部保長(やすなが)から始まる。『伊予今治藩服部氏略系図』によれば、服部氏はもともと室町幕府将軍家に仕えていたらしい。保長も12代将軍・足利義晴(あしかがよしはる)に仕えていたが、幕府の前途を悲観してか、やがて三河に移り住むようになったとされる。
この時に、保長は家康の祖父にあたる松平清康(きよやす)に仕官。清康の死後は、その子の広忠(ひろただ)に、広忠の死後は、その子の家康に仕えた。なぜ保長が室町将軍家のもとから出奔したのか、なぜ松平氏と結びつくことになったのかは不明である。
今回のドラマに登場した半蔵は、この保長の五男で、1542(天文11)年に生まれている。奇しくも家康と同じ生まれ年だ。兄たちを差し置いて服部宗家を相続することになったのは、優れて高い能力が半蔵にあったからなのか、それとも別の理由があったのか、この辺りもよく分からない。
半蔵の初陣は1557年(弘治3)の三河宇土城(みかわうとじょう)攻めとされる。記録には「十六歳にして、伊賀の忍びの者を六、七十人指揮して忍び込み戦功を顕した」(『寛政重修諸家譜』)とあり、家康の持ち槍を賜ったらしいが、事実関係には数多くの疑問が呈されている。なお、宇土城攻めは1562(永禄5)年に実際に行なわれている。宇土城は別名で上ノ郷城(かみのごうじょう/愛知県蒲郡市)と呼ばれている。
いずれにせよ、半蔵の動向が明確に分かってくるようになるのは、家康が今川氏から独立を果たして以降のこと。
徐々に戦功を積み重ねていった半蔵は、家康から「汝の面、眼光、只者にあらず」との言葉を賜り、「鬼半蔵」の異名で恐れられるまでの人物になる。
江戸時代に成立した『伊賀者由緒書』によれば、1582(天正10)年の伊豆韮山(いずにらやま)の戦いから1615(元和元)年の大坂夏の陣に至るまで、伊賀者が参陣しなかった徳川氏の戦いはなかったと誇るほど、半蔵以下、伊賀忍者は家康に重用されることとなる。
しかし、家康の天下統一を見ることなく、半蔵正成は1596(慶長元)年に病没した。
服部一族は半蔵の死後も江戸幕府に仕え、隠密と呼ばれる任務を担った。隠密は幕府のみならず、各藩にも設置されたと考えられている。
正成の跡を継いだ嫡男・正就(まさなり)は、組下の統率に失敗。罷免(ひめん)を訴えられ、正成とは打って変わって見る影もないまま没落した。正就の跡は弟の正重が継いだが、正重も幕府転覆疑惑に巻き込まれて失脚。こうして服部一族は、半蔵正成の伝説のみを残して歴史の闇に消えていった。